« 授業(韓国語) | Main | 雑談 »


2018年3月27日
チェコ・韓国旅行(12) 終了
取り敢えず、帰国前の夜。
抜いた親不知の破片が「生えてきた」事件を除いて大過なし。
歯(実は骨)が舌に当たって、プラハの2,3日は痛くて話ずらかった。

チェコ、スラヴの歴史、言語はこれから勉強するとして、ゲ
ルマンとスラヴの交錯する面白い地域だと言うことが分かった。

そして、中国に行ったとき以上に、日韓がよく似た国だということを改めて認識した。
西洋から来たら、食べ物の味以外の違いは気がつきにくいのではないかとすら思った。

ついでに、ドイツ語と英語、ブロークンで何とかなることも分かった。
「ドイツ語の勉強をしているから、ドイツ語のパンフレット頂戴」と言ったときに
ニコニコしてパンフレットをくれたのは本当に嬉しい。

また、話したことに英語で答えてくれたのも嬉しい。
もちろん、通じない方が多かったけど。

一方、韓国語は意識的に封印。Is there a Book 입니까?とやりたくなる。
I seeというつもりが네, 알겠습니다とやってしまったり…。
それを止めようとすると、英語の前にドイツ語が出てきて大慌て。

やっかいなことに、韓国語のYesは네(ネ)、チェコ語はアーノ。
韓国語のNoは아뇨(アニョ)。チェコ語はネー。
無意識でネー、ネーとやっていたので、向こうの人にはNo,No,と聞こえたはず。
怪訝な顔をしていたわけだ。

ともかく意識的に韓国語を封じていたので、
ソウルに着いたら楽に韓国語が話せること。普段以上にスラスラ言葉が出てきた。

ところで、今回印象的だったことはチェコとドイツの国境を越えたこと。
雰囲気ががらりと変わった。かといって断絶よりも連続も感じた。

日韓の違いも、実は違いと連続ではないか。
そうだとすると、チェコ、ドイツの違いとどう差があるのか
ケーススタディになると思った。

また神聖ローマ帝国、ハプスブルグなどとの関係から、ドイツ語が優勢だった中で、
チェコ人の民族意識が形成された。
チェコ人とフス派が結びつく時期もあって、
カトリックが強化されたときに失郷民となった人が多く出た。

国民意識の高まりと共に、戦後、多くのドイツ人が失郷民になった。

この谷間にあったのがカフカ。ユダヤ人のドイツ語話者。
ドイツ語で作品を発表したから、チェコ人からは見向きもされない。
ナチスの時代は当然評価されず、思想的に合わないため共産主義時代も無評価。
民主化後チェコで評価されるようになって、我々の評価とかなり異なるようだ。

カフカ博物館ではチェコ語より英語、
英語よりドイツ語の分量が多いことが印象的だった。

この辺のことが日韓のこととパラレルに見える。
在日の学校の文化、朝鮮語で書かれた作品が朝鮮語がわからない話者に
どう受け止められるかなど、多くのヒントを得たように思った。


時差ぼけ、身体を動かしていれば大丈夫。
止めると落ちる。一瞬の判断ミスは結構多く、注意力が落ちていることは分かる。
生理現象だからしょうがない。

飛行機の中でも行くときは寝ている人が多かったが、
帰りは着陸数時間前(ヨーロッパ時間で0時ころ)から寝る人が多かった。

新しい視野を広げさせてくれたと共に、
日韓をより深く見るきっかけになったように思う。
チェコ、韓国、ともに刺激的な旅行だった。

実は撮影ミスなのだが、意外と幻想的な写真が出来た。
8ミリ映画のような…戦前の彩色絵はがきのような…。

















旅のシメ。自分への土産。
Posted by hajimet at 11:36 | Comments (0)


チェコ・韓国旅行(11) 2017年4月3日
思わず、日本語に目が行きます。















紙が流せるトイレが増えました。
流せないトイレは、正直言って抵抗がありました。
















空港に行く前のひととき。韓国的風景を探して。



















6回目の機内食。韓国豆腐…。タレが中途半端。
そして、生タマネギの醤油和え。日本人はきついかも知れない。
Posted by hajimet at 11:33 | Comments (0)


チェコ・韓国旅行(10) 2017年4月2日
♪朝焼けの光の中に立つ影は…

















竜仁民俗村。
これまでも何回か行ったが、丁寧に見たら、まる一日かかった。



















車中にて


















昼。スジェビとトンドン酒














韓国らしい(今の)民家の町並み




















桜もちらほら
















夜。予定が変わって一人メシ。
どじょう汁。
お酒が先に終わったので、だめもとで「スープだけ頂戴!」と言ったら出してくれた。
韓国では基本的にサービスで、お代わりを出してくれる。

ドジョウの入っていないスープ。
ここのドジョウは磨り潰し方だから、粉っぽい食感しかないのだが、
ドジョウがダシを出してくれることを再確認した。

Posted by hajimet at 11:24 | Comments (0)


チェコ・韓国旅行(9) 2017年4月1日
午後、昌徳宮へ

















いろいろ


















京都の舞妓体験と同じ状態。


















サムギョプサル、人心地ついた


















さて、大丈夫かな?。米の香りがふくよかな焼酎。
Posted by hajimet at 11:20 | Comments (0)


チェコ旅行(8) 2017年3月31日 韓国へ
昼間で市内散策。お土産などを買う。
ついに、譜面を扱っている店を発見。
トロンボーンと言ったら、ごそっと古い譜面が。
一つは日本でも手に入るがこの際と買う。
ドイツで出た、ヒゲ文字時代のアルトトロンボーンの教則本というものもあった。















空港。知らない航空会社が一杯。


















乗ったとたんに安心。
普段あまり感じないのだが、
客室乗務員の笑顔が日韓でよく似ていることに気が付いた。

















機内食第一回。ビーフ、チキンとピビンパップがある。
ピビンパップ、ユクスがついておいしそう。
別に辛ラーメンのカップ麺を頼んでいる人もいた。
酒はチェコ航空のほうが豊富。
















機内食2回目。粥の付け合わせが間違っていて、交換してもらう。
4月1日11時40分、仁川到着。降機、ソウル市内へ。
Posted by hajimet at 11:14 | Comments (0)


チェコ旅行(7) 2017年3月30日
ネルドヴァ通り。今日、二回登った。
1回は景色を見るために、1回は鐘の音を録るために駆け上がった
…間に合った。


















音楽博物館。見たことのない楽器がたくさん。
もちろん、弦もピアノ系もたくさん。


















さ〜く〜ら〜、さ〜く〜ら〜、や〜よ〜い〜の…


















踊るビル。


















昼。ビーフと黒ビール。アコーディオンが歌う中、ベヘロフカも飲んだ。


















国民劇場。


















ベツレヘム礼拝堂。聖キリルと聖メトディウス教会、クレメンティヌムも見た。















今日のトラム
















賛美歌、やっと探し出した。














チェコ最後の夜。居酒屋。
チーズのフライとタルタルソース(美味しい)、
プラハハムのおろしラディッシュ和え(こういう組み合わせも粋)、
オモロウツのチーズ(チーズのくさや風??? こういうの好き!)、
黒ビール(無濾過、要するにナマ。とても飲みやすい)で一献。


















ホテルでマッサージ。チェコ式にやると言われる。
リンパマッサージ系だけれども、うまくこねくる感じ。
オイルマッサージも付いていたが、気持ち良い。
これで日本に帰るまでもつかな?。
それとも韓国でもう一度?。

マッサージ師さん、英語でいろいろ語ってくれたが、
チェコ語の発音との干渉か、癖があった。earlyが面白い発音になっていた。
チェコでの英語が聞き取りにくい一端かな?。ドイツは英語の聞きとりが遙かに楽だったのに…
Posted by hajimet at 11:00 | Comments (0)


チェコ旅行(6) 2017年3月29日
午前中は、まだ混み合っていないカレル橋を見学してからスメタナ博物館へ。
リブシェのファクシミリ版があった。
でもそれ以外は…。

その後シナゴーグ巡り。
旧新シナゴーグはユダヤの帽子を頭に載せて見学。
次の修道院は墓地がある。

学生の後ろについて10分近く待つが、
実は、個人は関係なく入って良いことが分かった。表示が欲しい。

ユダヤの墓地、色々な形式、象徴が刻まれる。
お元気なら、先週亡くなった倫理の先生と酒の肴に出来たのにと、
ふっと思いをはせる。

スペインシナゴーグからアネシュカ修道院まで行き、絵と建物を見学。
それから一気に新市街地まで行き、フス教徒の乱のきっかけになった塔を見学。
その後は絵本とお土産を買う。全部で1万51000歩。

一番欲しい「賛美歌」が手に入らない。何としても手に入れて帰りたい。




















トラム。ブレーキが秀逸。レールを押さえつけている。
これだと坂道を転げ落ちることもない。
50q近いスピードで飛ばしている。都電ではありえない…


















昼。ポークとクネドリーキ。修道院のカフェにて。















チェコ的足場組み?















辻音楽。
チベット系の人の行進だろうか。変わったアコーディオンを持っている。


















漢字結構あります。ハングルと勘違いしそうなものは結構あります。















共産主義博物館。プラハの春の展示が大きなウェートを占めていた。
絵はどこの国もよく似ている。

中国と北朝鮮のものは目にしてきたが、それとよく似た図柄がとても多い…。

そして、チェコの人々が共産主義時代をどう捉えているかよく分かる。
ナチスに続く思い出したくない時代のようだ。


















トイレ使っレシートをもらうのは初めて。
EETという制度のためにト、有料トイレでもレシートを発行する義務が生じたそうだ。



















シャールカ駅。伝説の地。これで「わが祖国」シリーズ完成。
Posted by hajimet at 10:39 | Comments (0)


2018年3月25日
チェコ旅行(5) 2017年3月28日
朝食。インターバル。














「朝いち」でストラフ修道院。
哲学の間、神学の間(いずれも図書館)の装飾がすごい。

幕末、初めて渡欧した人たちは、このような物を見てどう感じただろうか。
感じたことが文明開化に繋がったことは事実だが、それに対する疑問である。

個人的には文化背景が違いすぎて消化できない。
ヨーロッパ発のものが仕事、趣味の主体なのだが、
「こういうことだったのか」ということが正直な気持ち。

志賀直哉が日本の言葉をフランス語にしようといったり、
漢字は後れているからローマ字にしようという動きが、
いかに浅はかなものだったか強く感じた。


















最初にここに行った目的の一つは鐘の音を録音することだった。
静かな環境で録れると思ったら、鐘の音と共に工事の音が…。
こちらの人にとっては単なる時報・生活の音でしかないのだろう。


午前の2番目に聖ヴィート寺院。
ゴチック建築で、あらゆるものが天を志向している。
また、ステンドグラスと光…。「神」を感じる。
神が輝いていて、光が注ぐのだから。

…東京でも韓国でも同じ景色は見られるのだが、何か違う。
チェコで見ているためか、根本的に違うのか?

入場まで20分ならぶ。
自分の前後には中国人の団体、前が韓国人の団体。
韓国人の団体が礼儀正しく見えた

…韓国に行くと余り感じないのだが、
中国人と比較すると、日本人と韓国人はよく似ていると思う。
中国に行ったときに感じたことを、チェコで再確認した。




















叔父に会う予定が出来て、12時に一旦ホテルに戻る。
午後、旧市内散策。フス像を中心に。イースターの準備も始まったよう。



















市民会館見学ツアー。英語だが聞き取りやすい。
スメタナホールもコースに。
こういう絵に囲まれて演奏を聴くのかと思った。

ほかいくつかの部屋を回るが、
メインは「市長の間」。

ここはムハ(ミューシャ)の絵で満たされている。
特にフスを見たかった(これの元絵はこのとき東京に来ていた)。

予約チケットを見せて、撮影許可のチケットを買ったのに、
なぜか元チケット消滅。
買い直しましょうか?とガイド氏に言ったが、
最終的にOKとなって事なきを得た。



















聖ミクラーシュ教会でミニコンサート。約1時間。
バッハ、ヘンデル、メンデルスゾン、ドボルザークをオルガンとアルトで。
とはいっても客席(礼拝席)からは見えない。
後方上にあるオルガンで演奏。

音が上から響き合いながら降りてくる。
色々な方から包まれる。
細かい動きは響きと時差で混ざり合い
パッセージがどうなっているかはよく分からないが、
混ざる故に、かえって旋律線が浮かび上がってくる。発見だ。
バッハはその辺も計算しているのではないかと思った。

神はスッと降りてくるのではなく、
少しずつ、少しずつ降りてくるのだ。そんなことを感じた。

こういう演奏を、
礼拝の時に、しかも目の前にはイエスの絵を見ながら聞くのだから、
自然と音と絵が「神」と結びつくのだろうなと思った。



















教会の前の広場などあちらこちらで思い思いの辻音楽。
見たことのない楽器も(旧市街の広場にて)。
王宮前の民謡風の歌のフルートと、旧市街広場のサックスは上手かった。


















夜、プラハ市交響楽団で
ペールギュント、ブルッフの交響幻想曲、ドボルザークの交響曲第8番。
ソロ:Mikhail Ovrutsky 指揮:インキネン。ホールはスメタナホール。

前2曲の弦が弱音器を付けたような響き、管も渾然一体と響く。
ブルッフは良かった。そして、アンコールのタイスの瞑想曲。うねるような演奏。

ドボルジャークは、響きが全然違った。
トロンボーンも最初のコラールが、チェロと対等に聞こえ、
かつ歌っていたのが印象的だった。

そして、展開部にはいってF(ff?)でもり上がるところ。
ただ強くなる演奏が多いのだが、
段差があってむやみに強くなるのではなく、
あくまでも前からの旋律の続き、
低音からバランス良く鐘が響くように音楽を支えていた。

つまり、そのあとの疾風怒濤のような展開のスタートでなく、
飽くまでもそれまでの集大成に響いていた。
音の強弱、楽譜の指示が全部意味を持って、
文脈に反していないことがよく分かる演奏だった。

トロンボーンの音色の変化も素晴らしく、
コラール、ソロ、オケの支えで全然響きが違う。
最後の15小節の部分、最初2小節は旋律の響きで吹き、
次の小節からは支えにパッと変わる。
こういう吹き方が出来ると良いなと思う使い分けだった。

客席は静かではない。色々な音が聞こえる。
でも聴いている人は楽しんでいることが分かる。
休憩も社交の場であることがよく分かった。

しかし…タイミングは大事。

ブルッフの最後のパウゼで盛大に一発咳をした人(不満なのかと思った)、
一部アンコールの幻想曲で、最後のトゥッティの直前にものを落とした人、
極めつけはドボルザークの2楽章の真ん中、
静かにコントラバスが演奏している部分で
カカオトークの着信音を流した人…。

歌舞伎ならもの凄い絶妙な合いの手。
一斉に笑いが出ていました。




















買ってきた酒。スリヴォビッツ。
ドボルジャークがこれを飲み過ぎて、
譜面に間違いが多い云々と、高校の時の指揮者が語っていた。
ほんのり甘くて飲みやすい。でも30度。
朝が怖い(今0時10分。日本時間7時10分)。
Posted by hajimet at 17:11 | Comments (0)


チェコ旅行(4) 2017年3月27日
れからドレスデン。朝6時半の列車。

まだ時差の余韻が残っていて、3日連続で朝2時に一度目が覚める。
これが日本時間の9時。それから寝直して11時半に起きる。頭はすっきり。
10時半(朝4時半)には寝ているので、夜更かししていて限界になったころ
「お休み」というパターン。

午後3時ころドレスデン出発の列車で戻ってくる予定。

ドレスデン駅



















ドイツに入って、なぜかホッとする。
まったく聞き取れないし読み取れないチェコ語と違って、
何となく聞き覚えのある言葉。

そして、町の雰囲気が「日本の都会的?」に。
治安も問題なくフラフラ歩けた。

ツヴィンガー宮殿、レジデンツ宮殿の歴史的緑の丸天井を見学。
続いてシュターツオーパ−へ。
ちょうどツアーの時間だった。

ドイツ語だけでとても聞き取れなかったけれども、見るだけで満足。
こういう雰囲気で演奏する、聴くのかと思うだけで幸せ。



















三位一体大聖堂を通り(中も見た)、フラオエン教会へ。
周囲の建物もそうだが、戦争の破壊のすさまじさを目の当たりにする。
尖塔まで登った。なかからは礼拝とパイプオルガンの音。

受付の人は入れると言ってくれたが、残念ながら入れなかった。




















テラスで食事。
多すぎるからと注文の変更を勧められて変えたのだが、
それでも多すぎた。ビール、軽い味で飲みやすい。
















プラハへ。エルベ川の渓谷が綺麗。
ドイツからチェコに入ると建物の雰囲気が何となく変わる。





















夜、ブドヴァルの店で食事。
バドワイザーはこの名前を英語風に表記したものだが、ブドヴァルとは関係ない。
ビールはバドワイザーより味が濃い。
食事は昨日と同じソーセージの和え物。
ソーセージを縦に半分、蝶番状に切ってキューリのピクルスを挟んである。
昨日のお店よりも食べやすい。


ところで、酒屋では食事をしている人は少ないと聴いていたが、
確かにそうだった。

ビールだけで語り合う感じ。

せいぜい一品何か頼む程度。

大量に頼んでいる人は大抵東洋人だった。
食文化の違いか。

Posted by hajimet at 12:42 | Comments (0)


チェコ旅行(3) 2017年3月26日
時差が1時間日本に近づいた。夏時間だ。
微妙に時差ぼけが残っている(早寝早起き)身体にとっては、
少しは、いやしになるかもしれない。

















今日は郊外へ。ブラニークとターボルを見学。

ボヘミアにある森

















ボヘミアの草原


















伝説の山、ブラニーク山


















ターボル到着。まずは腹ごしらえ。
オニオンスープとアヒルの足。チェコは昼食がメインだそうだ。


















ターボル(城塞都市)

















ターボルの洞窟…(メット必要 何回ぶつけたことか)


















夜。初めての一人メシ。チーズ、ソーセージとピクルスの合わせ。
意外と美味しい。チ
ップ入れて400コルナ払ったつもりが(100+100+200=2000円弱)、
100+2000+100と払ったらしくて、店員がビックリして返してくれた

しかし…beer 하고 チーズと言ってしまったり、
그리고と言いかけて言葉を飲んで、ついに英語が出てこなくなったり、
ソー−セージというつもりが、うっかりウィンナーと言ってしまう…、
結構いろいろやらかしている。

Posted by hajimet at 12:21 | Comments (0)


チェコ旅行(2) 2017年3月25日
朝食はホテルのビュッフェ。日本食もある。

















ホテル、日本のテレビも映る。
基本NHKで、こちらの時間で放送。朝ドラが朝8時から。
でも突然民放に切り替わったりもします。

短波ラジオも持ってきたが、NHKワールド、
ヨーロッパ向けの日本語放送やっていない。
英語とロシア語だけ。残念。

ガイド氏と一緒にプラハ散策



















プラハ城。プラハ大司教の葬儀と重なり教会は入れなかった。
鐘の音が鳴り響いていて荘厳だった。




















カレル橋






















昼。ガーリックスープとグラーシュ。
パンのようなものもナイフで切って食べると。
ガーリックスープだけでお腹いっぱい。
真夜中になってもこなれないのが分かる。






















高い城























音楽家の墓
























モルダウ。早すぎず、遅すぎず、淡々と流れる。
本来の意味は「暴れる川」だそうだ。


























路上ライブ。頑張っている。
しばらく耳をそばだてて、ようやく何の曲か分かるような、
かそけく音の外れていた演奏も(蝙蝠の中の一曲だった。お金も入っていた)
…楽器の前に帽子をおいて。
























音の聞こえる方に行ってみたら何と…。
ヤングボヘミア・ミュージック・フェスティヴァルのパレード。
駒込学園、新潟敬和高校、渋谷幕張の生徒が先頭。
その後ろにヨーロッパ各国の若者。聞いている人の顔も素晴らしい。






















プラハ点景























夜は叔父と一緒。日本食のありがたみを感じつつ、ちらし寿司。
もとチェコ大使館付きの日本人がやっているので、味はとても良し。
プラハの日本人のたまり場になっているようだ
Posted by hajimet at 11:35 | Comments (0)


チェコ旅行(1) 2017年3月24日 初日
羽田出発
















仁川空港。9時到着。出発は2時の5時間待ち。
新しいターミナルビルから出発。シャトル列車に乗る。
空港でテンジャンチゲを食べる。














チェコ航空、機内食。ビール、ワイン美味しい。


















大韓航空の系列のためか、飛行機の説明板、英語と韓国語。
機内エンタメ、英語、中国語、日本語、韓国語。
シンゴジラを見た。ビール美味しかった。

長い曲をたくさん聞いた。
ブルックナーの5番はモノラル(フルトヴェングラーのようだった)。
確実に残り時間が1時間ずつ減るのが嬉しい。

でもね、曲の順番考えて欲しい。
ブラームスの交響曲。1番から4番の1楽章を再生し、
次に1番から4番の2楽章。

で、最後までそう行くかと思いきや、4楽章ではブラームスの1番が1番最後。
もちろん、1番の1楽章のあとに2番のそれが出てきても気持ち悪いから、
再生を止めて1番の2楽章を指定しなおす(そうしないと、オートで再生される)。

ブルックナーはもっとバラバラ。
なのに、5番の2楽章から4楽章は続けて入っている。
どういうコンセプトなんだろう。ウトウトし始めたころに睡眠は中断される。


プラハ空港もロシア語、英語、韓国語表記。




















夜。叔父に会う。韓国人が経営している寿司屋で食事。
かなり流行っている。ビールがめちゃくちゃ美味しい。
装飾は韓国風で、盆栽も韓国風盆栽だった。

Posted by hajimet at 11:10 | Comments (0)


チェコ旅行(0) 2017年3月23日 出発前夜
自宅出発。空港そば、穴守稲荷の弟宅に投宿。
飛行機は6時過ぎ、受けつけは4時20分から。
5時までに行けば大丈夫なのだが、起床は3時半。プラハ到着は17時半、日本時間1時半。
殆ど徹夜作業。まずは起きれるか!!!

そういえば蒲田から乗ったリムジンバス。
後ろではしゃいでいた若者。
途中から「やべ、時間間違えた、7時半発だった」…沈黙…
「え、今離陸しているよ」「なぜ確認しなかった」
「もう一日泊るのか」…「空席があれば…」。
笑いをこらえるのが大変。でも明日、自分がそうならないように…。
Posted by hajimet at 10:30 | Comments (0)


2016年8月23日
下蒲刈島 2016年3月28日

3月27日、会議前に尾道散策

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬野八を越えて広島へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
会議終了後、呉の大和ミュージアムへ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日、呉線で広駅まで行き、下蒲刈島へ渡る。
三之瀬瀬戸をゴーゴー音を立てて塩を流れる。そこに、朝鮮通信使が11回立ち寄った。
琉球からの使節もここに寄っている。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景色は鞆の浦が一番だが、下蒲刈島は一番食事がよかったといわれる。
その様子が松濤園の御馳走一番館に復元されている(内部は撮影不可)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福岡相島、鞆の浦、下蒲刈も、風光明媚ではあるが、直接本土が見えない位置に
客観が設けられていることは印象的であった。
 
福島雁木(通信使が上陸した港。上部は地盤沈下で昭和期に補修。そばに対馬雁木もあった)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三之瀬本陣(復元)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
客館へ行く石階段(唯一残る当時のもの)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
呉に戻り、海軍カレーを食べてから、てつのクジラ館見学

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広島に戻り縮景園見学

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰京

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 21:19 | Comments (0)


鞆ノ浦対潮楼 2016年3月26日

3月27日の広島での会議に合わせて前日出発。福山で降りて、バスで鞆の浦へ向かう。
まずは、福山藩の迎賓館、対潮楼に向かう。海に面した部分を額縁に見立てた
建物で、朝鮮通信使の接待場所だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通信使の書が懸板となって懸けられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここはサザエさんのオープニングでも取り上げられた。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて鞆の浦港へ。江戸時代の港の形式を完全に備えた唯一の港。
雁木、常夜灯、防波堤などが残る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
船番所跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
保命酒の店。先日、伊豆下田で見た保命酒はここのもの。
阿部正弘は福山藩主で藩の酒をペリーに提供した。味は漢方薬酒。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明圓寺 朝鮮通信使の定宿

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
医王寺 シーボルトが岩石採取などのために登った山道を登る。鞆の浦が一望できる。
四国がうっすら。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平賀源内生祠

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿弥陀寺(キリシタン墓)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南善坊、沼名前神社などをめぐり、バス停へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宿泊は、福山から2駅目、松永駅前のホテル。

 
 

Posted by hajimet at 20:39 | Comments (0)


2016年8月22日
伊豆下田 2016年3月21日

浦賀に続いて下田まで日帰りで出かける。行きは踊り子号。
初島、伊豆七島を眺めながら下田へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稲田寺 プチャーチンとの交渉の時、河路聖謨の宿舎となったところ。
お吉の夫、河合又五郎の墓、安政の東海地震の供養塚(津なみ塚)がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宝福寺。日米和親条約付録下田条約交渉のとき、日本全権の打ち合わせの場所。
日露和親条約の日本側の打ち合わせの場もここ。
1863年山内容堂がここに泊まり、たまたまここを訪れた勝海舟から坂本龍馬の脱藩の
罪を許すように頼まれ、許した場所ともいう。お吉の墓もある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰平寺。1597年に死亡した下田領主下田忠次の墓があるが非公開。写真は門前の天満宮。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉田松陰拘禁の跡。密出国しようとして失敗した後、自首した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下田開国博物館見学。阿部正弘がペリーに出した保命酒もあった。
見学後、了仙寺へ。日米和親条約付録下田条約を林大学頭との間で調印した寺。
境内に第二代、第四代、第五代下田奉行を務めた今村家の墓がある。
境内裏には洞窟古墳も存在する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペリーロード。遅い昼食

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長楽寺 日露和親条約締結の寺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下岡蓮杖の碑と開国記念碑

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下田港とペリー上陸の碑

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
干物

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
玉泉寺 米国領事館跡。日露交渉跡。米国人墓地と、ロシア人墓地がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寝姿山に登る。黒船見張所跡がある。下田湾の向こうに伊豆七島が見えるはずだが、
もやっていて、かすかにしか見えない(写真は補正済み)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大島、利島、鵜渡根島、新島はなんとか。神津島が一瞬見えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これだけ、目の前の海が広いと、荷抜けはしやすい。北回り航路が出来て、船が増えた後、
下田奉行所を閉じて、浦賀奉行所に移した理由がよく分かった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時間切れで帰宅へ。
 
 

Posted by hajimet at 21:17 | Comments (0)


浦賀 2016年3月20日

浦賀散策。まずは京急久里浜から歩いてペリー上陸地点

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
資料館

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徒歩で浦賀港へ。左、湾内。サスケハナでは入りにくいかな。
右、東京湾方向。荷抜けはやりにくいだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浦賀奉行所跡(左、外周の石、右、全景)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為朝神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大六天榊神社 漆喰彫刻が素晴らしい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浦賀港引揚記念の碑、船見番所跡を見ながら、西叶神社へ。
社殿彫刻は、1842年阿波国の職人に寄って彫られた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
渡し船に乗り、東叶神社へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裏山は社叢林。浦賀城跡でもあり、勝海州断食の碑もある。この沖合にペリーが投錨した。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東耀稲荷

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八雲神社 龍は漆喰

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
荒巻稲荷。江戸時代末期、京都の伏見稲荷より送られた社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浦賀ドック

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
京急で帰宅

Posted by hajimet at 20:35 | Comments (0)


伊豆大島 2016年3月13日

伊豆大島に行く。大島高校のお手伝い。
8時竹芝桟橋発のジェットフォイル。房総半島を眺めながら。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まずは、大島高校の椿園見学。2016年2月、国際優秀つばき園に指定されたとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼食

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お仕事終了後、三原山火口まで。1人で歩いていると、結構寂寞感あり。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利島がやっと

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゴジラ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三原神社、そして大型のアルグチネードト

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭和溶岩の末端

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夕食。ツバキ油のフォンデユー

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌朝

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊豆大島の桜株

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大島公園動物園

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椿資料館

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
椿の花寿司

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
筆島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波浮港

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竜王埼灯台。幕末の鉄砲場跡。そして太平洋戦中の戦争遺跡も。この日は新島まで見えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波布比当ス神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クサヤ工場

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バウムクーヘン

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼食、そして伊豆大島崋山博物館見学後、帰宅へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東京湾

 

Posted by hajimet at 20:01 | Comments (0)


2016年8月21日
南漢山城と三田渡碑

2016年4月3日 ソウルに到着後、すぐに南漢山城に向かう。
新羅、百済時代に作られたとも言われるが、
現在の物は朝鮮時代、仁祖の時代に築造されたもの。
ここは、その仁祖の屈辱の舞台でもあった。
 
1636年、後金から清に国号を改めたが、太宗は朝鮮に朝貢を求めた。
明との関係を維持していた朝鮮の仁祖はこれを拒否したため、
1637年、太宗は自ら12万の軍で朝鮮に侵入した。
 
仁祖は南漢山城に逃げ込み、45日間籠城したが、ついに降伏した。
その山城が南漢山城である。
 
地下鉄8号線、山城駅からバス。どこで降りるのか運転手に聞いたらどこでも良いと。
南漢山公園で降りるように乗客から言われる。これは、山登りコースだった、
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30分ほど上ると、南門。ここの城壁は垂直状だが、一部斜めに勾配が変わるところがある。
文禄慶長の役の倭城の影響だという。韓国の城壁は基本的に垂直に組む。
織豊系から江戸時代の日本の城壁は勾配、カーブを持たせる。
 
本来は上の構造物に耐えるための仕組みなのだが、
朝鮮では敵が登ってこられない防禦のための仕組みと考えられた。
そのため、文禄慶長の役後、一部重要な城に勾配を持つ城壁が採用された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁に沿って城内を散策。ところどころ暗門がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中望楼からソウル市内を見る。漢江、三田渡との位置関係が分かる。
(実際、三田渡そばの夢村土城からの登山コースがある。)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
守禦将台

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この前からの景色。ちなみにソウル空港への進入路が目の前に。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しばらく城壁散策。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城の中央からバスで下山。
 
●三田渡碑 2015年8月。
ロッテ蚕室の湖水沿いに三田渡碑がある。元々漢江本流の跡。
仁祖が清に降伏した翌年、三田渡で清に対して三跪九叩頭という臣従の礼をとった。
それを記すため、清によって建てられた。
 
碑は満州語、モンゴル語、漢語で彫られる。
 
朝鮮にとっては屈辱の碑であるため、清との関係が切れた後、この碑は埋められた。
その後、日本によって掘り出されたが、解放後再び埋没。その後掘り出されたという。
しばらく別の場所にあったが、本来の場所に戻された。
 
亀趺は2つある。一つはサイズが小さく、清のから碑の土台にすることを拒否されたもの。

 
 

Posted by hajimet at 21:38 | Comments (0)


2016年8月15日
貞陵(2016年4月6日)

4号線漢城大入口からタクシーで行く(歩いても15分くらい)
初代太祖の後妃神徳王后康氏の陵。最初貞洞に埋葬されたが、ここに移された。
参道が途中で折れているのが特徴。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5分ほど山を登ったところには、神徳王后を祭る興天寺がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 22:36 | Comments (0)


西五陵(2016年4月5日)

王陵巡り
地下鉄3号線ノクポン駅からタクシーで向かう。ソウル市をわずかに外れた高陽市
入口は工事中のため、臨時入口より入る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通路の関係で、まず明陵。第19代粛宗と第一継妃仁顕王后(右)、
少し離れたところに第二王后の仁元王后を祭る。
参道は王陵の典型的な作りとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綏慶園。第21代英祖の後宮。暎嬪李氏の墓。思悼世子の母。
王、王后は陵。世子は園。王族は墓。世子の母だから「園」か?
したがって、王や世子の墓とは異なる、簡素な作りである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翼陵 第19代粛宗の王后、仁敬王后の陵。世子時代に結婚。20歳で天然痘で死亡。
翼陵の丁字閣は両翼に長い翼廊をそなえ、参道が階段状である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
王陵は陰宅風水で作られる。両脇から尾根が前方をふさぐように延びる。
その前には元来川が流れていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
順昌園  第13代明宗の世子、順懐世子と世子嬪の墓。陵より一回り小さい。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬陵 第7代世祖の第一王子、懿敬世子の墓。第2王子成宗が後を継ぐと、
   徳宗に追尊された。右が徳宗、左は昭恵王后


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから弘陵、昌陵へは尾根を横切る。その途中に大嬪墓がある。
禧嬪張氏(チャンヒビン)の墓。ここに移葬された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丘陵越え。猪注意の看板が。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弘陵 第21代英祖の正妃、貞聖王后の陵。
    左側の空間は英祖が埋葬される予定だったところ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昌陵 第8代睿宗(左)と、継妃安順王后の陵

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元来た道を戻る。場所はソウルとの市境。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 21:51 | Comments (0)


2016年8月14日
東九陵(2016年8月6日)

8月6日午前。世界遺産の東九陵を見学。往十里から中央線で九里まで行く。
朝鮮王朝の王、王后の陵がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホンサル門をくぐれば聖域。気温は33度。湿度が低く、木陰は気持ち良い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綏陵 24代憲宗の父、文祖(諡号)と神貞王后趙氏(諡号)を合葬した陵

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕陵 5代文宗と顕徳王后権氏を祭る。左側(建物のある方)が王、右側が王后。
このような作り方を同原異岡陵という。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健元陵 李朝の始祖、太祖を祭る。この陵だけ草が生えっぱなし。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
穆陵 第14代宣祖、懿仁王后朴氏(同原異岡陵)。向かいに仁穆王后金氏を祭る
    文禄慶長の役の時に王だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仁穆王后陵

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徽陵 16代仁祖継妃 壮烈王后趙氏を祭る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元陵 第16代英祖と貞純王后金氏を祭る。向かって左が仁祖

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
暑い!!!。そして、小バエが凄い。動きを止めると目の前が真っ黒になるほど。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景陵 第24代 憲宗、孝顕王后金氏、孝定王后洪氏の陵が3つ並ぶ(よく見えない)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵陵 第20代景宗妃 端懿王后沈氏を祭る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇陵 第18代顕宗と明聖王后金氏を祭る

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
約1時間半。直線で奥まで行って戻ってくる西五陵と異なり、
巡回式で回れること、陵の間の勾配がきつくないので、
比較的に楽に全体を見ることが出来た。
 

Posted by hajimet at 21:27 | Comments (0)


倭城巡り+文禄の役の激戦地(2016年4月)

4月4日 ソウルから日帰りでKTXに乗って順天まで。
順天倭城。慶長の役の撤退直前、小西行長が明、朝鮮軍に包囲された城。
積み直されているが、かなり良好な保存状況。
 
堀跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
虎口1

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本丸入口(虎口6と4)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天守台と景観

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町は桜のシーズン

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウルも

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4月7日 1592年1月平壌の戦いで明に負けた後、明に反撃、勝利した碧蹄館あと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くにある竜岩寺双塔磨崖石仏

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
碧蹄館に続く激戦地、幸州山城。日本側敗退。
銅像は朝鮮側武将、権慄。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 20:29 | Comments (0)


倭城巡り

文禄慶長の役で、朝鮮南部に作られた日本側による城。1593年から築城。
出兵が西国の武将中心だったこともあって、天主重視で総石垣りの織豊型の城作り。
これまでも蔚山、西生浦、機長、釜山本城、釜山子城、順天倭城は見学している。
 
今回は熊川倭城から。熊川南山頂上部にある。
築造当初から拠点となった城で、小西行長が護る。
小西行長が招いた宣教師セスペデスが滞在したところでもある。
韓国史上はじめて韓国の地を踏んだ宣教師である。ただし、布教活動はしていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
曲輪

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天主から二方向に伸びる登り城。これに囲まれるように城下が築かれる。
江戸時代の城には殆ど継がれていない築城法。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天主、そして瓦

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天守台よりの眺望。右側が巨済島。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熊川邑城。最初はこちらが拠点。この城では明軍の兵器に耐えられなかったことも、
倭城を作った理由。邑城は近年復元された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて安骨浦倭城。熊川倭城とは湾を挟んで対岸の山上にある。
公園として整備されている。本城と2つの子城からなるが、藪になっていて行けなかった。
城下の安骨浦は、文禄の役初戦時に安骨浦の戦いで朝鮮水軍に負けた場所。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
眺望。釜山新港開発で埋め立てが進む。そして、安骨浦港と南山

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日はバスで泗川へ。慶長の役の激戦、泗川城の戦いの場所。
城門。発掘後、「姫路城の形式」で復元された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天主

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
眺望と城郭図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そばにある泗川朝明軍塚

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
車で20分。晋州邑城。1593年、晋州城の戦いの舞台。慶尚道から全羅道への要衝。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義岩と晋州城壬辰大捷癸巳殉義壇

 

Posted by hajimet at 08:52 | Comments (0)


2016年8月13日
釜山 東横インのトイレにて

トイレの説明…絵が凄い

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
紙の流し方…これだけは馴れません
(日本で韓国語の表示を見ると「流せ」と書いてあることが多い)。

 

Posted by hajimet at 21:23 | Comments (0)


韓国旅行 食事 

8月3日。出発

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
機内食(JAL エコノミー)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山、夕食。テジクッパ(豚骨スープ+ご飯)だが、分けてもらった(タロクッパ)
釜山中央洞サンチョンテジクッパ(釜山に行く度に行く店)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8月4日 泗川、晋州へ。晋州でチョングクジャン(納豆汁)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は釜山駅前でスユクペクパン(前日食べた物とほぼ同じ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8月5日 釜山駅前でミルミョン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山からKTXでソウルに移動。釜山は駅ナカが充実。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウル 夜はチュクミ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8月6日 昼は国立中央博物館でチャジャンミョン

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜はホテル裏でサムゲタン(味が落ちた)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8月7日 昼 鍾路三街の「ヌンラ パプサン」で平壌冷麺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は、永登浦市場でサムギョプサル

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そしてチョゲタン(二次会)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8月8日。最終便で帰国。

 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 21:04 | Comments (0)


ハングルデザイン

釜山にて
달달 dal dal どちらにも読める看板

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウル
京畿北部子供博物館(경기 북부 어린이 박물관)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
중섭
  

Posted by hajimet at 20:56 | Comments (0)


2016年3月11日
ソウル・水原紀行(4) 2016年1月7日

景福宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町なかの一場面

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カンジャンケジャン定食

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市内散策

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
予定がすべて終わり、空港へ。

Posted by hajimet at 11:17 | Comments (0)


ソウル・水原紀行(3) 2016年1月6日

1号線で水原へ。まずは正祖陵の健陵と、思悼世子陵の髣ヒへ。
健陵

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
髣ヒ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
思悼世子を祭る竜珠寺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
華城まで行き昼食。スンデクク

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水原華城めぐり

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
行宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水原華城博物館

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムグンファ号でソウルに戻る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜はコプチャン

Posted by hajimet at 11:06 | Comments (0)


ソウル・水原紀行 2016年1月5日

許浚博物館
屋上に野草園があって、そこから見るように言われたが…

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
切頭山教会。殉教者の記念碑。展示館は模様替えで臨時休館だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楊花津外人墓地。切頭山教会から徒歩5分。
君が代を編曲したフランツ・エッケルトの墓もある(最初の写真)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼。チュオタン

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午後、ソウル薬令市 韓医学博物館へ。新設洞駅そば

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市場を散策

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古宮博物館(改修中)を見た後、鍾路散策。所々、朝鮮時代の遺構が発掘展示されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜はチジミとポッサム

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)


ソウル・水原紀行(1) 2016年1月4日

出国

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西小門歴史公園殉教地。脇を京義線が走る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西大門方面に散策。西大門址。(峠状になっているところ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
京橋荘(大韓民国臨時政府最後の庁舎。解放後金九が狙撃されるまで私邸としていた)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウル市教育庁付近。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
洪蘭坡家屋

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文禄慶長の役の時の武将、権慄の家の跡と、樹齢450年近い銀杏

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
独立門(迎恩門)と独立館(慕華館)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地下鉄で蚕院駅へ。朝鮮時代に桑畑があったところ。復元されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鴨鴎亭の碑(団地の中にある)。韓明繪の家の跡。漢江に向かって地面が下がっていて、
当時は漢江から北漢山などが一望できたものと思われる。風光明媚だったのだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜。焼き肉のあと、ポジャンマチャへ

Posted by hajimet at 10:30 | Comments (0)


釜山・慶州紀行(4) 2015年9月14日

最終日。まず子城台公園へ行く。文禄慶長の役で釜山子城のあったところ。
山の手前は、日本時代になるまでは海であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子城から本城を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園の片隅には永嘉台の扁額のある建物がある。朝鮮通信使が出発するときに
ここで旅の安全を祈り宴をしたというが、本来の場所は異なる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子城台のそば、釜山鎮市場。最初の倭館のあったところ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市場の裏手、線路との間に永嘉台碑がある。民家の裏手、塀の中にある小さな門を潜る。
何回もその前を行き来したのに分からない。民家の人に聴いてようやく分かった。
 
永嘉台は鉄道を通すときに削られてしまった。だが、周囲の地形は小高くなっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
草梁客舎跡。倭館に来た対馬の使節が、ここで朝鮮王(の牌)に拝礼した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山駅でお土産購入。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
空港でユッケジャン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰国

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 10:03 | Comments (0)


釜山・慶州紀行(3) 2015年9月13日

地下鉄で東莱駅。そこからバスで福泉洞古墳群へ。まずは福泉博物館。3度目の正直。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古墳群。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古墳群は東莱邑城北門そば。文禄慶長の役の激戦地。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁沿いに10分ほど急勾配を登る。北将台。遠くうっすらと対馬が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東莱邑城歴史館。東莱邑城の成り立ちがよく分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地下鉄で佐川に戻る。鄭公壇を見てから、テグタン。
タラの出汁が利いていて、今まで食べたどのテグタンよりも美味しかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甑山公園まで登る。かなりの急勾配。
文禄慶長の役時代釜山本城のあったところ。対馬が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園前。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここからは旧倭館跡を散策。宴大丁あと。付近には日本家屋も残る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山近代歴史館。元アメリカ文化会館。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竜頭山タワー。倭館時代から植民地時代にかけて竜頭山神社があった。
対馬がはっきりと見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東館跡。日常生活の場。道の配置は当時のまま。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海岸線跡。左側が海。右側は急坂で竜頭山に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
館主宅への階段と、石垣。両方とも積み直しているが、場所は元のまま。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西館の地域。公式行事の場で、道も整備されている。
大覚寺。参判屋あと。戦前は東本願寺だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国際市場。ここの配置も行廊跡を基本にしているようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石垣跡の道路(周囲より高くなっている)を見てから、ホテルへ。
食事はミルミョンとマンドゥ。かなりの量。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜、テレビを見ながら…

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 09:14 | Comments (0)


釜山、慶州紀行(2) 2015年9月12日

午前中は慶州散策。
月城。亥字(堀)跡には一面綿が咲いていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小雨の慶州散策。徒歩で歩き回る。静かで趣がある。皇竜寺跡へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
芬皇寺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼。カレーライス。日本人の経営している日本式カレー。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南山洞三層石塔と三層模塼塔

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
KTXで新慶州から釜山へ。ホテルは駅前の東横イン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山市立博物館。古代史と日韓交流史の展示を中心に見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜、中央洞でテジクッパ(いつも行くところ)。運転手さんに「お勧めは?」と聴いたら、
「店ごとに味も違うし、好みも色々だからね」と言われたのが印象的だった。

Posted by hajimet at 09:00 | Comments (0)


慶州・釜山紀行(1) 2015年9月11日

9月11日、釜山に飛ぶ。釜山と九竜浦の取材。慶州は息抜き。
 
鬼怒川が決壊する大雨の翌日。
機長からはかなりの揺れが予想されるので、乗機前にトイレに行くように指示。
釜山行きの機種は中型機と言うこともあるのだろう.実際は大したことなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
機内食

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
釜山到着。すぐにバスで慶州に向かう。慶州からは知人の車で九竜浦へ。
植民地時代、日本の漁民が多く住んでいたところで、観光地化されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社跡。現在は忠魂閣、竜王堂などがある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本文化体験も出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慶州に移り、まずは夕食。ソンジグク。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大陵園周辺は公園整備、発掘が進む。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
月城。ここも発掘が進んでいた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日も暮れ、ライトアップ。雁鴨池。瞻星台


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 08:43 | Comments (0)


2016年3月10日
ソウル紀行(6) 2015年8月28日

前日、偶然存在を知ったハングル博物館へ。
建物が「ㅈ」という文字を象っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
展示

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地下鉄でホテルに戻る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お昼はピビム冷麺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お土産を買いに京東市場と薬令市場を行ったり来たり。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お土産はこれ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰国へ。

Posted by hajimet at 21:28 | Comments (0)


ソウル紀行(5) 2015年8月27日

朝、ホテルのそばでコムタン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タクシーを飛ばして蚕室まで。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三田渡碑を見る。
仁祖が清国に降伏した「記念碑:屈辱碑」で漢文、満州語、蒙古語で彫られる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くのお店で、知人と「和牛」なるオーストラリア牛を食べる
(日韓とも口蹄疫のため双方の肉は輸入禁止)。
南山麓の南山韓屋マウルへ行く。伝統建築の確認。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タクシーで前日行きそびれた先蚕壇へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに北村散策。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗親府あとを見ようと思って迷い込んだ正徳図書館。(金玉均家跡)
15年前も、同じ失敗をしたことを思いだした。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗親府跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
甲申事変のきっかけとなった郵逓局。そして、図画署あと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は平壌冷麺

Posted by hajimet at 21:13 | Comments (0)


2016年3月7日
ソウル旅行(3) 2015年8月25日

予報が当たり雨。
そこで、ソウル大学の奎章閣まで行き資料調査。
その後、国立中央博物館に移るまずは昼食。チャジャンミョン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
博物館見学。このたびは、李朝時代のものを中心に見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、南大門市場で買い物をしてお終い。

Posted by hajimet at 21:48 | Comments (0)


ソウル紀行(2)2015年8月24日

この日は月曜日。いろいろ番狂わせがおきた。
まずタクシーで将忠壇公園へ。明成皇后(閔妃)が殺害されたとき
犠牲になった人を祭った。日本時代はこのそばに博文寺が作られ、
英祖の時代には南小営が置かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここに清溪川から移された水標橋がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
歩いて光熙門(東小門)へ行く屍躯門として使われていた。東大門運動場のそば。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁はここで途切れる。東大門歴史文化公園に行く。
朝鮮時代の兵営あとが発掘展示されている。東大門歴史館1398に行こうとしたが、
月曜日で休館。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二間水門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園をでて東大門へ。至近距離。門の前に日本時代の水準点が残る。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東大門から地下鉄で祭基洞駅まで行き、先農壇まで行く。ここま休館。
市内に戻り知人と昼食。
「ニクを食べるか?」といって、断ったら「ブタ肉」に連れて行かれた。
あとで、韓国語で「ニク」というと、通常牛肉を指すことを知った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徳寿宮も休み。徳寿宮裏手の重明殿へ向かう。途中のオブジェ。平衡感覚がおかしくなる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重明殿は第二次日韓協約が締結された場所、
修復されてきれいになっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そばには旧ロシア公使館あとも残る。周辺で一番高いところ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日はこれでお終い。
 
 

Posted by hajimet at 21:18 | Comments (0)


ソウル紀行(1)2015年8月23日

資料調査も兼ねたソウル行き。MERSの影響で1月遅れ。
席の交換をお願いしたら、ビジネスクラスに移してくれて…

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウル到着。友人とお昼。プルコギ定食。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北岳山の城壁巡りをする。軍事地帯のため撮影できるところは限られる。
水もトイレもない。なのに水を忘れた。汗だく。まずは粛清門(北大門)へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁の修理過程がよく分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本が「気脈」を切ったという白雲台。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この辺りはかなり険しい。途中の尾根筋から景福宮方面、
山頂から景福宮方面への地形はたしかに「明堂」の地形(撮影不可)
一気に数百段の階段を一直線に降りると彰義門(北小門)。
鶏にまつわる伝説がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景福宮方面へなだらかな坂を下る。左は北岳山。軍事施設のため撮影不可。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1968年北朝鮮兵が青瓦台を襲撃したときに殉死した警官の記念碑。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宣禧宮。英祖後宮暎嬪李氏(思悼世子母)を祭る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ソウルろう学校の裏にある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古宮博物館へ。ここまで約3キロ。涼みがてら見学。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光化門交差点。高宗の「記念碑殿」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
殿閣前には日本時代の道路元標が置かれる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルへ。夜は焼き肉。

 
 

Posted by hajimet at 20:50 | Comments (0)


2016年3月6日
掛川、浜松、天竜川 2015年6月28日

遠州鉄道の終点、西鹿島に天然ウナギを食べに行くツアー。
その前に巡検。
まず掛川。
掛川城。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
掛川城御殿

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大日本報徳社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大日本報徳社大講堂

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹の丸

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜松へ移動。賀茂真淵記念館を訪ねた後、遠州鉄道で浜北まで。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二本ヶ谷積石塚群

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
到着。天竜川のアユ、ウナギ。猟で捕った猪、鹿などなど。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天竜二俣駅より掛川に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
掛川駅

Posted by hajimet at 20:47 | Comments (0)


園城寺、宇治平等院 2015年4月6日

大阪での会議の帰り。JRで大津まで行き、バスで浜大津まで。
そこから園城寺(三井寺)まで歩いた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
園城寺そばの三尾神社に参拝。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
園城寺到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
晩鐘で有名な鐘

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
閼伽井屋と弁慶の汁鍋

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一切経蔵と三重塔

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日の目玉。新羅善神堂。園城寺の境内だが徒歩10分。
以前は境内からまっすぐ行く道があったが、
廃止されて、一旦国道まで出なければならない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そばには弘文天皇陵。
壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗れて死んだ大友皇子の墓。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇子山から京阪で石山寺まで乗る。駅から15分ほど歩いて石山寺到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
再びJRの石山に戻り、奈良線で宇治まで。平等院。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇治駅までの道すがら。

 

Posted by hajimet at 20:26 | Comments (0)


奈良・福岡紀行(4) 2015年7月24日

最終日。福岡市立博物館へ行く。展示替えしてからは初めて。
福岡、博多と大陸との関係を非常に丁寧に公開している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近所はサザエさん発祥の地

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元寇の防塁跡と元寇神社。そばは西南学園大学と修猷館高校。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千眼寺。関帝が祭られている。本尊脇にいるそうだが、見られなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地下鉄で唐人町へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福岡城

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鴻臚館跡。もと平和台球場跡でもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
関帝廟跡(建物の中に関帝像が祭られているとのこと)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
聖福寺などを散策して空港へ。

 

Posted by hajimet at 10:18 | Comments (0)


奈良・博多紀行(3) 2015年7月23日

福岡3日目。宗像の大島に渡る。宗像大社の中津宮の島。フェリーで25分。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まず、「沖津宮遥拝所」に向かう。残念ながら沖ノ島は見えなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで、中津宮へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内脇を流れる川は「天の川」。七夕信仰がある。
まずは天真名井

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道を挟んで織女社と彦星社(道路の反対側)が向かい合う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参拝終わり、安倍宗任の墓。前九年の役で源頼義と戦い敗退。
伊予から大島に流されたという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神湊に戻り、そばの頓宮を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、織幡宮。岬の突端の山に祭られる。
海上から見ると、山そのものが神だったかもしれない。祭神は武内宿禰。
金達寿氏は秦氏に関係すると言うが…。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗像大社。遷宮は終わり、新しい拝殿である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜京古墳。壁画墳で、公開に向けて準備中。道が悪い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
津屋崎古墳群。胸形氏の奥津城。何となく慶州を思い出す。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福津市中央公民館に寄ったあと、古賀市立歴史資料館へ
その後、御島神社へ。香椎潟の中に在る香椎宮の境外末社。
神功皇后が朝鮮に渡る前に、ここで髪を洗い、みずらを結ったという。
祭神は「綿津見大神」。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに香椎宮へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古宮へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古宮。ご神木の香椎。仲哀天皇の棺を架けたとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
不老水

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
箱崎宮へ。空港が近い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
那津宮家跡とされる比恵遺跡を見学してホテルに。

 
 

Posted by hajimet at 09:14 | Comments (0)


2016年3月5日
奈良・博多紀行(2) 2015年7月22日 

福岡初日。
実は、研究会が博多であった関係で、7月5日にも博多に来ている。
この時は、研究会終了後、散策をして山笠を見てきた。
博多櫛田神社。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山笠

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
川上音二郎の町でもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供山笠

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
で、今回は相島に向かった。その前に、糟屋屯倉跡と言われる鹿部田渕遺跡へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに大森貝塚と、近くの高いところから見た地形。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
船原古墳

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いよいよ相島へ。船で20分。ここはアコヤ貝を養殖している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
相島積石塚古墳郡群

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮通信使関連墓地

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太閤潮井の石と遠見番所跡。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竜王石

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神宮寺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
先波止場。通信使の上陸したところ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若宮神社と通信使用の井戸


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
通信使客館跡。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
数カ所よりながら宗像泊。夜は刺身で一献。

 
 

Posted by hajimet at 22:46 | Comments (0)


奈良・福岡紀行(1) 2015年7月20日、21日

クラブツーリズムの白鳳展見学と、福岡紀行を繋げて行った。
朝、こだまで名古屋まで。近鉄で特別列車をしたてて西の京駅まで行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まずは、国立奈良博物館で「白鳳展」を見る。この日のバスは「まったく冷房の効かない」バス。
運転手が頭からタオルをかぶっているという惨状。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
少し早めに抜け出して、春日大社へ早足で往復。汗だく。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旧暦の七夕直前。神官が練習をしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、薬師寺のライトアップ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日の朝。まずは當麻寺へ向かう。奈良市内、漢国神社前を通過。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
當麻寺。参道の家々に恵比寿様がいる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
當麻寺。日本で最古の石灯籠。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
庭園を眺めながら昼食。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午後、石位寺に向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで蟹満寺へ向かうが、手前の綺原座建伊那太比売神社も面白い。
鳥居に豆殻を下げているのも興味深い。
木津は渡来人の多い所であったが、この神社も、蟹満寺も渡来系とされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蟹満寺。
白鴎時代の釈迦如来を拝見。発掘により創建当時の場所から移動していないとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
京都から新幹線で博多へ。夜、もつ鍋で一献。
お店は殆ど韓国人と中国人で、我々が「少数民族」

Posted by hajimet at 22:16 | Comments (0)


2016年3月2日
関東渡来関係紀行20150619,29

6月19日
東向島の白鬚神社に行く。
951年に近江の白鬚神社を移したとされる。
隅田川(荒川)上流、高麗川の付近にも白鬚神社が分布していて、
高麗王若光が代わったものとされる。
 
一説には、墨田区の白鬚神社も渡来系の神社ではないかとされている。
神社は隅田川沿いの自然堤防の上にある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参拝

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰りは東武博物館を見学。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌29日。ロマンスカーで秦野に向かう。秦氏に関係するところと言われている。
ここに加羅古神社がある。唐土より飛来したという伝承がある。
寿永二年(1183年)創建とされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて小田原経由で大磯に向かう。
高来神社へ行く。高麗山の麓、地域の名前も高麗である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高麗王若光が上陸したところとされる。
社伝では、神功皇后の三韓征伐の後、
三神を高麗山に降ろしたが、その一柱が高麗権現であった。
その後高麗権現は箱根山神社と伊豆山神社に遷座したとある。
江戸時代までは神社の隣に高麗寺もあったが、
神仏分離後廃寺となり、高麗神社も高来神社に名前を変えたという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なお、7月14日には多摩市の稲荷山古墳に行った。
渡来人とは関係ないが、関東で珍しい八角墳である。

 

Posted by hajimet at 10:35 | Comments (0)


2016年3月1日
大島・神津島紀行 その2 20151219

朝6時半。大島岡田港から神津島へ。まだ暗い。
日の出。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鵜渡根島。右遠方は三宅島。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
新島。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
式根島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神津島へ。黒い層は黒曜石。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崖崩れ:三宅島噴火の時の地震で崩れたもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10時に到着。展望台から三宅島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
オタアジュリア碑と神津島の集落

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伝オタアジュリア墓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
物忌奈神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
阿波命神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トロッコの跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤碕遊歩道

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼食。地場の金目鯛

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
郷土資料館を見学してから、神津空港へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三宅島、御蔵島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
新島、式根島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
利島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊豆半島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大島

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三浦半島、多摩川、そして着陸。わずか35分。

Posted by hajimet at 21:16 | Comments (0)


大島、神津島紀行(1) 20151218

仕事で、朝のジェットフォイルで伊豆大島へ。波は穏やか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
房総半島、三浦半島の地形がよく分かる。
大島高校からは富士山がきれい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
学校では様々な椿を栽培している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つばきは虫がつくが、その時は薬を蒔くとのこと。ただ、山中の椿はあまり虫がつかないそうだ。電灯がないため、虫が寄りつかないためで、
その意味では都会で起きる問題と言われたことが印象的であった。
 
なお椿油の店で聞いたところ、椿は油が採れるまで20年かかり、
効率が悪いとのことだった。
 
仕事前の昼食。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仕事終わり散策。元町港からの眺め。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為朝館あと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
為朝神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くの寺。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海の関係で亡くなったのだろう。戒名にそれを伺わせ文字が。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波浮の港

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
筆島近くのオタアジュリア供養の十字架。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜。地場の魚で

Posted by hajimet at 20:58 | Comments (0)


2016年2月28日
佐賀、朝鮮紀行(その4) 2016年2月26日 田代

9時半頃の各駅停車で鳥栖へ。
タクシーで中冨くすり博物館へ向かう。
鳥栖、基山は対馬藩の飛び地であり、田代の薬売りで知られたところである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて田代宿歩き。
まずは長崎街道と鹿児島街道の追分。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伝大官屋敷門。棟木に対馬藩、宗氏の家紋が彫られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田代八坂神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道端で

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
代官所跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町中で

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宿場跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
対馬藩の証明

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
久光製薬

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田代駅

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
帰宅

Posted by hajimet at 13:58 | Comments (0)


佐賀・朝鮮紀行(3) 2016年2月25日午後(佐賀)

3時頃佐賀に戻り、唐人町から旧長崎街道コースを散策。
まずは龍造寺八幡宮。薩長同盟の碑もあるようだが、見なかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長崎街道を進む。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汚水のマンホール。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下水の蓋。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊勢神宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
肥前狛犬

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天満宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長崎街道から離脱。所々で「西宮」が祭られる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
江藤新平の墓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原直弘(鍋島勝茂四男、成富茂安養子)、成富茂安墓。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水路だらけ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
与賀神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ともかく歩く

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大隈重信墓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「がばいばあちゃん」の市場跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐賀の役、供養塔

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐嘉神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日も、有明海珍味で。

Posted by hajimet at 13:35 | Comments (0)


佐賀・朝鮮紀行(その2) 2016年2月25日午前 有田

朝8時前の各駅停車で上有田駅へ。
駅から徒歩10分、泉選鉱場に向かう。
李参平が陶土を発見したところ。山1つ掘り尽くされた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すぐ隣にある石場神社。李参平像と高麗神が祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町中には、窯の廃材で作られた塀であるトンバイがある。
韓国語と言うことだが、똥바위(トンバウィ:犬の糞の岩)から来ているか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李参平が有田で最初に築いた窯跡、天狗窯へ行く。脇では「大地主産土神」が祭られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李参平墓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには李荘窯もある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、李参平を祭る陶祖神社に行く。途中札の辻付近。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶祖神社は一の鳥居手前が線路。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳥居は陶製

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内も陶磁器だらけ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿となりには「八天狗社」がある。拝殿に行く階段がない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶祖神社の裏山頂上にある李参平碑。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
李参平碑から見る有田の町並み

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町の中では水神信仰が盛ん。途中桂雲寺には北辰妙見大菩薩が祭られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しばし、町中を歩く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
百婆仙の墓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに有田駅まで歩く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
九州陶磁文化館へ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐賀へ特急で戻る。

Posted by hajimet at 13:05 | Comments (0)


佐賀、朝鮮紀行 その1(2016年2月24日)

佐賀県に残る、文禄慶長の役の跡を見に、佐賀へ行く。
新幹線と特急を乗り継いだ。
 
佐賀平野はただただ平ら。縄文海進時に有明海の底になったところで、
その後の海退で干潟が干上がったからだという。
干潟の澪筋が水路になっていて、非常に細かいクリークが発達している。
 
佐賀駅で降りて、タクシーで金立山麓の高麗人逆修碑を見に行く。
20分ほどの距離。
 
有田焼の祖、李参平が最初に窯を開いたあたりとも言われている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山の麓の畑の中だが、表示はない。しかも、猪除けに囲まれた所にあった。
この地域は徐福伝説があるところでもある。
 
タクシーに乗ったついでに、市南部の筑後川に架かる昇開橋を見学。
もと佐賀線の廃線跡で、筑後川の中央部分の橋が上下する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋のたもとには徐福像もあった。
 
再びタクシーで市内に戻る。阿弥陀寺で洪浩然の墓を見る。
洪浩然は文禄慶長の役の時に鍋島直茂に連れてこられた人で、
京都五山で学んだ。その後勝茂に使えた。その文字は「こぶ浩然」として
知られ、「英彦山」の銅鳥居の額なども書いている。
 
晩年、朝鮮へ帰郷する許可が下りたが、唐津港で呼び戻され、帰国を断念。
1637年、勝茂死去のときに追い腹を切った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、県立美術館、県立博物館を見学。唐人町を歩いてホテルに向かう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
唐人町は文禄慶長以前に日本に来ていて、1591年に佐賀藩に召し抱えられた
李宗歓に与えられたところ。文禄慶長の役の時には通訳として朝鮮に渡っている。
 
墓の隣には、李宗歓が朝鮮から連れ帰ってきた朝鮮人のひとりである
九山清道の墓もある。九山清道は鍋島更紗の創始者として知られる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
唐人町には李宗歓を祭る東人神社もある。
鳥居は肥前鳥居。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
佐賀は恵比寿信仰の盛んなところだが、
なかには、文禄慶長の役の時に、
黒田藩が鍋島藩の様子を探るために送ったという恵比寿もあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
町中でおひな様の展示が行われていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は有明海の珍味と刺身で一献。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

Posted by hajimet at 12:31 | Comments (0)


2015年3月1日
沖縄旅行 3日目 20150226

朝、路線バスで浦添へ向かう。浦添ようどれ館に寄ったのちに、浦添城と浦添ようどれへ。
浦添城は、首里に都を移すまでの、都があったところ。城からは東西両方とも海が見える。
沖縄戦の時に、首里城を守るための激戦地になったところであるが、その理由がよく分かる。
城壁も完全には復元されおらず、土台しか残っていないところも多い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浦添ようどれ。入口は岩が覆ってトンネル城になっていたが、沖縄戦で破壊された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バスで市内に戻り、おもろまちから美栄橋までモノレール。そこからタクシーで泊港まで。
外人墓地を見学に行く。ペリーが上陸したところで、後ろの泊高校の場所に滞在した。
墓地内には中国人の墓も残る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼は公設市場の二階で、「味噌汁定食」。量が凄い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公設市場。魚、豚…。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国際通り、平和通り、むつみばし通りを散策。日本語、中国語、韓国語、沖縄語が氾濫。
やちむん通りまでも足を伸ばした。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
那覇空港。最後の食事「ゆし豆腐」。20時10分発のJAL便で帰宅。

Posted by hajimet at 20:10 | Comments (0)


沖縄旅行 2日目 20150225

2日目。
那覇バスターミナルから路線バスで斎場御嶽(セーファーウタギ)へ。
香炉が置かれているが、沖縄では香炉に特別な意味があることが、後から分かった。
ますは、大庫理と寄満。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三庫理。遠くに久高島が見えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
タクシーで見学をしながら奥武島(おうじま)に向かう。まずは知念グスク

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで浜川御嶽(ハマガーウタギ)。
ニライカナイからヤハラヅカサに上陸した神が、留まった所。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤハラヅカサ。碑は満潮で水没中。遠くに久高島が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼食。モズクづくし。目の前は奥武島。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奥武島に渡る。バスは2時間ない。しかもあると言われた那覇直行は朝だけであった。
仕方ないので、島を散策。まずは竜神宮。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やはり建物の意匠が違う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
観音堂。中国人遭難者救助のお礼に中国から贈られた観音像を祀っているが、
神道、仏教、沖縄の宗教が見事に習合していた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あとはひたすらバスを待つ。目の前は沖縄本島。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
那覇では対馬丸記念館に行く。途中天尊廟を通過する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで波上宮へ。ニナイカライとアマテラスが習合。
神社の参拝をしている脇で、沖縄式に祭祀している様子が見られた。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海岸に降りて、波上宮を見る。あきらかにウタギだったことが分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浜では、テレビか映画の撮影のための練習。空はヘリコプターが低空で旋回。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小桜の碑。すぐ手前には、「台湾遭害者供養塔」。台湾出兵の原因となった事件の碑である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜、友人と一献。島らっきょう塩漬け、豚足、ナーベラチャンプル、パパイヤのチャンプル。
イカスミソーメンのチャンプル。ミミガーなど。前の机ではモアイの集いをやっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 19:04 | Comments (0)


沖縄紀行 20150224

沖縄紀行。初沖縄。琉球王朝をテーマに出かけた。
朝鮮王朝、琉球王朝は、ともに明の冊封国であるため、
中国との関係で類似点があるはずで、同時に相違点もあるはずである。
その点を確認したかった。
7時55分発JAL903便で出発。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10時50分、那覇到着。モノレールでホテルに向かう。さっそくソーキソバを食べた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
県立博物館に寄った後、首里城へ。中国式と日本式が混在しているが、
城の構成は、沖縄のグスクの影響が強いようで、建物の配置が
必ずしも中国式ではない。正殿も外から見ると中国風と日本風の混合であるが、
内部は2階建てで、これも中国式の作り方とは異なる。
王城を象徴するため、あちらこちらに竜がいるが、王の格である4爪である。
一方で、これも王の格である鳳凰は目にしなかったし、踏石もなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城内はあちらこちらにウタギがあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
守礼門は中国式の牌楼の作り方。
李朝の王宮の門は牌楼形式を採用しているが、楼閣も兼ねている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて玉陵。埋葬形式は中国の太廟とも、韓国の宗廟とも異なる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石畳を歩いた後、竜譚、大蔵経が保管されていた円鑑池・弁財天堂を眺める。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
円覚寺跡を見て、那覇に戻る。途中の建物の意匠が、本土とかなり異なっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は、美栄橋近くで食事。刺身三点盛(マグロ、ダルマシルイユ、セーイカ)、もずくの天ぷら、
島らっきょうの天ぷら、海ぶどう、スクガラスで。

 
 

Posted by hajimet at 15:31 | Comments (0)


2014年12月1日
赤山禅院 20141230

研究会の大会のため大阪へ行った帰り、京都で下車。赤山禅院に行く。
大阪では京都線が事故で止まり、振り替え輸送を利用して、
地下鉄で新大阪まで行き、新幹線で京都に向かう。
 
紅葉シーズンでコインロッカーが中々見つからず、やっとのことで一つ確保。
京都駅から地下鉄で国際会議場駅まで行き、5番バスで修学院離宮道入り口へ。
ここから15分ほど歩く。場所は比叡山の麓に当たる。
 
赤山禅院は、円仁慈覚大師の遺言によって作られた。
円仁は入唐求法の旅に出たとき、書類の不備で入国を認められなかった。
そのとき、山東半島先端の石島、赤山法華院を拠点にしていた新羅人商人に助けられた。
 
日本人が入唐するとき、新羅人通訳を連れて行くが、
それは、彼らが山東半島を拠点にして唐側と交渉をしていたからである。
 
円仁は帰国するときにも、ここで新羅商人に助けられた。
そのために、赤山の明神を勧請して祀ることを遺言したのである。
法華院は9月に見ているので、こちらとしても、その神の終着点を見る事になる。
 
赤山禅院は元々赤山明神と言われていた。入り口に明神の鳥居が立ち、
山門には赤山禅院と書かれている。
(禅院なのに)祭神は赤山明神から泰山府君に変わっている。
本殿と拝殿があるが、神社形式ではなく、前後一直線の軸に二塔が独立して建っている。
 
その拝殿には正面に鏡が置かれている。
また、脇の御滝殿では唱えるべき真言が書かれている。
そして、境内の隅には羅漢像が置かれ、石仏には般若心経を書いた前掛けがかけられている。
神仏習合が非常に進んだ場所と言える。
 
「日本の神様も、仏様も、中国の神様も、みな同じ神様ですよ。」と言われたことが印象的だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
暗くなってきたので、赤山禅院だけで京都に戻ることにして、
5番バスに乗った。国際会議場ではなく京都駅に向かう。
 
しかし、バスは満員になり、道は大渋滞。
45分の予定のはずが、1時間たっても東山三条。
 
東山三条で係員が乗ってきて、地下鉄に振り替えするから、
京都駅に行く人はそちらを使うように指示が出た。まだ40分以上かかるそうである。
結局、大阪から京都に向かうときも、
バスで京都駅に向かうときも振り替え輸送を使うという、
珍しい体験をした一日となった。

Posted by hajimet at 21:56 | Comments (0)


2014年9月26日
山東半島歴史紀行+北京紀行(3) 20140922

朝から気になっていたことがあった。台風だ。
最初は沖縄から太平洋に抜ける予想だったものが、
中国沿岸を北上するコースに変わっていた。
 
飛行機は上海経由のMU便を予約している。
 
一時期スピードが落ちていたので、うまく回避できると思っていたが、
この日の予想では夕方に上海の南300キロくらいのところまで迫っている。
中国の気象台も、14m近い風を予測している。
上海までは飛ぶだろうが、そのあとははっきりしない。
(便の番号は同じなのだが、機材は別のものになる)
 
もしも上海で足止めになれば、台風のスピードの関係で、2日間は足止めになる。
そこで、JALに電話をして急遽夕方の北京-羽田直行便を押さえる。
ダメ元でマイレージの変更の可能性もしらべてもらった。台風の特例で変更は可だが、
座席がない。仕方なくノーマル運賃で帰ることとする。1万1千元。
円が弱くなっていて、かなりの高額である。
 
10時半頃、空港に向かう。途中の道は渋滞していたが、1時間、約150元で到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チケットを買う手続きとチェックインをビジネスカウンターでやらせた貰ったので、
ラウンジ券が貰えた。手続きしてくれた係員が直接使えると言ってきた。
4時間ほどのんびりして出発。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北京空港の発着の間隔は、日本よりかなり長くとっているようで、
着陸機の間隔が5分近くある。
20分以上待って離陸。機長が「官制の事情なので…」と放送を入れるくらいだった。
機材は777-200。座席間隔はビジネスクラス並みに広い。
機内食は、MUのビジネスクラスより可成りよい。味噌汁も貰える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最初にチケットを予約するとき、この便も計画に入っていた。
ただ、JALからの提案で上海経由にした(マイルが少なくて済むから)。
結果的には、最初の計画でマイルを使った方が良かったことになった。
 
などと考えながら、2時間50分のフライトで羽田着。
東京の空気が美味しく感じた。
 

Posted by hajimet at 21:17 | Comments (0)


山東半島歴史紀行+北京紀行(2) 20140921

この日は友人の都合が悪くなったため、一人で観光。
「我想去〜」「多少銭」「我要〜」「厠所在那哩」だけ覚えて、あとは英語、筆談。
まず、雍和宮へ行く。途中明時代の北京城の城壁が残っていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雍和宮は満州族の信仰したチベット仏教寺院。
康煕帝の時代には親王であった雍正帝の邸宅があった。その後乾隆帝時代に寺院となる。
 
雍和門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

雍和宮殿。扁額は中国語、モンゴル語、チベット語、満州語で書かれる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

法輪殿。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

永佑殿

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

続けて地壇。雍和宮から徒歩で10分の公園。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

タクシーで白塔寺へ。元時代の塔が残っているが、残念ながら工事中で閉館していた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さらにタクシーで天寧寺へ。北魏様式の塔が残っている。
手前で降りたので、住宅街を5分ほど歩く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

寺の風景。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて白院観へ。道教寺院。住宅街を歩いて15分ほど。緑豆粥で腹ごしらえ(味がなかった)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
門前

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

入り口

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北極星、北斗七星を祀る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

いろいろ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
瓦の模様は、韓国の王宮にもよく見られる(王宮に道教の影響が入っているのだろう)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

引き続きタクシーで天壇へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
圜丘

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

皇穹宇。そして、回音壁

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祈年殿

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

踏石も三段に分かれる。どれも日月五岳図が彫られるが、
図の上は、下から順に雲、鳳凰、龍となっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

斎宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天壇西門そばの工事現場の標語。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夕食はホテルで。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

Posted by hajimet at 20:25 | Comments (0)


山東歴史紀行+北京紀行(1) 20140920

9時に友人が迎えに来る。タクシーで中南海手前まで行き、あとは徒歩。
西長安街を中南海の前を歩いて天安門方面へ行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天安門手前まで行くが、人で大渋滞していた。荷物検査の列だった。
そこで引き返して、中山公園側から入る。ここは社稷壇があった場所だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

それから故宮の牛門に行く。南門である。ここも荷物検査で大渋滞。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

内金水橋、太和門を抜けて正殿の太和殿に行く。
踏道は朝鮮王宮では鳳凰か龍が円形に彫られる。しかし、ここのものは基礎から
建物の壇までの階段の真ん中に浮き彫りの模様として彫られる。
一番下部には、朝鮮王宮では王を象徴する日月五岳図が彫られているが、
その絵の上に龍が舞っていることが印象的だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中和殿

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
保和殿。ここまでは皇帝を象徴する龍で建物が飾られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この後ろから内廷となる。額に満州文字が書かれるようになる。
また、皇后の空間でもあるためか、交泰殿からは龍だけでなく鳳凰の彫り物も登場する。
なお、朝鮮王宮と異なり、内廷に入っても柱の形は変わらない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北門である神武門を出る。道を渡ると、後苑にあたる景山。43mの人工の山。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頂上からは故宮が一望できる。
また、麓には李自成に追われて自殺した崇禎帝が自害した場所がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

公園を出て15分ほど。地安門大街で食事。饅頭を買い、麺を食べる。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

前海

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

北海

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

 

 
 
 
 
 

再び午門を通って、労働人民文化宮へ。ここには宗廟がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天安門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

王府井。新華書店で本を購入。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

天壇西門前の北京料理店で夕食。北京味道(4点盛り)、老北京炸灌腸、麻豆腐、
杏仁茶など。北京料理では有名な店だそうだ。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

徒歩でホテルまで。途中は街灯が殆どない。途中の標語には、また「雷峰」が登場していた。
夜はホテルで白酒を少しだけ。

Posted by hajimet at 14:45 | Comments (0)


2014年9月25日
山東半島歴史紀行+北京紀行 20140919

最終日。6時半起床。
バイキングのカウンダーで中国式のソバを茹でて出している。
そばに生野菜もあったが、器に入れて茹でてもらっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8時半出発。ひたすら青島に向かう。約4時間。
途中で登州で休憩。円仁が唐に入る許可証を出してもらった所だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石島の空気は綺麗だったが、
あるところからカーテンが見えてきて靄に突入したのは印象的だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中国の送電塔の建て方は日本と違っていて、面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青島近くで、新羅商人や遣唐使が目印にした嶗山を眺めて青島着。
昼食は飲茶だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青島空港で一行と別れて北京へ。予定では18時発19時10分着。
パンが2つ出る。
ところが、渤海湾で延々と旋回していて着陸の気配がない。
機材が古く、垂直尾翼が動くたびにキーキー音を立てる。
そのうち飛行機が大きく旋回した。機長が「天候不良だから青島に戻る」と宣言。
乗務員が乗客に事情を伝えて歩く。
 
20時20分に青島空港着陸。一度待合所に戻された後、再離陸。21時20分頃。
また旋回を繰り返した後、北京へ向かった。着陸は22時40分。
ところが今度はタラップとバスが来ない。やっと降機したのは23時近かった。
 
ここで友人と再会し、車で北京の新北緯飯店に向かう。チェックインは24時30分だった。
結局ビール2缶とポテトチップスをつまんでお終い。

Posted by hajimet at 21:22 | Comments (0)


山東半島歴史紀行 4日目 20140918

朝6時半起床。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8時半頃出発。威海へ向かう。1時間ほど。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日清戦争の時の威海衛の戦いで知られる所で、沖の劉公島には北洋艦隊提督署があった。
威海港から船で15分ほどの距離である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北洋艦隊提督署に行く。ここは甲午戦争(日清戦争)博物館の一角になっていて、
当時の様子が復元されている。丁汝昌の蝋人形なども置かれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

続いて甲午戦争博物館へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

再び本土に戻る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
威海で食事。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食後石島へ。約1時間の距離。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石島の赤山法華禅寺に到着。張宝皐が拠点とした新羅坊があった所で、
円仁が入唐したとき、ここに滞在した。山肌は赤い花崗岩である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

法華院(元の土台の上に再建:845年の「会昌の廃仏」で廃寺となった)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤山禅寺(円仁入唐求法記念館)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
張宝皐伝記館と山門前の1シーン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日は石島泊。海のそば。翌日結婚式が行われるそうで、それ用の皿で夕食。
メインは麺

 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 20:30 | Comments (0)


山東半島歴史紀行 3日目 20140917

3日目。6時起床。6時半から朝食。今日は山東半島の付け根から先端へ移る日だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時20分には蓬莱に向かって出発した。420q、6時間の距離。
済南は泉の多い地域で、道路沿いにも池、公園、緑地が点在している。
だが、天気は残念ながら、本降りだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山東半島自体は、雨の少ない地域で、この雨もほぼ半年ぶりとのことだった。
車はひたすら東へと走る。最初のうちは大平原だが、半島先端に近づくと、
花崗岩の山が現れてくる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中、鄒平と平度の休憩所でトイレ休憩。それぞれ売店を覗いたが、
鄒平では大根が果物扱いになっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天気は蓬莱に近づくにつれて良くなる。トウモロコシ以外に落花生などがみられるように
なる。また、葡萄畑もも目にする。蓬莱近くの烟台はワインの産地だ。
 
蓬莱に入る。まずは海岸沿いの店で食事。ここは再び膠東料理の地域になる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食堂の前から、蓬莱閣が見える。明の時代の倭寇防衛の拠点だった所だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蓬莱閣に入る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まずは弥陀寺。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて道教寺院。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蓬莱閣。目の前には遼東半島への架け橋、廟島諸島が広がる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蓬莱閣の近くからは、蓬莱水城が見える。倭寇対策の基地である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルは烟台郊外。途中で海産物の土産物屋に寄った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時頃、ホテル着。麻婆豆腐が出た。ここのものは片栗でとろみを付けていなかった。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 19:32 | Comments (0)


2014年9月24日
山東歴史紀行 2日目 20140916 

旅行2日目。6時起床。6時半から朝食。バイキングだが、健康酒も置いてあった。
健康酒があったのは、ここだけだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時半出発。泊まったのは湽博市のなかの臨湽と言う所で、戦国時代の斉国の都。
当時の遺跡も残るし、国王が稷門の近くに荀子、墨子等を集め百家争鳴の舞台となった所。
(稷下の学と呼ばれ、よく知られる)。孟子もここで仕えていた。
 
途中の道は、相変わらず真っ黄色。そして、トラック満載のトウモロコシの「茎」も見られる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉国古城の城壁見学。土が積もった状態と、基壇から版築構造が見られる場所がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて殉馬坑。一部だけしか発掘されていないが、斉王に殉葬された馬が大量に出土した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9時半の開館を待って、斉国固城遺跡博物館へ。題字は江沢民。
斉の文化から、稷下の学まで広く紹介されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西の章丘に行く。80q。高速利用で約1時間半。
途中道路沿いに、点々と墓地が見える。中秋節の飾りが残っているものもあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
章丘は竜山文化の地。城市崖遺跡から黒陶が出てきた。
発見地は竜山博物館の脇。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼も章丘。皿、コップ2個、蓮花がワンセットでパッキングされていた。
鶏の足は初めて食べた。大根の酢漬けも美味しい。
スズキは妙に泥臭かった。
饅頭は穴があいていて、肉を入れて食べる。メインは水餃子。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
済南へ。3時頃到着。一般道を60q西へ行く。まず山東省博物館見学。
題字は郭沫若。とても大きな博物館であるが1時間で見る。
山東省の歴史をとても詳しく展示している。本物の黒陶土器や兵法の竹簡もあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20分ほどで千仏山へ。山全体が寺院となっていて、隋の時代の磨崖仏がある。
この地域の磨崖仏は、百済末期に泰安半島に入り、さらに新羅で発達した。
その技法が日本にも入ってきて、国東半島の磨崖仏に繋がる。その出発点である。
中国寺院は道教との集合の様子を見ているととても面白い。
磨崖仏までは500段近い階段を上っていく(上がりやすい階段だった)。
天気は予報が当たって、本降り。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は済南のホテルに宿泊。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今回の旅行は、NHKが見られず、短波ラジオが大活躍。

Posted by hajimet at 22:26 | Comments (0)


山東半島歴史紀行 1日目 20140915

日韓交流史フォーラムによる山東半島紀行初日。
飛行機の関係で、前日に中部国際空港そばのホテルに泊まる。
7時ロビー集合。9時発のMU744に乗る。
マイレージの関係でビジネスクラスだったが、乗客は1名でポツンと機内に座る。
機内食は「冷やし中華」。現地時間10時40分、着陸直前に小青島をちらりと見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青島空港に着陸。空気は…。霧の都だそうだ。アサリの大半はここから輸出とのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
空港そばのホテルで昼食。今回は移動距離も長いので、
なるべくホテルで食事と言うことにしたそうだ。
山東料理。その中でも、青島付近は膠東料理といわれ
海鮮中心、淡泊なうま味に重心を置いているとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
車で青州へ移動。済青高速道路で200q。3時間の移動。
山東半島中央の構造平野上を走るので、見渡す限りの平原だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2時間ほど走り、濰坊で休憩するが、ここは凧が有名とのこと。
また、中国では珍しく生野菜を食べる地域であるが、
大根は甜麺醤を付けるので果物扱いとのこと。確かに果物と並べて売られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
休憩所から30分ほど。昌楽を通過する。ネギなどの野菜の多くがここから日本に輸出される。
ビニルハウスの作り方に特徴がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
青州博物館に到着。龍興寺廃寺の境内で、6世紀北魏から11世紀北宋までの
石仏が土中から発見された。それを公開している。雨が降り始めた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今日の宿泊地、湽泊(臨湽)に向かう。青州は小学校の下校時だった。
「酒(飲酒運転禁止」の標識もあった(今回、青州以外では目にしなかった)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中の道ばたが黄色い。トウモロコシを乾していた。飼料用とのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1時間でホテル着。早速夕食。こちらは済南料理のグループ。
淡泊で新鮮なうま味、歯触りが特徴だそうだ。海のものは減った。茄子の揚げ物が美味しい。
北京ダッグではないが、同じような食べ方をするアヒルのゆで卵料理があった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 20:59 | Comments (0)


2014年7月29日
ソウル・九州旅行 7日目 20140726 姫島-国東半島-大分空港

最終日。大帯八幡神社参拝。末社が多く独特な形をしている。また、中門があったり、本殿を塀で囲むことなど仏教寺院の影響が見られる。神社は八幡作り。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
姫島は堆積層の基盤の上に溶岩が陥入して現在の形になった。ジオパークに指定されて様々なものが見られる。基盤岩の様子。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
比売語曽神社。大阪のヒメコソ神社との関係からして、敦賀-大阪-岡山-姫島と入ってきた可能性が考えられている。付近は砂鉄の産地であるため、鉄の加工が行われた可能性もある。社殿はもともと崖に付くように建っていたが、落石による破壊が続くため、わずかに南に移された。元社殿の裏には洞窟があり、中には白い石が祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社の隣に「拍子水」。炭酸水だが、鉄分を含んでいる。その隣には陥入した溶岩地層がある。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社の場所からは山口県が見える(写真は加工しています)。港からは国東半島が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
再び国東半島。国見ふるさと館と、隣のペトロ・カスイ岐部公園を見学。切支丹で殉教した人だが、この奥に隠れキリシタン関係のものが多く残っているようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天念寺。河沿いに細長く建っている「建物」で、本堂と講堂に挟まれた形で身濯(みそそぎ)神社がある。神仏分離前は六所権現といわれたそうだが、そのときの形を強く残している。川の中には川中不動がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここからは「無明橋」が見られる。修験道の時に通る橋である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
真木大堂に行く途中に元宮磨崖仏を見る。石仏の彫られる立地、作り方が新羅のものとよく似ている。ただし、これだけ多くの仏像が彫られるケースは新羅には見られない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
真木大堂。堂宇がきれいになっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺前の駐車場にはぬいぐるみが一杯。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熊野権現、磨崖仏に行く。途中の階段はとてもきつい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
往復で小一時間かかった。
最後の見学コース鍋屋磨崖仏。途中スズメバチ注意の表示が出ている階段を上がっていく。飛んでこないことを確認しながら進む。

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
約40分で空港到着。旅行終了。

Posted by hajimet at 14:14 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 6日目(2) 20140725 宇佐-豊後高田-姫島

昼食後、県立歴史博物館を見学。その後風土記の丘に行き、福勝寺古墳、免ヶ平古墳を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八幡神が最初に降りた所は辛国宇豆高島とされるが、その山と考えられる、三角形をした稲積山(宇佐富士)が遠くに見えている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで、弥勒寺建立前に法蓮がいたとされる虚空蔵寺跡。塔の基壇だけ残る。その近くには虚空蔵寺の瓦を焼いた窯址が、高速道路の下に保存されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊後高田に移動。青宇田(あうだ)の画像石を訪ねる。磨崖仏の多い国東半島でも異色の岩に先刻された石版で、浄土思想を絵巻風に描かれている。14世紀末の作品。現在保存されている建物の上にあった延命寺の岩にはめ込まれていたものが剥落したのではないかと考えられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて穴瀬横穴群。19穴あるが、装飾文様のあるものもある。石室入り口に赤い彩色が残っているものもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて富貴寺。大堂の阿弥陀世界を描いた彩色画が有名だが、周囲の石像物にも素晴らしいものが多い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊美港へ向かう。港手前に別宮八幡がある。別宮とは、石清水八幡の別宮と言うこと。寄ってみた。狛犬の頭が重そうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内に陰陽社がある。陰陽道に関係あるのかと思ったが、そうではない。日本三大珍宝と書かれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊美港から姫島に渡る。伊美港からは6キロ。20分の距離。これだけ近いが、文化的には対岸の山口の文化の影響の方が強いとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旅館での夕食。魚づくし。カメノテを初めて食べる。たこ飯は塩味がよく効いていた。鯛ソバは姫島でお祝いの時に食べる名物だとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 12:55 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 6日目(1) 20140725 宇佐神宮

まず、宇佐神宮の元宮、大元神社に行く。参拝用道路もあるが、ものすごい悪路。途中からは舗装もなくなる。補修が追いつかないとのことだ。
 
神社は御許山8合目にある。ここから9合目までは禁足地となっていて、頂上には大きな岩が3つあるとのこと。磐座であるが、ここに比売大神(多岐津姫、市杵島姫、田紀理姫)が降りてきたとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇佐神宮到着。725年に小山田社から小椋山に移る。ここには701年に秦氏が北辰神を祀っていたとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道をそれると菱形池。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その先に頓宮。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに進むと道を挟んで大尾山。一時大和に進出した八幡神が宇佐に戻ったときに鎮座した場所。和気清麻呂の道教事件の神託はここ。宇佐氏の祖先神も祀っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道に戻る。
手水舎の前に茅の輪が設けられていた。春宮を通り、まず下宮に行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上宮へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若宮を目にして山を下る。八坂神社の脇を通過。八坂神社は神宮寺の弥勒寺があった所。738年に移ってきた。初代の別当は、宇佐氏族で英彦山で修行をした法蓮である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弥勒寺跡を通り、呉橋に行く。呉橋は勅使門であるが、ここを通った所は弥勒寺の西大門である。灯籠が2基立っているが、一方は仏式、一方は神式で作られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駐車場に向かう道。様々なものが置かれていた。このあと昼飯。本当に暑い一日。

 

Posted by hajimet at 10:24 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 4日目(2) 20140724 英彦山-求菩提山-中津-宇佐

昼食後、まず高住神社に寄る。ここも豊前坊という僧坊の跡。天狗信仰のある神社で、本殿の後ろは切り立った崖である。本殿も崖の洞窟の中に築かれている。扁額は高住神社ではなく、「豊前坊」。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここも廃仏毀釈のときに酷い破壊を受けた。本殿を修築するときに、本殿の下から「豊前坊」と書かれた扁額が出ている。お宮の人から解説を受けながら、お土産に「御神酒」を頂いた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英彦山を離れ求菩提山(くぼて)に向かう。なかなかの悪路。40分ほどつづら折れ(一部新道)を進む。
 
求菩提山も釣り鐘状火山で、修験道の山。耶馬溪とほぼ同じ地質構造を持っている。ここは資料館が充実している。英彦山ほどは廃仏毀釈の勢いが強くなかったようで、様々なものが残っている。館内は撮影禁止。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて岩窟洞。求菩提山の修験者が窟修行をした跡。このような岩窟が多く分布するという。江戸時代の石塔、石仏(一体は北斗七星を祀る)が配置され、天井には飛天が舞う。洞窟は火山岩と、その下部の堆積岩層の境にあり、窟の壁の真ん中付近から水が湧き出している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中津、薦神社。三角池がご神体。秦氏ら渡来族集団が作った溜池とされるが、8世紀には磐井の乱で衰退していた宇佐氏が守る神社になっていた。宇佐神宮の元宮の一つともされ、八幡神が最初に姿を現した所である。宇佐神宮の御神験はこの池のマコモで作られた薦枕で、6年に一度更新されている。社殿のある場所は外宮、池が内宮と呼ばれる。
 
社殿脇には応神天皇3歳の時の足跡と言われる石が祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇佐に入り、小山田社。宇佐は磐井の乱に伴う宇佐氏衰退後、駅館川(やっかんがわ)を境に辛島氏と大神氏の勢力圏に別れるが、宇佐八幡関係はほぼ大神氏の勢力圏側に分布する。小山田社は宇佐八幡が最初に鎮座した鷹居社の次の場所で、この後現在の小倉山に移る。鳥居以外は何も残っていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鷹居社。駅館川ほとりにある。最初に宇佐八幡はここに鎮座したと言われる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬社(郡瀬〔ごうせ〕神社)。 駅館川の反対側、辛島氏側にある。近くには辛島という地名もある。宇佐宇津高島に下った八幡神は紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、乙梼ミ、 泉社、 当社瀬社、 鷹居社、 小山田社、現社地へと移ったとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社脇は駅館川。対岸は鷹居社である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテル到着。夕食。

 

Posted by hajimet at 09:08 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 5日目(1) 20140724 英彦山

午前中は英彦山。古代からの山岳信仰と新羅仏教が習合し、修験の山になっていったところ。開基伝承も韓国の壇君神話によく似ている。新羅仏教は道教文化とも強く習合しているので、道教も流れ込んでいる。修験道の要素に道教的なものが多く見られ、修験道=日本の道教と指摘する人がいるくらいである。また、修験道は日本の中では珍しく弥勒信仰が行われる場所でもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここで修行をした宇佐氏系の法蓮が宇佐八幡の成立に大きな役割を負っている。
 
英彦山は1792年霊元法皇から「英」の文字を賜ったもので、それ以前は彦山であった。元々は「ひこ=日子」である。頂上部は三峰からなるが、一峰と三峯が東西方向に並んでいて、一峰の社は東向きに建てられているそうだ。
 
その上津宮まで登れるのだが、時間的な事情と装備、季節的な状況から、奉幣殿まで登ることとする。アプト式鉄道のようなスロープカーもあるが、片道は歩くこととする。30分程かかる。鍋島勝茂が1637年に寄附した銅鳥居から出発。両脇には旅館の跡が並ぶ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳥居脇は霊泉寺。英彦山再興を願って大正時代に創建された寺。その隣は山伏たちが祈祷した下宮。英彦山は西日本最大の修験の山として知られ、神仏分離、修験道禁止が行われるまでは、石段ぞいに多くの坊(僧坊)が建っていた。その数は500から600坊会ったと言われる。その中で財蔵坊は往時のものを残しているところである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
浅草観音堂跡。仏教系のものは悉く破壊されている。神道系の坊跡には今でも建物が建っている所が多い。山伏系の坊は、仏教をとるか、神道をとるか選択させられたそうである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中間地点。ここからが大変。周囲には仏教的なものも残る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ともかく階段は大変。キャラバンシュースがあった方が良い。途中に招魂社があった。英彦山は豊前、豊後の討幕の志士であった長三洲の影響が強く、若手と長州が結びついていた。そのため、廃仏毀釈の動きは激烈だったとされる。ここまで来ればあと一歩。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奉幣殿到着。スロープカーはすぐ脇まで来ている。1616年、細川忠興が彦山霊仙寺の大講堂として再建したもの。鐘楼がある。奥には山伏が霊水とした天之水分神がある。ここから下津宮まで上る階段がある。大した段数ではない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下津宮。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中津宮へ行く階段。脇には役行者像が。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奉幣殿から少し下った所に修験道館がある。彦山南岳から見つかった新羅仏も展示されているはずだが「臨時休館」。というより、休館のこと多い様だ。予め連絡を取っておいたら開けてくれたのだろうか。修験道館のある場所も政所坊が合った場所である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スロープカーで下山。上仏来山を眺めながら下りていく。英彦山は釣鐘状火山であるが、その形状がよく分かる形をしている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中駅で乗り換えの間、修験道に関する展示を見る。高麗仏もあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
スロープカーを乗り換えて昼食。降りた途端、コミュニティーバスが来て、旅館まで行くことが出来た。

Posted by hajimet at 07:12 | Comments (0)


2014年7月28日
ソウル・九州紀行 4日目(2) 香春-英彦山

香春に入る。石灰岩のビュート地形。小倉-田川断層によって、同じ石灰岩地形の平尾台と切り離されてしまった。石灰岩の地域に花崗岩が陥入したことからスカルンと呼ばれる地質構造が出来、そこに銅をはじめとした、様々な鉱物が蓄積された。採銅をするために、技術を持った新羅系渡来人が多く住んだ地域で、3つ岳のある香春岳の一之岳は「新羅神」を祀ると書かれている。現在の神の名前は「辛国息長大姫大自命」。
 
確かに山の形は周囲と異なり異様な形をしている。一之岳が平坦なのは、昭和に入り石灰岩、大理石の採石を行った結果で、元々は外の岳と同じような形をしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まずは腹ごしらえ。筑豊ラーメン。これまで博多ラーメン、久留米ラーメンは食べたが、違いはよく分からない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まず、一番北側にある現人神社から。祭神はツヌガアラシト。アメノヒボコとも言う。倭に渡ったヒメコソを追って、倭にやって来たとされる。地元では疱瘡の神として信仰されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿、本殿に比べて石段がとても立派なことが印象的である。次に、古宮八幡神社に行くが、その前に、採銅所駅に寄る。ここの銅は皇朝十二銭や奈良の大仏の鋳造に使われたとされ、その銅を管理するために、奈良〜平安時代にここに採銅所という役場が置かれていたことを示す駅名である。同時に駅舎がとても古い。小倉鉄道(日田彦山線の前身)開通以来の唯一の駅舎とのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
採銅所駅そばの古宮(こみや)八幡宮。三の岳中腹の阿曽隈に祀られていた豊比刀iトヨヒメ)命をここに移した。1561年までは阿曽隈直下の元宮と言われる所に祀られていたが、1561年大友氏の兵火で消失し、そこからかなり離れた採銅所に1599年遷宮した。神社からは三の岳が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古宮という名前は、709年に古宮とは別に香春三神を祀る神社(香春神社)が新たに出来たことによる。神社下には銅をすりつぶす臼の破片がある。これを元にした記念碑が本殿裏に置かれている。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて清祀殿。ここで採った銅から、宇佐八幡宮の放生会に奉納する神鏡を鋳造した場所。鋳造した鏡は清祀殿後ろの花崗岩に安置された。近くからは金屑が大量に出土している。そばには、その銅を採掘したとされる神間歩が残る。この地域の石灰石は赤く変色していて、中に遺物が混入していることが分かる。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに古宮神社、香原神社の元社といわれる三の岳の阿曽隈社に行く。セメント工場の管理地になっていて立入禁止となっているが、神社までは入れることになっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
坂道を10分行けば到着ということになっている。しかし、すごい草藪である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついには背丈ほどになった。蛇やヒルも怖い。戻るかどうか悩んだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
引き返すかどうか迷った所。若干の轍はある。そんなとき、同行者が意を決して先に進んだ。この先木立が深くなり、草がなくなった。さらに進むと神社の入り口の表示が見え、神社に到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
降りるのは大して苦ではない。
ただ、ズボンは蜘蛛の巣だらけ。靴下は草の実だらけになっていた。
 
続いて神宮院。最澄が帰唐後、旅の安全を感謝してここに天台宗の寺を創建した。寺には最澄に関連するとされる遺跡がある。ちなみに最澄は官僧、空海は私渡僧。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから鏡山神社に行き、仲哀峠を越える官道を見る。この道があるから、最澄も円仁も遣唐使で塔に渡る前に、香春で道中の安全を祈祷することが出来たと言える。なお、このそばを流れる川の名前は呉川という。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
香春神社に行く。709年に香春三岳の神をまとめたもの。一の岳麓である。辛島息長大姫大自命、忍骨命、豊比売命を祀る。最澄、円仁は渡唐の安全を祈るために、この神社に参拝していた。本殿は文化年間のもの。石垣も英彦山修験者によって文化年間に築かれた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内後ろには山王権現が、前には昭和10年代に一之岳から落ちてきた磐が祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに脇にも間歩がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社を後にして、大岩弘法院磨崖仏を見る。江戸時代のものだが、英彦山などの修験道に関係するものと考える。直下の洞窟とペアーで、胎蔵界と虚空蔵界を表すともされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、新羅瓦が出てきた天台寺跡による。ここも最澄が建立した寺院の一つとされて、礎石が残っていたが、戦前にグライダー場となったため、地上部に遺物は何も残っていない。さらに鶴ヶ丘八幡(鎌倉から勧請)を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
香春駅。17時03分発の日田行きで英彦山駅まで乗る(4分遅れで到着)。車内に下校途中の高校生が乗っている。学校ごとにかたまっていて、お互いに挨拶はしても混じり合わないのが面白い。話している言葉は半分も分からない…。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英彦山ホテル着。夕食、そして日没。

 
 

Posted by hajimet at 21:04 | Comments (0)


ソウル・九州旅行 4日目(1) 20140723 博多-飯塚

旅行4日目。職場の先輩と合流して新羅神の道をたどる旅を始める。
豊後、豊前は渡来人の多かった所で、新羅系渡来人の信仰のあとが強く残っている。新羅仏の流れは英彦山に入り、修験道へと発展する一方で、新羅神信仰は修験道の影響を受けて、宇佐八幡に帰結する。さらに、その宇佐信仰が国東半島に入り六郷満山と呼ばれる独自の仏教・修験文化を創り出す。その流れを神社を中心に見ていこうというのである。
 
朝9時福岡空港を出発。飯塚に向かう。石炭王伝兵衛も有名だが、今回はテーマと違うのでパス。まっすぐ大分(だいぶ)八幡宮に向かう。筥ア宮の前身となった神社とされ、祭神は八幡神、神功皇后、玉依姫命である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山門風の門裏には神像が並んでいる。犬(獅子か?)もいるが、しっかり雄と雌。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿裏は山になっていて、そこに大神宮が祀られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山門風の門の脇には市杵島神社がある。宗像三神のことであるが、ここの神社はそれを示すかのように、池の中に置かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、応神天皇産湯の井戸とされるものもある。石像物も多い。中には石塔もあった。九州では普通目にする石塔と違う形式のものを多く目にする。新羅式の作り方の石塔である。この形は地震に弱いため、外の地域では作られないか、消失するのだが、九州では比較的長い期間、この形式でも塔が作られたようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて大分廃寺跡。塔の後だけ残る。8世紀初めの創建。夕方見る予定の天台寺跡と同じ新羅系の瓦が発見されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて桂川(けいせん)の大塚古墳を見た後、嘉麻の山野の石像群を見学に。若八幡神社の向かいの山で、様々な神社が置かれている。おそらく若八幡の摂社であろう。石像群は祇園社の後ろにある。元々は露天だったそうだが、現在は覆い屋の中に保存されている。記録では1271年に寄進された五百羅漢で、宇佐八幡宮と繋がりの強い地だったうえ
に、豊前の五百羅漢に準えたものではないかとされている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これらを見学した後、今日のメイン、香春に向かって出発。

Posted by hajimet at 20:29 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 3日目 20140722 ソウル・福岡

3日目朝。韓国人の教え子と会い、明洞まで散策。その後、南大門市場、ロッテ百貨店にお土産を買いに行く。明洞を通ってホテルに戻る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やはり蒸し暑い。昼は「松竹」という店で「アワビの内蔵入り粥」。20年ぶりに訪問。美味しいけど、もうすこしコクが欲しいかな?。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルで知人と会い、打ち合わせ。別れ際、「道が混んでいるから地下鉄で空港行け」と言われたが、バスを選択した。それからがスリリング。乙支路の旧ロータリーに近づくにつれて、まったくバスが動かなくなった。牛歩の歩みで進み、ロータリーで左折しようとしたら、警官に左折できないと言われてしまった。
 
運転手が無線で指令所に問い合わせるが、指令所の答えが要領を得ない。大々的な消防の訓練で交通規制をしていたのだが、バス会社との間で調整が出来ていないようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ロータリーを過ぎて何とか左折したら、今度は交通止め。反対車線は完全封鎖で、その中をパレード隊が悠然と通り過ぎていく。途中から反対車線一車線の規制を解いたが、結局車が溢れて中々進めない。そんな状態が南大門旧ロータリーまで続いた。30分以上かけてここを抜け出すと、今度は自分たちのバス以外まったく車がいない状態。バスが恐ろしいほどの速度で飛ばし始めた。結局、予定より20分遅れで仁川空港到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福岡行きはKALとのコードシェア便であるため、KALで手続きをする。しかし、一つ一つの手続きを大変丁寧に行うので、なかなか列が進まない。機内預かりも1つに制限されていたため、どこのカウンターも荷物を詰め替えたりで、一層時間がかかった。出国審査も団体とぶつかり大混雑(慣れていない人が多いもので)。搭乗口についたのは、搭乗開始時間10分前だった。
 
飛行機は時間通りに扉が閉まった。今度は滑走路が混雑して中々進まない。予定より20分近く遅れて飛び立つ。機内食を食べている家に釜山近くまで飛ぶ。一枚物の分厚いサンドウィッチのようなものだが、以外と食べにくい。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
対馬を飛び、壱岐上空で二回半旋回。これで福岡空港着陸は一層遅れた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテル到着後、すぐに博多駅へ行く。友人で演劇をしているF君と待ち合わせ。F君の知り合いのやっている「シラスクジラ」で一献。鯖の刺身のごま和え(コバザバ)、鯨の盛り合わせ、タコ、馬刺しなど。店長お手製の唐墨も。唐墨にタクアンが添えられていた。これと一緒に食べると、燻したような香ばしい沢庵に変身していた。

Posted by hajimet at 14:57 | Comments (0)


ソウル・九州旅行 2日目 20140721 ソウル

朝、F氏と合流。昼近くまで市内をぶらつく。
まず、ホテルから東大門(興仁之門)へ歩いて行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くは、朝鮮族の関係の店も多く、串(ヒツジ)と書かれた店が目に入る。露店も多く出ているが、やはりトマトは果物扱いである。鯛焼きの屋台には「カマボコ味」というものがあった???。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東大門から東廟まで。今回の旅行のメイン。関帝を祀る廟である。1592年の文禄慶長の役のとき、朝鮮王を冊封していた明は、朝鮮を助けて援軍を出した。この戦争は日本の敗退で終わるが、その勝利は明が援軍を出したためだとして、明は中国の戦いの神である関帝(関羽)の廟をつくって祀るように言ってきた。そこで作った廟である。関羽は漢民族が信仰する道教の神であるから、さすがに韓民族が信仰する訳にいかない。そこで、都城内に廟を作ることはせず、城の入り口の直ぐそばに作ることにした。道教関係の廟としては、漢民族以外の民族が祀る珍しい例となった。
 
なお、道教文化の影響を受けた先農壇や先蚕壇のようなものは数多くある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて東大門の脇から城壁づたいに駱山を登る。一寸した高みに上がっていくだけだが、韓国では「登山」という。気温のわりに湿度が高く蒸し暑い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山を下りて、李承晩邸の脇を降りて、大学路に。変わったものがあった。多分貝だろう???

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旧ソウル大学本館前のマロニエ公園そばで一休み。ここにソウル大学があったことを示す祈念碑があるが、1946年開学は書かれているが、それ以前の旧京城帝大については一言も触れられていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恵和洞でバスに乗る。ラーメン店や居酒屋など日本語で書かれた店が多い。街路樹は松なのだが、何となく旧街道を歩いているような不思議な雰囲気だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼は韓定食。外数人と合流して。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、町をぶらつきながら、本屋、JALの事務所により明洞を歩いてホテルに戻った。大分中国語が増えた事が分かる。看板なども、韓国語、中国語、日本語の順で書かれているものが多い。町中も日本語よりも中国語が氾濫している。
 
そういえば、昨日昼を食べたロッテ百貨店のメニューも、まるで「中華料理」のメニューを見ているような感じになるほど漢字だらけであった(その漢字をみてもどんな料理か見当がつかない)
 
韓国に二回目に行ったときに泊まった豊田ホテルの前を通ってホテルに帰る(すぐ裏)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は知人と会って、チュオタン。

 
 

Posted by hajimet at 14:28 | Comments (0)


ソウル・九州紀行 第1日目 20140720 ソウル

朝8時30分のJAL便でソウルへ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
機内食。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中学校の同級生が同じ便に乗っていたことに、金浦空港で気づく。ホテルは普段の所が改修工事中で宿泊できないので、そのホテルの紹介で乙支路4街の国都ホテル。到着後、早速ロッテ百貨店まで知人に会いに行き、プルコギを食べる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午後は国立中央博物館へ行く。直前まで行っていた企画展(韓国の道教)の資料を買う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今回の企画展は「オルセー美術館展」。当然見てきた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜はコプチャンクイ。
ここの店のものはネギキムチを混ぜて焼くとのこと。食べ終わってからそれに気がつく。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二次会。近くの隠れ家的な店で、貝のスープで。

Posted by hajimet at 14:04 | Comments (0)


2014年7月18日
厳正寺 水止舞 20140714

京浜急行の大森海岸の近くに厳正寺がある。縁起では1272年海岸寺として創建。二世法密が密教に通じていた。15世紀初頭に浄土真宗となった。ここの水止舞を見た。毎年7月14日に行われるものである。
 
二世法密が関東が旱魃に見舞われたときに、藁で竜像を造り雨乞いの祈祷をしたところ、雨が降ってきた。ところが、その2年後、今度は大雨、長雨に見舞われた。法密は獅子の仮面を3つ作り水止(しし)と命名して、舞を舞わせ祈祷をしたたところ雨が止んだという起源を持つ。
 
もともと多摩川に近い低地で洪水の多い所で、雨止の祈祷が行われていた土地のようだ。
 
祭りは「道行(みちゆき)」から始まるが、実際に見られたのは水止舞の二つ目の舞からである。
道行は藁で編んだ縄=竜神の中に二人の男が入り、水をかけられながらホラ貝を吹くというもの。竜を懲らしめるためとも、竜神を元気づける水(雨)とも言う。
http://www.mizudome.com/abstract/michiyuki
 
寺に着いた竜神は舞台に上げられ、体を解かれてしまう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、「雌獅子の舞(女水止舞)」
初めての出会いが表現された「出羽の舞(大水止、若水止の舞)」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三匹が舞う「大若女・水止舞(トーヒャロ)」と続く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここで舞手は交替。「コホホーンの舞」に入る。ご詠歌様の歌に合わせて舞う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雌獅子を奪い合う「雌獅子隠しの舞」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後の舞

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道行と舞の二部に分けられるが、道行の水かけは、
日本の「神」信仰の形をよく表している行事だと思った。
 
「たたり」信仰が基本なのだが、「竜神」に雨を降らせるように頼んだが、
雨を降らせすぎて洪水などを引き起こしてしまった(たたり)。
 
そのため、竜神に水をかけ(水をあげると言うことでも、懲らしめでもよい)、
体をほぐして懲らしめた。だから竜神は舞台に引き上げられる直前激しく抵抗する
(たたると神はこういう目に遭うと、神に知らせる)。
 
その上で雨を降らせすぎないように舞い、
寺が密教の時代は加持祈祷を行った(たたらないで)。その辺が実に綺麗に描かれている。
 
(内容の説明は「厳正寺水止舞公式ホームページhttp://www.mizudome.com」を
参考にしました。

Posted by hajimet at 15:52 | Comments (0)


2014年6月16日
梅雨の中休み 20140615

千束流れにて。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 20:03 | Comments (0)


2014年5月27日
伊勢紀行 20140524(3) 帰路

続けて参道を歩く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道から月讀宮に向かって歩く。15分ほど。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
月讀宮直前に「上田神社」があった。祭神は素戔嗚尊、大山祇神、菅原道真。
ここも神殿を遷したところであった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つづいて、月讀宮に行く。4つの宮が並んでいて、向かって右から月讀荒御霊魂宮、月讀宮、
伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮と並ぶ。月讀宮、荒御霊、伊佐奈岐、伊佐奈弥の順で参拝する。
境内に別の小社がいくつかあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五十鈴川駅でタクシーに乗る。そのまま伊勢市駅へ行くつもりだったが、運転手の勧めで、
倭姫宮と月夜見宮も見ることとする。倭姫宮は下り坂の参道を降りていく。最後の部分で
階段を上り、参拝となる。内宮の宮で、鰹木は偶数、千木は水平方向尾に切られる。
なお、外宮の宮の鰹木は偶数、千木は先端が垂直に切られる。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして月夜見宮。こちらは外宮系。脇に稲荷があるが、落雷で燃えた木のうろに祀られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇治山田駅に出る。近鉄特急で名古屋まで。

 

Posted by hajimet at 13:54 | Comments (0)


伊勢紀行 20140524(2) 内宮他

外宮からバスで内宮に向かう。約15分。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五十鈴川にかかる宇治橋を渡り内宮に入る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第一鳥居まで、広々としたところを歩いて行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第1鳥居をくぐると、五十鈴川御手洗場。そして、その脇に滝祭神がある。囲いの中を覗くと、
三角形の石が一個置かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五十鈴川沿いに上流に向かい、風日折宮橋を渡り、風日折宮に行く。名前の通り、
橋から進むと、折り返すように神社に着く。川に背を向けた方向に神社はある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いよいよ正宮。正宮の石組み隅には籾だね石がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正宮裏手、坂を下りていくと、天照大神の荒御霊を祀った荒祭宮になる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神苑に戻る。その脇にひっそりと子安神社と大山祇神社がある。
鳥居と子安神社の向きは直角である。他の宮と異なり、遷宮の対象になっていないようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道を散策しながら月讀宮に向かった。

 

Posted by hajimet at 13:33 | Comments (0)


2014年5月26日
伊勢紀行 20140524(1) 外宮

名古屋での用事に合わせて、伊勢と養老渓谷を巡った。
朝7時過ぎの新幹線で名古屋へ。みえ3号に乗り換えて伊勢市駅に向かう。
周囲は田植えの風景と麦秋が見られる。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11時6分、伊勢市駅着。外宮への参道を歩く。遷宮と遷宮官が出来たことに合わせて、
2013年に整備されたとのこと。案内図もある。外宮の周りにもいくつも神社があることが分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
外宮到着。5分ほど。高倉山を背後に抱く神社である。
伊勢の在地集団の神を祀ったのが始まりとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
表参道から入る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御正宮前には池があり、その前に川原祓所がある。
もともと宮川の支流がここを流れていて、ここで禊ぎをしていたと伝えられる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正宮参拝。まだ、古殿が残されていた。鳥居の後ろについたてが立っていることが不思議。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
別宮に行く。風宮、荒魂を祀る多賀宮、土宮の順で回る。
多賀宮は小山を登ったところにあった。
土宮の近くには下御井神社もある。こちらは説明も何もないが、
山手から川が流れ込むところにある。水に関する神社か?
 
これらの宮も遷宮したり、遷宮する工事をしている。
2014年に正宮が遷宮し、別宮は翌年とのことである。
遷宮した跡は神柱を守る小社が建てられる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1時間ほど掛けて参拝修了。暑い。参道で伊勢うどんの入った巾着を食べる。
醤油出汁とサンショウが利いている。うどんはモチッとした食感。

 

Posted by hajimet at 21:19 | Comments (0)


2014年5月25日
養老渓谷20140525

9時45分名古屋発大垣行きに乗り、大垣へ。そこから養老鉄道で養老へ向かう。
養老山地は傾動地塊で、断層線と複合扇状地、濃尾平野が接近しているため、
土地利用などの特色がコンパクトにまとまっていて、、地理ではよく取り上げられる。
 
発車後、すぐに養老山地が迫ってくる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
杭瀬川を渡る。杭瀬川は元の揖斐川本流。後背地が広いことで知られる。
ここで牧田川と合流するが、下流までかなりの距離平行に二条で流れていく。
授業では急流の牧田川が揖斐川にほぼ直角で合流するため、牧田川側が滞水する。
それを避けるために二条にすると教えたが、今回見た限り、川の状態が違いすぎる。
 
牧田川は上流からの土砂で伏流水状態になっているのに対して、
杭瀬川はつねに水がある。これでは杭瀬川が埋まってしまい、
かえって洪水の危険性が高まる。水の流れと、河床の問題だけではなかった。

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 養老駅到着。10時50分頃。駅は滝谷を超えるためか勾配を登っていく。
扇端部よりむしろ扇央先端に近い。駅前は集落が形成されているが、
駅から低い方向を見るとそのことはよく分かる。養老の滝だけに瓢箪が名物。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
養老の滝から流れ下る滝谷は、この辺では伏流水になっている。
上から流れる土砂が一気に下に流れないように、砂防ダムになっている。













 
 
 
川の左岸の道を、だらだらと坂を登る。勾配はほぼ一定。20分ほど。
扇頂部で集落が出てきた。わき水、神社、寺も確認。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
集落が切れたところで、養老公園に入る。入り口脇、滝谷が伏流水になる点が目に入る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園の駐車場が終わった所に、滝不動がある。ここに「孝者」の「墓」がある。
この辺からが勾配転向点。急に勾配がきつくなり、階段状になる。
滝まで600mだが、15分とある(本当にかかった)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
到着。























 
























 

 
 
 
































 
 
 
 
再び養老駅に向かって下る。勾配転換点まではかなり大きな岩が転がっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
勾配転換点で急に小石が登場。切り通しにも同じような大きさの石が
積もっている様子が見える。今度は右岸降りる。下に行くほど、石が小さくなることが印象的。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
扇央部は公園になったり、果樹畑になったり。果樹畑は柿が多かった。あとは栗。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
養老駅到着。ちょうど12時11分発大垣行きが止まっていた。
列車まで時間があれば、天井川をトンネルでくぐるところや、
扇端部の神社の祭神を調べたかったが、次回に残す。
果樹畑、扇端部分の集落を見ると、もう濃尾平野。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
集落も輪中集落に。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
遠くに養老山地と複合扇状地の様子を眺めながら。

Posted by hajimet at 21:46 | Comments (0)


2014年5月17日
皇居乾通通り抜け 20140407

皇居の通り抜けに行って来た。
10時半頃二重橋前駅に着く。馬場先門側の出口から地上に出る。もう凄い人数。
内堀通りの信号が3回変わらないと、渡らせてもらえない。渡るまでに15分近く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
凱旋濠から桜田門、二重橋前を通る。二重橋前は記念写真を撮る人もいて渋滞中の渋滞に。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
やっと坂下門前に着く。だが、門前の通りを一度内堀通りに戻り、Uターンして坂下門方面へ
身体検査と荷物検査を受けて、坂下門をくぐる。ここまででほぼ2時間。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜が迎える(蛤濠)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮内庁。脇に新宮殿も見える。休憩所、待ち合わせ場所はここしかない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾通りを抜ける。右は蓮濠池。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桜はきれい。樹下は大渋滞。傘は差さないで欲しい。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
下道灌濠

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾濠

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾門から出る。1時間の行程

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北桔梗門脇のモクレン。

Posted by hajimet at 13:39 | Comments (0)


関西旅行 20140324 (4日目、京都散策)

関西4日目。最終日。春の特別公開期間は終わっているが、
まだ特別公開をしているところを探して、散策。
四条堀川から堀川鞍馬口までバズで移動。南下して歩く。
まずは、後花園天皇火葬塚、水火天満宮を覗く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて第1の目的地、本法寺に行く。長谷川等伯の涅槃図が特別公開。
上にマヤ夫人が描かれず、左下にネコが描かれている。
江戸時代中期になるとマヤ夫人が描かれると共に、ネコが描かれなくなるという。
続けて、宝鏡寺に行き、人形展を見た。
ひな人形の変遷や、出家した皇族のための男の子の人形などが興味深い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから出町柳方向に歩く。まず、百々橋の礎石。応仁の乱の時、この橋を挟んで、
細川勝元、山名宗全が対峙したという。
続いて、妙見寺。頭塔には尾形光琳の墓があるが、非公開だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに相国寺。この日から始まった特別公開を見る。
法堂の天井図(竜。どこからみても目が合う)、法華経の経文で描かれた観音菩薩図、浴室が
見られる。寺の脇には、「薩摩藩戦死者墓」がある。これは甲子役(1864:禁門の変か?)、
戊辰役(1868)の戦死者を祀ったもののようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
出町柳で昼食。バスで錦林車庫前に行く(急にここで運転打ち切り、入庫になった)
真如堂まで歩く。三井の菩提寺。江戸時代中期の涅槃図を見る。マヤ夫人がいた。ネコもいた。
そして、涅槃の庭、随縁の庭を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
徒歩で金戒光明寺を抜けて、岡崎道から祇園までバス。
八坂神社を見る。素戔嗚尊はじめ、渡来人の神を祀ったことに始まるが、末社まで含めて
殆どが出雲系、渡来系の神を祀っていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて高台寺。ねねを祀る寺。開山堂、利休の意匠による茶室などを見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の入り口脇に高台寺天満宮がある。マニ車が設置されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ねねの居所だった観徳院の庭、秀吉の持念仏を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バスで東寺に行き、密教文化展を見て、帰宅。

Posted by hajimet at 11:18 | Comments (0)


2014年5月16日
関西旅行 20140323(3日目)

昼間は吹田で会議。山陽本線で姫路から向かう。
会議終了後、京都に向かい、弥栄会館ギオンコーナーで伝統芸能を見る。
1時間で、色々な芸のエッセンスが見られるというもの。
 
まずは、上手で、茶道をする中、(「さどう」でなく「ちゃどう」と言っていた)、箏曲と華道で開幕。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、雅楽。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
狂言(太郎冠者)、京舞
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
文楽(八百屋お七)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
祇園を散策しながら、ホテルに戻る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は四条大宮駅の脇で、串カツ。意外にあっさりしていた。

Posted by hajimet at 21:43 | Comments (0)


関西旅行 20140322(2日目 姫路・赤穂)

2日目。姫路の書写山圓教寺に行く。966年創建。
西の比叡山と言われたが、その後一時衰退した。黒田官兵衛の関係でカップルが多かった。
 
バスで書写山のロープーウェイ入り口まで行き、そこから上に上がる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに10分ほど山を登ると山門。そこからもう10分ほど歩くと、清水寺によくにた摩尼殿に着く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
摩尼殿から裏山に入る。険しい場所を登っていくと、白山権現が祀られていた。
1月の修正祭、鬼おい会式の始まりは、この権現での拝礼に始まるとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裏山を下り、大講堂、食堂、常行堂が集まる地域に出る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周囲の建物や、眺望を眺めた後、再び山を下り、姫路駅へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昼食後、播州赤穂駅へ。そこから赤穂城まで歩く。城の中に大石邸跡や大石神社がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに、本丸は箱館五稜郭と同じ形式で作られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤穂城を見た後、花岳寺を見学。浅野家墓碑、森家墓碑、47士墓碑、義士宝物館などがある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
待ちをぶらつきながら、播州赤穂駅へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
姫路に戻り、姫路城の周りを一周(天守閣は工事中で近づけない)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は姫路おでん。生姜醤油で食べるおでん。意外とさっぱりしていた。
この店のおでん汁は、静岡おでんのように濃い。それと「松葉」。鶏の鎖骨部分のこと。

 

Posted by hajimet at 20:41 | Comments (0)


2014年5月15日
関西旅行 20140321(初日)

3月21日、関西へ向かった。
本来は3月23日に大阪で会議があり、それに出席する予定だったが、
3月21日に小山台高校が21世紀枠で甲子園に出るため、その応援もかねて21日に出発した。
アルプススタンドのチケットは、発売30分で売り切れるという状況。
 
連休、甲子園などが重なり、大阪、京都、滋賀、奈良、兵庫のビジネスホテルはどれも無し。
しかたなく、姫路で2泊、そして京都で1泊することとなった。朝7時台の新幹線で出発。
隣の席では、甲子園に応援に行く中学生3人がはしゃいでいた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

10時に大阪着。京橋から阪和線に乗り長尾へ。ここで伝、王仁博士墓を見る。
長尾駅から10分ほど坂を登っていくと到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手前の丸い石が墓とされるもの。韓国式の門「百済門」は2006年に建立。
玉垣は「皇紀2600年記念」で作られたもので、「中央朝鮮協会」の名前も彫り込まれている。
そばに有栖川宮幟仁親王の建墓碑が建つ。
 
駅に向かって戻ると、右手に正俊寺がある。初代大坂町奉行久貝因幡正俊を祀るために
建てられた寺。建立時に四條畷から移した石塔が建つ。1327(嘉暦2)年の紀年銘がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

長尾から尼崎まで一直線。そこから東海道本線で西宮へ。
駅前で蕎麦を食べる。「きつね蕎麦」を食べたくて、自動券売機を見ても
「キツネうどん」しかない。ほかには蕎麦があるのに変だと思って聞いたら、
「たぬき蕎麦」…そうだ大坂だ。ちゃんときつね蕎麦が出てきた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食後阪急西宮まであるき、西宮神社見学。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから本来の目的地、甲子園へ。2時半には現地に着いて並ぶ。
「ともかく、都立高校の試合はメチャクチャ混むから早く来て」と、
関西にいる友人に言われていた。
たしかにすごい。スタンド入り口は自由通路になっているが満杯で立錐の余地がない。
そこを、自転車で入り込む地元の買い物客がいる(すごい)。
「地元の阪神戦でも、こんなに混むことはない」とのことだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
結果はどうあれ、試合を楽しむ。自分の側の「応援ブラス」の音はよく聞こえない。
相手側の音はびんびんに響いてくる。ラジオから聞こえてくる球音の方が、
実際に聞こえる音より早い。そして、音が聞こえた瞬間にそちらを見ても、もう球はない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ラジオはやたら応援席の「菜の花畑のような黄色の絨毯」を取り上げていた
(写真はネットにあったもの)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
試合終了後、阪急甲子園から三宮に移動。ここでJR新快速に乗り換え、姫路に。到着9時。
すぐ、姫路駅南口の「風林火山」に行き、生麩田楽、初鰹のたたき、シーザーサラダ、
姫路前の煮穴子を注文した。写真は生麩田楽。

 

Posted by hajimet at 21:00 | Comments (0)


2014年1月13日
2014年朝倉・宗像紀行(5)

宮地嶽神社の次は宗像大社。付近の古墳は時間の関係で割愛する。宗像(胸形)氏に関連する古墳群とされる。
 
海の道むなかた館に立ち寄り見学。沖の島の様子などが見られるようになっている。また、田熊石畑遺跡の弥生時代の墓域から出てきた武器型青銅器15点が展示されていた。朝鮮半島からの舶載品である。
 
朝鮮半島に由来するものは青谷上寺地遺跡などでも出てくるが、多くが九州から拠点拠点に運ばれてきたものに対して、ここのものは直接輸入したものだろうとされている。これらのことから、弥生時代中期にはかなり有力な集団が形成されていることが分かったという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて宗像大社へ。沖の島(沖津宮:田心姫神)、大島(中津宮:湍津姫神)、田島(辺津宮:市杵島姫神)が祭神。朝鮮半島との交易の入口にあたる場所で、航海の安全などを祈る祭祀が行われた。古代、海が宗像大社あたりまで入っていたから、田島は島状の地形をしていたのでは無かろうか。
 
本殿は改築中で、脇に仮本殿が設けられていた。簡単な建物の奥に、ヨリシロとしての木が植えられ(その後ろに小さな社が置かれている。古代の神社の姿が再現されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて高宮斎場に行く。本来ここで祭祀が行われたのだろう。周囲で最も高く、しかも平坦な場所である。ここから海まで見下ろすことが出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて中津宮、沖津宮を祀った第2宮、第3宮を周り、神宝館を見る。神宝館は沖の島祭祀遺跡の遺物と、宗像大社の古文書を中心に展示していた。
 
空港に戻り、3時発の飛行機で東京へ。福岡空港で豚骨ラーメンを食べる。

Posted by hajimet at 09:33 | Comments (0)


2014年朝倉・宗像紀行(4)

1月11日 8時30分博多のホテル出発。宮地嶽神社、宗像大社へ向かう。
まずは、福津市の宮地嶽神社へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道はまっすぐ海に向かう。石段脇の寄進者の中には戦前に朝鮮巨済島長承浦に住んでいた人のものもあった。
 
神社の祭神は息長足比売命(神功皇后)、勝村大神、勝頼大神。あとの二神は磐井の子孫とされる。神社には日本一の大きさとされるものが三つある。大注連縄、大太鼓、大鈴である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本殿裏には奥宮があり、稲荷、薬師、淡島神社、濡髪大明神、七福神社、不動尊、地蔵が祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その中の不動神社は宮地嶽古墳の石室に不動尊を祀ったもの。6世紀の大型円墳で石室の長さが22mにもなる。宗像氏の首長墓の一つである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮地嶽神社の裏手の山頂には「古宮跡」があるが割愛。本来の信仰の場所であったと思われる。代わりに古民家を見る。「くど造り」、「二棟造り」、「鈎屋造り」、「合掌造り」が移築されるが、残念ながら荒廃している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて宗像大社に向かう。

Posted by hajimet at 08:57 | Comments (0)


2014年1月12日
2014年朝倉・宗像紀行(3)

1月10日。朝倉橘広庭を見たあと、さらに斉明天皇が船遊びをしたとされる「桂の池」跡による。脇を桂川が流れている。ここは女官と庭掃きの源太との哀話である謡曲「綾の鼓」にちなむ所でもある。続いて、その源太じいの墓と呼ばれるところを見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、源太じいの墓は福成神社にある。この神社は宗像三神と斉明天皇、持統天皇を祀っている。宗像は海の神のはずだがなぜここに祀られているのだろうか。ただ、筑後の陸の神であるともされるので、そちらの流れかも知れない。
 
ついで美奈宜神社。大国主命、スサノオ、事代主命を祀る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから大己貴神社に向かう途中、小金川でスイゼンジノリの栽培場を見る。川海苔であるが、水質の関係で、この地域でしか取れないもの。絶滅危惧種になっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに大已貴神社。大国主命のこと。祭神は大已貴命、天照大神、春日大明神。この神社があることが、朝倉邪馬台国説の根拠の一つとなっているとこのこと。しかし、この辺の神社の社伝を読んでいると、斉明、天智の行動と、神功皇后の三韓征伐などが習合している様子を強く感じる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて五郎山古墳。復元された装飾を見ることができる。その後、古墳石室研学。ぼんやり遠くに壁画が見えた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
少々時間があったので、九州最大の前方後方墳である焼ノ岳を見学してお終い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は、もつ鍋(しょうゆ味)とゴマサバ。そういえば、これまで食べたものの醤油は、どれも九州風の甘いもの、味噌も麦味噌で甘いものだった。
 

Posted by hajimet at 22:48 | Comments (0)


2014年朝倉・宗像紀行(2)

10時半過ぎに朝倉に移る。まず円清寺。栗山利安が黒田如水の冥福を祈るために建てた寺。位牌がある。また黒田長政が寄進した朝鮮鐘が残る。新羅末から高麗初の作品。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つづけて、堀川用水の取水堰、山田堰を見る。ここから岩盤をくりぬいて用水は流れるが、その岩盤の上には水神社がある。狛犬が面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水神社の前が恵蘇八幡。祭神は斉明天皇、応神天皇、天智天皇。661年斉明は百済復興のために朝倉に宮を築く。その時に宇佐八幡の誉田別をここに祀ったことに由来するとされる。斉明天皇は6月14日に朝倉に来て、7月24日でここで死亡している。そのため殯殿として「木の丸御殿」をここに立ててもがりを行い、8月1日に一時的に埋葬したとされる。頂上に前方後円墳があるが、それがその「陵」だとされている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後、博多ウドンで昼食。煮込み風の食感とゴボ天の風味がよい。
ついで、三連水車など堀川用水沿いの水車群をみる。そして、橘広庭宮とされるところまで行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮の下には長安寺廃寺跡の碑、朝闇神社(社殿と恵比須の石造)、猿沢の池があり、岡の上に「橘広庭宮」を示す碑が建つ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて中大兄皇子が政務を執ったとされる、「天子の森」に行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いずれも、伝承地であるが、やはり関連するものが多いという印象が深い。その後、さらに訪ねて回る。

Posted by hajimet at 22:26 | Comments (0)


2014年朝倉・宗像紀行(1)

2014年1月9日、14時10分の飛行機で福岡空港に向かう。向かい風が強く、着陸は予定より遅い16時20分。地下鉄、鹿児島本線と乗り継ぎ、基山で甘木鉄道に乗り継ぐ。この日は甘木泊。甘木は元朝倉郡であったが、甘木市として独立していた。近年朝倉町と合併して朝倉市となる。駅前には「日本発祥の地」の碑が建つ。「邪馬台国朝倉説」があるのだ。
 
翌朝、小雪がちらちら舞う中、駅周囲の写真を撮る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8時30分、ホテル出発。まずはうきは市(吉井)に向かう。装飾古墳の多い所。筑後川を渡る手前には隠家森がある。関所を通れなかった人が夜、ここに隠れていたと伝えられる木で、樹齢1500年とされる巨木。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉井の資料館の方と一緒に、日岡古墳の石室を見る(写真はパンフレットより)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで月岡古墳。日岡古墳より古い。日、月の違いは、若宮八幡から見ての方角を意味している。長持式石棺が残っていて、後円部墳頂に立つ月読神社の祭神となっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに、吉井の土蔵街を抜けて珍敷塚古墳を見る。墳丘は壊されていて、石室の一番奥の壁だけ残されている。幾何学模様の多い九州の古墳の中ではかなり写実的なもの(写真はパンフレットより)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、若宮八幡の中には村田英雄の王将碑はじめ、多くの句碑がある。その中に景行天皇行在所あとの碑もあった。熊襲征伐との関係であるが、その伝承地も見に行った。その後、朝倉に移る。

 

Posted by hajimet at 22:01 | Comments (0)


2013年12月3日
古代出雲・伯耆紀行(3日目)11月20日

神在祭は昨日でお終い。神様も帰っていった。ジンクス通り、後になればなるほど天候が回復する一日だった。
 
まず、出雲玉作資料館に寄る。出雲は日本有数の玉の生産地。その様子を分かりやすく展示している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すぐ前が玉作跡。工房跡を保存展示したり、建物等の復元が見られる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで、八重垣神社に行く。現在の祭神は素戔嗚尊と稲田姫。宝物館にある板絵著色神像は圧巻。奥の院(佐久佐女の森、出雲国風土記での祭神)の池は、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治するとき、稲田姫に池で鏡になって待つように言ったという伝説があり、縁結びの占いの地として進行されている。神社の狛犬が珍しい姿をしている。当然ながら、パワースポットブームでものすごい混雑だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに八雲立つ風土記の丘に行く。時間の関係で展示館だけだった。天候もかなり回復。ようやく、紅葉を楽しむ余裕が出てきた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて熊野大社。10世紀までは意宇郡司を兼任する出雲国造が祭祀を行う出雲第一の神社だった。郡司と国造の兼任が出来なくなると、国造は杵築に移り、杵築神社(出雲大社)が出雲第1の神社となったとされる。本殿左側には鑽火殿があり、10月の鑽火祭では、熊野大社から出雲大社に火が渡される。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後に松江城を見学した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後に宍道湖のシジミ料理を食べて、一行と別れる。一行は阿太加夜神社を見学したのち、名古屋へ向かっていった。

 

Posted by hajimet at 20:11 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(2日目)11月19日(その2)

2時という、遅い昼食後、出雲大社に参拝。「神在月」の「神在祭」、「神迎祭」の最中。
この期間は天気が悪いとのこと。本当に酷い天気だ。
 
大遷宮、神在月、パワースポットブームが重なり、若い女性を中心に大混雑。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
参道途中、発掘された柱を復元したものが立っていた。まるで諏訪大社の御柱。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿までたどり着けたが、本殿はものすごい行列で、とても休憩時間にはたどり着けない。
拝殿両翼は神様が会議をしているところで、お供えなどがあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古代出雲歴史博物館へ行く。最初の部屋は御柱や出雲大社の歴史に関するもの展示。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次の部屋では、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、神原古墳から出たものなどを展示している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、長浜神社へ。祭神は八束水臣津野命。出雲風土記の最初、国引き神話の部分だけに登場する神である。命は、新羅、佐伎、良波、珠洲(古志)から土地を引いてきた。新羅から引いてきた綱は、三瓶山を杭とし、綱は薗の長浜になったとされる。中世には妙見大社ともいわれ、妙見信仰が融合したことが分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なお、近くの稲佐の浜は、国譲りの神話の地としても知られる。
夜は玉造温泉泊。夕食は2日続いての宴会料理。

Posted by hajimet at 19:27 | Comments (0)


2013年12月1日
古代出雲・伯耆紀行(2日目)11月19日(その1)

第2日目。朝風呂に入り旅支度。田和山遺跡へ出かける。弥生期の高地性集落であるが、勘合の底から攻撃用の石が出た事と、狭い頂上部に出雲大社と同様の建物の基礎が出てきたことから、祭祀史跡か、防禦集落か見解が分かれるところ(西谷先生は防御施設説)。
 
ついたときは大雨だったが、山登りの時だけは晴れた。宍道湖に虹も架かっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで神原神社へ行く。下線拡張工事で神社移設の時に、本殿下から方墳と埋葬設備が出てきた。おそらく、加茂岩倉遺跡の祭祀集団が作ったものとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに加茂岩倉遺跡へ。説明中、あられが降ってきた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで荒神谷遺跡。加茂岩倉とは別集団だが、同じ仏経山を神奈備であるとする説もあるが(西谷説も)、地元の学芸員はそれを明確に否定した。確かに、遺跡から仏経山は見えない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに西谷墳墓群に行く。古墳と墳墓の違いは古墳時代に作られた、弥生時代かの違い。
何も言われなければ、四隅突出墳だが、まるで古墳だ。2号分、3号分が復元されている。
2号分は破壊が激しかったが、埋葬施設がほぼ確認出来たことが特徴である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中の旅程を終えて出雲大社近くの食堂に着いたのは2時近くだった。
出雲そばも出たが、奉書焼きに気づいた人、どれだけいるかな?
あまりにも地味な奉書焼きだった。地元名物なのに、余りにも寂しい(続く)。

Posted by hajimet at 22:54 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(初日)8月18日(2)

日韓友好資料館を出て、時雨の中、芸木晩多遺跡に向かう。西谷先生から、九州系の遺物は海伝いに出てくることを教わる。
 
芸木晩田遺跡に行く。低地の集落が高地に移ったというもの。時間の都合で洞ノ原地区だけ見に行く。こkでは、出雲の影響圏の強い地域に見られる四隅突出墓の初期のものが見られる。西谷先生に寄れば、四隅突出墓は支石墓が変化したものだという。遠くには隠岐の島が見える。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
遺跡の直ぐそばには高霊山が見える。高霊天皇の伝説のあるところだが、高麗山の別名もある。かつ朝鮮から高さ比べのために山を持ってきて、大山と比べたら負けたので、置いていったという伝説もある。その伝説に関係するか、かつてはは「こま山」と呼ばれたそうだ。
 
船運では大山と高霊山が一直線になるように船を進めると、麓の淀江の浜につくとのこと。
洞ノ原遺跡からは島根半島と弓が浜が見える。
出雲風土記に寄れば国引きの時に、古志から持ってきた土地で、その綱が弓ヶ浜とのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで上淀廃寺。白鳳の丘展示館に復元された様子や、発見された壁画の破片が公開されている。廃寺真南にある山城には、元々この地域の豪族が祀っていた祭祀遺跡があるとのこと。ここことの関係が注目される。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5時過ぎ、皆生温泉着。夜は宴会料理。

 

Posted by hajimet at 22:08 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(初日)11月18日(2)

鳥取駅で旅行メンバー、解説の西谷先生と合流。
バスに乗り最初の目的地に向かう。白兎神社。
 
大国主命(大穴牟遅命)と因幡の白ウサギ伝説の海岸、白兎海岸沿いの砂丘地にある。
兎はオキの島からワニの背中伝いに本土にやってくる。
このオキの島は隠岐の島説と、沖の島説があるが、
ここでは神社のすぐ前の岩がオキの島とされる。
 
神社の中には兎が塩水を洗い流したとされる池がある。
大国主は兄が八上姫と結婚したくて訪ねるところに同行していたのだが、
兎は兄は結婚できず、大国主が結婚できると預言した。
その預言通りになったということで、神社は初めてのロマンスの地とされている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで青谷上寺地遺跡展示館に向かう。
山陰地方は道路開発の関係で多くの遺跡が発見されているが、この遺跡は海抜数メートルの所にある。弥生時代当時はこの遺跡のそばまで海が来ていて、風よけの湾として交易の拠点となったようだ。水が多い土地であったため、多くのものが良好の状態で残され、「地下の弥生博物館」と言われる。また、多くの人骨が出ているが、損傷している骨が覆い。この人骨の中から、弥生人の脳が3体分発見されている。ここを含めてこの時代の脳は世界で5例しかないそうである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに赤碕の日韓友好資料館に寄る。片山県知事時代にオープンした施設。鳥取には江戸時代、朝鮮からの漂流民が3回漂着しているが、そのうち1819年の漂着民の様子を顕彰しているところ。彼らが送った掛け軸の複製が展示されている。また、1963年にも韓国からの漁船が漂着しているが、その時の様子も顕彰している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この辺りから冬型の気圧配置が強まり、時雨模様となってきた。その中を妻木晩田遺跡に向かう(続く)。

Posted by hajimet at 16:19 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(初日)11月18日(1)。合流前に

古代出雲・伯耆紀行。初日。
鳥取でメンバーと合流するため、6時47分岡山発スーパーいなば1号で鳥取に向かう。
先方はスーパーはくと1号で来るので、1時間半ほど余裕がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早く着いたのは、岡益の石堂を見学するためである。
以前、一度訪れているのだが、覆い堂の工事のため見ることが出来なかった。
石壁に囲まれたなかに、一本エンタシス作りの石柱が立つ。
蓮華紋が彫られている。山陰地方で最大の石造建築物である。
用途がよく分からないのだが、高句麗尺で作られているとされる。
石堂の後ろが岡益廃寺なので、それに関係したものであろうとされる。
 
現在は宇部野御陵参考地とされている。周囲は散策コースとなっている。
道辺に石仏が置かれているが山城の清水寺など、西国一円の寺の名前が刻まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まだ時間があるので、宇倍神社による。あたりは因幡政庁があったところ。神社は因幡一宮。
祭神は武内宿禰。ここで草履を残して死んだことになっており、本殿後ろの山の頂上に草履とされる石が置かれる。小型の磐座であろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇倍神社を出て、鳥取駅に戻った。

Posted by hajimet at 15:52 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(3) 吉備路の神社

古墳に続いて神社めぐり。この地域は浦島太郎の原形とされる温羅伝説のある所。
まずは、鯉喰神社。吉備津彦が百済の王子温羅を伐ちに来た。
温羅を矢で討ったところ、片目にあたり、目から流れた血が「血吸川」となった。
温羅は雉となって逃げたが、吉備津彦は鷹になって追った。
今度は温羅が鯉になって血吸川に逃げると、吉備津彦は鵜になって温羅を捕食したという。
その鯉となった温羅を祀った神社である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、吉備津神社。吉備氏の祖先神、大吉備津彦命を祀る。
 
温羅伝説とも関係の深いところで、
吉備津彦と温羅が討ったやが落ちてきたとされるところや、
温羅が吉備津彦に食べられたあとも、ドクロが吠え続けたため、その霊を祀る御釜がある。
記録では847年に神階を授与されているが、それより古くからあったと考えられている。
本殿、拝殿は1425年に再建されたもので、両者を一体のものとして作る珍しい形である。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで吉備津彦神社。吉備津神社とは至近距離にあるが、吉備津神社は備中の、吉備津彦神社は備前一宮。吉備が3国別れたときに、備中の吉備津神社から別れたとされる。祭神も一緒。
入口に、現代版「磐座」があることも面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は肉。壺カルビのディスプレイに驚いたり、心臓の血管に感激。
ユッケはパックに入って出てきた。キムチダレをかけたトマトのキムチは不思議な味だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 15:19 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(2)吉備路の古墳

続いて吉備路へ。本来は牛窓による予定だったが、熊山遺跡で時間を取り過ぎたのでカット。
熊山から下りたところは、備前焼の窯の多い所。すぐ隣は赤穂市。
 
吉備路に入り、「作山古墳」を見る.雨が降りだした。
丘陵を利用した三段作りの前方後円墳で、全長286m。全国9位の規模だ。5世紀中頃とされる。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次いで「造山古墳」。作山古墳から2キロ。途中に国分寺を眺める。車中はかなりの雨。
全長360mの3段作りの前方後円墳で国内4位の規模。5世紀初めのものとされる。
吉備地方で、この時期の前方後円墳は他にない。近くには培怩ェ多く見られる。
 
地山を削ったところと、版築で積んだところを見ることが出来る。
前方部山頂は神社が祀られ、どこから持ってきたのか、石棺が置かれている。
後円部からの平野の眺めはこの地域が豊かであることを閉めている。
 
古墳は戦国時代に陣地として使われ、後円部には土塁が残される。
豊臣秀吉による備中高松城水攻めの時にも、ここが使われている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古墳めぐりはここまで。次いで神社めぐりである。

Posted by hajimet at 15:07 | Comments (0)


古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(1)熊山遺跡

11月16日。昼間の公開講座「忠臣蔵めぐり」を終わらせて、16時50分品川発の新幹線に乗る。
11月18日からの「古代出雲・伯耆紀行」の前に岡山を見る算段だ。
 
11月17日、朝10時頃知人の車で岡山を出発。まずは県東部の熊山遺跡に向かう。
山頂近くの平地に作られた石段積の「塔」である。奈良時代前期のもので、
類似のものは、奈良の頭塔、大阪の土塔が知られる。韓国にも安東近郊に2基ある。
 
熊山は標高500mほど。県南部では最も高い山だ。
その山頂に近い所に遺跡はある。
 
この周囲は幕末まで「帝釈山霊山寺」があったところだ。権現信仰の山で、
山中にも類似の遺跡があるとされる。
 
熊山駅側から非常に危なっかしい林道を上がっていく。
途中駐車場と登山道の表示が現れたので、そこから上る。
しかし、なかなか遺跡が現れない。道も悪くなり、スズメバチの巣があるという情報も。
引き返した。
 
実は、この先にちゃんとした駐車場があるとのことで、そこに向かう。
その駐車場から徒歩で10分足らずで遺跡にたどり着いた。眼下には吉井川が見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天気予報は前線の通過を予報している。雲がだんだん厚くなってきたので、早々に下山して、
次の目的地に向かう。

Posted by hajimet at 14:54 | Comments (0)


2013年11月30日
紅葉がピーク

11月27日。浜田山にて。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 08:59 | Comments (0)


2013年8月17日
2013年佐渡紀行

お盆の墓参りのついでに、佐渡紀行。
まず、畑野の加茂神社。鳥居と拝殿、少し離れた所にある本殿は南北一直線に建つ。
本殿の方に拝む所があることが面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
裏に金立神社が建つ。こちらは東西方向である。欄干の彫刻は素晴らしい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて長谷寺(ちょうこくじ)に行く。奈良の長谷寺と地形が似ているからと言う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
階段を上がると観音堂(上左)、そこから上がると五智堂(下左)である。
五智堂に行く途中には竹村奉行墓(下右)、五智堂横には深海和上墓(即身仏:上右)がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

本堂は観音堂へ行く途中にある。すばらしい高野槙がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 続いて、安寿と厨子王の安寿塚を見て、大膳神社の能舞台を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 さらに阿仏坊妙宣寺。戦国時代の雑太(さわた)城の跡である。佐渡で唯一の五重塔がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて国分寺。昔の国分寺とは違う。
寺の前の石塔が、秋葉権現、庚申塔、羽黒山信仰などを示していて興味深い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 付近に古代の国分寺跡も残る。完全な形で基礎が残っているのは珍しいとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 二見方面に行く。台ケ鼻古墳を見に行くが、雑草に阻まれて到達できなかった。
古墳入口と付近から見た海の景色。湿度のせいで、小佐渡がうっすたとしか見えていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 両津から新潟に戻る。新潟国際船埠頭と、ポドナム通り。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 21:03 | Comments (0)


生月・平戸紀行(番外編)

8月2日、飛行機の時間まで、太宰府散策。
まず、金隈遺跡。福岡空港脇にある弥生時代の共同墓地。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
榎社。道真が蟄居したところ。ここから観世音寺の鐘を聞いていた。浄妙尼を祀る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太宰府天満宮

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明禅寺 石の組み合わせで「光」をあらわす「仏光石庭(前庭:右)」、と裏庭の「一滴海の庭」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藍染川(左:梅坪侍従蘇生碑、右:伝衣塔)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
観世音寺
金堂(上左)、鐘、戒壇院(下左)、鑑真和上供養塔

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太宰府政庁跡

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
筑前国国分寺跡(塔跡)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水城

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水城にある神社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大野城跡 石垣(上左)、建物群、太宰府口跡(下左)、土塁から見た太宰府市街

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これでおしまい。飛行機は予約していたJAL便が欠航し、ANAに振り替えてもらって帰宅した。
 
 

Posted by hajimet at 18:04 | Comments (0)


生月・平戸紀行(6)

平戸からの帰路、田平を見る。
まず、田平天主堂。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、大野台支石墓群(E地点)。
累々と支石墓がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、C地点を探しに行く。こちらは水田の中にぽつんとあるだけで、探すのに苦労した。
地形からすると、圃場整理以前はもっとあったものと思われる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後に、里田原支石墓。支石墓の上に板石を重ねたものもあった。
近年は里田原遺跡として、支石墓以外にも注目を集めている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これで博多に引き返す。
 

Posted by hajimet at 17:09 | Comments (0)


生月・平戸紀行(4) 根獅子

平戸島の根獅子に向かう。
貿易の平戸は九州側だが、こちらは東シナ海側。
江戸時代、キリシタン弾圧が苛酷だったところで、
海岸の昇天石で、多くのキリシタンが殺された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには、「うしわきさま」「おろくにんさま」と呼ばれる森がある。
弾圧されたキリシタンを葬った地で、信者は今でも裸足でここに入るとのことだった。
森の中には何カ所か墓碑や祠がある。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
森の隣には「平戸市切支丹資料館」がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには、文禄慶長の役の時に朝鮮から連れて来た「小麦様」の墓がある。
松浦鎮信の側室とし、松浦信正の母であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて、平戸に向かう。紐差教会(左)、平戸市最古の教会、宝亀教会(右)を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後に鄭成功の居宅跡(鄭成功記念館)を見て、市内に入る。

Posted by hajimet at 16:07 | Comments (0)


生月、平戸紀行(3)

生月島をまわる。
まずは、「だんじく様」。
親子で五島に逃げようとキリシタンが、
子供が海岸で遊んでいたのを発見され、殺されたところとされる。
 
20m近くある断崖を5分ほど降りて海岸まで行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海岸沿いに石の祠があり、中に「ダン竹大明」と書かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つづけてガスパル様へ行く。海之見える小高いところに「黒瀬の辻殉教碑」が立つ。
ガスパルとは、生月島最初の殉教者、ガスパル西玄可のことで、1609年のこととされる。
ここから「中江ノ島」がよく見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
殉教碑の裏に石積みが数カ所ある。これがガスパル一家の墓とされる。
生月島は平戸島ほど強硬な弾圧はされていないが、
それでも島のあちらこちらにこのような、殉教者を示す石摘の墓があるという。
先ほどの解説員によれば、霊のいるところだから、近づくなといわれていたそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに、山田カトリック教会に行く。
聖トマス西列聖記念碑と、生月信者発見90年の碑があった。

Posted by hajimet at 15:42 | Comments (0)


生月・平戸紀行(2)…生月島

まず、「島の館」へ向かう。
解説員から説明を受ける。
生月島は江戸時代から明治にかけて捕鯨で栄えた島である。
捕鯨の様子、捕鯨で潤った様子が紹介されている。
そして、捕鯨が盛んだったことが、隠れキリシタンが残った理由であるとのことだった。
 
なぜ生月島にキリシタンが多かったのか、それが禁教後どうなったのか。
集落の中だけで信仰されていたので、隣の集落の信仰とずれが出たこと。
十字架の形に切った「オマブリ」の使い方が、集落ごとに異なっているとのことだった。
 
だが、宣教師が来なくなった事から、結果的に、当時の姿を守ることになった。
従来、隠れキリシタンの信仰は、西欧と断絶されたために変容したと捉えられていたが、
むしろ中世カトリックの姿を強く残していると捉えられるようになっている。
カトリックの信仰の方が大きく変わったと言うことは印象的だった。
 
明治になって復活した人も多いが、多くの人は信仰を守った。
どこの家も仏壇があり、その人がいたから自分の信仰が守られたのに、
復活すれば、それを捨ててしまうことになるが、それは出来なかった。
仏教徒であって、それとキリシタン信仰があったと語る。
 
復活キリシタンとの違いは、教会に礼拝に行くかどうかと言うことであった。
 
また、平戸(根獅子付近以外)、五島、外海の間ではサツマイモの耕地などを求めて、
人びとが交流していて、キリスト教も交流しているが、生月島との間ではなかったそうだ。
 
ただ、隠れキリシタンを継ぐ人がなく、調べようとすれば、最後の時期にきているとのことだった。
集落の中で親戚関係で信仰を継続してきたのに、キリシタンが解散されることで、
親戚関係が判らなくなってくると言う事態も起きていると聞いた。

Posted by hajimet at 15:30 | Comments (0)


生月、平戸紀行(1)

8月1日、博多から平戸に行く。202号線から唐津街道に入り、
唐津、伊万里、長崎県松浦と進む。ほぼ3時間の道のり。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
松浦では松浦水軍発祥の地を通るが、地形の複雑さから、彼らが活躍したのもなるほどと思う。
途中で、戦国時代の城址を通過していく。平戸市に入り、平戸大橋を渡る。
橋のたもとには「日蘭胎動の碑」があった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平戸島を通過し、まず生月島へ向かう。
隠れキリシタンの信仰が現在でも行われているところだ。
生月大橋を渡るが、右手には彼らの聖地とされている「中江ノ島」が見えている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 15:03 | Comments (0)


2013年4月8日
金沢・能登「古代幻視紀行」3日目(4月7日)

爆弾低気圧で大荒れの予報が出ている中、8時30分出発。大風の一日だった。さいわい、雨は一時を除いて大したことはなかったが。傘をさそうとすると体が持って行かれる。転倒した人がいなかったことがさいわいの一日だった。
 
七尾は前田利家以降町造りがされたところ。道路は沿岸を走る。埋め立てられたと言うが、干拓地のように見える。加賀藩によって作られた軍鑑所の跡もある。近くには中世式山城である七尾城跡もあり、城下の区画もかなり残っているとのことだ(一部道路建設で破壊)。
 
万行遺跡に行く。3世紀から4世紀にかけての大型掘立柱建物群の出土したところで、非常に大きな建物が建っていたことが分かる。倉庫説と祭祀遺跡説があるようだが、倉庫説に基づく説明を受けた。この規模はおそらく国家管理のものであろうと言うことと、北方交易のための倉庫というものである。3世紀前後は北方勢力が越後まで進出してきたことが土器から分かる時代である。国指定遺跡となり、これから整備されるとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて「能登国分寺跡」に行く。この地域は能登国造の勢力範囲であるが、その大興寺を転用して作られた。ほかの国の国分寺より約100年遅れた843年に作られた。塔などは風で倒れた記録があり、代わりに作られたと思われる瓦塔が出土している。近くに国府もあるはずだが、まだ場所は確定されていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
国分寺跡は整備されて公園となっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて院内勅使塚古墳に行く。蝦夷穴古墳よりも一つ前の7世紀前半の二段方墳。作り方は、石舞台山古墳の縮小版である。能登国造一族の墓と考えられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて雨の宮古墳群。江戸期に雨乞いをした場所であることから、このような名前で呼ばれている。邑知地溝の南側、眉丈山山頂の尾根筋に、前方後方墳一基、前方後円墳一基を中心に36基の古墳が存在している。1号墳の前方後方墳は日本海側で最大級の前方後方墳の一つである。4世紀中頃から5世紀初めにかけてのもので、副葬品から能登一円に勢力を持った人のものと考えられている。
 
邑知地溝帯を挟んで反対側にも小田中親王塚、亀塚などの大型古墳があり、それとの関係も重要とのことであった。
 
残念ながら、強風下では山の尾根に上ることが出来ず、資料館のみ。ここには1号墓の粘土槨の実物大模型がある。木棺の形状をしめす、内側の凹みや、最後に粘土で覆った後、板状のもので突き固めた後などを見ることが出来る。
 
棺は3つの部分に分けられ、足下にはその人の権威を示すもの、中には遺体など、頭上には会葬に来た人が入れた土器などが出てきた。たまたま江戸時代に盗掘されているのだが、盗掘坑が中央の遺体部分に開けられたため、ほかの遺物は残ったという幸運の盗掘であった。
展示室は墳丘の作り方、埋葬の仕方などが分かりやすく説明されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これで見学は終了。千里浜ドライヴインで昼食。ともかく風が強く、浜の道は閉鎖。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
波も当然高い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
当然バスはゆらゆら。ときどきハンドルを取られかけている。そうこうするうちに北陸道から東海北陸自動車道に入る。五箇山、白川郷あたりは雪。最高点付近の気温は2度まで下がっていた。
「城端」と「ぎふ大和」で休憩を取りつつ南下。名古屋駅で解散した。

Posted by hajimet at 11:11 | Comments (0)


金沢・能登「古代幻視紀行」2日目 4月6日

「金沢白鳥路ホテル」を8時に出発。ホテルは、温泉ホテルで、少し黒い色をしたナトリウム塩泉で、硫黄泉のような肌触りの湯であった。
 
羽咋に向かう。3月31日に無料化されたばかりの「のと里山街道(旧能登有料道路)」を進む。約40キロ。途中も遺跡、古墳の話しを聞く。中には、明治初頭、キリシタンがまだ弾圧されていたときに、長崎から金沢に連れてこられて幽閉された場所から、完全な白骨が数体出たが、副葬品がなく確定しきれなかった話しなどもあった。
 
「羽咋市歴史民俗資料館」に行く。羽咋は七尾の間を結ぶ邑知地溝帯の中の町で、能登半島の入口にあたる。歴史とUFOの町。邑知地溝帯の北側の丘陵には滝岬がある。これは日本海沿岸航路の目印となる岬で、一番目立つ場所に古墳が残っている。また、邑知潟というラグーンがあって、良港として使うことが出来る(昭和に入ってから大規模干拓)。その周辺に古代からの遺跡が多く残っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その砂丘の上に寺家遺跡という8世紀以降の祭祀遺跡が残されている。現在は平安期、14世紀後半にあった砂丘の成長によって場所によっては10m近い地下に残されている。ここでは祭具や「神と」書かれた墨書土器、大きな火を焚いたと思われる焼成土の地域見つかっている(左)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これだけの遺跡は他の所では出ていない。8世紀以降渤海使が来るようになったこと、能登が北方世界との関わりの拠点となっていることと関係しているそうだ。大和政権による国家管理であろうとされる。関連ははっきりしないが、文献上この頃から気多神社が公的管理に移され、859年には従一位にまで昇進している。近くにはシャコデ(釈迦堂がなまった字名)廃寺もある。白鳳寺院である。ただ、砂丘の成長と共にここは使われなくなった。
 
続いて気多大社に行く。神社本庁とは別の宗教法人。能登一宮で、社伝によれば古来ここにあったことになっている。本殿では大己貴命(大国主命)、「入らずの森」という聖域になっている奥宮では素戔嗚尊、櫛稲田姫命をまつる。摂社には白山神社がある。
 
また、神社入り口には植え込みの中に「奥津島神社」という舳倉島から来た神を祀っている(舳倉島は奥津姫神社)。気多神社の創建説話と関係のある神だとのこと。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて福浦港へ行く。志賀原子力発電所の脇を通っていく。
福浦港は福良港と呼ばれ、遣渤海使、渤海使が出発したところ。北前船の基地でもある。そのための遊郭などもあった。
 
谷に作られた港で、風待ち港でもある。渤海使のための客館や、船修復の工場などもあったはずだが、今のところ発見されていない。平地がほとんどなく、僅かな平地にはびっしりと建物が建っているからである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
総持寺の近くまで行って食事。そば。店主が採ってきた行者ニンニクのヌタ、ソバナのごま和え、ヅトドウフの煮物なども出る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食事をサッと終え、駆け足で総持寺を眺めた。能登地震での修復作業中だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輪島に行き、舳倉島の奥津姫神社で発見された奈良時代の「海獣葡萄鏡」を見る。寺家遺跡のものと同じ。続いて公民館で海士関係の資料を見る。海士は筑前から各地に広がっていった。済州島にもいる。済州島から来たのか、そうではないのかについては、まだ疑問のようだ。倭寇との関係で考えても良いのではないかということだっが。各地の海士は使う器具が共通で、済州島の海士もそう。ただし、植民地時代を経験しているから、それによって共通になったのかは慎重であるべきだそうだ。
 
海士は移動民であるから、地元民との間でいざこざがあった。舳倉島の所有についてもそうだという。それが土着化していく過程などが見ることが出来る。その葛藤が残っていると思われる祭りもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輪島には古代寺院が築かれていた痕跡がある。七尾など内陸でなく、半島の突端に最初に作られたことが面白い。
 
続いて珠洲の揚浜式塩田を見に行く。途中千枚田も見る。これだけ棚田が発達すると言うことは、地滑り地帯であると言うことでもある。はたしてそうだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
能登は塩の生産基地としても発達した。交易の基地、塩の拠点、鉄の取れるところなどとして非常に栄えたところであった。塩は、砂の上にまかれ、そこから塩分を抜く。最初の鹹水は18%、一度24%まで煮詰めた後、塩を取り出す。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
塩をくみ出すためだろう。海中には水路が掘られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けて七尾に入り、「祭り会館」による。「熊甲祭り」などの「枠旗祭り」の様子を見る。「旗祭り」の一例である。その隣の「久麻加夫都阿良加志比古神社」による。日本で2番目に名前の長い神社。大伴家持が能登に来たとき、香島(七尾)に上陸して神社のある熊木を目指した。祭神は阿良加志比古神、都奴賀阿良期止神。安羅伽耶との関係を示唆する神である。同時に敦賀との関係も意識させる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
翌日、あらしの予報が出ていたので、一つ予定を早めて能登島の蝦夷穴古墳を見る。7世紀後半終末期の方墳で、海の方向を向いて横穴式石室が二つ作られている。対岸は七尾、能登の国府があったところである。石室は高句麗式の持ち送り式のアーチ型石室である。直接高句麗人が作ったのか、高句麗の影響で作られたのかは疑問とのこと。この古墳が作られた頃、北方勢力との戦いがあって、能登の人が大挙動員されている。航海術に優れいていること、高句麗からの人びとも来ていることから、影響を受けているという可能性もあるとのことだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旅館「のと楽」に入り、一日が終わった。

 

Posted by hajimet at 09:21 | Comments (0)


2013年4月7日
金沢・能登「古代幻視紀行」1日目 4月5日

富山から金沢に移る。富山のホテルの前は地鉄駅前という路面電車の駅。駅前には「おわら」の笠をモティーフにしたものや、薬売りの像などがある。














 金沢駅は新幹線開業に向けて工事中。正面は完成していて、鼓型の巨大な柱をモティーフにした正面玄関は圧巻だった。京都駅と同じ建築家が設計したとのことだ。














 金沢駅から野田山墓地へ行き、前田家の墓の前で合流。前田一族の墳墓が方墳のような形に整備されている。明治になり神葬に変わったため、江戸時代とは様相が違うそうだ。そのなかに、豪姫(宇喜多秀家夫人)の墓がある。豪姫は朝鮮人金如鉄を育てたことで知られる。
 
文禄慶長の役で孤児となった如鉄を、宇喜多秀家が漢城から岡山に連れてきて、豪姫に庇護させた。8歳の時に金沢に連れて来て、以後前だけの保護の元成長する。関ヶ原の戦いの後、豪姫も金沢に戻り如鉄を育てた。如鉄は加賀藩の士、脇田直賢となった。写真は前田利家の墓(左)、豪姫の墓(右)













 
前田家墓地の近くには『石川県戦没者霊園』がある。西南戦争以来の供養碑(上左)、日露戦争のロシア捕虜の墓(上右)、陸軍軍人の墓(下右)、一般兵の墓(下左)がある。日露戦争のロシア捕虜の墓は、日本が戦時でも「国際法」を遵守している姿勢を見せようとしているときに作られたもの。一等国として認めさせ、条約改正を目指していたときである。旧ソ連大使によって植樹された木が墓を囲む。一般兵の墓の中で、西南戦争の時の墓を見ると、ここが名古屋鎮第に属していたことが分かる。



























 
霊園のすぐ下に、朝鮮独立の志士、尹奉吉の墓がある。尹奉吉は1932年、上海で行われた天長節の式典会場に爆弾を投げ、白川義則大将らが死亡、重光葵らが重傷を負う事件となった。尹は死刑判決を受け、金沢に移され、1907年12月19日銃殺。野田山の通路に埋められた。それを戦後掘り出し、遺骨を祖国に送り出し、遺髪と遺影が野田山に埋葬された。日本史と韓国史で見方が異なるが、韓国では義士の扱いである。














その後昼食。上品なお店だったが、配膳やちょっとした飾りが素晴らしい。
















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
食後、石川県埋蔵文化財センターに行く。ここで今回の講師、小嶋芳孝金沢学院大教授と合流。畝田寺中遺跡からでた墨書土器を中心にお話を伺う。「津」だけでなく、「津司」という文字を書いたものが出ていること。類例との関係からすると、大和朝廷が渤海などとの交易を管理する職として任命した可能性が高いこと、「天平二年」の墨書は遣渤海使の引田虫麻呂が無事に渤海に帰着した年であること。「蕃」と書かれた土器も出ている。
 
この場所が「越前国加賀郡」時代の港に関係した遺跡であって、非常に発展していたことが分かる。しかし、823年越前から加賀が独立すると、あらたに港の機能が移った。畝田田ナベタ遺跡の建物跡などが、その跡だとされる。渤海末期の影響を受けたとみられるバックルが出ている。ただし、渤海使に対する客館あとはまだ出ていないとのことだった。
 
一方で畝田寺中遺跡の方は、この近辺が東大寺の荘園であったことと関係するものが出てくるようになるそうだ。














その様子を実際に石川県庁の展望台まで見に行く。畝田寺中遺跡方面(上左)、畝田ナベタ遺跡方面(上右)。市内立山方向(下左)、市内白山方向(下右)。畝田は加賀でも最も古い地名の一つ。また、砂丘が見えるが、鎌倉時代以来発達したもの。
 
実は、新潟砂丘もそうだし、関東の利根川、荒川水系の自然堤防もその頃発達したという論文を読んだ記憶がある。たしか、温暖化した時期だと思うが、それと関係あるのだろうか。

金沢の砂丘の砂の供給源は白山。しかし、現在は砂防工事をしたために、砂浜が痩せ始めているとのことだ。また、砂丘の終点羽咋付近では砂が細かくなり、海岸を車で走ることが出来るとのことだ。















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

小嶋教授に寄れば、金沢は「百万石」がクローズアップされるが、その下地が既にあったということと、前田氏も港から城下へ一直前の道を作り、港の機能を重視していたことを指摘していた。湖j魔先生と別れて、西田庭園に行く。残念ながら休園。ここにはキリシタン灯籠などがある。
 
夕食は満開の桜を眺めながら。イサザの躍り食いも絶品。















 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夕食後、兼六園へ。無料開放。桜ライトアップ(上右、左)。灯籠と松(下右:琵琶湖唐崎の松を摸したもの)、海石塔(下左:加藤清正が持ち帰り、前田利家に寄附したもの。朝鮮前期か)。ともかく満開。人でも凄い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 23:26 | Comments (0)


金沢・能登「古代幻視」紀行 前日(高岡、富山)

日韓交流史フォーラムの旅行で、金沢、能登方面に行くが、せっかくなので前日、富山に寄ることにした。朝9時過ぎの「とき」で越後湯沢へ。ほくほく線経由で高岡に向かう。東京は桜が終わっていたが、途中越後湯沢はまだ1m近く雪が残っていた。糸魚川で白山が海に落ち込むところを眺める。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高岡では1時間半タクシーをチャーターして、柳田布尾山古墳を見に行く。日本海側最大の前方後方墳で、小高い岡の上からは富山湾、能登半島(写真)、立山まで見ることが出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古墳が築造されたときは、付近は潟が伸びてきていたから、交易の拠点であった。そこに入る船からよく見えるように作られていた。続けて高岡市内観光(30分しかない)散策。町並みを見たり、高岡大仏、古城公園をめぐる。古城公園は桜が5分咲きくらいであった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
加賀藩2代目藩主前田利長のときに開いた瑞龍寺(入口だけ)と前田利長の墓所を見に行く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
駆け足で市内を見学して高岡駅に戻る。氷見線の車体のデザインや、列車名の表示板が何となく懐かしい。懐かしいと言えば、改札が自動改札でなかったことも。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富山に戻る。杉谷4号墳を見に行く。富山は神通川がながれているが、よみかたが「じんづうがわ」であることに初めて気がついた。杉谷古墳群の中にある杉谷4号墳は弥生時代の末期から古墳時代の初期に築かれた四隅突出墳といわれるもので、出雲で多く作られているものである。この形の古墳が、北陸では越中に最も多いのである。杉谷古墳群は弥生時代の方形周溝墓からある墳墓群で、この地域の首長層のものと考えられているが、出雲との強い繋がりがあったことがわかる。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この地域から越後にかけて、神社にしても気多神社のように大国主命を祀る神社が多く分布していて(能登を中継地点にして広がったか)、出雲との関係は深いようだ。
 
続いて婦負の里といわれるところの古墳群のうち「六治古塚墳墓」を見る。これも四隅突出墳。その中でも、もっとも墳丘の高さの高いもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついで、「富山湾寿司」を食べに行く。厚く切った「さより」、赤色のほんのり乗った「ヒラメ」、「アラ」、「シンイカ」、「カニミソ」、「ボタンエビ」など10貫。一緒に飲んだ「勝駒」も美味しい。次に入った店でもメニューにあったので注文したが、「ない」で終わった。寿司を食べたあと、歩いて一度ホテルに戻る。途中、もと神通川筋だった松川の桜を見る。その後、もう一回飲みに行った。

 
 

Posted by hajimet at 20:43 | Comments (0)


2013年3月20日
関西渡来人紀行(3) 百済王氏関係

阿部野橋まで戻り、関西本線で平野に行く。杭全神社を見る。平野川の工事で杭を全て打つことが出来たからこの名前になったというが、この地域は「百済郷」「百済郡」と呼ばれた場所で、いまでも「百済野」と言われている。杭全(くまた)は百済が転訛下とも言われる。拝殿うらに三連の第一本殿から第三本殿まであるが、元禄時代の第一本殿は「素戔嗚尊」と「牛頭天王」が祭神である。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平野駅と東部市場駅の間に貨物ターミナルがある。百済貨物ターミナルという名前だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3月16日までは貨物の「百済駅」。実は「東部市場駅」も元は「百済駅(旅客駅)」の生まれ変わった駅だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この付近が百済野といわれるのは、百済義慈王の2番目の息子、善光が姓を賜った百済王氏が港口だった難波の津のそばに拠点を築いたからである。この地に百済寺もあった。その跡が桃谷駅裏の堂ヶ芝廃寺(観音寺)だと言われている。尼寺も発見されている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには四天王寺もある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょうど十三講詣の日だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午後、枚方に移動。京橋から京阪で枚方市駅。乗り換えて1駅目の交野駅から5分ほどのところ。奈良の大仏を建立するときに金鉱を発見した百済王敬福が河内守となって拠点としたところだ。館に氏寺と氏神を造った。氏神は百済王神社として残っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
拝殿の額は「牛頭天王・百済国王」。さて、牛頭天王の牛頭。韓国語で牛はソ、頭はモリである。記紀の一書によれば素戔嗚尊は渡来系の神で、新羅のソシモリに下りたとなっている。それを「牛頭」と表したとされるのである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その隣は百済寺あと。薬師寺式の伽藍配置の基壇と礎石が残っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
場所は丘陵の頂上。百済王敬福の権威を感じさせる場所であった。
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 22:48 | Comments (0)


関西渡来人紀行(2) 藤井寺・古市

新快速で近江八幡から大阪(約1時間)−(弁天町経由)−天王寺(15分)と向かい、阿部野橋から近鉄で藤井寺に行く(約20分)。東京と違って大阪には駅前などに在来市場をよく見かける。藤井寺駅前もそう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市場を抜けると葛井寺。百済辰孫王の後裔氏族の一つとされる葛井氏の氏寺。かつては2キロ四方の伽藍を持っていたと言われる。境内に当時の礎石と思われるものがあることはある。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛井寺の直ぐそばに辛国神社がある。雄略天皇の時代に物部氏が創建したとされるが、名前からも、素戔嗚尊を祀っていることからも、渡来系の神社でもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
辛国神社から徒歩15分。野中寺に着く。ここは船氏の氏寺だった。境内には金堂と五重塔の礎石が残る。法隆寺式の伽藍配置だったことが分かっている。船氏などの「今来伎人」にあたる人びとは「古市大溝」にそったところに配置されていたという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内にはヒチンジョ池西古墳の石棺が保存されている。また、墓地には「曽根崎心中」のお染と久松の墓がある。
 
野中寺から歩いて30分。古市の西琳寺に行く。途中は溜池と古墳だらけだ。古市古墳群のなかを歩いて行くからだ。古市は竹内街道が河内飛鳥に入る入口にあたる、道は河内飛鳥から二上山を越えて飛鳥に入っていく。その拠点に西琳寺があるのだ。
 
西琳寺はこの地域の寺で最も古いもので、王仁の後裔の西文氏の菩提寺と言われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の境内には石塔の心礎や、鎌倉時代の五輪塔が保存されている。近くには白鳥神社がある。ここも祭神は素戔嗚尊と牛頭天王。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一旦古市から阿部野橋に向かい、百済野を見ることにした。
 
 

Posted by hajimet at 22:15 | Comments (0)


関西百済紀行(1) 近江編

2013年3月19日 関西での用事に合わせて渡来人百済紀行を行った。今回回ったところは、曾て一回訪ねた所だが、デジタルで写真を撮る必要が出たための再訪問だった。まずは近江蒲生。
 
新幹線で米原へ行き、近江八幡から近江鉄道で八日市に向かう。車体は西武のもの。線路状態はお世辞にも良いとは言えない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
八日市からタクシーをチャーター。石塔寺に向かう。この付近は依知秦氏の根拠地だが、百済系の渡来人も多いようで、百済型の三層石塔が残っている。白い花崗岩で築かれた最古の石塔である。石塔は山の上に立てられ、周囲にほかの建物があった痕跡はない。

 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
扶余定林寺の五層石塔(左)や、高麗初期の扶余長蝦里三層石塔(右)によく似ている。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石塔寺をあとにして、日野、小野集落の鬼室神社へ。百済の渡来人の鬼室集斯の墓があることからこの名前が付けられる。緩やかな丘陵のつづく谷間にある神社だ。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
説明板によると、墓はこのようになっているという。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これで蒲生はお終い。タクシーをチャーターしなければ1万円以上かかる距離だった。

Posted by hajimet at 21:44 | Comments (0)


2012年12月30日
関西紅葉紀行(11月17、18日)…その4(東山)

出町柳からバスで銀閣寺通へ。哲学の道を歩く。紅葉は盛りを過ぎたようだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
まずは安楽寺

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
続いて霊鑑寺。尼門跡寺院で、春、秋限定公開。今回見た中でもっともきれいで、
雰囲気もよい。建物が紅葉で赤くなるくらいの鮮やかさだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
次は永観堂。観光スポットだけに人が多い。見事を通り越して、凄い。まず、本堂から振り返り阿弥陀へ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
庭に降りると

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
さらに南禅寺。三門。ここまでは徒歩。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
車に飛び乗って清水寺へ。ここは盛りを過ぎていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さらに大谷廟堂から五条大橋まで歩き、バスで京都駅へ向かった。

Posted by hajimet at 21:20 | Comments (0)


2012年12月29日
関西紅葉紀行(11月18日、19日)…その3(鞍馬寺)

叡山電鉄で約20分。鞍馬駅に着く。沿線に大学が多いので、途中まではすし詰め状態。二軒茶屋付近から単線になり、アップダウンの激しい線路となった。列車は、途中紅葉のトンネルを通過する。ここの部分は徐行運転をしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

30年前は小雪のちらつく日だった。この時は貴船神社から鞍馬寺へ歩いたが、今回はまっすぐ鞍馬寺を目指すこととする。駅で天狗に迎えられた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

寺の山門までは駅から5分ほど。ここからひたすら階段を上る。途中ケーブルカーもあるのだが、混んでいたので、徒歩で本堂まで上がることにした。急な坂道と階段で20分ほど。杖を持って登る人も多い。周囲は一面の紅葉。途中、「鞍馬の火祭」で知られる、由岐神社や源義経供養塔(新しいもの)を通過した。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金堂前、本坊の景観は30年前と変わらなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

金堂裏で、持っていった30年前の写真を撮りだして、そのとき撮ったスポットを見付ける。奥の院と金堂の間だったのだ。その場所はすぐ見つかった。金堂から5分ほど、霊宝殿の前だった。30年前よりも木が大きくなり、景色が安定していた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ここで元来た道を引き返す。途中ケーブルカー方面に行く。不思議なことに、当時の灯籠の様子や、出来たての多宝塔の様子は覚えていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ケーブルカーに乗車。寺の経営だそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

叡山電鉄で下山。再び紅葉のトンネルを通る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

出町柳駅前で昼食。印度料理。隣の定食屋には「焼きそば定食」が。東京ではなかなか見かけない炭水化物の複合層状態が。

Posted by hajimet at 22:34 | Comments (0)


関西紅葉紀行(11月18日、19日)…1

11月18日、研究会の仕事で大阪へ行った。その帰り、新大阪駅前の東横インに宿を取り、京都紅葉紀行をすることにした。
 
夜、友人と大阪駅で落ち合う。エスカレーターの立ち位置が逆だ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
お好み焼きを食べに。何軒か探し、大阪駅南の操車場付近をぐるっと歩きながら、結局曾根崎にある「鶴橋風月梅田点」へ。お好み焼き2種類とモダン焼きを食べる。生地が関東で食べるよりも硬い。関東はここのものに比べて生地が緩いが、もしかして、もんじゃ焼きの伝統が入り込んでいるのではないかとも思った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
友人と別れて、ホテルで休む。

Posted by hajimet at 22:08 | Comments (0)


2012年12月7日
天草・南島原紀行(5)

12月5日午後。
さらに東へ移動。有馬のセミナリオ跡を見る。キリシタンだった有馬氏の居城日野江城跡の下。
天気予報は荒れると言うことだったが、なんと晴れてきた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

続いて有家(ありえ)に向かう。ここで島原素麺を食べる。
島原の乱後、廃村状態になった島原に小豆島から多くの移民が来て、定着した食材。
 
続いて、有馬キリシタン史跡公園。有家から山の方に進む。
途中にあった島原鉄道の有家駅の廃線跡は駅舎、ホームがそのまま残っていた。
 
ここは元々古代以来の仏教の中心地で、そこに墓地が作られた。
周囲にあったものも持ってきて展示している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

類子と彫られた墓碑は、ルイスを意味する。法筺印塔の中に十字が刻まれているものもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ここには平安時代の石仏なども置かれていて、
仏教の中心地だったことも分かるようになっている。
直ぐそばに古墳もあるのだが、古来からのこの地の関係を調べる必要があるだろう。
 
つづいて有家のセミナリヨ跡。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

周囲にあったキリシタン墓が保存されている。花十字の彫られているものもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さらに、吉利支丹墓碑。土中にあったという。本人の名前や、慶長年間に作られたこと、
イエズス会のIHSという文字が刻まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

これを見て、1時間ほど元来た道を戻り、口之津港から鬼池港に戻る。
天草側は雨がぱらついている。
鬼の城公園により、キリシタン墓碑群を見る。
周囲にあったものを集めてきたと言うが、累々たるもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

何も彫られていないものも多いが、中には3つの十字(三位一体)や、
十と一が彫られているものもある。
「一」は、「私ははじめであり終わりである」という聖書の言葉を指しているという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ここで時間切れ。松島へと向かう。途中本渡の祇園橋を見る。島原の乱の激戦地。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

約1時間。松島のホテル竜宮泊。
岩盤浴がサービスに入っている(気持ち良い)。
夕食は海鮮だが、昨日の旅館よりも上品な作りになっている。
タコの地域らしく、柔らかく煮付けた蛸が美味しい。
一方、醤油が甘い…。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アワビの踊り焼きも始めて目にした。
直ぐ蓋を閉めて蒸し焼きにするので、テレビに映るほどは暴れないが。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夜は、結構な土砂降りだった。
 

Posted by hajimet at 22:44 | Comments (0)


天草・南島原紀行(4)

朝8時に下田温泉を出発。鬼池港へ。島原口之津港に渡る。30分。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すでに、目の前に島原が見えている。天草は船による連絡網が発達している島だ。
横断途中、蜃気楼を見ることが出来た。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
口之津港は明治初期に石炭積み出し港で賑わったが、
からゆきさんを送り出した港としても知られる。
 
一方、島原への南蛮船もここに入港した。その記念碑を見る。
今の海岸線より奥に入ったところで、地形的に干拓を行ったことが分かる。
その手前には廃止された島原鉄道の線路跡が残る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道路には「踏切注意」の文字が残されていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原城に向かう。途中で吉川キリシタン墓碑を見る。
ヨーロッパの樽型墓碑を採用した珍しいものである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一方で、島原の乱後に作られた墓もここに1つ残っている。
墓の台座にキリストを象徴する「カニ」が彫られ、
そこに「十」が3つ彫られている。これは三位一体を象徴しているそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原城へ行く前にキリシタン供養費を見る。
これも鈴木重成によって建てられたもので、
首3333個を埋葬したと書いてあった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
神社の手水鉢は丸い穴が穿たれているが、
死者の再生と豊穣を願う古代信仰からきたものだとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ようやく原城到着。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天草、普賢岳がきれいに見える。城壁は幕府によって破壊されていて、
1.5mの厚さの土で覆われていた。その間に乱の死者や建物に使われた石など
様々の物が捨てられていたという。
 
ほねかみ地蔵や天草四郎の墓を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本丸跡は大変広いところで、多くの人が籠城できたことが分かる。
一方で、三方を囲まれたら、海にしか逃げられないことも分かる。
 
ここから原城文化センターに向かう。
途中に板倉重正供養碑があった。幕府の最初の大将であるが、討ち死にした。
その場所に建てられたという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その直ぐそばには、キリシタン関連の石が置かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
原城文化センターでは原城から発掘されたものが展示されている。
人骨の様子や、発掘されたロザリオも展示されていた。

 
 

Posted by hajimet at 21:42 | Comments (0)


天草・南島原紀行(3)

12月4日午後。
本渡から東向寺へ向かう。曹洞宗の寺で鈴木重成による創建。
キリシタンの学校だったコレジオがあったとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会やキリシタン関係の施設があったところは、ことごとく寺院が建てられたという。
仏教によるキリスト教の否定という意味がある。
それはそれとして、山門の裏て稲荷を祀っているのも面白い。
 
そこから2.5キロ、鈴木神社に行く。三河から来た鈴木重成らが祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本殿の真裏には鈴木重成の遺髪を祀る遺髪塚があった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
社殿の脇には演劇などを奉納できる舞台が作られているが、
座石部分が円形に整えられていて、シアタースタイルで作られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木神社から富岡城に向かう。非常に狭い、つづら折れの山道を急勾配で上り下りする。
1607年に唐津藩主寺沢広高によって築かれたが、島原の乱の時にキリシタン勢の
攻撃によって、陥とされそうになった所でもある(ここの戦いの後、拠点を原城に移した)。
 
本丸跡からは陸繋島の地形がよく分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富岡城跡に続いて、富岡キリシンタン供養碑を見る。
島原の乱の死者の3分の1の首(3333体と言われる)をここに埋めて、
塔としたもので、鈴木重成の手によって供養塔が作られた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一番上の文字はよく分かっていないが、種字説によれば、これを種字に使えば、
どんな罪人でも極楽浄土へ行けるという意味で、罪人であったキリシタンでも
許されるという意味になるとする。
 
たしかに罪人扱いなのだろう。キリシタンを「鬼利志丹」と書いてある。
 
続いて大江天主堂へ行く。ロマネスク様式のコンクリート造り。
潜在キリシタンが復活キリシタンになった最初の地であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに崎津天主堂へ行く。海岸沿いで、とてもきれいな風景。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会は、ゴチック様式である。元々庄屋の家を買い取って教会にしたもので、
聖壇の場所は、かつて「踏み絵」を行っている場所であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、コレジオの跡へ。崎津の入り江の一番奥で、天草にキリスト教を布教に来た、
アルメイダの上陸地点である。本渡と並んで、南蛮船が到来した港がここである。
この湾の奥、崎津川を上ったところにコレジオ(天草学林)跡と推定される場所がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに天草コレジヨ館を見る。この当時持ち込まれた西洋楽器や、
グーテンベルクの印刷機の復元がある。
天草本といわれる本をここで印刷したと言われる。
 
この印刷機は、バテレン追放令後島原に移され、最終的にマカオに運び出されたそうだ。
 
夕食は伊勢エビ、ヒオウギ貝、アジ、イカなどの刺身、ウツボの刺身(免許が必要だそう)、
車エビの塩焼き(天草が養殖の始まりとか。)ワタリガニ、カワハギの煮付けなど、魚がメイン。
豚のしゃぶしゃぶも。
 
 
 

Posted by hajimet at 21:05 | Comments (0)


天草・南島原紀行(2)

12月4日午前
 
殉教公園に行く。本来は天草氏の本渡城跡で、
1589年に加藤清正、小西行長連合軍によっている陥された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
本丸跡にはキリシタン墓地がある。島原の乱前後のものか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

墓石には、十字架を彫っているものがみられる。一方で、名前を彫ったものは見当たらない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

下に降りていくと、天草四郎を供養するために手まりを作ったという、
手まり塚やメモリアルの広場。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

出丸跡の島原の乱の供養塚である千人塚がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

そして、天草キリシタン館を見学。
http://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kirishitan/
当時の切支丹関係の資料が多く集められている。
このときは、陣中旗の本物が展示されていた。
 
この周囲に植わっている樹木はいくつも寄生植物をつけている。
どれもハギが植わっているのも面白い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
キリシタン館から明徳寺に向かう。島原の乱後、この地をキリスト教から仏教に変えるため、
代官の鈴木重成によって創建された。山門は1714年のもの。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ここの柱聯、右側が注目される。除耶蘇之邪宗と書かれているのだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ただし、色があせてきて、修繕が望まれる。境内の前はイチョウが黄色く色づいていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

司馬遼太郎は『街道を行く』の中で、階段に十字架が刻まれていると書いてあるが、
残念ながら、確認出来なかった。
司馬遼太郎は、十字架を踏みつけて仏の寺へ行くということだと書いていた。

Posted by hajimet at 20:23 | Comments (0)


天草、南島原紀行(1)

12月4日、天草空港へ飛ぶ。
前日は午前中の授業を終えた後、羽田から福岡に飛び、一泊。高校の友人ともつ鍋をつつく。
飛行機は9時30分福岡空港発。機種はDHC8。プロペラ機。40人ほどの定員。CAさんはとてもフレンドリーな人で、どこを飛んでいるかなど、丁寧に教えてくれた。手作りの機内誌も見ていて面白い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

席は一番後ろ。バスの後部座席のように横一列に並ぶ。窓際で見ていると、車輪の動きが見えて面白い。離陸する瞬間、車軸がスッと伸びる様子が見えた。飛行機は九州自動車道に沿って南下する。まもなく筑後川の河口が見えてきた。合唱曲「筑後川」で知られるが、「河口」もテーマになっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
大牟田上空を通過し、有明海を横断。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

雲仙普賢岳を右に見ながら降下する。平成の噴火の大火砕流のあとや、江戸時代の噴火で崩壊した眉山やそれによる海中の流れ山の様子がよくわかる。これだけ流れ込めば「島原大変、肥後大迷惑」の意味も実感できる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

飛行機はわすか30分で天草空港到着。人間が降りるよりも、預けた荷物の方が先にカウンターに到着していた(作業員が手で運んでいた)。気流の関係で降下中はそこそこ揺れていた。
 
空港からはレンタカー会社の営業所まで送迎バスに乗る。本渡から出発してキリシタン関係の遺跡を見る予定だ。

Posted by hajimet at 20:04 | Comments (0)


2012年6月12日
中国東北部史跡紀行8日目(6月3日)

最終日。雨。
瀋陽から集安にかけて、気圧の谷と寒気の影響があったが、
これまで本格的な雨には遭遇しなかった。
 
朝、ホテルの目の前にある駅前を散策。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くの看板を見ていると、キムチの看板が。辣白菜
…「ぴりっと辛い白菜」…確かにそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから、朝食。朝鮮風のものが多いが、飾り唐辛子が、
四川料理などに使われる大ぶりの乾燥唐辛子で、かみ切れない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時半、宿を出発して、城山子山城へ行く。
高句麗の城址だが、尾根に挟み込まれた平地があるという地形で、
山城には最適。韓国的に言えば、明堂にある山城である。山の下には古墳も見える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ただし、2つの理由でたどり着けなかった。
一つは道が悪路でありぬかるんでいたばかりか、
高速鉄道の工事で突然寸断されたこと。
 
もう一つは迂回路が、大型バスが入れなかったこと。
遺跡まで歩いて行くと、飛行機に間に合わない恐れがある。
そこで、そばまで行くことを断念して、市内見学へ。
途中漢族の集落を通る。実は、漢族の集落も多い。
入母屋の朝鮮族の集落と違い、切り妻で作られ、煙突も壁に埋め込まれる。
ペチカのような暖炉が使われるのだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漢族の集落も多いのだが、朝鮮族と混ざり合っているのは目にできなかった。
同じ集落の中でも、漢族は漢族で、朝鮮族は朝鮮族で固まっているように見えた。
 
市内に入る。延吉は布尓哈通河を中心に栄えている都市だが、
この河の名前は「柳のきれいな川」という満州語から来ている。
哈爾浜も含めて、満州語由来の地名が多く、あらためて満州語、満州族のことを
知らないと、この地域のことを正確には理解出来ないと思った。
 
町中は朝鮮語だらけ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、ロシア人が多いことを窺わせる標識も。ここはお土産屋の前。
途中から朝鮮語の分かる人が来たが、それまでは漢族だけ。
チマチョゴリを着ていても漢族。英語で言えと言われたが、
I want to buy a T-shirt がなかなか出てこない…。
中国語で私は「漢族」だから「漢語」でといわれてもね…(このくらいは分かる)
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、エリート教育も漢朝両語教育。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このようなものを眺めながら、空港へ。
搭乗手続きは、荷物検査を受けてから、中に入って手続きをする。
何となく、(普通の空港なら)保安検査の場所が搭乗手続きの場所なのである。
 
保安検査の時、何故か「トゥイ」と言われた。
最初分からなかったのだが、朝鮮語だった(日本のパスポートを見せたのに)。
そして売店も、当然のように朝鮮語で会話…。
 
飛行機(KAL)は定刻の12時5分(日本時間13時5分)に扉が閉まった。
 
隣の席のハルモニはかなり中国語訛りになっている朝鮮語で話しかけてきた。
 
しかし、いつまでたっても動かない。管制の指示と言うことだった。
飛行機は一旦大連上空に出て、黄海から仁川に回り込むルートをトルのだが、
黄海上のルートは30分に1本しか飛行機を飛ばせないことになっているそうだ。
 
その間隔の谷間に落ち込んだのだろう。
1時間10分後、飛行機は50mほど動いた。
そこで、またストップ。結局2時間近く遅れて出発した。
 
一方で、こちらは大慌て。
15時30分に仁川に降りて、韓国に入国して金浦空港に移動して、
19時発の飛行機に乗ることになっている。
 
機内で、大丈夫かと聞くと「多分大丈夫でしょう(これ、実は危険な表現)」、
「30分前に着けば乗れますよ…(記憶では45分前まで)」。
 
やはり飛行機はよく揺れる。ついには乗務員も着席。
…機内食は、ウナギの蒲焼き。
 
17時15分に仁川到着。
大急ぎで入国手続きをするが、指紋と顔写真撮影で結構時間がかかる。
17時30分入国。
 
今度は荷物が出てこない…。優先タグがついているのに…。
そして、税関を通過して、1万円をウォンに両替。
 
機内の反応から、金浦に行こうと思ったが、
念のため出口にあるKALのインフォメーションに(複雑な話は日本語で)
eチケットを見せながら事情を話したら、顔色が変わった。
「国際線で30分前はない」「延辺からの飛行機が遅れた」と事務に問い合わせ。
結局「仁川−羽田」便に振り替えてもらった。
 
そして言われたカウンターに行ったら、そこは成田線の搭乗手続カウンター。
言われたところと雰囲気が違う。
案内の人から、成田行きは満席だと言われつつ(英語しかしゃべれない人だった)、
日本語の分かる人に来てもらって(もう韓国語で話すのは限界…疲労優先…
2時間しか寝ていない日の夕方なのだ…日本語の分かる人でなければ
ダメだと(韓国語で)強く主張して)、説明。
 
搭乗手続きの係のその人と、一緒にオペレーターの所に行って、
振り替えの確認して、チケット発行の所に並んだが、
なんと、再発行の必要は無く、搭乗手続きをすれば自動的に振り替えになる事を告げられ、
結局、その係の人の受付で手続きをしてOK。
 
そして、そのまま出国へ。審査が終わったのは18時25分。
たった55分の入国で、仁川空港の1階から3階まで行っただけ。
ウォンは円に戻さず、次回のためにとっておく。
 
中で名古屋のメンバーと再会し、お別れ。
そして、食堂で(普段は帰国の時に韓国食は絶対に食べないのだが)、
ユッケジャンを食べる。慣れた味で美味しかった。
 
朝鮮族の料理も、油浸しの漢族料理よりは美味しいのだが、
やはりどこか違う。ソウルで食べて、ホッとしたと共に疲れた噴き出してきた。
帰りのKALの機内食は、プルコギご飯。4回乗ったKALのなかで、唯一の韓国食。
 
家到着は12時だった。
さすがに強行軍で、そのあと1週間、どこか疲れの残りを感じた。
今回は時差の違いは意識しなかった。前回のときは体の時間を
中国時間にしたために、その後1週間近く変だったのだが、
今回は、早起きが多かったので、基本的に日本時間を意識するようにしていたのだ。
そのため、時差はそれほど問題なかった。
 
さて、今回は古代と共に、ロシアと日本を意識しつつ旅行するつもりだった。
しかし、随所で、満族の影を感じさせる旅行となった。
中国東北を語るときに、満族は抜きに語れないと感じたのである。
これから、少し勉強したいと思う。
 
それとともに、この地域の、歴史的包容力の大きさも感じた。ともかく面白い地域である。
特に、延辺はすこしこだわりたいと思う。
自分の関心のある人物も、この地で活躍しているのだから…。
 
それとともに、一度北京と上海を見なければ…。2回も東北に行っているのに、
首都を見ないのも…。

Posted by hajimet at 23:08 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行7日目(6月2日)

朝、ホテルの周りを散歩。
ホテルのエレベーターのボタンは、
どこもステンレスにそのまま数字が浮き彫りにされて見にくい。
 
ついでだが、大連、瀋陽のホテルはエレベーターが来るときに鐘が鳴る。
下りは2回鳴るのだが、ピッチも感覚も緊急地震速報のベル鐘そのもので、
無意識に緊張していることが分かる。
 
寝室から外を眺めると、昨年完成した鉄道が走っていた。旧満州国皇宮まで行くそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中はその旧満州国皇宮を見学。中国では偽満皇宮と呼んでいる。
宮殿の生活様式を復元している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機の時間の関係で11時頃昼食に。豆腐料理が美味しかった。
また、卵焼きに掛けられているのは、トマトソース。変わった味だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機は50分で延吉空港に。途中は気流の関係でかなり揺れた。
空港は野原の中にある。しかし、ここは朝鮮族自治州。
表示が一気に朝鮮語に変わった。個人的にはとてもホッとした。
(延辺の朝鮮族を扱った韓国語の分かる日本人の本が、同じような事を書いていた)
 
ついでにガイドさんの日本語が、中国人の日本語から、韓国人と同じような表現方法を
する日本語に変わった。これもホッとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
標識も朝鮮語。韓国とは表記が違うのも面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早速、和龍にある西古城に向かう。
途中、朝鮮族の集落を多く通過する。朝鮮族の家は入母屋造り。
煙突が建物の外にある。オンドルを使うためである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、丘々の上には塔が立っている。抗日部隊の記念碑である。
延吉は朝鮮と隣接しているために、朝鮮から人々が流れ込んだのだが、
それゆえ、抗日闘争の拠点でもあった。日本側も監視をしていたところである。
 
延吉からロシアも近いため、抗日活動をしている人の一部はウラジオストークで
活動した。ウラジオにいた人々はスターリン時代カザフスタンなどに移住させられ、
ロシアのコリョスキーとなっている。韓国の人は、抗日運動の聖地の一つとして、
ここを訪ねてくる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バスは龍井を通過して小一時間で和龍の西古城に到着。
ただし、非公開なので、「車窓」見学となった。渤海時代の中京顕徳府のあとである。
整備中のため、公開されるのが楽しみである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周囲は田植えが終わっているが、延吉は米の美味しいところで有名である。
元来、朝鮮族の米は美味しいとされてきたが、特に美味しく、溥儀に献上していたそうである。
今も、人民大会堂の公式行事の時にはここの米が使われると聞いた。
 
続いて龍井中学へ行く。詩人尹東柱の出た大成中学のあったところだ。
 
死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥も ないことを…で始まることで知られる、

「序詩」−空と風と星と詩−の詩碑が建てられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
復元された中学校校舎の中は資料館になっていて、
延辺の朝鮮族の歴史が分かるようになっている(ただし、中国の観点から)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、間島日本領事館の建物を見る。間島は延辺のことを
戦前、朝鮮や日本が使っていた別名。ここに置かれた名目は、
日本国民である朝鮮族の保護であった。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は北朝鮮の店で食事。韓国風(朝鮮風でなく)と中国風の混ざった
不思議な料理であった。踊りもあったが、料理以外は撮影禁止であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一度ホテルに戻ってから、マッサージに行く。
漢族が担当する。しかし、「アパヨ」「ケンチャナヨ」と聞かれた。
「韓国語が出来るの?」と聞いたら、「ちょっとだけ」と答えていた。
(丁寧な担当者だった。瀋陽では気がつかれないで終わったが、
ここの担当者は足の怪我の跡をちゃんと気がついて、マッサージしていた)。
 
最後の夜。なぜか3時まで眠れなかった。翌日は5時起床…(モーニングコールは6時)。
 

Posted by hajimet at 22:23 | Comments (0)


中国東北史跡紀行6日目(6月1日)

朝、早めに起きてホテル周辺を散策。
近くの学校では運動会を行っていた。
この日は国際児童デーとのことで、中国ではこどもの日である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
普段からもそうだと聞いているが、周囲には露店が出ていて、
学校の入口には食べ物屋が出ていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そのすぐ前が朝市。朝鮮族か漢族かは見ると直ぐ分かる。
トラジを売っている朝鮮族。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これはどっちだろう。赤唐辛子はなく、青唐辛子しか売っていなかったが、
大ぶりなものしか売っていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮族のチジミ

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
漢族の油条、隣は饅頭屋

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮族の漬物屋。
これまで中国で食べるキムチは色が薄く、発酵も弱いと思ったが、
これを見てはっきりと分かった。
朝鮮族の味付けなのだ。朝鮮族の多くは北朝鮮の地域から入ってきている。
そのため、北式の味なのだ。ソウルにいた平壌出身の故人が、
ソウルのキムチは赤くて辛くて食べられないと行っていたことを思い出した。
他に鮒を売っているところもあって、内陸にいることを感じさせる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7時過ぎに出発。関馬山城を見ながら、通化へ。
通化の航空隊の跡を見ながら(今も人民解放軍がいる)、長春へ。合計6時間。
有料一般道を北上し、梅河江から高速に入る。
バスは盛んに警笛をならす。
 
以前、道ばたで携帯電話で話をしたとき通過した車から盛んに警笛を鳴らされ、
不思議に思ったが、今回見ていると「車が通過するから、余計なコトするな」という
意味だと言うことが分かった。
 
その手前、熱河駅前で休憩。駅前有料トイレは…別にきれいではなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
梅花江から乗った高速のトイレは、新しくきれいなものだった。
書かれていることはどこも一緒。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長春でようやく昼食。時間はなんと2時半。文革をイメージした店だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中には、当時の風刺画や、新聞が貼られている。これはこれで貴重な資料。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後吉林省博物館へ。漢景帝の陵から出土したものの展示を行っていた。
宦官の俑があるところが珍しいとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その後市内観光。満鉄附属地に作られた日本の遺構を中心に見る。
長春以南はポーツマス条約で日本の勢力圏となったところだ。
東清鉄道もここで満鉄に乗り換えになる。
ハルビンがロシアのショーウィンドウになったのに対して、
長春は日本側のショーウィンドウであった。
一方で文化はロシア側から流れ、旧大和ホテルのようにアールヌーヴォーが流行った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、関東軍司令部のように帝冠式の建物もある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに国務院のような興亜式+満州様式の建物も見られる(官庁街は興亜式)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中でお土産のウーロン茶の店に行き、見学。それか食事。
韓国料理。集安では冷麺は夏場は衛生面の問題があって出せないと言われたが、
ここではメインに出てきた。そして何の問題も無かった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルは日中友好会館。ガイドブックには日本語が通じることになっているが、
通じない。今回日本語が通じたのは瀋陽だけであった。ほとんどの所が通じる筈なのに。
 
長春のガイド氏の話によると、賃金が安く、なかなかホテルに留まらないとのことだった。
 
 
 

Posted by hajimet at 21:24 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行 5日目(5月31日)

東北紀行5日目。そろそろ中華に飽きつつ、朝食。饅頭が中心だが、
くずきりのようなものや、黄色いカボチャ(美味しくない)もあった。
 
通化を出発して、集安に。1時間ほど走ったところで休憩。
6年前もきれいなトイレがあると言うことで休憩した場所だった。
腰をかがめて頭が隠れるくらい。立ったままズボンを下ろせないくらい低い扉である。
ちなみに、紙はホテルの公衆トイレのようなところでも備えていない。
そのため、ホテルの部屋からトイレットペーパーを持ってきて、鞄の中に忍ばせていた。
 
売店のおばさんは韓国語で話しかけてくる。
といっても、こちらの韓国語が通じるわけではない。
高句麗は韓国史にとっても重要な国なので、韓国人訪問客が非常に多いのだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに1時間走って集安に。峠から下る道は積石塚が左右の林の中に点在する。
ここは、桓仁の次に高句麗の都となった町である。
まずは、丸都山城。入口は高句麗式の甕城である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから200mほど山を登り、見張台(天将台)を経て王宮跡に。
途中農家があり、耕作している。
世界遺産になるときに、遺跡監視も予てあえて撤去しなかったとのことだ。
 
王宮跡には八角形基壇の建物が二つ並ぶ。
高句麗は早くから仏教を取り入れているから、寺院の基壇の可能性もあるが、
一方で、八角形信仰があって、そこに仏教が融合した可能性もある。
ここから、見張り台、門、平城のあった集安市内、北朝鮮の山々が一望できる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
丸都山城の下は貴族墓古墳群。桓仁と同じようなただ石を積んだだけの積石塚から、
隅石を作ったもの、階段状のものなど、積石塚の発展史を追うことが出来る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これを見て昼食。「故郷村」という朝鮮族の店(でも、韓国語は通じない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トラジの和え物、豆腐チゲ、刻み青唐辛子、ニンニク、キムチ…。
特にサンチュをみてホッとした。味噌は日本の味噌に近い。
ところで、漢族の料理はニンニクを丸ごと料理の中に入れているのに対して、
朝鮮族の料理は(韓国のものも)ニンニクを丸ごと調理しているものは見なかった。
 
食後、広開土王(好太王)碑を見学。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覆屋の中には入れるが写真撮影は禁止。そのため、外から撮ってみた。
「倭が渡海して臣民となす」の部分、何とか撮れた(画像処理済み)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続けての大王塚は雷が鳴ったのパス(前回も行っているので)。
王陵と碑、そして守る人の集落が見つかっているので、これが広開土王陵だというのが、
説明者の九州国立博物館館長の西谷先生の説。
 
そして、将軍塚へ。日本の通説は広開土王陵。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それから特別企画として、北朝鮮国境ツアー。
集安から北朝鮮側の満浦(集安対岸)へと鉄道が通っている。
だが、本来はそばまで行けるそうだが、国境が緊張しているため、近づけなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市内に戻り、国内城見学。城内で発見された建物跡などを眺める。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁は丸都山城の所から流れ下る通溝河に沿っている。
それが鴨緑江に流れ込むところは筏登島という北朝鮮側の川中島が
すぐ目の前にある。川幅は100mない。集安側は6年前に比べて都市開発が
行われていたが、北朝鮮側も村が出来ていて、人々が動き回っていた。
今回は北朝鮮側のAM放送も聞こえたし(以前は聞こえなかった)、
対岸の精錬所の煙も出続けていたので、多少は経済状態もよくなったように見えた。
(国境地帯という特殊性もあるのかもしれない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は韓国料理。ちょっと味が違うが、焼き肉。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホテルはホリデイイイン。ホンコン資本のホテルで、施設も良い。
ただ、PCの接続は大変だった。ITに繋ぐのにDNSを手動で設定しなければ行けないのだが、
その説明書が中国語の紙切れ一枚。係を呼んで、それを教えてもらうまで気がつかなかった。
洗面所には成人用品が…。通化でもあったが、子供も泊まるところにこれは…。
記念に写真だけ撮っておいた。

 
 

Posted by hajimet at 20:37 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行4日目(5月30日)

ひたすら移動と見学を繰り返す一日。
瀋陽から撫順に向かう。7時半に出発だが、
自分たちのバスが対向車線にUターンしている最中に、
内側からUターンをしようとして突っ込んできた車のため、30分路上に止まる。
(Uターン出来る余地は無く、携帯で話をしながら、無理矢理突っ込もうとした)
 
約1時間。撫順着。石炭の町で、なんとなく黒ずんだ市内を抜けると
高句麗新城。遠くには遼の時代の塔が見える(写真には写っていない)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山の周り全体に高句麗の土塁が巡っている。南門と北門の土塁は遺っている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高句麗新城を見学した後、第3玄菟郡跡地を遠望してから、蘇子江に沿って上流へ。
新賓満族自治県に入る。ここは清(後金)の発祥地。
ヌルハチの親の陵(永陵)が世界遺産になっている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
自治県であるので、民族の風習などを意識したものが多い。
役所の看板も満州文字。ただし、読める人は全中国で200人(シボ語は違うものだと言われた)。
満州族が残した本をこの200人で読んでいっても、200年かかる量だそうだ。
町中も満州風の建物が建つ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここから10分ほど歩いたところに、第2玄菟郡城址がある。
土塁が巡っているが、それも含めてすべてトウモロコシ畑になっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
記録によると、漢によって置かれた玄菟郡の高句麗県のあった場所で、
高句麗県城もこの直ぐそばにあるとのこと。高句麗県は
高句麗国に押されて玄菟郡が撫順に移ったときに、一緒に移転したそうである。
食事は、満族(風)料理。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
辛いもの独特のものは避けてもらったというが、ソウギョ風の川魚にかかっているタレは
激辛。ピーマンの炒め物と思って食べたものは、巨大な青唐辛子だった。
焼く前の煎餅のようなお餅は美味しかった。
食堂の前は、ヌルハチの生まれたカトアラ城。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近くには、後金の城址や、高句麗の城址が点在する。
周囲は田植えが行われ、山は韓国では見られない杉や檜林が広がる。
しっかり手が入っている立派な杉林であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そのような中、2時間バスに乗り、峠を越えて桓仁に入る。
高句麗の最初の都があったところだ。
まずは、初期高句麗の古墳、上古城子積石塚を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初期のものはただ石を積んだだけ。少し時代が下ると、
基礎だけ大きな石で方形に整えられる。
続いて平城。下古城子城址を見る。
現在集落の中になっていて、片隅の土塁が遺っているだけだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高句麗の城は平城と、戦争用の山城がペアーで作られる。
五女山がそれにあたるが、それに登らずに、五女山博物館を見学する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
以前は昇ったのだが、階段が急すぎる。上り口から頂上まで999段。
桓仁を離れ2時間ほどで通化の町に。
関東軍が終戦の時にここから日本へ飛行機で逃げようとした町だ。
夕食は中華。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本時代に導入されたワインが名物。かなり甘いものだ。
また、米の美味しいところで知られる。ジュンサイのスープが絶品だった。

 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 08:26 | Comments (0)


2012年6月11日
中国東北部史跡紀行 3日目(5月29日)

朝はホテルの30階でバイキング。
ホテルニューオータニと同じく、回転式展望台で食事なのだが、
「揺れる〜〜」。回転は止まっていた。食後表に出て大連駅を見る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
反対側には大連市電が。通勤客や夜行で来た人々で駅前は賑わっていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市電だけでなく、トロリーバスも走っている(バス中から撮影。ブレブレ)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中はロシア人街、日本人街を見る。
大連は三国干渉後、ここを租借地にしたロシアが作った町。
大連も、元々は「ダリーニ」で「遠方」の意味。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東清鉄道に経営を任せていたが、その社宅も復元中である。
日本人街は中山広場(旧大和ホテル)、満鉄本社などをみた。
以前訪れたときは、旧満鉄のマンホールが残されていたが、
今は、何の変哲もない大連市のマンホールに。期待してたので残念。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1時過ぎに大連発北瀋陽行きの列車に乗らなければならないので。
11時には昼食だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セロリの炒め物チンゲン菜と茸の炒め物、キュウリのサラダ、太いモズク風のサラダ、
エビ出汁のスープ、ワカメスープ、キクラゲと青梗菜の炒め物が出た。
店の前にはサクランボ売りがいる。今がシーズンで、普蘭店に行く道で露店が出ていたし、
大黒山城の麓のサクランボ畑では、実が文字通りたわわに実っていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
列車に乗る。出発後3時間、按山停車した以外はノンストップ。
4時間で瀋陽北駅に。駅前のグロリアプラザに泊まるが、そこに行くまでが大変。
駅前が、高速鉄道の工事でガタガタ。以前来たときのイメージはない。
 
そしてホテルに行く三叉路は、信号はあっても無きがごとし。
渡っているときに、高速で車が右折してきた。
地元の人は、上手く対応するのだが、日本のイメージからするとカオス。
バスもガタガタ。後ろが壊れたまま走っているものもある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜も中華。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ビールは「雪花」。トウモロコシの炒め物、ニンニクの芽の炒め物、
高野豆腐状のものの和え物などが美味しかったが、
特にキューリのスープが美味しかった。
漢族の地域では、キュウリを上手に使うと思った。
ウリ臭くなかったのだ。
 
夜は、瀋陽グロリアプラザ泊。

Posted by hajimet at 23:17 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行2日目(5月28日)

朝、窓の外は親に連れられた小学生が、ホテル前の学校に向かって歩いている。
皆、首には赤いスカーフを巻いている。
朝食はバイキング。キムチも出ているが、色が薄く、発酵が浅い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この後、何回か遭遇するが、沖縄の豆腐ようのようなものもあった。
非常に塩辛いのだが、現地の人はどうやって食べるのだろうか。
朝8時頃、普蘭店に向かって出発。
バスは、残丘状の平原を進む。金州から約2時間。
途中で、はでな葬儀、埋葬(土葬)の場面を目にした。
馬、ロバ、牛ともそれ違う。
 
普蘭店から南が、戦前の関東州である。
バスは清泉寺を目指す。市内から30分ほど。
ちなみに、この辺りまでが、戦前の関東州だ。
 
ここは高句麗時代の呉姑山城の跡だ。
寺の前の道は舗装したてであるが、
ガイド氏が下見をしたときには、まだ舗装されていなかったそうだ。
道の両側には巨大な道教的線香を売っている露店がちらほらある。
 
寺に入る。周囲はアカシアが満開だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その中、縁日が開かれていた。そのため、バスが中には入れず、
予定外の「散策」に。
ウィグル人の店(写真)や朝鮮族の店など、様々な露店が出る。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピータンを揚げているところもあるが、中にはロバをまるまる一匹という店も。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の入口に高句麗式の城壁が遺る。日本式で言えば升口(甕城)をつくることと、
石の中央をふくらませるのが、高句麗式の特徴。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
寺の中は、道教の影響を受けたものが多かった。
道教のお札も売られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ところで、寺にあったトイレ…。ガイド氏がきれいにするように頼んでいたそうで、
きれいになってはいたが、使いにくい…(使わなかった)。女性はどうだったのだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
普蘭店に戻って昼食。大きな肉団子、里芋のポテトフライ風、
山芋の「大学芋」が印象的だった。中国湯葉の和え物も美味しい。
また、魚の炒め物にパクチーが乗っている。
前回の旅行の時に比べて、パクチーが使われている料理が多い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ガイド氏は田舎料理と言っていたが、今回の旅行の中では、
一番素朴な料理であった。ビールは青島ビールの純生。味は濃い。
午後は旅順へ行く。まず203高地、旅順駅を見る。
203高地の売店。商売熱心すぎ…
旅順駅は目の前が旅順港である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
港は未開放地。でも、李鴻章の北洋艦隊がいたところかと思うと
妙に興奮する。続けて旅順刑務所に。処刑場を含めて
刑務所全体が公開されているが、
安重根が拘束された牢獄が印象深かった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
解説板を見ていると、中国語と韓国語。
韓国人の訪問客が多いことがわかる。
その後東鶏冠山を観光して、大連市電を眺めながら市内に。
町は6年前に比べて垢抜け、人々の服装も東京とそれほど違いがない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は中山広場のそばで食事。旅行中一番上品なものだったかも知れない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エビに春雨状のものを蒔いて揚げたもの、
茹でたブロッコリーとニンニク。。
椎茸とチンゲン菜。キュウリとベーコンの炒め物。
山クラゲとジャガイモの煮物などなど。ビールは青島ビールの純生。
金州、大連を含め、海に近いせいか、魚の味はよかった。
 
駅前の大連パールホテル泊

Posted by hajimet at 22:32 | Comments (0)


中国東北部史跡紀行(1日目)5月27日

この日から6月3日まで、
7泊8日の中国東北部の高句麗、満州、渤海などの遺跡を見学するツアーが始まる。
 
直前にかかりつけの内科医に行き、
風邪薬、咳止め、消炎鎮痛剤、消化剤、下痢止めをもらい、
他にめまい止めなど常備薬を持って万全に備える。
 
仁川経由で飛行機は13時20分(現地時間)、ほぼ定刻に到着した。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この日はまっすぐ20キロほど離れた金州へ行く。約1時間。
大連のある地域とは、狭い金州陸橋で繋がっている。
道路沿いには、日本や韓国の企業、開発区が続く。
「アカシアの大連」というが、花は終わりつつあるようだった。
 
金州は大連が出来るまで、この地域の中心地であったが、
そこからさらにバスで20分ほど進んだ大黒山山城に向かう。
高句麗時代の山城で、隋の煬帝はここを攻め落とせなかった。
そればかりか、隋を滅ぼす原因となった城だ。
入口が西にしかなく、あとは急峻な峰に囲まれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実際に、山の上からは黄海、渤海湾、大連方面、東北平原が見えるはずだが、
かすみにけぶって見えなかった。
山は高尾山級で、大連市民の憩いの山だと言うことだ。
時間的に、下山する人で溢れていた。山の下には、食堂や露店が出ていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
金州市内に戻る。町中には「餃子の王将」など、日本の店も多く出ている。
夕食は餃子の店だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
水餃子は美味しかった。また、セロリに軽く火を通して炒めたもの、
キュウリとイカを炒めた者も美味しい。キクラゲの炒め物も。
ここで呑んだ青島ビールは、薄いだけだった。
 
夜は金州賓館に泊まる。

Posted by hajimet at 22:05 | Comments (1)


2011年10月2日
かっぱ

10月1日、古墳巡りの途中、久留米市田主丸を通りがかった。町中カッパだった。
まず、巨瀬川ぞいに「カッパ大明神」」がある。

6月8日に町内のカッパ達が集まって、祭りを行うと言うことだ。
川沿いには、カッパの壁画が描かれている。

  

 
近くにある巨瀬入道河童(清盛の化身とも)

 
楽太郎河童…幸せそう(田主丸駅前)

 
たまたま来た久大線列車

 
近くの筑後川。一万匹の河童よさわげ、十万匹の河童よさわげ。どどん、どどん

Posted by hajimet at 20:08 | Comments (0)


対馬の食事(3)…と言っても、壱岐と唐津

9月29日昼 ウニのぼっかけ(壱岐、ハラホゲ)
さばいたばかりのウニをご飯の上に乗せたもの。
醤油代わりのタレもウニを溶き込んだものだった。


29日夜 唐津(ほとんど呼子)のホテルにて。
刺身、塩辛、鰒、その他煮物、牛など…
さらに、イカシュウマイも。

 
メインはイカの活け作り。げそは塩焼きや天ぷらに。
 

Posted by hajimet at 09:32 | Comments (0)


対馬の食事(2)その他の郷土料理。

9月27日夜。いしやき。
海岸の石を焼いてその上に焼きたいものを並べる。

この店では黄色いタレに付けてから焼く。
元は浜辺での漁師料理だったそうだ。

 
9月28日昼 対州(たいしゅう)ソバ
対馬は平野が全島の1%しかない。土地も余り豊かでない。
そばは繋ぎを使わない。

  
9月28日夜、いりやき
締めたばかりの魚を鍋にする。

Posted by hajimet at 09:19 | Comments (0)


対馬の食事(1)ろくべえ

27日に対馬到着。すぐ韓国の見える展望台に行き、すぐ近くの比田勝で「ろくべえ」を食べる。


固い黒こんにゃくのようなかみ応え。

 茶飯、漬物、ひじき、味噌、刺身などもでる。
ひじきも、ワラビの煮付けかと思うくらい長く太いものだった。

下は、ろくべえを団子風にこねて、黒蜜をかけたもの。

  
ろくべえの説明。

サツマイモを砕き、水にさらすなどしてデンプンを取りだし、

さらに団子状にして、数日、日に干して発酵させる。
それを粗jく下ろして粉状にして、上新粉のように調理。

Posted by hajimet at 09:12 | Comments (0)


対馬で見たハングル(2)

韓国に行くと、日本語で「トイレットペーパーはゴミ箱に」と書いてあるものを見かけますが、これはその逆バージョンです。


 

そんなこと言われても…。改行を工夫した方がよいような…。

 
社会問題です。

 
 こんなものもありました。やはり「国境の島」

Posted by hajimet at 08:44 | Comments (0)


対馬で見たハングル(1)

対馬、壱岐方面に行ってきた。震災後一時期を除いて、対馬は韓国から定期船と定期便が出ている場所。韓国客の9割近くが韓国人のため、韓国語表記もあちらこちらで見られる。ホテルの中もそうである。

프런터の方が普通ですが…。


 
ちなみに、この前に置いてあった、自由に使えるPCは起動した段階で、
韓国語IME設定になり、Facebookは韓国語版になっていました。
 


ホテルに関係ないが、久しぶりにハングルの長音記号を見た。

Posted by hajimet at 08:35 | Comments (0)


2011年9月10日
御殿場散策(両面石)

御殿場の宝寺院に行って来た。足柄方向へ2`弱のところにある。
途中で面白い石を見つけた。二枚橋の交差点を過ぎたところにある。
名前は両面石
片方から見ると「亀」、もう片方から見ると「ガマガエル」と言う石である。
 
こっちから見ると亀

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こっちらから見るとガマガエル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
結構リアルだった。

御殿場は富士山と箱根に挟まれたところで、景色が良い。
元は軽井沢とならぶ避暑地だったそうだ。
 
こちらは箱根。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

こちらは富士(♪「頭を雲の上に〜だ〜し〜)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
御殿場は元東海道本線の主要駅の一つだったが、
現在は1時間に2本列車があるかどうかのローカル駅となっている。
富士山登山、箱根観光の拠点である。
駅前には、蒸気機関車が置かれていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その入り口に蒸気機関車のミニチュアと、
鉄道唱歌、汽車の歌の碑があった。こちらの方も楽しい。

 
 
 

Posted by hajimet at 20:25 | Comments (0)


2011年7月31日
市区改正

明治23年(1890)の市区改正=都市計画地図である。
東京市全図だが、永田町の一部だけコピー。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
左下の緑の部分が「日枝神社」。公園計画地。
その右のオレンジのラインが計画道路。
それを上に逐っていくと、ちょっと左に曲がり直進できるようになっている。
途中から点線になり、さらに直進すると左右に横切る点線。
これが、国道246号線。
 
今もほぼ同じ道筋があるが、日比谷高校グラウンド脇の道は細く、
しかもクランクまである道となっている。この道も地図に書き込まれている。
ルートとしては良いのだが、道の狭いのがネックになっているが、
江戸時代以来そのままと言うことのようだ。
 
そこを直線にしよう(今のグラウンドを斜めに横切るように)といわけだった。
計画では8m幅。その後計画は修正され続け、若干ずれた形で
溜池山王からキャピタル東急前の道が拡張されたのが、ほぼ10年前。
長い時間がかかるものである。
 

Posted by hajimet at 09:00 | Comments (0)


2007年8月27日
大津・各務原紀行

暑い夏。8月の頭に膝の靱帯をのばし家でゆっくりする日が多かった。それでもお盆は佐渡へ行って法事に参加したし、下旬には関西方面へ旅行に行った。
 
怪我した直後には、スキーストックを杖代わりにして長野松代の大室古墳群や大本営跡、森将軍塚古墳を見学した(痛かった)。お盆のときも両津長安寺の朝鮮鐘を見学した(えっちらおっちらと)。そのときよりは足は楽になったが、まだ引きずる。
 
大阪へ行くついでに、大津による。大津歴史博物館にあるオンドル遺構と大津絵を見たいと思ったからだ。京都で途中下車をして、湖西線で西大津へ向かう。そこから歩いて10分ほど。大津商業高校や、遠くから聞こえる三井寺の鐘の音を楽しみながら博物館へ。常設展では大津事件の津田三造の特集をやっていて、ロシア皇太子(ニコライ2世)血染めの座布団や、津田三造に関する資料が多く展示されていた。大津宮、近世以降などの展示は、こぢんまりとしてはいるが、充実していた。博物館の前は見渡す限りの琵琶湖。ヨットがゆったりと走っている。大きいと思ったが、ここから眺められるのは湖南だけ。
 
続いて大津宮跡を見る。京阪「近江八幡」駅のそば。折り返し線のある駅で、脇には車庫がある。駅前に空き地があり、そこが宮跡。
 
ただし何があるわけでもなく、杭が立っているだけであった。博物館で場所を教えてくださった方が、「期待して行くと、なんだこれだけかと思いますよ」と行っていたが、まさしくそういう景色だった。

京阪で京阪膳所まで戻り、大阪へ。浜大津から京阪膳所までの線路の通っているところがそれまでの私鉄らしさと違うと感じたが、あとで古い地図を見たら東海道線が開通する前に、京都から大津までの鉄道が使っていた線路跡だった。米原方面から東海道線が伸びてくるまで、膳所駅のところで折り返して今の浜大津へ向かい、そこから汽船で琵琶湖を横断するルートだったようだ。
 
翌日、大津でレンタカーを借り、知人に運転を頼み再び湖西見学。渡来系の遺跡を中心に見る。京阪線にそって坂本まで行くが、近江八幡以北は線路条件がかなり違うようだ。それまでほとnど平坦で路面電車の延長のような線路だったものが、30パーミルを越えるこう配が随所に見られる。
 
坂本から比叡山の麓へ行く。まず日吉大社をみる。日枝神社の総本社であって、立派な山王鳥居がたっている。中は西、東にそれぞれ宮があり、古式ゆかしい拝殿が建っている。途中には室町時代の御輿が特別展示されていた。さらに水垢離のできる滝があったり、「いわくら」であろう石が多くある。気温は30度を超えているが、さわやか。山の雰囲気と木立の中、周りに豊富に流れるきれいな水がそう感じさせるのだろうか。
 
ただし、これらは古墳の石室だったものかもしれない。境内一帯は日吉古墳群の中で、付近には百基近いの古墳が残っているからである。
 
続いて袋古墳群を見に行く。日吉大社の近くで、整備されて公園になっているはずだが発見できなかった。ここに行くまでの道は宿坊などの穴太積みの塀が見事だった。
 
さらに穴太野添古墳群へ。墓地の脇、細い林道をあがっていく。さすが小型車。小回りがきく。墓地では野猿が2匹遊び回っていた。こちらは発掘したあと、いくつかの石室を整備して残している。
 
穴太遺跡(何にもない…ついでに食事の出来る店も)を通過してから、百穴古墳群へ。山の中に無数の石室が散在する。百済系の石室墳と考えられている。そこから崇福寺址へ行こうとしたが、道が悪すぎて断念。ガイドブックでは車ですぐしたまで行けると書いているが、車に傷をつけるわけにはいかない。
 
今回の旅行で一番びっくりしているのは、もしかするとこのレンタカーかもしれない。予想外の悪路だったし、カーナビは操作を間違えて延々と大津港への道を案内していたし…(京都に着くまで)。しかし、大型ワゴン車がそちらへ向かって上がっていった。こちらは車高の高い車の勝ち?
 
途中にある弥勒仏(滋賀の大仏)を拝見して下山。30号線を比叡山越をして京都へ。燃費も良くガス代は631円だった。
 
この日は愛知県の江南で一泊した。すぐそばが木曽川で河を越えれば岐阜県。
 
翌日は岐阜県各務原を中心に見る。各務原には山田寺、蘇我石川麻呂の墓、蘇原という地名、蘇我氏との関係を思わせるところだ。木曽川の対岸、犬山市には入鹿池などという地名もある。各務原には古代寺院も多い。
 
まず各務原の中央図書館の埋蔵文化センターへ行き、発掘品を見る。古代寺院の遺物、古墳からのものなど多くを見る。続いて須恵器窯へ。付近は須衛という地名。この近くに村国神社があって、壬申の乱の時の関係が深いことも分かる。神社裏の森の中は大量の古墳がある。半分藪となっているところを入っていき、古墳らしきものを見る。村国神社も古代の氏族との関係を感じさせる祭神が祀られている。
 
犬山で味噌田楽を食べたあと、青山古墳へ。愛知県側の犬山市である。古墳の説明をうけた。この古墳からは丹後半島につながる「土師器」が出てくる。丹後は古代、加羅と鉄の貿易をしていた地域で、今も加悦という地名が残っている。若狭を通じて朝鮮半島とのつながりが強かったと言うことになる。
 
続いて近くの田県神社へ。子宝祈願などの神社で、男根の奉納物がやたら多い。若い夫婦が多く訪れて、祈願していた。写真は珍宝窟で、前に置かれている玉をさすって願い事をする。その上をキノコ型をした笠が覆う。参拝した後、東京へ。夏休み最後の週末のため上りの新幹線は大混雑。指定席をとったが、「のぞみ」はかなり後までなく、「こだま」でのんびり帰ってきた。
 
名古屋ではホームにいるだけで頭がぼおっとしてきた。冷房の入った待合室は立錐の余地がないほど人がいるし、待合室でなくとも日陰にいる人が大多数だった。それもそのはず。名古屋を出てすぐのビルの上にある温度計は38度を示していた。
 
 
 

Posted by hajimet at 21:25 | Comments (1)


2007年5月20日
もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開 その2(ツアー)

2日目。
 
昨日は曇り空で、時間がたつにつれて蒸していた。夜は雨が降っていた。 早く起きて橿原神宮を参拝。畝傍山の麓である。この地域に神武、綏靖、安寧、懿徳などの天皇陵が散在する。前日の雨があがり、すがすがしい。ホテルに戻り茶がゆを食べる。天気予報では午前中は雨が降ることがあるが、午後は回復するという。しかし、これは裏切られた。
 
さっそく飛鳥資料館へ。キトラの玄武公開で混み合うため、真っ先に行く。8時50分頃バスが到着するが、すでに100人ほどが並んでいた。資料館の庭には飛鳥の石造物(人面石、酒船石、須弥山石、甕石など)のレプリカがおかれ、特別展示室では山田寺の回廊などが復元されていた。
 
 
 
 
30分ほど待って、キトラの玄武と対面。5ミリほどの均等な漆喰の上に繊細に描かれている。隣には高松塚古墳の玄武の模写が。こちらは中が削り取られている様子がよくわかる。特別展示室その2は玄武の由来。中国からの系譜を紹介していた。先日見学した高句麗五灰墳4号墳の壁画も紹介されていた。常設室も見る。飛鳥の軒がわら百済のものを並べていたが、本当によく似ている。まだ日本化していないのだ。
 
続けて飛鳥坐神社へ。神を呼ぶことと雷との関係(ちょうど鳴り始めていた)。雷が落ちることは神が降りてくることだそうだ。この神社には80万神が集まってくる。よい神も悪い神もいるが、よい神だけが集まってくるとのことだ。ここには男根石が多いのだが、そのことの説明なども受けた。続けて昼食。石舞台の脇の食堂である。休憩時間に石舞台を見学。そこからバスで飛鳥川に沿って奥飛鳥へ入っていく。
 
一面棚田の中をバスは峠を越える。ただし、この地域は6月に入ってからの田植えだそうで、棚田というよりは段々畑に見えた。そうこう言っているうちに飛鳥川に縄が張られているところに来た。
 
 
男綱とよばれ、道祖神などと同じ役割をするそうだ。下流側は神式で貼られ、上流側は仏式で貼られる。中央につり下げられている物は、下流側は男性を、上流側は女性を示している。ここから旧道に沿って谷をあがる。まず飛石。続いて南淵請安の墓。ここで滝のような雨に遭遇した。墓のある所は周囲に比べて高く、雷も鳴り始めたので、集落まで降りて雨宿り。雨は10分ほどで上がり、すぐに晴れ上がった。道路からはもうもうと湯気が上がっていた。後から分かったが、このそばに竹石王石塔もあった。
 
続けて飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社へ。手すりのない階段を270段ほど上がる。それほどきつくはないが、降りるときは怖い。続けて栢守集落へ。加羅との関係が指摘されている集落である。飛鳥川も細流となってしまい、音も聞こえない。ここの加夜奈留美命神社へ行く。
 
栢森集落から奥は芋峠となり、吉野へつながる。その吉野からの入り口を守る神社である。式内社であって、格もとても高かった。飛鳥は百済、高句麗の影響はあちらこちらで見られる。しかし、加羅、新羅に関係するものは少ない。加羅との関係も指摘されるこの集落も、飛鳥の中心地からすると、非常に山奥である。飛鳥中心地との関係であろうか、それとも吉野方面から進出してきたのであろうか。 このあとキトラ古墳を見学して、帰京した。

Posted by hajimet at 11:40 | Comments (0)


もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開1(ツアー)

久しぶりの更新。
 
キトラ古墳の玄武公開にあわせて行われたツアーに参加した。キトラだけでなく、普段行きにくいところが多くコースに入っている。朝7時台の「ひかり」に乗って東京を出発。京都で下車して奈良交通のバスに乗り換える。高速と一般道を組み合わせて110分の行程である。橿原から藤原宮あとを抜けて甘樫丘わきで飛鳥川をわたり向原寺へ。
 
バス停の前には小墾宮跡とも言われる土壇がある(今は蘇我氏の邸宅跡との説が強い)。向原寺は日本で最初にできた寺とされる。百済聖明王が欽明天皇に送った仏像を、蘇我稲目がここでまつったとされるからだ。後に推古天皇がここで即位して豊浦宮をおき(593-603)、その後蘇我馬子が譲り受けて豊浦寺とした。住職から発掘の様子などを聞く。江戸時代や鎌倉時代、飛鳥時代の寺跡の下から、宮跡が出てきて、さらにその下から邸宅が跡が出てきているという。
 
住職の案内で一部残されている宮跡を見た。軒先だそうで、ここの上をまさに推古天皇や聖徳太子が歩いたわけだ。それにしても3段の版築は立派だ。寺の横は蘇我稲目がまつった仏像を捨てたという難波池がある(ただし、物部氏の地盤は別のところで、そちらにも難波の津江あとがある)。裏手の甘樫坐神社には立石があり、その前でクガタチをしていた。
 
続いて於美阿志神社へ。檜前にある。なだらかな丘陵地帯である。東漢氏の始祖、阿知使主をまつるが、もともとは彼らの氏寺である檜隅寺があった場所だ。道を歩いていて、寺域に入った途端に布目瓦が散乱していた。
 
寺跡には講堂、塔、金堂の跡が残されていて、塔のあとには平安時代に建てられた13層石塔がある。この地域は渡来系の勢力が強かった場所で、高松塚もキトラもこの一帯にある。講堂跡からは高松塚の覆屋が一望できる。そういえば壁画は高句麗の強い影響が指摘されている。そもそも高市郡の7割が渡来系の姓だったそうだ。
 

 
続いてマルコ山古墳。近鉄の線路をバスがわたれないため真弓丘の丘陵を歩いていく。しばらく歩くと現れる集落が「地の窪」である。ガイド氏は「窪み」の意味で説明していたが、地形的には風水で言う「気」の吹き出す「穴」のことのように思えた。
 
古墳は地の窪集落の裏手にある。整備されていて墳丘に木などが生えていないので、慶州などで見る古墳のイメージに近い。高松塚やキトラと同じく終末期のもので、石室の構造もほぼ一緒である。発掘したところ、石室は漆喰で塗られていたが、石室はなかったとのことだった。たここからみる飛鳥の風景は絶景。山の稜線がほぼそろっているのも印象的だった。
 

 
一旦飛鳥を後にして今井寺内町へ行く。中世末に作られた環濠集落である。それまで条理集落や条理を元にして作られた池、地名を眺めていたのだが、まったく異なった世界に来たようだ。中世末に一向宗門徒によって作られた集落で、江戸時代いっぱい自治が認められていた。そのために裁判を行った家なども残されている。道筋は行き止まりや食い違いになっていて防御に優れている。土蔵作りで部屋の配置もすべて決められている。
 

 
明治10年2月10日に明治天皇が即位の報告をするために橿原へ来て、今井寺内町の中心の寺、称念寺に泊まった。その車列のために軒先を削られた家が、いまでも削られたまま残っていた。今井寺内町の人が明治天皇に拝謁するときの話が残っている。しかし、明治天皇はこのとき橿原へ参拝出来なかったそうだ。2月11日、西南戦争が始まったからだ。古い町並みもさることながら、風薬の看板も面白かった。「みみづ入」である。
 
ホテルに戻っておしまい。橿原ロイヤルホテル。炭にこだわった部屋で、あちらこちらにオブジェがある。部屋は静かで快適だった。

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)


2007年3月19日
武州渡来人紀行(3)

昨日の後半から、武蔵国を回っているので、上州から武州に名前を変える。
前日狭山茶を眺めながら飯能に泊まる。通勤圏なので、泊まることは珍しい町であるが、泊まったホテルも「今時?」というホテルだった。昔懐かしいというか何というか。インターネットは使えない。その上持って行った携帯とつなぐUSBコードをなぜかPCは認識しない。
 
翌日8時30分出発。高麗川の高麗家住宅へ。藁葺きの家で、様式は江戸時代前期以前のもの。昭和30年代まで使われたとのこと。あたりは梅の花が咲き乱れる。なぜか茶褐色のバッタが蜜を吸っていた(写真の真ん中・枝に着いている枯れ草みたいなもの)。
 
続いて高麗神社へ行く。この地域は高句麗系移民が開拓したところであるが、その辺の話を宮司から伺う。先代が昨冬に急逝されたとのことであるが、話はうまい。ここに高麗神社ができるまでの話と、それ以降の高麗氏の略歴、神社の効能?を端的に話していた。
 
先代には2001年にお目にかかった事がある。もうすでに体がかなり弱っていたようであったが、そのときに現職ともお目にかかっていたようである。そのときに系図を見せてもらいカメラに収めたが、本物と聞いていたが…今日、複製と判明。
 
続けて聖徳院に行く。山号が高麗山というように、本来は高麗神社と一緒だったものが、神仏分離令で別々になった。脇にこの辺の開拓の中心人物、高麗王若光の墓と言われるものがある。朝鮮式の三層石塔というがそれらしいと言われればそうだが、違うと言われれば違う。屋根の笠に当たる部分が風化していてなくなっているので、判断が付かないのだ、
 
山門をくぐり本堂へ。ここから入場料がいる。以前はそんなことはなかったのにと思いつつ、石段を登っていくと…。そこにはそれまでここで見たこともない立派な本堂が。さらに鐘突堂がある。その目の前に石像が。よく見ると「高麗王若光」となっている。その向かって左手、遠くには山越に富士山がよく見えていた。
 
境内の奥には無縁韓国人供養碑がある。在日韓国人のある人が中心となって寄進したとのことで、中央に石塔が建ち、その後ろに十二支像の彫り物がある。韓国の古墳の周りに彫られるものと違い、板に刻まれた「絵」である。その左手には東屋が。3.1独立宣言を発表したタプゴル公園の東屋を模したものと事である。入り口には石像が数体立つ。無名のもの(広開土王か壇君)、武烈王、鄭夢周などの像である。説明板には、高麗王若光が日本の中心で、風水のよいところであるここを開拓の土地と定めたという趣旨の説明があるが、これはおかしい。風水が入ってくるのは、若光が入植してからかなり後のことであるし、自発的にではなく、この地に政府によって住まわせられているからである。飯能駅で別れ、レッドアローで帰宅。池袋まで50分ほどの距離であった。

Posted by hajimet at 20:07 | Comments (0)


2007年3月16日
久々に・上州渡来人紀行(1)

久々の更新。あまり出かけていなかったもので。

高句麗紀行へ行った名古屋のメンバーと一緒に、上州から高麗川へ抜ける渡来人紀行にきている。やっと初雪の降った東京を9時半に出発。
 
親戚が新潟・佐渡にいる関係で群馬県はしょっちゅう通過するが、降りるのはほとんどない。高崎で降りたのは2回目。1回目は平成8年。父が亡くなった後、終戦直後に疎開した新潟五泉で父がお世話になった人に挨拶に行った帰りだった。新潟では油田を案内してもらった。その帰りに高崎で降りて多胡碑を見に行ったのだった。畑で採ってきたばかりのネギをロッカーに預けて(ロッカーの臭ったこと匂ったこと)。それからも高崎はしょっちゅう通過はしている…。
 
高崎駅でだるま弁当を買う。出かけるときからきめていた。東京のチキンライス、新潟の、ます寿司、横川の釜飯と同じくらい定番だ、普段の赤いプラスティックの入れ物に入ったものではなく、「復古だるま」。普通のが900円に対して1300円。素焼きの入れ物に入る。中身も素朴で。お品書きには牛肉のしぐれ煮(おいしい)、地鶏の付け焼き(そんなものかな?)、マイタケ委の含ませ煮、花豆のふっくら煮(食べであり)、マイタケのわさび和え(珍味)等々であった。
 
上信電鉄に乗り吉井へ。ワンマン運転。駅間距離が長いのと、レールが貧弱でよく揺れる。一部高規格のレールだがここだけは揺れない。以前乗ったときは西武の旧型車で、「弱め界磁」が自動的にできずに、手動スイッチで「弱め界磁」に切り替えていたのが印象的であったが、今回はさすがにそれはなかった。西武から来た車両には違いないが…。線路はしばらく河岸段丘と谷底平野の間を走るが、吉井の手前からは段丘面に乗る。
 
吉井駅で町歩きのパンフレットを探したが…なかった…やむを得ず持参したラフな地図で徒歩で辛科神社へ。駅前から国道254号線に出る。本当は古墳などを見ながら行きたかったが、名古屋のメンバーが「順調に」ついたとのことで神社へ直行。それでも少しコースを外れれば神保古墳群があるということで、そちらへ向かったが見つからなかった。
 
辛科神社も上神保という集落にあるが、河岸段丘の上にある。途中で畑越しに眺めた妙義、浅間は絶品。もともと韓郷と呼ばれていて、かなり早い時期から渡来人が生活していた。12時半に到着。「だるま弁当」を食べながら到着を待つ。神社は大宝年間に創建した神社で、この地域に古くから住んでいる渡来人が作ったと伝えられる。祭神はスサノオの命とその子、イソタケルの尊。ただし変遷があるようだが、いずれも渡来系の神であることはわかる。周りには神保氏が戦国時代に作った館跡の空堀が残る。
 
なお、神社が所有している古墳もあるが、そのようなところからは渡来人そのものの明確な遺物は出ない。そうとう土着化した渡来人がいたのだろうという。カラは加羅の事だとすれば、かなり早い時期の渡来人である。神社の入り口には「狛犬」らしきものが置かれている。少し雰囲気が違うが…実は「神獣」である。宮司さんの話によると、もともと仁王像があったが、神仏分離で別の寺に移されたとのこと。その後空いている場所に、先代が中国で買い求めたものだそうだ。由緒は…ない!
 
続いて多胡碑をみる。周りの風景は依然とずいぶん変わり、記念館ができていた。以前は碑の周りに回廊状に展示物があったが、それはなくなっていた。多胡碑は普段は覆堂の外から見るが、この日は特別に開けてもらい、間近でみることができた。但し碑にさわってはいけないとのこと。カビが出るそうだ。なぜここに碑があるかというと、ここに国衙があったからだとされるが、まだ発掘はされていないとのこと。記念館では文字の解析、付近から発掘されたもの、朝鮮、中国に渡った多胡碑の文字の話などが展示されていた。…しかし、胡が多いとは。ここに郡が作られた時期なら、そうとう土着した「胡」だったはずなのに。
 
続けてバスで30分ほどで保渡田古墳群へ行く。王家クラスの古墳で、石葺きの大前方後円墳が3つある。規模も大きいもので、一時期に3代分作られたことが分かっている。このうち八万塚古墳は作られた当時の姿に復元されている。関東にはほとんどない舟型石棺も出てきている。また、埴輪がすごい。群馬の古墳は堀に中島があったり、埴輪が多いのが特徴だが、墳丘に6千あったという。現在は3千復元されている。中には狩をする人と、その矢に射られて血が流れるイノシシが対になっているものもあった。近くから館あとや、渡来系の積石塚が見つかっている。2段の方墳で上段は完全な石積。埴輪も出ていて両方が混じっていることが分かる。ここからは「飾履」など渡来毛糸のものが出ている。
 
水田跡などもあるが、古墳時代の榛名山の噴火で一瞬にして埋まってしまったとのことである。そのため耕作したばかりの足跡も残っていた。たしかに目の前に榛名、赤城、妙義、その後ろに浅間が見えていて、火山災害の多いことが伺われる。たしか日本のポンペイといわれた遺跡もこの辺だっけ。そういえば、新幹線から眺めた土、熊谷あたりまでは白い砂であるが、高崎に近づくにつれて赤い火山灰の色が混じっていた。
 
…赤城おろしのひどい一日だった。あしたは埼玉方面へ。

Posted by hajimet at 18:02 | Comments (1)


2006年11月25日
昭島、羽村紀行
土曜日、天気がよいので昭島まで行った。東京で唯一の積石塚があると言うことなので見に行ったのだ。多摩地区から埼玉にかけては狛江、調布、志木、新座、狛江など渡来系の関係が以外と多い。大和朝廷が新羅、高句麗の渡来人を関東に配したこともあるのだろうが、古墳となると時代は少しさかのぼる。

立川から青梅線、拝島から五日市線に入る。青梅線はカメラを持った集団が先頭を占領していた。ディーゼル機関車が旧型客舎を牽いて走るとのことで、それがお目当てだそうだ(途中でそれ違ったが、プッシュプルで運転していた)。

東秋留駅で降りてまず二宮考古館へ。ここで発掘品を見たり、資料を集めて昭島に向けて歩き始めた。五日市街道のケヤキが見事に紅葉している中をひたすら西へ歩く。五日市街道のあるところは台地の上だが、秋川はじめ両岸を流れる川の向こうは急流が広がる。その向こうに関東山地が見え、富士山や大山まで見える。道の先にも山が立ちはだかり関東平野の末端であることを感じさせる。何となく韓国慶州の風景を思い出させる光景だ。左手に大山古墳を見る。円形だが、よく見ると墳丘全体が角張っている。方墳らしい。墳丘の上からは台地全体から丘陵一帯が見渡せる。都立秋留高校の標識を見ながら、昭島駅に到着。約25分ほど。

昭島駅から積石塚の瀬戸丘古墳群までは徒歩15分くらい。民家の中に石室があらわれる。その後古墳が密集しているという栗畑へ行く。落ち葉がおちてよく分からないが、一か所だけ石室らしき石組みが見えた。詳しくはこちらを

駅に戻ると1時半。近くで食事をとり、福生行きのバスに乗る。15分ほどで福生駅だ。地図で見ると十分歩ける距離なのだが、少々疲れたのだ。福生駅から青梅線で一駅。羽村駅だ。駅前に神社があり、そこに「まいまいず井戸」がある。ずっと話に聴いていたのだが、一度見てみたかった。地面を10メートルくらいくぼめ、螺旋状に井戸に下りていく。上から見るとカタツムリ(マイマイ)の様に見えるのだ。下りてみる。おりきったあたりがローム層の下端で、そこから礫層になる。井戸はさらに10メートルくらい深いところにあった。ところで、どこにも説明がなかったが、井戸わきに「隼人墓(塚)?」というのがあった。こりゃいったいなんだ?(疑問を残しつつ)

駅の反対に抜ける。まっすぐ坂を下りていく。途中馬の水飲み場跡を眺めながらどんどん下りていくと、そこは多摩川である。羽村は玉川上水の取水口がある。そこを見に行ったのだ。江戸時代に多摩川兄弟が作った堰とほぼ同じ場所に堰が作られ、多摩川の水の多くが一旦上水側に引き込まれる。そのうち余剰分を多摩川に戻すようになっている。堰の真ん中には筏用の門も残されている。多摩川兄弟の像を見る。これを見つけて嬉しそうに喜んでいたカップルもいた。そして玉川上水を下ってみたが、水の豊富なのは500メートルほど。そこで水は羽村浄水場へ引き込まれてしまい、その下流は少しの水が流れているだけであった。

ここで3時半になった。薄暗くなったので帰宅した。この日の東京の日の入りは4時29分なのだ。
Posted by hajimet at 22:27 | Comments (0)


2006年11月20日
広島
ここのところ、HPのUPの関係でブログはお休みだった。その間にも韓国、コンサートなど行っているので、改めて書くことにしよう。

まずは広島訪問。韓国語の教員研修のためで、17日から19日まで。往復飛行機。割引を使ったので、ほぼ新幹線と同じ金額だ。広合間訪問は91年以来2回目。あの時は駆け足だったが、今度は時間があることはある。

17日、授業が終わってから羽田空港へ。18時30分広島着。しかし、広島から先が悪かった。山陽道が事故渋滞で空港から市内まで2時間かかった。結局新幹線の方が早い。夜先に来ているメンバーと合流して韓国風料理を食べ、そのまま寝る。宿所は法華クラブ広島。

18日、6時半起床。朝食はバイキング。ヤマイモ、メカブ、広島漬けなどこの手のものにしては充実した内容だ。研修は午後からなので、午前中は宮島へ行くこととする。紙屋町東から広島電鉄で宮島へ。途中線路幅と道幅がそれほど違わないところを通りながら列車は進む。分岐点などは専用信号があるが、基本的には交通信号で走る、広電西広島からは専用軌道で鉄道用の信号で走る。隣は山陽線が併走する。

途中から忽然と戦前の建物が現れ始めた。広島市内は当然原子爆弾のためその様な建物はないので、突然何軒も固まって目の前に現れたのには驚き、改めて原爆の威力を知った。

宮島駅で降りる。道の向かいに船乗り場があるが、宮島行き船乗り場の看板が2つあり、入り口も二つ。JR連絡船と広電系の二社が競合しているのだ。まるで箱根の伊豆箱根鉄道と箱根登山鉄道の戦いみたい。あちらはバス停留場も船着き場も完全に会社ごとに別れているが、こちらはJRも広電もほぼ同じ場所に停留所がある。波止場も一緒で、対岸もならんでいる。駅の位置や列車本数から行けば広電に歩があるが、広電はJRに比べ時間がかかる。船は大鳥居のそばまで行けるJRに歩があるが、その分時間がかかる。実際行きは15分かかるが、帰りは鳥居によらないので10分だ。

厳島神社は多くの観光客でにぎわっていた。近くのガイドの話を聞いていると、やたら台風で崩壊したことを強調している。大鳥居を眺め、紅葉谷へ。名前の通り一面紅葉で、「旬は旬に楽しまなきゃ」という事を思い知らされた。それと一緒に、今年は中国、韓国、広島と紅葉前線に沿って旅行したので、なんと恵まれているのだろうと思い感慨にふける。秀吉が作らせ、途中で終わった千畳閣などを眺め、JRで西広島駅まで。昔の己斐駅だ。そこから広電で原爆ドーム前まで戻り、ドームと平和記念公園を見学する。

18日。雨(一時土砂降り)。
7時半起床。研修会が9時30分に始まるので、その前に広島城へ行く。1キロほどで歩いて15分ほどだ。目的は旧大本営址を見ること。広島城内にあるが、土台だけ残っていた。原爆で建物は吹き飛ばされてしまい、入り口に上がる階段までしか残されていない。原爆ドームは爆風がほぼ真上から来たため、建物の駆体は残ったが、こちらは横風だったのだろう。新羅の寺院跡とか、藤原京の旧薬師寺跡を見ているような不思議な気分だ。これが4秒程度の出来事だなんて。

午後、終了後、平和通りを歩いて比治山へ向かう。約2キロ。歩いて30分はかからなかった。途中被爆した石塔のある寺などを眺めながら陸軍墓地をめざす。予備知識なしで行ったが、入り口に「木口小平」の写真が。戦前の修身の教科書に「死んでもラッパを放しませんでした」といった人物だ。墓地の中に日清戦争でなくなった広島陸軍の合同墓があり、そこに名前が刻まれていた。朝鮮成歓で死亡。ソウル南方100キロの天安の少し北だ。戦前は天安駅前に銅像が立っていた。しかし、死亡場所を眺めていると、この戦争が朝鮮を舞台に行われたことが改めて分かる。墓地には北進事変で死亡した外人墓地もあった。墓地からは陸軍広島被服支敞あとから宇品港まで見渡せる。要するに陸軍の要地そのものだ。

その後広電で宇品港に向かう。似島や江田島へ行く船もあったが、時間の関係であきらめる。さらに広電で平和記念館へ向かい、資料を集める。高校の修学旅行生と一緒になったが、見学を進めるにつれての反応の変化が興味深かった。

18時30分発の飛行機で帰宅。飛行機はまず日本海へ飛び、それから東京へ向かった。関西にある低気圧を避けたのだと思ったが、それとともに直前に大阪上空で乱気流に巻き込まれ、けが人が発生したことが、あとになってわかった。実際飛行機は大揺れで、突然突き上げるように上昇したり、スッと下降したりで客室乗務員が思わずしゃがみ込むくらいであった。こちらの読んでいた本は一瞬にぐちゃっとなってしまった。機長も2回も放送を入れる位ひどい揺れだったのだ。
Posted by hajimet at 21:07 | Comments (0)


2006年10月7日
中国東北紀行その6(最終)
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。

中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。

ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。

風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。

駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。

東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。

Posted by hajimet at 09:41 | Comments (0)


2006年10月6日
中国東北紀行その5
9月30日。朝5時起床。早めの朝食を済ませ、瀋陽北駅へ。駅はホテル(瀋陽グロリアプラザホテル)の目の前である。このホテルはPCをインターネットに接続できるので、溜まっていたメールを整理することが出来た。雑踏の中待合室に入る。軟座となっているので、ようするにグリーン車の待合室だ。30分ほど、時刻表を買ったりして時間を潰し、改札時間にホームへ移動する。列車は2階建て編成の2階。時間になると音もなく出発するが、一方で車内には音楽が流れ少々うるさい(しばらくすると静かになるが、大連手前で再開)。

ここから大連までは4時間かかる。かつては7時間かかったそうなので、そうとうのスピードアップだ。レールの継ぎ目音はほとんど聞こえず、乗り心地も良い。車内の隅にはポットがおかれ、自由にお湯がつげるようになっている。車内はキレイで静かだ。よくうるさくて汚れているという話が出てくるが、硬座を含めてそれは感じられない。車内の人々の服装もかなりなもので、地方とは経済状況が随分違うKと尾を改めて感ずる。出発してすぐ張作霖爆殺現場を通過する。その後、瀋陽、鉄鋼の街鞍山を通過して大連市内に入る。

大連では餃子店に食べに行く。蒸し餃子、水餃子、焼き餃子、その他の中華料理と出てくる。これまで入った店でもお茶がなくなると、すぐに継ぎ足しに来たが、ここは少し趣が違った。クコ、菊、茶葉、ライチなどが入ったカップに少年が長い注ぎ口のある薬缶を勢いつけて注ぐ。時にはカップを手に持って背中に薬缶を回してついだりして、まるでドラゴンボールの世界だ。やはりお茶がなくなった頃次に来る。しかもカメラ目線。撮影され馴れている。餃子はこの地域では主食代わりで、水餃子が中心である。どれも美味しかったが、焼き餃子に食べ慣れているせいか、焼き餃子が一番美味しく感じた。

食後、旅順に向けて出発。バスで30分位の距離だ。旅順は外国人に対して完全には解放されておらず、限定されたところにしかいけない。まずは東鶏冠山。日本軍との激戦があったところで、外からはなだらかな山であるが、一歩中にはいると露西亜軍の要塞が築かれていたという。日本軍の爆撃跡が生々しく残り、頂上には記念碑も残る。近くには「銘記歴史、勿忘国恥」という看板があった。日本は旅順の激戦地に多くの記念碑を建てたと言うが、注意してみると他の山にも記念碑らしきものが残されている。

続いて水師営の会談場あと。もう少しひなびたところと思っていたが、住宅街の中で、イメージとは随分異なる。もともと民家を借り上げて会談場としたと言うことだから、それでもよいのかもしれない。当時の建物が復元されている。戦前日本側が建てた記念碑がそのまま保存され、見ることが出来る。建物の中は当時の様子が復元され、机などが当時のままおかれていた。入り口のそばにはスッテッセルと乃木希典が記念写真をとり、ステッセルの白馬を乃木希典に渡すためにつないでおいたナツメの木の三代目が植えられている。実がたわわに?なっていた。

そして203高地。頂上の爾霊山と書かれた弾丸型の記念碑や、乃木希典の次男、乃木保典が殺された場所の記念碑が残る。露西亜側の塹壕も縦横に走っている。ここから旅順港には大砲をうっても弾は届かなかったが、状況を一望できたので、司令所としての意味があったと言われる。山は今でこそ木が茂っているが、もともとははげ山である。そこで日本軍兵士が多く殺された。もちろん露西亜兵も。両国が協力して一時停戦して遺体をかたづけたという話もきいている。しかし今は唯一の桜の名所として花見をするところになっているとか、篭屋がいて観光地化しているとかでかなり複雑な気持ちになった。

旅順は日本人が主に訪ねる街とのことである。戦跡としてそうなのかなとも思う。おかげで道路がキレイになったといわれたが、かなり複雑な気持ちだった。日露戦争だけでなく、日清戦争の時もここで大きな戦闘が行われ、中国人が多く殺されているので、地元の人にも厳しい感情があると聞いた。一方でロシア人でここを訪れる人は多くないとも聴いた。大連に来るロシア人は漁船員か、長期休暇で海水浴に来るリゾート型の人が多いとのことである。考えたら、ロシアで海水浴できる地域はほとんどない。

夕食は海鮮料理。大連は鮮魚が上がるため、海鮮料理が食べられる。まずはカレイの刺身。醤油は日本のものだった。続いてトコブシ、海老、海鼠、牡蠣の揚げ物(フライよりも天ぷらに近い)、蟹などが出てきて、最後にカレイのフライが出てきた。此までも桓仁の川魚、通化の鯉のあんかけなどのように魚が出るには出たが、海の鮮魚を食べられたことで、何となくほっとする。夕食後大連の町へ繰り出した。9時ころ勝利百貨店へいったが、9時が閉店時間のようだった。どの店も閉店準備に入り、9時の案内とともに、シャッターを下ろしたりバサッと売り場の台に布をかけてしまうところが多かった。見事であった。屋台で乾燥ライチを買った。11時30分就寝。
Posted by hajimet at 20:19 | Comments (0)


2006年10月5日
中国東北紀行その4
9月29日。4日目になる。さすがに疲れが出てきて、肩や背中が張ってきた。考えてみたら、2日目の移動距離が500q。東京−大阪を見学を取り入れながら一気に走り抜けたようなものだ。昨日は移動距離こそ200qだが、内容は濃密だった。確かにガイドさんが言うように中国では短距離なのだろうが、絶対的な距離は相当である。しかしながら、「点と線」であることには違いない。数字の感覚は日本と中国でかなり違うようだ。人口にしても少ない街(郷、鎮クラス)で数万という数字が語られる。日本なら2万を超えたら市くらすだ。

朝食後、バスで桓任へ向かう。通化市内は太平洋戦争末期、ソ連軍の侵攻によって関東軍司令部を移した街である。今でもそのときの建物が残っている。軍事関係の施設なので撮影禁止だが、上から見ると航空機の形をしている。町中は市場が人でごった返していた。通化市を抜け出て、20分ほどで通化県の中心地に入る。通化市のベッドタウンとして発達していて、市内よりも活気がある。

さて、ここからが大変であった。バスは高級バスでエアサスが効いている。一方で道は狭く悪い。まるで気流がものすごく悪い中を行く飛行機のような感覚だ。こんな中を1時間以上進む。途中ですれ違う市内バスも100q以上進むような長距離のものだ。その道で中国の教育事情を聴いた。農村など貧しい所の人がよく勉強して、良い大学に入ること、大学を出れば職業も保障され、そうすれば農民の戸籍から都市の戸籍に変更できることなどが話のメインだった。また、通化からのガイドは文化大革命のときに日本語を学んだため、諺などが中心の勉強で、日本人と話しただけでも批判の対象になったと言うことを聴いた。中国の友人もいるのだが、文革の時の話を具体的に聞いたのはこのとき初めてであった。バスは農村を進む。

9時すぎ、桓仁についた。ここからバスを乗り換えて山を登る。高句麗の最初の山城、五女山城へ行くためだ。ここも世界遺産に指定されているが、交通が不便なため日本人は余り行かない。この旅行社が扱ったのも今年2例目で、しかも20名を越える大人数を扱ったのはおそらく初めてであろうとのことだ。集安を含めて大人数で訪問したケースはほとんど無いという。下から見ると山の上の方が崖で切り立っている。その崖の麓まで行くのだ。かなり急な上り坂を10分ほどで到着。しかし、中国の車はよく警笛を鳴らす。注意!、邪魔!のほかに、お礼など日本ならハザードかパッシングで表示することも警笛で表現しているようなのだ。

麓から階段を上がる。最初「段数は99段です。かなり険しいです。99段とはホンコンの返還を記念したものです。」という説明だった。ホンコンの租借期間99年をイメージしたものと思ったが、それにしては入り口にカゴ屋がいるし(最初の言い値は100元。それがどんどん下がる)、99段には見えない。慌てて「999段の言い違いでした」。ということは租借期間でなく、返還年である1999年のことだ。ともかく脇道なども上手く利用しながら登る。直りきっていない右足が痛み始めた。中には倉庫跡、泉あと、住居跡がある。住居跡はオンドルの煙道の痕跡が残されていて、今の朝鮮民族の文化に影響を与えたことがわかる。

城跡は平坦だが、すぐ脇は足下がすくわれるほどの大絶壁である。200b近くある。下を流れている川ダム湖となっていたが、そこには「遼寧第一の景色」と書かれた石碑が建てられている。湖は広々としていて、対馬の浅芽湾を眺めたときの感じを思い出した。この辺のカエデはすでに赤くなるが、階段を下りていった山下はまだであった。しかし…階段を下りてから「高所恐怖症、心臓病、高血圧、老齢者、弱者は登るな」という看板があっても…。絶壁を降りたところに南門跡があり、山上に向けて城壁が築かれていた。

城をあとにして市内に入る。食事は今までの中で一番脂っこい。というより油の中に食べ物があるような感じだ。今までもそうだが、食事は五月雨しきに出てきて、いつが終わりかはっきりしない。それどころかデザートの果物が先に出たりする。この辺は感覚の違いだろう。桓仁は満族自治区である。満族はの家は高床式であるというが、残念ながら気づかなかった。

バスで30分ほど、桓仁の郊外へ行く。10キロほど離れた米倉溝というところだ。桓仁は満族自治区であるが、米倉号はそのなかの朝鮮族の自治郷である。道にはヤギが群れを成し、馬車や牛車、ロバが動き回る。その間を鳥がかけずり回る。村にはいると子豚が追いかけっこをしている。その中を川端で女性が洗い物をし、家々はトウモロコシが干してあり、焚き付けようの藁束が積まれている。足下には肥料にする牛糞がおちていて、畑には大根、豆、黍などが植えられていた。その中を将軍墓へと進む。土を盛った貴族の墓であるが、高句麗初代王の朱蒙の陵だという伝説もある。古墳の時代と合わないが、そう考えても面白い。なお、後からわかったことだが、この村は満州帝国時代、関東軍によって焼き討ちされている。パルチザンとの接触を断ち、集団部落に移住させるためである。

再び桓仁に戻り、瀋陽へ。一般道を120qで快走??!する。途中から吉林と瀋陽を結ぶ高速道路に入った。直前まで快適だった道路が、なぜか入口直前の取り付け部分で未整備となった。高速道はその入り口から瀋陽側しか開通していないが、運転手もガイドもその道を知らなかった。路面はキレイで縁石はまだ揃っていない。ガードレールは光っている。道の脇をスコップを持った一団が歩いていく。それもそのはず、この日の10時に開通したのだ。中国では急速にインフラ整備が行われていて、今回の旅行中、同じようなことが何回かあった。日本人ではじめてかも知れない。などと思っているうちに日が落ちてきた。赤い夕焼けに向けて、バスは瀋陽へ向かう。ちなみに瀋陽は、中国の簡体字では「沈よう(こざとへん+日)」となる。ということは「沈陽で洛陽をみた?」。

トイレ休憩にサービスエリアに入るが、まだ未開業だった。トイレだけ借りる。ここも工事がほぼ終わったばかり…とういうことは…。途中通過した撫順は炭鉱の露天掘りで知られる。炭鉱こそ見えなかったが、燃料に石炭を使っているのだろう。黒い煙がでていて街は煤煙の底に沈んでいた。撫順の入り口には火力発電所があるが、これも石炭で発電しているとのことだった。

瀋陽で通化からのガイドと別れ、瀋陽のガイドに変わる。通化のガイドとバスはそのまま通化にもどるとのことで、ここから再び桓仁を通るルートしかないとのことだった。ということは6時間近くかかる計算だ。瀋陽は川の北にあるから、陰陽で「陽」の自我宛てられた等との説明を聞きつつ夕食会場へ。

夕食を食べた後、世界第2位の規模のコリアタウンへ行く。ちょっと危険な所もあるので、ガイドもついてくる。街はハングルが溢れている。その中でピョンヤン館へ行く。北朝鮮の直営店だ。中にいるウェートレスはとてもキレイだった。ショーの女性も。記念に北朝鮮の国旗をかたどったバッジを買った。ピョンヤン焼酎の4合瓶が80元なのに対し、このバッジも80元…。ちなみに朝鮮の焼酎は25度である。普段少しきついと思って飲むのだが、中国の白酒が50度近くあるので、やたら薄く感じた。瀋陽は清国皇帝が即位し、第2代皇帝まで生活した街である。世界遺産の宮殿跡と王陵跡がある。都が北京に移ってから満州時代までは奉天と呼ばれ、様々な見所があるが、次回の楽しみにとっておくこととする。
Posted by hajimet at 22:13 | Comments (0)


2006年10月4日
中国東北紀行 その3

9月28日。5時半起床。グループの起床時間までまだ1時間あるので、身繕いをした後市内散策へ出かける。街には新聞を配る人、体操をするグループ、太極拳をするグループなど多くの人々が出ている。この町も自転車は少ないが、オートバイを改造したタクシーを結構目にする。その間をロバが荷車を引いて優雅に進んでいった。中心街の道を一歩小道に入ると、そこは朝鮮族の街で、「宝来朝族焼烤(=焼肉)」等という看板がハングルと一緒に書かれている。後で気がついたが、ここから国内城、中朝国境までは数百mの距離だった。行っておけばよかった。

食事は相変わらず脂っこいが、饅頭類やお粥はとても美味しかった。さすが中国東北地方は小麦などの産地だ。一方コーヒーは人によっては、戦前の「代用コーヒー」に似ていると言うくらい濃く、その上インスタントコーヒーを煮詰めたのではないかというような粉っぽさであった。ホテルの売店でガイドブックや地図の他に北朝鮮の紙幣も入手する。この後この町の多くの売店で共和国紙幣を売っていることを知る。

まずバスで集安博物館へ行く。乗車時間30秒。博物館の題字は郭抹若のもの。中は高句麗関係のものを展示していて、中央に好太王碑拓本、左右に遺物が展示される。ただし、いつの時代の物かははっきり書かれていない、実は高句麗の歴史については韓国と中国でどちらの歴史と見るか、政治問題となっている。どちらの歴史でもあるとも言えるし、独自の高句麗史や北アジア史というアプローチもできると思うが、ともかく両国で争いとなっている。この博物館では高句麗の説明は、「三国志」などの中国の歴史書をひいていて、韓国側の「三国史記」「三国遺事」は引かないことでさりげなくその立場を表している。

博物館見学後丸都山城へ行く。途中の集落は日本的な要素を持った家が目に入った。この町にも日本人はいたのだろう。丸都山城は非常時の山城で平地とは5-6mの崖で隔てられている。比較的広い平らな地の後ろは急峻な山に3方を囲まれる。ここには門、望楼が残っている。ガイドから王宮跡もあるが、少し離れているのでやめましょうと言われるが、道があるようなので行ってみた。回りは葡萄畑で、途中の作業小屋ではひまわりの花を干して種を取っていた。その先に白い礎石が点々とおかれていて、高句麗時代と思われる赤瓦がときおり目にはいる。入り口には川が流れているが、そこで女性が一人選択をしていた。

城門の下は高句麗の古墳群である。高句麗古墳の初期のものは積石塚で、4世紀くらいから土を盛った石室墳にかわる。そして食後に見に行くような壁画が描かれるようになる。ここのものは洞溝古墳群と言われ、前期の古墳が累々とならぶ。貴族の古墳と言われ、山城が使われなくなってから造られようになったと説明される。このような古墳が集安には1万基以上あるとのことだ。昔からの積石のままのものと、近年修復したように見えるものがある。古墳の上にはススキが穂を出し、光に輝き、足下の草村にはイヌタデが赤い花を咲かしていた。近くには土砂崩れのあとが方々に見える。今年の夏に大量に雨が降ったためという。この雨は、日本付近の梅雨前線が北上して、この辺が雨期に入ったためのものだ。

そこから山城にたいする平城の国内城を見る。城壁が残っている。足下には「緑草青青、足下留情」という標語が書かれた石盤がある。これを見てから、鴨緑江まで移動。比較的流れは速いが、100m程の向こうは北朝鮮満浦市である。中国側は川それ自体は中国のものと主張しているため、対岸間近まで行くことが出来る(時間の都合で行かず)。中国側の整備された護岸に対して朝鮮側は自然護岸である。その朝鮮側の川中島にはトウモロコシが植わっていたが、本土側は農業がうまくいっているようには見えない。山も山火事があったと言うが、それだけでなく頂上まで開墾した形跡が見えるのに、作物らしきものは何も無く、荒れはてている。麓の集落には人の気配がほとんど感じられない。収穫期のはずなのに。車も一台通り過ぎて行っただけだ。近くには銅の精錬工場があり、足尾銅山のように、その周辺の木は枯れていたがそれも小規模で、精錬所からもほとんど煙が出ていなかった。集安も豊かな集落とはいえないが、それでも青々とした木々が茂り、作物も実り、人が多く行き交っている。まったく別世界が広がっているのだが、朝鮮側からは中国の様子をどのように見ているのだろうか。

昼は朝鮮族の店で料理を食べる。辛味を控えてもらったようだが、漢族の料理に比べて脂っ気は少ない。それでも大分漢化しているようで、トラジのあえ物に、香草が使われたりもした。スンデは朝鮮風(×韓国風)に餅米が詰められたものだが、醤油の味が違う(ただし、朝鮮北部の味かも知れない)。餅菓子はでたが、キムチはなかった。また、中華料理と同じで机の真ん中には回転台があって、韓国の料理店の雰囲気とはかなり異なる。
 
店には朝鮮語の分かる人がほとんどいない。唯一人青年がいたが、中国語の方が得意のようだった。発音「r」が中国的な音に代わっていたし、話の最後に「了」がつく場面もあった。また、朝鮮語はごく親しい関係でしか使わないのであろう。訪問者の多くが60歳以上であったにもかかわらず、一切パンマルで話していた。店の一階には健康酒が。中を見たら…イモリ、タガメ、クコなどが一緒に…。店の前は朝鮮人参を売る商人が集まっていた。中国語で語りかけてきたり、韓国語でアンニョンハシムニカと言ってきたりだ。

五かい(灰かんむり+皿)墳5号墳で壁画を見た。以前はビデオなどでしか見られなかった、直接は入れるようになったのだ。高松塚と違い直接石室に描いたからかもしれないが、いずれにしても本物はすばらしい。周囲の古墳(4号墳、舞踊塚、角觝塚など)にも壁画があるが、いずれも非公開である。この付近の店は朝鮮族の土産物屋が多く、いずれも韓国語が通じた。そして、好太王(広開土王)碑へ。現在は覆堂がつくられ碑文は直接見られない…はずが、中に入れた。碑文は6センチ角の大きな文字で、読めなくなったものも多い。しかし「百残新羅旧之属民」の文字は目の高さより少し低いところにあってはっきりと読み取ることが出来た。倭が戦争に関係した部分は上の方になるので残念がら見えなかった。

近くの大王陵(広開土王陵と言われる)に行き、屋根型の石室をみたのち、将軍塚へ移る。石をピラミッド型に積み上げ、崩壊防止(といわれる)のために大きな石を各面に3つづつ立てかけてあるものだ。この陵は長寿王のものといわれる。長寿王は北朝鮮の平壌に都を移し、百済を一度滅ぼした王として知られる。90過ぎまで生きたとされ、それにあやかり春に漢族が長寿を祈りこの陵にお参りに来る習慣があるとのことである。ここも墓室に入れる。大王陵と違い一枚板の天井だ。屍床台にはなぜか札や硬貨がおかれていた。ほとんどが中国の人民元だが、なかには韓国の1000ウォン札もあった。

紅葉の中、通化にもどる。途中日本時代のトーチカを見る。集安は北朝鮮へ渡る鉄道のあるところだ。中朝国境で鉄道で渡れる場所は3か所しかない。そのため鉄道の要所として警備されていたのだ。夕食は通化の北京ダックの「店」。いっこうに出てこないなと思ったら、店であってそのものは出ないとのご宣託。しかし後になって出てきました。ただし皮だけでなく肉付き。皮を巻くものはかなり油こく、食べた後は手がテカテカ光った。味は絶品。
 
夜、超市(スーパーマーケット)に見学へ行く。酒類はワインか、焼酎の類がほとんどで、紹興酒はない。近くの店でスケトーダラの干物を焼いてもらった。韓国のものほど、カチンカチンにはなっていない。しかし、焼き方を見て驚いた。焼いている最中に上から油をかけているのだ。やはり油がベースになる国なのだ。

Posted by hajimet at 20:14 | Comments (0)


2006年10月3日
中国東北紀行その2

2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。

バスが出る前に駅前の地下街へ散策に出かける。土産物売り場や食堂、長距離電話がかけられる電話局などがあり、そのすきまを埋めるように本屋の棚が続く。地下街入り口ではドラム缶を改造した焼き芋売りが焼き芋を売っていた。バスで市内見物に出発。長春は文化の街、緑の街など4つの特徴を持っている。映画も盛んで、満州時代から撮影されていたという。ため息が出るほど満州時代のものが残る。泊まったところがヤマトホテルであったのもそうだが、その前には旧満鉄新京支店のビルがある。市内に進むと、旧デパート後や住宅が延々と続く。その中に新しいマンションも建つ。今長春は空前のマンションブームだそうだ。

中でも驚いたのは、旧関東軍司令部である。現在は共産党吉林省委員会が使っているが、その建物が日本の天守閣そのものなのである。日本の中で天守閣を見ても、当然不思議ではないのだが、異国の地でこの建物をみると非常に違和感がある。そのうえに日本と戦った共産党の委員会が入っているというと、象徴的なものが別の象徴的なものになったと言うことで、さらに違和感を感じるのだ。韓国では早いうちから立て替えられたものも多いのだが、おそらく感覚が違うのだろう。民族の興亡の歴史もあり、一か所をつねに同じ民族が支配したというわけでないこともあるのかも知れない。もちろん、当時の歴史の中での意図は否定しない。

さらに満州国皇帝溥儀がいた宮廷跡へ行く。溥儀が使った馬場後から始まり、当時の設備がそのまま公開されている。第1婦人の部屋もあったが、アヘン中毒になってしまい、中心の建物は第3婦人が主に使っていた。その寝室や、和室、ビリヤード部屋、会議室などが残されている。溥儀自身は盗聴を恐れて一度も使わなかったそうだ。中には先祖を祭った部屋もあり、清国を立てた最初の王、ヌルハチの位牌がおかれていた。その隣にはヌルハチを助けたとされる人の人形も飾られていた。一回に降りると、溥儀が使用した自動車がある。これは今でも走れるそうだ。

はなれの建物は実際に溥儀が使った。入り口には江沢民の筆で「918(満州事変)忽不忘」という銘板が入っている。こちらは執務室や日満議定書調印の部屋などがあり、宴会場も残されている。この裏に楽団が演奏したとされる部屋があるが、コントラバス、スーザホーン、トロンボーン、木管楽器、ワグナーテューバ、小太鼓がおかれていた。一体、何を演奏したのだろう。さらに溥儀の使ったトイレや、理髪室もそのまま残されている。溥儀はここでホルモン治療などを受けていたとのことだ。また溥儀の写真や第5婦人までの写真が飾られていて、その生涯が分かるようになっている。どの人との間にも溥儀の子供は生まれなかったとのことだが、婦人が再婚などをした先では子供が生まれている。

お茶の店で、お茶の入れ方を見てもらいお土産を買う。新茶のウーロン茶。茶色でなく緑の葉であった。そして「のした山査子」。この袋の日本語がすごい。「正しじべね滋味のすだぜへ体現友人享受すへ」…解読に挑戦してみて一部は原文の想像がついたが、徒労に終わった。昼食に出たビールは少し薄めの味だった。おそらく中国人から見るとこのように見えるのだろう。韓国でも「る」「ろ」などは混乱しているし、「スラックス」が「ズうつクス」などとなっていることを見たことがある。手書きで少し崩してあったらそう見えなくはないだろう。いずれにせよ違った言語の文字を見ても、その言語を使っている人の文字を見る感覚とまったく異なるという証明のようなものだ。

昼食後バスで集安へ向かう。道は比較的良い。途中の通化まで400Km、4時間ほどであるが、前半は見渡す限りのトウモロコシ畑、または水田の平原だった。土地は肥えているようには見えない。こんなところでも、日本から持っていった携帯のアンテナが普通に立っている。その間に農家が見える。切り妻の家が漢族の家、入母屋の家が朝鮮族の家だ。朝鮮族は稲作が得意と言うことだ。そういえば、一面稲を刈っているところと、稲穂の上の部分をいくつか束ねて稲穂だけを刈り取っているところがある。後者は韓国でも見る刈り方だ。
 
しかし、このような平原がずっと奥まで続いているわけで、そのような土地で突然終戦を迎え、ソ連軍の侵攻をうけたら、途方に暮れたというよりも「取り残された」という感覚を持つのではないか。そしてどうやって帰国するかと考えても答えは出なかったかもしれない。少なくとも、王道楽土、五族協和を夢見て渡った人たちなのだ。おそらく、朝鮮で終戦を迎えた人とはかなり違った意識を持ったのではないかと、両国を見ている経験から想像した。そんなことを想っているうち、長安を出発して1時間半ほどで伊通を通化する。地図で伊通火山帯という表記が見て、何だろうと想っていたが、たしかに溶岩地形と単発の小火山がほぼ同じ間隔でいくつか並んでいる。

後半2時間は山の中に入り徐々に高度を上げる。すでに紅葉が始まっている。この辺から地形が朝鮮半島と共通の地形になるのだ。犯罪事件が起きたということで検問を受けて、通化の街に入った。ここで夕食を食べた。通化のビールは少し苦みのあるビールで、滞在中飲んだものの中では一番口にあった。

通化はアイスワインが名産だという。満州時代から作っているそうだが、自然の状態で凍った葡萄をつけ込んでいると言うことだ。かなり甘く、ファンタグレープの炭酸を抜いてアルコールを加えたような味であった。男性陣には不評な一方、女性陣には好評であった。

さらに集安まで行く。60キロほどだが、道が余り良くないので、バスで2時間かかる。片道一車線の狭いカーブの多い山道であるが、そこをバスは平気で左側を走り、前方の車を抜いていく。ちなみに中国は右側通行である。もう目の前に対向車が迫っているのにである。怖い。

集安は鴨緑江沿いの街で、目の前は北朝鮮である。しかし、泊まった集安賓館では北朝鮮ではなく、韓国のテレビが見える。北朝鮮の放送が入るかと思ってラジオのスイッチを入れたが、AM,FMとも北朝鮮の地元局は入らない。海州の局は聞こえているから、近辺100キロ前後の場所に放送局はないと言うことだろう。その代わり韓国の放送や日本の放送はよく聞こえていた。よく聴いている韓国KBSの日本語放送もキレイに入っていて、何だか不思議な感覚に襲われた。ホテルの入り口には韓国語表記もあるが、韓国語は通じなかった。英語も日本語も、夜12時就寝。

Posted by hajimet at 22:08 | Comments (0)


2006年10月2日
中国東北紀行その1
9月26日から10月1日まで中国東北地方をめぐった。目的は旧満州帝国の遺産と高句麗の遺跡を訪ねるというものだ。

高句麗は中国側で起こった民族で、それが朝鮮半島に拠点を移すため、最初の頃の遺跡は中国側に残されている。行きにくい場所であるが、今回機会に恵まれた。

9月26日、羽田6時50分発関空行きに乗り、関空から大連行きに乗る。発達した低気圧の影響で飛行機は揺れ気味。大連行きは途中まで機内サービスが行えない状態だった。釜山上空からななめに韓国を横切り、黄海を大回りして大連に着陸…のはずが、着陸態勢に入ってから一向に降りない。大連が強い雨で、しかも霧がでているため、旋回して待っていることだった。

空港は日本便、韓国便が多いのだが、どちらの言語もほとんど通じない。しかし簡体字とはいえ、普段使っている漢字表記なので(大分違うには違うが)、文字が自然に目に飛び込んでくる。空港はこぢんまりとした印象を受ける。市内見学に出かける。一番最初に目に飛び込んできたのは、朝鮮料理の店だった。表記からすると朝鮮族だろう。自転車は目にしない。坂が多く使いづらいという説明であった。車は、かなり自由に走り怖い。人もあちらこちらで渡ってくる。

まず大連港へ向かう。眼下に数本埠頭が広がり、ロシアの作った埠頭、日本の作った埠頭がならぶ。満鉄時代の設備も残っている。韓国の仁川への航路もこの埠頭からでる。その後市内中心地へ。中心地は最終日にゆっくり見るので、そこで説明したい。関東州時代の建物の多くが文化財に指定されたりして大事に使われているという印象を受けた。満鉄関係者が住んでいた自宅も残っているが、非常に豊かな生活をしていたことが伺われる。もちろん、あちらこちらに最新の高層ビルも建っている。

食事で青島ビールが出る。日本のビールより少し薄い感じがした。この後、各地で地元のビールが出て、味を楽しむ。

食後大連空港より長春空港へ向かう。手続き場では
  説普通話、迎四方賓客
  用文明話、送一片真心
という標語が電光掲示板に表示されていた。搭乗口待合所の売店ではお酒の他、干海老や干海鼠などを売っている。飛行機もどことなく干物系の臭いが漂う。

飛行時間は1時間。途中気流が悪く、ベルト着用サインが出たにもかかわらず、機内サービスは続く。コーヒーを注いでもらった途端、強い揺れが来て、こぼれてしまった。そういえば、戦前飛行士だった人が、この辺はかならず揺れる気流の悪い場所があって、操縦がイヤだったということを言っていたが、そこを通ったのだろう。長春で泊まった長春春誼賓館は満州時代の大和ホテル。ホテルの前はロータリー越しに長春駅である。23時半就寝。1時間の時差のため、体感時間と実時間がずれて、何だか変だ。
Posted by hajimet at 10:20 | Comments (0)


2006年8月29日
千葉ハングル石塔紀行
8月28日、知人の車で千葉にあるハングルで書かれている石塔を見に行く。まずは館山へ。ちょうど一年前にもここに行っているが、そのときはとても暑かった。今年は涼しい…というよりも夏らしい暑さはあまり感じない夏だった。暑いときは湿気もすごく、からっとした感じはなかった。首都高で湾岸、館山道と入り、終点君津から一般道に入る。海沿いでもよいのだが、山道を利用する。実は南房総方面は山道の方が早いのだ。ただしルートを間違え、国道465号から県道88号に入る路を選んでしまった。88号は未整備で多くの場所が片道一車線。しかも路肩が弱いとか、落石注意なんていうところばかり。実際に法面が崩壊して片側交互通交なんて言うところもあった。道も細かいカーブが多く、自分が運転しているつもりで路面を見ていないと、確実に酔う。運転手が目が回ると言ったほどだ。

館山に出る。目指すは大巌寺。127号線でJRをこえた付近にある。この付近は館山地溝帯の崖面にあたる。16世紀後半の僧侶、雄誉上人が里見氏の依頼で開山した浄土宗の寺で、そこにある四面石塔を見に行った。雄誉上人の時代に建てられたもので、「南無阿弥陀仏」の名号が四面に彫られているのだ。それも日本の漢字、中国の篆書、梵字、ハングルの4つの書体だ。ハングルは今使われているものでなく、15世紀に発表された形式で、漢字音をハングルで表そうとしたものである。だから今の者とはかなり違う。この書き方で彫られた石碑は、実は韓国には存在しない。かなり早い時期にその書き方は消えてしまったからだ。

寺で探し出すのは大変だと思ったら、なんと山門から本堂へ行く途中にしっかりと建っていた。脇には顕彰碑もある。こちらは今の書き方で「南無阿弥陀仏」と彫られている。

寺を出た後、那古観音を見る。日露戦争記念碑、県内に二つしかない多宝塔などを見たのち、観音堂に入る。観音堂自身は修築工事中で解体補修中であった。そのため、参道は仮に造られ、プレハブで覆われた建物に入る。韓国の弥勒寺の石塔の修復現場でも同じことを感じたが、まるで工事現場のお稲荷さんか神棚に手を合わせている気分になる。観音堂裏の展望台に上がる。なぜか和泉式部の供養費があるが、それが向かっている先は館山湾である。湾の反対から自衛隊のヘリコプターが上がってくる。遠くには伊豆大島や伊豆半島がうっすら見えている。大島はこの夏に行こうと思っていたが、時間(+資金)的に断念。神津まで足を伸ばしておたあジュリア関係の遺跡を見て回ろうと思っていたのだ。寺あとにして、千葉方面に向かう。今度は海沿いに走る。すぐに崖観音が目にはいる。崖ップチに建てられていて、背後の崖はあたかも仏像の光背のようになっている。崖は砂の地層の重なり具合がよく分かる。

1時間ほど北上して竹岡に入る。ここの松翁院を訪ねる。場所を調べようと竹岡の駅に行ったが、無人駅で何もない。道路地図をよく見てみると、竹岡の駅の近くの集落は竹岡でなく、千葉よりの半島一つこえたところが竹岡だった。むしろ上総湊の方が近い。地元のお店に聴き寺を訪ねる。本堂の手前に墓地があるが、見晴らしがよい。すぐ目の前に三浦半島の横須賀が見えている。幅が10キロほどしかないので、まるで大きな川のようだ。そういえば道路地図も竹岡付近と横浜の金沢八景付近が同じ図面に表されている。奥の方には横浜ランドマークタワーが見え、海ホタルの人口島も見える。手前には富津岬が長く横たわって見える。ともかく見晴らしがよいのだ。

この墓地の中にもよく似た四面石塔がある。大巌寺の約50年後に建てられたもので、ハングルもよく似ている。ただハングルをパーツの組み合わせで出来ている文字という意識は内容で、ほとんどデザインと捉えているように思われる。この塔の由来は火災で焼けてしまい、よく分かっていないようだ。ただ、竹岡は会津藩と白河藩に江戸守備のための砲台を作らせたため、この寺も会津藩とのつながりも強い。また、東京芝の増上寺との関係も強く、この塔が立てられたのは徳川家との関係の強い時期とのこと。大巌寺も松翁寺と同じく浄土宗の寺で、しかも徳川家と関係の強い僧侶であった。そのようなことから何か糸口が出てくるかも知れない。このことは近いうちにHPに公開する予定である。
Posted by hajimet at 20:25 | Comments (0)


2006年8月19日
旧盆の一日
8月13日、新潟へ行く。東京駅で新幹線を1本待って、無事に座れた。本当は、春に行けなかった佐渡へのリベンジ旅行も考えたが、あきらめる。実際行こうと思っていた12日は、越佐海峡は大雨だった。たしか、一年前も船に乗っている最中に大雨になり、ジェットフォイルが着水してしまい、ただのゆれる漁船になった記憶がある。

13日、夜親戚が集まり墓参りに。どこの家も線香一束を持ってくるが、この辺は東京と違うようだ。その後宴会。丼一杯の枝豆が何杯でも出てくる。

翌日、別の親戚の家に行き、その家にある古い物を写真に撮る。江戸時代後期の当主の肖像画、藩札、御城米船の旗(廻船問屋もやっていた)、鑑札、剣道の免許皆伝の書、梧竹の書などなど。その後車で外出。行き先は乙宝寺。日本で一番交通量の多い(でも何故かほとんど渋滞のない)国道7号線のバイパスに乗る。道の駅豊栄、新潟競馬場、新潟東港のクレーンを眺めながら聖籠のインターで、村上方面への一般道に入る。

海岸沿いの砂丘の間を道は進んでいく。途中、米子、築地などの地名を目にする。読み方は、「よねこ」、「ついじ」だ。この辺はつい先日まで中条市だったが、平成の大合併で胎内市となった。胎内川にそっているからであろうが、今まで胎内という地名は山の中の地名だったので、なんだかぴんと来ない。川も加治川、胎内川を渡り、逆水川、乙大日(きのとだいにち)川など面白い名前のついた小河川を目にしながら進んだ。あたりの家は、切り妻に多くの桟を入れる作りをしている。また、砂丘の上は工業団地として開拓されていて、アデランスの工場などもあった。

約40分で乙宝寺につく。地名は乙(きのと)。越後随一の古刹で、行基が創建したと言われる寺である。それが本当かは別として、今昔物語にも登場し、そこから猿供養寺と言われたりもする。また、芭蕉も奥の細道を歩いたときに、ここに寄ったようだ。

入り口の石橋を渡ると両方に池が広がる。池の中には弁天道が建つ。池を過ぎると山門。中の仁王像は右側の像の頭の一部が残念ながら欠けていた。左手に三重の塔が見える。国指定の重要文化財になっていて、武骨ながらも味わいのある塔である。その手前、手水鉢には「わき水」がわいている。「どっこん水」というそうだ。これは「独鈷水」が訛ったもので、弘法大師がこの寺にやってきて独鈷をさしたところ、水がこんこんとわき出したという伝説に因んでいる。実際この水は、胎内川の伏流水で、味はよい。…なぜか伏流水が湧くところや、川が伏流水になるところに弘法大師の伝説が多いのだが、不思議なことである。あちらこちらで見聞きするのだ。

山門横には、風流な懸板がある。「浮世散桜会 うきよのちりや」…トイレであった。この寺はこれで3回目か、4回目の訪問になる。お盆の帰省シーズンのせいか、これまでにない人出であった。寺の前には「きのとまんじゅう」という名物の饅頭がある。餡の甘みが抑えられ、皮がもっちりした饅頭である。大抵、お昼過ぎには売り切れ、2時頃夕方の分が蒸し上がるのだが、この日は11時過ぎでもう売り切れていた。寺を後にして、超遠縁の人の実家の仏壇をお参りして帰京した。

新潟駅では特に待たずに座ることが出来た。実は一本後の列車のホームへ行ったのだが、よく見たらその前の列車に空席があったのだ。慌てて階段をおりて隣のホームへ。列車に乗ったときは発車2分前だった。
Posted by hajimet at 12:54 | Comments (0)


2006年8月9日
フォッサマグナミュージーアム
融通念仏供養碑を見学したのち、糸魚川のフォッサマグナミュージーアムへ向かう。その前に、住職から話題に出た大宮諏訪大社を見る。小谷の総鎮守で諏訪大社下社と関係が深い。神社には薙鎌があり、七年に一度、新潟との県境にある神社の神木に薙鎌を打ち込むことで御柱祭が始まる。薙鎌はこの神社のお守りにもなっている。本殿は1600年代に建てられたものだった。本殿は長野県の文化財になっているが、他にも舞などが文化財に指定されていた。千国街道はここから山へ入っていく。

姫川を下る。あたりは深い山の峡谷で、足下は姫川の早い流れが怖ささえ感じさせる。国道も鉄道も洞門で落石から守られている。途中新潟県との県境、新国界橋の脇に慰霊碑がある。1995年に大規模に崩落した場所で、その復旧工事の最中に支流からの土石流で工事関係者が多くなくなった場所だ。95年の崩壊現場はいまだに崩壊が続いていて、斜面が生々しい。

新国界橋からトンネルに入るところは、何となく硫黄の臭いが漂っていた。トンネルと洞門を抜け、次の谷が小滝川の谷である。昭和13年、日本で最初に翡翠が見つかったところで(それまで日本に翡翠原石はないと考えられていた)、谷の奥に翡翠峡がある。谷をさかのぼりそこまでいく。目の前にあらわれたのは明星山の大岩壁であった。谷底から頂上まで石灰岩の岩壁で、500mほどの高さがある。この日は見られなかったが、ロッククライミングをする人も多いそうだ。翡翠峡はその足下。下流側である。近くまで降りる道もあるようだが行く時間はなかった。もっとも天然記念物のために原石を採取することは出来ない。あたりは落石地帯で、ここに行くときにはなかったはずの石が、戻るとき(といってもわずか10分)にはあり、車の底をこすってしまった。

姫川に戻り、下流近くの河岸段丘上のフォッサマグナミュージアムへ行く。鉱物などが充実している。特に翡翠については力を入れていることがよく分かる。特別展示ではアスベストの紹介をしていた。フォッサマグナそのものはナウマンの言っているものよりももっと広いものだそうだが、その成因をわかりやすく説明していた。糸魚川静岡線の境界より西側は古い地層だが、それらの成因や、フォッサマグナの変化などを岩石や、化石と関連づけて説明しており、とてもわかりやすかった。化石もいろいろ集めていて、足の生え始めたオタマジャクシの化石や、なんと「うんこ」の化石まで展示されている。うんこの化石は、置き換わった鉱物の関係(確か鉄)でなんとも生々しい色だ。ここの博物館は関連の出版物も充実している。

ミュージアムでヌナガワ(奴奈川)姫と大国主命の伝説の映画を見る。大国主が出雲からやってきて、ヌナガワ姫を嫁にするために越の国にやってきて、生まれた子供の1人が諏訪大社の神になったという話だ。先ほど見てきた諏訪神社のみならず、姫川沿いには諏訪神社が多いという。しかも、この川は翡翠があるところで、確かに古代の人はここの翡翠を使う文化をもっていた。のみならずここの翡翠は広い範囲に広がっていたのだ(それが忘れられていたわけだ)。姫川をさかのぼり長野側に入ると、そこは渡来人によって開発されたところだ。おそらく渡来人のルートの一つだろう。ミュージアムを出て、ミュージアムパークに向かう。姫川と根知川の分岐点であるが、そこにある根小屋の集落の入り口には不思議な人形のようなものが道をマタイでぶら下げられていた。

根知川は糸魚川、静岡構造線が横切っているところで、そこを発掘して公開している。断層線沿いには粘土が分布し、その西側にはかなり古い岩石が、東側は新しい安山岩が分布している。また、海底で溶岩が噴出したことを示す枕状溶岩が東側にはあちらこちらで見ることが出来た。

糸魚川と松本を結ぶ千国街道もこの構造線にそって通っている。姫川沿いの渓谷は危ないため、道路が開発されたのは明治になってからだ。そういえば、栂池高原の千国街道も神城断層にそって通っていた。

Posted by hajimet at 10:58 | Comments (4)


2006年8月8日
融通念仏供養碑
8月初旬、用事で栂池高原まで行った。時間によって白馬三山の見え方が変わる。朝はっきり見えていたかと思うと、もう8時過ぎには靄に隠れてしまう。そして夕方、夕日をシルエットにまた山が浮かび上がってくるのだ。うすら赤い山肌に大雪渓などの雪渓が、白い血管のように浮かび上がってくる。宿舎の前は白樺の木陰があり、楽器を吹くと気持ちよい。そこから水田を越えた反対側には「塩の道」、千国街道が通っていて、百体観音がある。散歩中に「天蚕」の繭を拾った。その道の入り口の看板が信州らしかった。

「この地帯の山菜、樹木、きのこ、地蜂の採取を禁止します」

栂池自然園にあがる。栂池からゴンドラで20分。6人乗りだが、20分は長い。特に帰りは1人で降りてきたので、退屈きわまりなかった。途中駅でゴンドラのロープを載り替える。今までのロープをはずれ、ゆっくり動きながら新しいロープに載せ替えるのだ。乗る瞬間は勢いよく滑り台(といっても数十p)を滑り落ち、ロープの上に落ちていくので、一瞬ジェットコースター的感覚を味わえる。

ゴンドラを降りた後、今度は71人乗りのロープーウェイに乗り換えて約5分。自然園の入り口につく。外から植物などを持ち込まないように、足ふきのマットの上を歩く。自然園の中はいくつかの湿原から出来ている。今年の冬が寒かったせいか、残雪はあるし、普段なら終わっているはずの花が未だ咲き誇っていて、幻想的な風景だった。その足下にはモウセンゴケが頑張って口を開けている。

午後、小谷村の融通念仏供養碑を見に行く。なぜかハングルらしきものが彫られている江戸時代の供養碑だ。2002年に一度訪問して、連れて行ってもらった人(今回と同じ人)に拓本の採り方を教えてもらった。姫川に沿っていくが、深い谷と地滑り地帯のため、トンネルと洞門が連続する。途中から中谷川に沿い、小谷温泉へ向かい山を入っていった中谷の集落の裏手、神宮寺にそれはある。もともと葛草連(クンゾーレ)という所にあったが、地滑りの危険性があって、集落ごと移転した結果、ここに移してきた。

住職に話を聞くと、神仏分離前に同じ村の中の大宮諏訪神社を管理していた関係で、葛草連にあった諏訪神社の碑を移してきたということだ。大宮諏訪神社も古いお札の中にハングル(阿比留文字?)で書かれたものがあったという。融通念仏供養碑に書かれている文字も阿比留文字ということになっているが、いわゆる阿比留文字とは字体がかなり異なる。それよりも江戸時代に発行された本の中にある「朝鮮の文字」とまったく同じ書体なのである。阿比留文字の方は神代文字の一種で、日本に漢字が入ってくる前にあったと主張される文字だが、なぜかハングルを読める知識があれば、読めてしまうと言うものである。

この本の中にはハングルには存在しない文字も含まれているのだが、まさしくその文字が供養碑の中にあるのだ。しかも御丁寧にハングルには絶対あり得ない濁点まで出ている。ということは日本人が韓国語とは関係なく彫り込んだということだ。誰がどのような目的で彫り込んだのだろう。文の中には「ナガサキ」と読める部分があって、近くの長崎集落に関係あるようだ。融通念仏供養碑の他に、碑のまわりには六済供養塔や茶湯供養塔、不喰供養塔などがあり、いずれも融通念仏宗と関係あるものと住職からの示唆があった。

葛草連は融通念仏宗の盛んなところだった。念仏は口伝で代々伝えられていた。念仏といってもとても長いもので和讃に近いものだったようだ。代が続かないことを憂慮して戦前に書き記したものを見せてもらったが、かなり分厚いもので、節回しまで書かれていて、よく覚えられるものだと感心した。最初から最後まで2時間以上かかったそうだが、残念ながら、現在は途絶えてしまった。新しくいろいろなことが分かったので、HPも改訂をすることにした。写真解説はこちらを参照
Posted by hajimet at 10:09 | Comments (0)


2006年6月3日
裁判所と韓国語

6月2日、学校の仕事で東京地裁の法廷見学へ行ってきた。
裁判所は自由にいつでも見学できるが、授業の一環だったのだ。
3つの法廷に別れ見学。どれも覚醒剤使用罪に関するものであったが、
見学したものは法廷通訳事件であった。
 
法廷に向かって左側に検察官、右に弁護人。正面下左に法廷書記官、右に通訳が座る。
被告人は弁護人の前に衛視とともに座り、必要があるときに正面に来る。
刑事訴訟法に従い、人定質問、起訴状朗読、証拠調、(論告求刑)と進む。
自白事件であったために審理は情状面が中心であった。
 
以前見学した事件は中国朝鮮族のもので、
通訳がほぼ同時通訳で進行していたので、
聴いていて大変疲れた。文法構造がほぼ同じ言語であるため、
頭の中で「意味のエコー・ドップラー現象」がおこるのだ。
 
今回は逐語であったが、ワイヤレスを使っていたため、
前回ほど気にはならなかった。
 
聴きながら、「ここはこういう表現をするのか」とか、
「法律用語をこう訳すのか」と思って聴いていた。
一方で、通訳は難しいとも改めて感じた。
テクニカルタームや長すぎる話、反対に簡略すぎる表現をどう「正確に」訳すか。
 
ニュアンスをどこまで正確に伝えるか。
たとえば、被告人が
「もう二度と、(力をこめて)もう二度と日本には来ません…どうもすみませんでした」を
「もう二度と日本へは来ません。すみませんでした」とさらりと訳すと、
裁判官にどう伝わるかなど「正確さ」についていろいろ考えさせられた。
もちろん、相当水準の高い通訳である。
だからこそ、かえってその様なことを感じたのだ。
 
一方で、言葉を勉強する立場からすると、
ヒアリングの練習に使えそうな場所だと言うことにも気がついた。
韓国語に限られない。
今度時間がとれたら、改めて傍聴しようと思った。

Posted by hajimet at 20:05 | Comments (0)


2006年5月9日
三河島探検

近くで話には聞いていても、なかなか訪ねられないところがある。三河島もそんなところだ。自宅から見て山手線の反対側。しかも常磐線の快速しかないところで、むしろ二つ先の北千住や綾瀬の方が便利に感じる…そんな場所であった。三河島事故の記憶も(生まれる直前だが)、訪問をおっくうにした原因かもしれない。
 
この日、三河島巡検の誘いがあった。夕方4時駅に集合。その前にあたりの雰囲気を知りたくて、山手線の日暮里駅から歩くことにした。わずか1qほどの距離である。住宅と工場、倉庫が混在したところであるが、駅に近づくにしたがって韓国料理の店や食材店があらわれてきた。駅は古い鉄骨の橋脚の上を本線が走り、下を通る貨物線が本線に合流すべく勾配を登っていくところにある。その脇には民団の荒川会館があり、周囲には韓国料理と中華の店とか、ビデオなどを扱っている店が集中していた。駅の北側も線路に沿って焼き肉屋が続いている。
 
駅をでて三河島通りを北へ5分ほど。途中に韓国系の店などを見ながら歩く。在日の店だけでなく、ニューカマーが経営する食堂も多くある。その中、ハングルで書かれた宣伝看板が突然現れ、古びたマーケットが奥に続く。朝鮮マーケットである。
 昭和40年代までよくあちらこちらで見かけた、店の軒先にトタン板などで覆いを掛けただけのたたずまいだ。肉などの食材店、祭祀などのときなどにかかせない「そんぴょん(ソンピョン)」「ちゃると(チャル・トック)」などを扱っている店、チマチョゴリの店などが軒を寄せ合っている。このようなマーケットがもう一か所あるということだった。ちなみに三河島の焼き肉屋ももともとここの中に店を出し、のちに周囲に出ていったということだ。
 
一見突き当たりと思われる肉屋(こちらはキムチ、各種焼酎(韓国焼酎から平壌焼酎まで))のわきに人がやっとすれ違えるだけの路地があった。上には建物が覆い被さり、暗いトンネルのようなところだ。
 佐渡両津に行くと、2間ほどの間口で奥行きのある細長い家が多い。たいてい家族の空間は1間半程度部分でつくられ、残り半間は奥へ行くための通路となっている。まわりの人も小路がわりに通っていくが、その通路?と雰囲気がよく似ている。その中に、干した山菜やごま油、トウガラシの粉などを扱う店や、「韓国服扱います」と書かれたクリーニング店などがある。あたりは何故か「仁川」を店名につけたところが多い。
 
朝鮮マーケットを見た後仲町通り商店街を歩く。在日の多い地域で古くからの在日がやっていると思われる店も多い。その中にニューカマーの店も多くあった。それまでの店が出て行ったあとにニューカマーが入ってくるとのことであるが、商慣習の違いなどいろいろあるそうだ。三河島に住んでいる、ある在日がかつて、「ニューカマー・在日といっても、そのニューカマーが長くいれば在日になるんですよ」といっていたのをふと思い出した。またニューカマーだけでなく中国人も増えてきたとのことだ。新宿が、韓国人に限らず、ほぼニューカマーだけの町であるのに比べて町の取り巻く条件もかなり違うだろう。
 
仲町通り商店街を抜け、在日の経営するカバン工場を見学した後、第一朝鮮学校の脇を抜けて韓国キリスト教教会に行く。9割以上が韓国人で、説教も韓国語で行われるとのことだ。近くに韓国の禅宗系(曹渓宗)の東京布教所まである。朝鮮学校は1945年12月の国語教習所以来の学校である。かつては学校のまわりにスローガンなどが書かれていたが、さっと見た限りは見あたらなかった。肖像画も教室には飾ってないそうだ。このあたりは町工場と住宅が混在していて、表札も韓国系の名前の書かれた者が多い。
 
荒川にいる在日の多くが韓国済州島高内里(コネリ)にルーツを持つ。大正11年に最初の人が来たそうだが、そのときはここの地場産業であるカバン工場に来たとのことだ。その後高内里の人がここに集まり、現在では荒川だけで7000人になるという。大正12年の関東大震災の朝鮮人虐殺に巻き込まれた人もいたようだ。これだけ集まったのは、高内里の経済環境もあったのだろう。大阪にはあまりいないとのことなので、もしかすると大阪の在日とは歴史的、社会的背景に違った面があるかも知れない。そういえば、このとき会った在日はほとんど一世だったせいか、若い人に聞かれる「在日語」が全くといって良いほど耳に入ってこなかったことも印象的であった。
 
 

Posted by hajimet at 10:58 | Comments (0)


2006年4月6日
ソウルそして佐渡

3月29日、羽田発のJALでソウルへ向かった。ばったり空港で友人と会う。先方は仕事で週1回ソウルへ飛ぶとのこと。今回も水曜日に出て金曜日に帰国とのことだ。
 
こちらはいろいろかねて行ったが、メインの一つが中央博物館を見ることだった。
29日は東亜日報社まで行った後、歩いて教保文庫へ。教材用の本を買うための下見に行く。夜は友人F氏と中華を食べる。中国人のやっている店で、韓国風酢豚と蟹チャーハンを頼んだが、酢豚の量の多いこと。揚げた豚肉も大きく、かりんとうを一回り大きくしたようなものである。
 
翌日ヨイドで友人にあった後、国立中央博物館へ。ともかく大きい。門から建物まで緩やかな坂を登って5分。入場料を払って中に入る。韓国では3月が新学期であるが、社会科見学で来ている学生、軍人の見学、慶尚道方言を話すハラボジ・ハルモニの団体で混み合っていた。
 
広々とした空間に、美術品のように展示が行われていた。館内は三脚、フラッシュさえ使わなければ写真撮影もできる。ただし、3回の弥勒菩薩像だけは撮影禁止。
 
1階は旧石器時代から統一新羅、渤海までの考古館と金石文や印刷技術などを示す歴史館となっている。中央の吹き抜けの広場には90年代にもとの国立中央博物館の前から消えていた敬天寺の十層石塔が建てられている。タプゴル公園の石塔と同じくモンゴル=チベット仏教の影響が強く見られる石塔であるが、このまわりに三階までのエスカレーターがあってそれぞれの層に彫られた仏像が観察できるようになっている。
 
2階は寄贈文化財を展示する部分と美術館となっていて、書芸室では筆の進め方や書き方、仏教絵画室では朝鮮画に使われる色の原料となる好物などが展示される。三階は白磁、青磁、金属工芸と仏教彫刻が展示される。大きな石像、鉄像が間近で観察できるようになる。弥勒菩薩は暗くした小さな部屋の中にガラスケースに入れて置かれ、まわりを回れるようにしている。アジア館も多くの地域の展示があった。従来日本と中国、シルクロードが中心であったが、インドネシアが新たに作られ、新安海底遺跡が一部屋設けられた。楽浪遺跡も一部屋作られているが、これは韓国の楽浪にたいする歴史観がよくわかる。前は百済の前後にあったの思うのだが。
 
ここまでさっと一時間半。特別展示は「行ってみたい独島」。韓国側の主張がわかる内容であったが、自然環境など学ぶことも多かった。庭も広い。片隅に石仏や石塔を集めたところがあり、そこを抜けると竜山家族公園に出られる。ちょうどケナリ(レンギョウ)の綺麗なときだった。西氷庫駅より竜山まで国鉄で戻る。1時間に3本程度しか走らない線だ。竜山駅前のカーブを徐行しながら走る。徐行区間に死電区間があり、そこをこえると竜山駅へ。ここから1号線に乗り換えて市庁まで行った。夜は参鶏湯屋へ行き薬参鶏湯を食べる。陳皮が効き過ぎ舌がぴりぴりした。
 
31日は午前中景福宮と徳寿宮を見る。景福宮は復元作業が行われていて、あちらこちらで工事・発掘が行われている。大きく変わったところは一番奥の香遠亭の付近だ。ここは高宗時代に宮が作られ、明成皇后もここで殺されている。90年代までは帝冠様式の民族博物館があったがそれが壊され、広場となっていたところである。この宮の復元事業が始まった。その左手は軍が駐屯していて立ち入り禁止であったが、そこが解放されたためであろう。王宮復元が始まっている。さらに、チャングムに影響されたか、スラクカンの発掘現場に説明板が建てられていた。そういえばMBCでチャングムが再放送されていたっけ。ただし、チャングムの時使われていた王宮はここではない。
 
徳寿宮の大漢門の復元の完成を確認した後、南大門市場へ行き買い物を。それから通り抜けができるようになった南大門を見てホテルへ戻った。夜は冬にも食べた焼き肉。
 
1日帰国である。朝から雨。この雲に3日間悩まされることとなる。15時5分発中部国際空港行きJALは多少揺れるものの気持ちよく飛んだ。対地速度1000キロ。もう隠岐のあたりで高度を下げ始め、敦賀の所では4000メートルほどの高度しかない。山が雪で真っ白だった。程なく琵琶湖が見えてその脇を高度を下げていく。伊吹山のある一列だけに雪がある様子がよく分かる。
 
翌日は13時5分の便で小牧から新潟へ飛ぶ。機種は小型機。小牧は二回目だが、県営空港になりボーディングブリッジのない空港になっていた。まるでバス停である。早く空港について時間を潰していたが、さっき乗っていったはずの人がまた降りてくる。10時40分発の山形行きが落雷で引き返してきたとのこと。結局修理が間に合わずに別の飛行機が救援に来ていた。この日は中部でも大阪でも落雷の被害があったとのこと。テレビでは甲子園の準決勝が中止になったと報じている。
 
自分の乗る飛行機は、多少遅れつつも無事飛び上がった。良かったのはそこまでで、あとは雲の中。それも前線の雲のためよく揺れる。すとんと落ちたかと思えば、斜めにローリング。飛行機の中は不気味な沈黙状態に。外を見ると雲と雲の間を飛んでいるようだが、それ以外は分からない。すぐ後ろで大貧民をやっていた子供たちは、揺れた途端に黙り込み、隣の席の人は下を向いてじっと堪えている。アテンダントは飛行に影響ないと放送をするが、ベルトは外せない。機長の放送も入ったが、良く聞き取れずにおわる。ずっと機内誌(ソウルに行き来するときに読んだもので読み飽きたが)を見ていた。
 
そういえばいつだったか揺れいているときに本を読もうとしたら、あまりの揺れに手が持ち上げられたことがあったっけ。今回はそれはなかった。そうこうしているうちに40分ほどで新潟空港着陸。久々の大揺れであった。
 
さらに翌日。佐渡に渡って親戚に南大門で買ったお土産を渡すことになっていたが、夜からすごい雨と突風。朝のニュースで寺泊航路と直江津航路は午前中欠航との報道。佐渡汽船に電話したところ、新潟航路は問題なく動いているといわれたが、相当時化ているようで大事をとってやめて(帰れなくなると困る)、東京に帰ってきた。結局動きの遅い低気圧に振り回された3日間であった。
 
 

Posted by hajimet at 10:39 | Comments (1)


2006年2月26日
東京大仏

板橋区の乗松寺へ行った。
 
池袋から東武東上線の各駅停車で14分、下赤塚で降りる。赤塚の商店街を抜け(洋品店の値段の安いこと。1000円以下がずらずらと…)、旧鎌倉街道を散策する。そこからバス通りをひたすら進む。まわりは古い集落だったようで、比較的大きな家だった痕跡や、屋敷にまつった稲荷などが多く見られる。
 
15分ほど歩き谷を越えたところで、寺が固まっているところに出た。乗松寺もそこにある。といっても昭和48年に移ってきた新しい寺だ。もともとの寺は別の場所にあり、徳川家康から朱印地をもらい、吉宗の時は鷹狩りのときの休憩所に指定された寺である。境内には様々な古いもののある。
 
天明の飢饉のときの供養塔や、江戸時代の年後の刻まれている無縁仏も多い。その中で東京大仏は昭和52年に作られたもので、黒光りしている。関東大震災や東京大空襲のような悲惨なことを二度と繰り返さないように願って作られたものである。
 
大仏のまわりには多くの石仏が置かれている。文殊菩薩、役の小角、鉄拐仙人像、がまん像などユニークな石像が置かれている。伝承によると藤堂影虎が文禄慶長の役のときに朝鮮から持ち帰ったものとされていて、藤堂家から寄付されたとのことである。
 
全体を見た感じでは、すべてが朝鮮から持ち帰ったとは言い切れないように思う。文殊菩薩や鉄拐仙人像は何となく朝鮮風の印象もうけるのであるが、役の小角の石仏は、朝鮮では使わない高足の下駄を履いているところから、日本で作られたものではないかと思われる。鉄拐仙人像の脇には文禄2年になくなった人の墓が祀られている。戒名を見るとかなり格の高いものであるが、特に表示がなかった。誰のものであろうか。
 
寺には探検家の植村直己の墓もあった。高校の時に講演に来てもらい、なぜか激しい寒さの中でトイレをどうするかという話をしていたことを覚えている。それから数年しないうちに亡くなってしまった。
 
寺は赤塚城の二の丸のあとである。赤塚城は戦国時代武蔵千葉氏の居城であった。これに続く本丸あとは公園となっていて、付近は森の中となっている。麓には溜池や「不動の滝」があった。しかし、バイパスを越えると、そこは以前徳丸が原と言われた平野となり、まったく景観が変わってしまった。高島平の団地に続く新興住宅街だったのだ。
 
住宅街をしばらく散策して、都営地下鉄の西高島平から帰宅した。
 
 

Posted by hajimet at 22:01 | Comments (0)


2006年2月22日
東京・交通博物館

神田万世橋の交通博物館へ行った。2007年にさいたま市へ移転するため、この5月で閉鎖になると聞いたからだ。また、閉鎖の記念として、昭和18年に廃止になった万世橋駅を見ることが出来るとも聴いていた。今の交通博物館自体、万世橋駅と一体で作られている。
 
前回訪れたのは、一昨年のこと。しかし、そのときは資料調査のため図書館へいき、ついでに駆け足で回っただけなので、じっくりは見られなかった。考えてみれば、高校の時以来じっくり見ていない。
 
1時30分すぎに博物館に着く。10年くらい前まで駅に見られた自動券売機に310円入れて入場券を買う。さっそくツアーの申し込みを。3時の回なら開いていると言うことで登録する。入り口目の前では鉄道模型のジオラマがまさに運転中。中央線を走っている車両には小型テレビカメラがつんであって、車窓風景を目の前のモニターに映してくれている。
 
脇の部屋では、鉄道模型蔵出しをやっていた。電気記貨車や日比谷線の3000系など、確かに子供の時に見た車両が多く展示されている。その後書く展示を見ながら進む。蒸気機関車、「機関車やえもん」の題材となった1号機関車、カットされた修学旅行列車などが昔のママ置かれる。物によっては最新の車両となっているが、多くは昔のママである。なかには写真撮影が自由なことに気がついていたら、本の題材に使いたかったものも多くあった。人車鉄道の車両が展示されていたのだ。
 
二階に行くと、船舶、飛行機の部屋となる。船舶のコーナーの中には連絡船のコーナーがある。青函連絡船などがメインだが、関釜連絡船の関連のものも展示されている。関釜連絡船は1905年に山陽鉄道によって開通され、それによって初めて日韓間に定期船が出来た。その最初の船が壱岐丸であるが、その壱岐丸の号鐘が展示されているのだ。今は鉄道記念物となっている。その脇には壱岐丸のランプがある。船が揺れてもつねに垂直を向くように工夫されたランプだ。
 
関釜連絡線は最初は壱岐丸、対馬丸だったが、つづいて高麗丸・新羅丸、昌慶丸となり景福丸、徳寿丸、さらには金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸などが就航する。日本の大陸進出に会わせて、その夢をも著しているせいか、名前がだんだん壮大になっていくのがわかる。だって、最初は日本の島だったものが、旧国名となり、さらに王宮、継いで朝鮮と中国の山々となるわけだから。このうち、興安丸と金剛丸の号鐘も合わせて展示されている。さらに別室には金剛丸は復元模型もあった。その勇壮さにしばらく見とれた。
 
いよいよ万世橋駅見学ツアーである。集合場所から模型展示室を抜け、細い扉を入る。建物のスキマの足場の悪いところを歩くと、左手にレンガ造りの入り口が見えた。そこから部屋へ入ると、レンガで作られたアーチ状の部屋となり、上に鉄橋が見えている。駅の入り口部分らしい。ここで「さようなら そして ありがとう」という5分ほどの映画を見る。その後アーチなどの記念撮影をしたのち、いよいよ昔のホームへ。曲がりくねった階段を登る。
 
万世橋駅は甲武鉄道から営業を引き継いだ鉄道院が作った駅で、中央線のターミナルとして作られた。駅のある神田須田町は東京一の繁華街だった。東京駅付近が寂しいところだったので一つ手前にターミナルを作ろうとしたのだ。ここに辰野金吾が駅舎を作ったが、関東大震災で焼けてしまった。
 
その後の万世橋駅は繁華街がうつったことや、ターミナルの機能がなくなり小さな駅となってしまった。そこに鉄道博物館ができたが、駅自体は太平洋戦争中不要不急となって廃止されてしまった。神田、お茶の水、秋葉原から至近距離過ぎたからだ。今、そのときのホームだけが残っている。そこを見たわけだ。見学が終わった後、万世橋のたもとの入り口あとを撮影して引き上げた。道路の向かいには肉の「万世」があった。ここの赤坂見附店のラーメンは高校の学校帰りによく食べたところだった。
 
 

Posted by hajimet at 21:08 | Comments (0)


2006年2月16日
京都大原

14日夜、大阪で用事があった。レセプションでは鶴橋で仕入れたキムチサンドが振る舞われた。不味くはない。
 
翌日京都大原へ向かった。京都駅からバスで1時間。大原に着く。三千院へ行くが、途中の道は呂川にそって土産物屋が並んでいた。柿染めや和紙の店もあったが、その多くが柴漬けの店であった。「ここは大原で一番と言われている店です。私どもが言っているのではありません」などという呼び込みを聴きながら山を登る。
 
三千院ではまず本堂に参拝。2月15日が釈迦の命日と言うことで、5色のマメをもらう。苔の庭を楽しみ、阿弥陀仏を拝む。脇侍は「大和座り」の最古のものというが、ようするに正座しているのだ。一瞬異様な感じがする。
 
三千院をでて、さらに裏山へ登る。音無の滝と書いてあったからだ。右手を流れていた呂川が離れていき、左から律川が近づく(あとで、誰かが「津川」だといって、間違いに気付いて恥ずかしがっていた)。川沿いに登っていくと、鉄道のレールを利用した橋を渡るようになる。そこに「音無の滝」の表示が…。矢印の向きは川の方向を指していて、そこにあるのは砂防ダムの「滝」なのである。みていた写真とあまりにも違う。そんなはずはないと気を取り直して、もう少し登っていったら、ありました、ありました。細い流れだが、途中で別れたり一緒になったりした立派な滝が。でも、きっと勘違いしていく人もいるのだろうな…。
 
滝から降りて三千院の裏の来迎院へ。寺は質素な作りで、本堂の中の薬師、阿弥陀、釈迦如来がすばらしい。庭には雪が残っている。そのなか、寺の裏手に回った。融通念仏宗をおこした良忍の寺で供養塔があるということだったからだ。融通念仏宗の供養塔を長野県小谷で見たことがある。ハングルが刻まれている。よくいわれる神代文字ではなくハングルであるが、読み解くと日本語をわざわざハングルで刻んだ物で、しかもハングルではありえない濁点までついている。
 
それを思い出しながら進んでいくと、石塔があらわれた。地震の多い日本では、奈良時代以来地震に倒れにくい塔が作られているが、ここの物はそれより前の形式である。鎌倉時代作となっているが、そうだとすればかなり珍しい。むしろ韓国で多く見られる形式である。
 
山を下りながら、三千院裏の勝手神社を参拝し、「大原問答」の行われた勝林院を見る。仏像の顔は柔らかい表情をしている。次に行ったところは宝泉院。伏見場から供養のために持ってきた血染めの天井などがあるが、それよりも本堂から見る庭がすばらしかった。格子窓から見る鶴亀の庭、本堂の縁側の柱を額縁に見立てて作られた庭もよい。入場料を払うともらえる抹茶券でお茶を点ててもらい、しばらく一服する。大きな五葉の松も立派だ。トイレでは真言を唱えてから使うようにと指示が貼ってあった。
 
土産物屋で柴漬けと、アイスダイコンを買う。ダイコン漬けに棒がさしてあって、アイスキャンデー風になっているものだ。囓りながら降りた(他の店からの勧誘の声がかからないというメリットも)。その後寂光院まで行こうと思ったが、雨が激しくなったことと、寂光院の本堂が焼けてしまい、最近復興したと言うことで次期をずらすこととした。
 
バスで八瀬まで行く。そこで叡山電鉄に乗り換えた。高校の時に乗って以来で、久しぶりだ。そのとくはグループ行動で貴船神社、鞍馬寺へいったのだ。車両は新しくなったが、スピードは出ない。出町柳駅についた。バスから見たときは新しい駅舎になったものだと思っていたが、外観が変わっただけで中は昔のままだった。
 
駅前の下賀茂神社へ行く。高校の修学旅行のとき参拝したつもりであったが、それは徒然草の石清水と同じだったことに気がついた。鴨長明ゆかりの河合神社などを見たのち、出町市場をぬけ、京都御所と同志社の脇を市営地下鉄今で川駅まで歩いていった。かなり距離がある。修学旅行の時、今出川から出町柳まで列車に間に合わせるために走り抜けたが、記憶ではもっと短い距離になっていたのだ。記憶の検証も必要だと思いながら、帰京した。
 
 

Posted by hajimet at 20:43 | Comments (0)


2006年1月7日
関西・信州

1月4日、1月5日、大阪東京鈍行の旅を行った。
3日の夜に大阪で、4日の夜に名古屋で用事があったのだが、昼間特に予定がなかったので、ゆっくり移動しようと思ったこともある。
 
4日、大阪天満駅から大阪環状線に乗る。その前に交通新聞社の携帯全国時刻表を買った。関西圏の時刻表のため、新幹線の次に出ているのは東海道線(東京発)ではなく琵琶湖線であるし、私鉄なども西日本中心に書かれている。
 
さて、大阪で20分ほど待って、大阪10時4分発の大和路快速に乗り込む。途中生駒山地を越えるが、それまでの平野が突然高くなり、山間に入ったようにいくつかトンネルや橋梁を渡ると、もう奈良盆地だ。奈良を通過すると10分ほどで加茂駅に到着する。加茂の手前から山らしい景色にはいるが、まだ大阪からの住宅街が続き、近郊の様相を見せている。
 
加茂11時6分発の列車に乗り換える。ディーゼル2両連結のワンマンカーである。笠置山地を越えるために急に深い山の中を登っていく。川底はごろごろした石が堆積し、まわりには落石よけが作られ、砂の採取場がちらほら目につく。駅の間隔も急に広がる。しかし、昔のディーゼルカーに比べ、坂道をあえぎつつ登っているという感覚はない。
 
約1時間で伊賀上野に。急に視野が広がり、豊かな場所であることが分かる。列車は亀山駅へ。20分後に接続があるのだが、市内巡りをしたくて1本列車を送らせる。亀山の駅前は、静かな商店街が広がっているだけであるが、市街は20メートルほどの丘陵の上にあった。ここに旧東海道が通っている。東町の商店街はほとんど昔のものがなくなってしまい、アーケードの柱に本陣あとなどの位置が示されている。城下町でもあるため枡形に道が曲がっているが、その後を黄色い舗装で示している。西町にかけては古い町並みが続いていた。
 
ここから名古屋までも2両編成のワンマン列車だった。乗客の量と列車の輸送力が釣り合って折らず、途中から超満員に。四日市のコンビナートを眺め、長島付近で木曽三線を渡るとともに、はるか養老山地を眺める。揖斐川沿いが急崖になっていて、その裏斜面が緩斜面になっている様子、麓に集落が広がっている様子がよく分かる。うっすらと雪化粧をしていた。関ヶ原ほどの積雪はないが、名古屋から四日市にかけて良く雪が降るとのことで、この日も雨が降っていた。たしかに亀山から名古屋にかけては、鈴鹿山地の東麓の延長にあたる。
 
翌日、名古屋10時3分発の中央西線中津川行きに乗る。列車は高蔵寺、多治見で本数が減るが、なるほど高蔵寺までは市街地が広がり、その先は急に山が深まる。列車は多治見の手前で岐阜県に入る。徐々に雪が増え、遠くに木曽山脈の雪化粧した山々が見え始めた。王子特種製紙の看板を眺めつつ、11時14分に中津川着。中山道の要衝である。
 
約1時間の接続で、12時発の松本行きに連絡する。列車は急な勾配を登りはじめ、木曽谷を進んでいく。左右に山が迫り、深い谷底であることが分かる。左に右に流れていた木曽川が左に固定され、列車は進んでいく。谷底は白い花こう岩がで埋め尽くされているが、その範囲が何とも広い。よほど荒れる川なのだろう。それと浸食が活発に行われていることも伺わせられた。南木曾のあたりで長野県に入る。
 
谷沿いの少し広いところに集落が広がり、切り出した杉の幹がうずたかく積まれている。あちらこちらに製材所の文字が目に入り、杉林も広がる。手入れが行き届いていて、枝打ちも行われている林が多い。川にはところどころダムが作られ、発電所も多い。列車はさらに高度を上げ、上松の手前で寝覚めの床を通過し、木曽福島に入った。沿線で一番広いところのようで、建物も多い。その後も奈良井のあたりまで高度をあげて鳥居峠まで。
 
そこから、今度は下りになる。川の向きも反対に流れるようになった。この川は松本で梓川と一緒になり、信濃川に合流する。峠の反対側、諏訪湖から流れる川は天竜川だから、三つの大きな川の源の一つがここに集中していることになる。そんな様子を見ながら、列車は13時43分、塩尻着。すぐに茅野行きに乗り換えて14時16分。上諏訪に到着した。
 
上諏訪では1時間ほどの時間を利用して諏訪湖へ。12月に訪れたときはまだ湖は凍結していなかったが、この日はほぼ全面結氷していた。高さは高くないが、御神渡りを見ることが出来た。駅に戻り15時9分発高尾行きで東京へ向かう。左に八ヶ岳、右に甲斐駒ヶ岳。前方に富士山を眺めながら列車は進む。
 
小淵沢の先から、線路はやけにカーブが多い。釜無川に沿った高台の上を走っているためであるが、ここは韮崎火砕流のあとという、八ヶ岳が崩壊したあとのため、でこぼこが多いのだ。
 
甲府まで降りてきて、特急で帰ることとした。高尾からが遠いことと、少々疲れたからである。改めて乗り心地の違いを感じつつ、東京についた。
 
 

Posted by hajimet at 10:23 | Comments (0)


2005年12月9日
諏訪、山梨

ここのところ、めちゃめちゃ忙しかった。本作成の最終工程(まもなく出版)もあり、夜も寝られない状態がかなり長く続いた。(ついでに20年ぶりに楽器を買い換え、こちらは満足)。でも、その本の写真撮影のおかげで、春以来いろいろなところに行くことが出来たのだから、疲れたなどとはいっていられない。といっても、終わってしまえば、気も抜けるものである。
 
で、息抜きをかねて諏訪方面へ行ってきた。甲府駅で降り、知人の車で中央自動車道をとばす。左に甲斐巨摩を、右に八ヶ岳の雄大な山裾を眺めつつ車は進む。この山、もともと火山だが、諏訪湖の南側から見るとその雄大な山裾が富士山の裾野に似ていて、いかにも火山であるという様子が見える。紅葉のピークは過ぎ「遅れモミジ」になっていたが、途中の山々は山裾は「秋」、山の上は「冬」で、峰々には雪がうっすら積もっていた。
 
諏訪の町を通過して、下諏訪大社まで行く。神社の脇の川を進むと、万治の石仏があらわれる。岡本太郎が見つけたという話だが、奇怪な形をした石仏である。大きな石の上に石仏の首が乗っている。日本的な石仏というより、韓国で見られる石仏に似ているのだ。見た途端に、頭は韓国安東のチェビ庵の石仏の仏頭(高麗時代)、胴体は韓国慶州の三陵渓磨崖石仏(新羅時代)を、背中は韓国扶余定林寺の石仏(百済時代)を連想してしまった。時代的に直接の影響があるとは思えないが、それにしてもよく似ている。
 
諏訪大社で御柱を眺める。あたりの神社の祠のまわりには、どこにも御柱が立てられている。昼食後諏訪湖を一周し、国道20号線を甲府へ向かう。左に八ヶ岳が崩壊して出来た韮崎岩屑流を見ながら進む。いかにももろそうな岩壁の下を釜無川が峡谷状に谷を刻んでいる。谷のまわりには岩がごろごろとしていて、荒涼たる風景の場所もある。
 
白州でサントリーの工場を見学。「南アルプスの天然水」の工場のあるところである。後ろの山から平野に出る扇状地の上で、いかにも美味しい伏流水の豊富そうな地形をしている。この生のウィスキー工場を見学。知人とばったりあったりしながら、コースを回る。まずつけ込み、蒸留工場。小麦と麹をつけるので、入り口では醤油工場と同じような甘い香りが漂っていた。ここで3日間つけ込むのだが、1日目と2日目では発行の仕方が違う。
 
それから、樽焼きの現場へ。熟成する樽の力が落ちると焼いて復活させるそうで、最初はウィスキーのアルコールが燃え、それから木に火がつく。その貯蔵庫へ。入るだけで酔いそうな香りの強さだ。そして試飲コーナー。無料と有料があるが、有料の方で30年ものの樽酒原酒を飲んできた。少しどっしり落ち着いた感じの香りになっていた。
 
サントリーに続いて、近くの七賢の絞りたての新酒を堪能し、一拍。
 
翌日は昇仙峡へ。以前谷を歩いて、ロープーウェイの乗り場まで行ったのだが、その乗り場付近の様子しか覚えていなかった。今回はロープーウェー乗り場まで行きそこから谷を半分くらい歩いて降りた。あたりは雪がちらつく。仙峨滝をみて、屹立する花こう岩の狭い岩の間を降りる。川がものすごい勾配を流れ落ちる。谷底にも直径が10メートル近くにもなる岩がごろごろしていた。岩にも夢の松島とか、天狗岩など様々な名前が付けられている。前を親子連れが歩く。
 
今度は下まで車で降りて、1qほど谷を遡る。こちらは雨。先にメインの滝付近を見たせいか、谷が落ち着いて見える。あたりには、猿岩、大仏岩、大砲岩、オットセイ岩、猫岩などと名付けられた岩がある。ほとんど想像力の世界だが、良く名付けられたなというくらい、本物を連想させるものもあった。徐々に花こう岩の中心の世界になっていく(なぜか、堆積岩の丸い石が積み重なっているところもあったが)。韓国の山歩きの時に見慣れた風景になってきた。韓国の山は花こう岩中心だからだ。
 
ただし、昇仙峡の方が木が多く、水が豊富に流れている。表土が少ないせいか、杉や檜はほとんどなく、マツが中心の所はよく似ているが、岩の割れ目にまで木々が根をはって茂っているところは、韓国ではあまり見ない。そんなことを考えているうちに、先ほど前を歩いていた親子連れとそれ違ってしまった。
 
甲府から各駅停車で高尾へ向かう。勝沼までは雨であったが、勝沼の駅のすぐ上にある葡萄畑は白く雪化粧していた。そこから徐々に雪が増え、甲斐大和では雪が積もっている状態に。特急通過待ちの10分間、扉は手動でしまっていた。笹子峠をこえ、大月付近まで雪は続いた。
 
 

Posted by hajimet at 09:57 | Comments (1)


2005年10月27日
韓の国「仏が来た道」紀行(3)

(扶蘇山城−クドゥレナル−定林寺−陵山里古墳群−昼食−渓流山甲寺−東鶴寺)
朝、とても深い霧の中を扶蘇山を登りはじめる。
百済の王宮の裏手にあたり、山城になっている山である。高さは100メートルほど。だらだらした坂を上り、戦前、扶余神宮を作ろうとしていたところにある、三忠祠を左に見ながら進む。ところどころ土塁や石垣のあとが見られる。百済時代、日の出を楽しんだという迎日楼まで来るが、やはり霧が深く、遠くは見えない。
 
さらに西腹寺、軍倉あと、送月楼跡を見ながら登る。軍倉あとは、百済の軍米が置かれていたところで、今でも炭化した米が出てくる。15分も歩いたであろうか。いよいよ落花岩だ。三国遺事では堕死岩と書かれているのだが、百済が亡びるときにここから宮女が落下して死亡したという。
 
 伝説では300人近い人数と言うことになっている。その宮女達のスカートが風邪で花びらつぼみのように広がりながら落ちていく様子をみて落花岩(ナックヮアム)と名付けたという。
 
 普段白馬江の見晴らしもよいし、足下の水面までのきりたった崖煮立つと、吸い込まれるように川面が見えるところだが、何せ川霧がすごく、下は真っ白で何も見えない。うっかり足を滑らせたら、とんでもないことになるような恐怖を感じた。まるで地獄のそこに落ちていくように感ずる。
 
しばらく、そこで百済に思いをはせた後、白馬江下りへコラン寺まで降りていく。寺の後ろに泉があり、それを飲むと若返るという。この辺まで来ると、陽も射してきて川霧が晴はじめた。徐々に川の対岸が見え始め、川の全貌が見える。いつもよりも水が満々とたたえられた白馬江が見え始めた。
 
船に乗る。先ほどの落花岩を下から見ながら船は進む。遠くに飛鳥三山ならぬ扶余三山の一つ、浮山(プサン)を見ながら船は進む。慶州は奈良に似ているが、扶余は飛鳥に似ている。残っているものが少なくて「心の眼」で見るところまでだ。日本語で案内が流れ続けるが、ちょっとうるさい。30分の船旅と言うが、10分でクドゥレナルへ到着した。
 
ここから定林寺(チョンリムサ)へ移動する。多くの子供や観光客が来ている。百済時代の石塔、高麗時代の石仏が残っている寺だ。昼食まで少しあるので、急遽陵山里古墳群まで行く。百済王家の古墳で装飾古墳が残されている。そばに扶余を囲む羅城があり、都邑地を出たことが分かる。装飾古墳の本物は見ることが出来ず、模造で見ることが出来る。
 
あたりは秋の始まりを思わせる景色で、僅かにハゼなどが赤くなり、ススキの穂が銀色に輝いていた。古墳を建学している最中に、食堂から電話がかかってきた。「食事、もう出来ているんですけど…」。お昼は石焼きピビンバップ。人数分石焼きの中に入って、配膳されているということだ。
 
店に着き、席に着いたときは石は冷え、お焦げは固くなり、上に乗っていた生卵は半半熟に近い状態になっていた。食後バスに乗り鶏竜山(ケリョンサン)へ行く。竜の上に鶏冠が乗ったような形をしているので、このような名前になったという。歴史的にも重要な山で、古代以来韓国史の中では何回も登場している。まずは甲寺。「春麻谷、秋甲寺」というほどよく知られた寺で、新羅以来の様々な遺物がある。
 
しかし、それよりも何よりも人が多い。入り口は門前市をなしていて、どの店も「KBS」で紹介されたと出ている。本当に一見ずつ紹介されたのであろうか。寺まで見て、新羅時代の鉄製幢竿支柱を見て、東鶴寺へ。
 
ここはもっと人がすごかった。渋谷センター街も真っ青な混み方である。門前市ももっとすごい。寺そのものは朝鮮戦争で焼けてしまい、建物そのものは新しい。古いものといえば、高麗時代の石塔があるくらいだが、途中の渓谷はきれいであった。
 
山は上が岩山、下は紅葉が始まりはじめて色が変わりはじめた青。水辺では家族がビニールシートを広げて宴会をしている。ただし、寺まで遠い。ゆるやかな上り坂を15分以上かけて登っていかなければならない。さすが、韓国の山寺である。
 
バスはソウルへ向かう。専用レーンが出来ているので、渋滞の斜線を尻目にソウルへ入った。ホテルはソウル観光ホテル。今までの中で一番よいホテルであった。竹筒御飯を食べて就寝。
 
 

Posted by hajimet at 21:42 | Comments (0)


2005年10月19日
韓の国「仏が来た道」紀行(2)の2

長くなったので第2弾。
 
バスは論山(ノンサン)のインターで降りる。論山を見るのは後回しにして、益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)へ向かう。論山は軍隊の訓練所があるところで、その近くの横断幕には「愛国の精神で生まれ変わろう」「生まれ変わった気持ちで、お母さんにあいさつを」というようなことが書かれていた。ここで半年訓練を受けたのち、1年半持ち場に配属されるそうである。
 
弥勒寺は百済最大の寺で、石塔がある。地盤が軟弱なため東西の石塔とも崩壊した。西塔はかなり崩壊していながらも、コンクリートで補強してかろうじて残っていたのだが、近年解体補修工事を始めていた。西塔の周囲には飛鳥の欽明天皇陵下にある猿石にそっくりな石があるが、石塔の屋根をひっくり返した者の上に置かれたことがわかり、百済のものかは怪しくなっている。東塔は最近復元されたものだ。博物館にいる日本人女性が通訳に回る。
 
ここから論山へ戻る。あたりは柿の実がたわわに実っていた。灌蜀寺(クヮンチョクサ)は韓国で最大の石仏のあるところである。バズは道に迷いなら寺へ向かう。車内ではキムチの付け方をガイドさんが話していた。
 
参道はここでも稲の乾し場に使われていて、その周囲にマッコルリや焼き栗、蚕のさなぎを売る店があった。子供の時にこれを醤油味で食べたと懐かしそうにつまんでいる人もいた。
 
寺への階段を登る。山寺が多いが、ここもそうだ。寺に般若心経が流されるが、なぜかトイレにも流れている。上がってすぐ左手に消防車が止まっていた。自警団のようなものが置いているのようだが、そこに書かれていた文字は「甘露水」。たしかにそうなのだが、きっと、仏のご加護も多いことであろう。弥勒殿の中には仏像がなく、ガラス越しに石塔と弥勒仏が見られる。ただし、弥勒仏と言うが、観音であるといわれる。
 
石仏は頭の上に細長い帽子をかぶり、その上に早稲田大学の角冒のようなものを二段に重ねてかぶっている。拝礼するためには靴をぬいで、仏像の前に行かなければならない。そこにはろうそくと、米が備えられていた。
 
仏像から出る光が中国まで届いて、僧侶がわざわざ参拝に来たとか、なにかと伝説の多い仏像である。その右手に持っている紫の蓮は、弥勒殿脇の水槽に綺麗に開いていた。
 
寺の入り口では、お土産用の扇子を1000ウォンで売っていた。ソウルで買うと安くても5000ウォンはするものがである。バス停の前には、一休みが出来るように水やジュース、アルコールが売られていた。その中にお土産用の塩辛を売っている店もあった。いろいろなものがあったが、中にイシモチの子供の塩水付けも売っていた。
 
バスは扶余へ向かう。30分ほどの距離をうとうとしながら一般国道を進む。扶余の入り口、陵山里古墳群、香炉、羅城の話をしながら、市内へ。こじんまりとした町で、歩いて回ることも出来るところだ。
 
バスは宮南池(クンナムジ)へ行く。以前行ったときは水田の中にぽつんとある池であったが、まわりは一面蓮畑と沼になり、ノルティギ(ブランコ)などが置かれ子供が楽しんでいた。その上池には帆船が一隻浮かび、遠くには階白(ケベク)将軍の逸話を描いた大石碑が置かれている。改めて見に行く必要をかんじるほど、整備されていた。
 
夕食は錦江を渡ったところでウナギを食べた。ぶつ切りを焼いたもので、一人前2匹。これをサンチュなどに包んで食べる。かなり油っこい。宿泊は扶余三井ユースホステル。一人部屋は電源コンセント以外なにもない。テレビも電話もなく、風呂もトイレにシャワーだけついているものだった。オンドルも効かない。場所によってはコンセントにガムがつまっている。どうも学生が泊まる部屋が割り当てられたようなのだ。
 
他の部屋は設備がそろっていて、オンドルも効いていたので、フロントに文句を言いに行ったら、一言「ガイドさんから説明はなかったのですか?変更できる部屋はありません…」。けんもほろろであった。広々としているから、まあ、いいっか…!。12時過ぎに就寝。
 
でも情報がないと寂しいから、こういう時用に日本から持ってきた短波ラジオでNHKの国際放送を聴く。ラジオ第1放送と同時放送だから、重宝だ。しかも東京の放送が流れるので、違和感もない。
 

Posted by hajimet at 21:54 | Comments (0)


韓の国「仏が来た道」紀行(2)の1

2日目 晴 【法聖浦−仏甲寺(霊光)−弥勒寺(益山)−灌蜀寺(論山)−扶余】
 
2日目の朝。8時にバスは法聖浦(ポプソンホ)へ向かった。東晋から来たマーラナンダが上陸したという伝説のあるところだ。港まで15分ほど。港そばの店はどこも紐につるされたイシモチを売っていた。全国からこれを買いに人が集まるそうだ。もともとこの海の先でイシモチが大量にとれたことに由来するが、仮に輸入されても、ここで霊光クルビ(いしもち)の名前で売り出されるとのことである???
 
法聖浦はさらに湾を5分ほど回り込んだところ。今は聖地化事業が行われ、観光地化開発が行われていた。近々大石仏がたつ予定で、そこへ行く山門には釈迦がサトリを開いたときを表したガンダーラ仏のレプリカなどが置かれていた。海はちょうど干潮で、干潟に水は何もない。おそらく5b近くはあるだろう。遠くから潮が満ちてきたと思ったら、海の入り口は有ったいう間に水で満たされていた。あたりは芝を張ったばかりで、ここも「鶏糞」の香りが漂っていた。
 
次に藤原惺窩 (1561-1619)の思想に影響を与えた姜(カンハン)を祭った書堂(ソダン)を見に行く。風水的に優れたところにあるのだが、それ以上に感心したのは米のほし方であった。ちょうど稲刈りシーズンで、田には手で稲を刈る者や、機械で刈る者がいたのだが、どこにもハサで干している様子が見えなかったのだ。結局、道ばたにシートをおき、そこにモミを広げて天日干ししていたのだ。ときどき混ぜるのか、京都の竜安寺の石庭のように米の表面には筋が付いていた。国中のそこここにその様な風景が広がっていた。
 
続いていった仏光寺(プルガップサ)。ここはマーラナンダが最初に開いた寺と言うことだ。僧侶がお茶を丁寧に点てて(中国茶だった)から、寺の由来を説明してくれる。それが長い。通訳を入れているからもあるが、マーラナンダが生まれたガンダーラから話が起こり、アレクサンドロス大王の影響で仏像が出来たこと、ここは大乗仏教の故郷であることから話が始まり、なかなか韓国へ到着しないのだ。結局途中ではしょり、寺の見所の話になった。床にはオンドルがきき、健やかな寝息もきこえてくる事態に。
 
時間が30分以上オーバーしてしまい、希望を出しておいた高敞の支石墓(世界文化遺産)にはよらず、バスは西海高速道路から一般道経由で湖南高速道路に入る。益山で降りるはずが、そこを通過した。???と思ったところ、食事のために次のドライブインまで行ってしまった。そこで昼食。早くできると思ってラーメンを頼んだのが間違いだった。まず、食券を買う。そこから注文書が厨房へ行く。厨房には3つの鍋があって、その脇の大釜に湯が煮立っている。注文があるたびに湯を鍋に移し、ラーメンの袋を破き、麺を入れる。生麺ではなく、インスタントだ。注文によって辛ラーメンか、オジンオラーメンか使い分ける。出来るとそれを丼に移す。書いているだけでも効率悪いが、見ていると尚悪い。ラーメンのまわりだけ人が群がっている。5分待っても自分の番は来なかった。後で頼んだ山菜ピビンパップはものの30秒で出てきた。
 
食べ終わったら出発の時間。バスは一路論山へ向かった(益山へは戻れないため)。つづく

Posted by hajimet at 21:23 | Comments (0)


2005年10月18日
韓の国「仏が来た道」紀行(1)

10月14日から3泊で「日韓市民ネットワーク名古屋」のメンバーと一緒に韓国へ行ってきた。現地解説のためである。といっても、行ったことのないところも多いので事前勉強が大変だった。百済に仏教が上陸したと言われるところから、遺跡をめぐるものである。
 
第1日目
【空港−瑞山磨崖仏−修徳寺−霊岩(泊)】
 
飛行機は朝8時15分羽田発金浦行き。10時40分には金浦空港に着き即座に仁川空港へ移動する。そこで名古屋、京都のメンバーと合流するためだ。30分ほど待機して、合流。即座にバスに乗り西海高速道路を南下する。西海は後悔の韓国名である。
 
ほぼ1時間で韓国最長の西海大橋を渡る、7qほどの吊り橋だ。途中の島でトイレ休憩。立派なサービスエリアをくぐりぬけ、トイレへ行くと、なんと、「ここはどこなんだ?」状態。トイレの中に立派な盆栽があるのだ。便器は?盆栽の向こうに隠れるようにならんでいた。写真では左手奥になる。入り口から見えないようになっているのはよいが、ちょっと慌てる。
 
バスの中ではガイドさんの韓国事情講義も延々と続く。
 
西海大橋を渡り、唐津(タンジン)に到着。この辺一体の百済に於ける位置づけを説明した後、瑞山(ソサン)へ行く。600年頃に造られた磨崖仏がある。百済の磨崖仏は3つしか確認されていないが、みな唐津、瑞山のあるこの泰安(テアン)半島にある。
 
磨崖仏を見たのち、近くの修徳寺(スドクサ)へ。尼寺で、韓国で3番目に古い木造建築(14世紀)が残り、高麗壁画、大懸仏があるところである。大雄殿(本堂)でそこにいる尼さんからお話を伺う。寺は山を背にしているが、その前に広がっていく谷は、広がりを感じさせるすがすがしい景色だった。
 
途中の参道には多くの門前市が出ていた。特に松の葉の粉、ドングリの粉、漢方の材料(オミジャ、トングルレ、ナツメ、葛根等々)売る店が列をなす。それと、山菜、焼き栗、焼きぎんなん(この辺は定番)の店も多い。紅葉にはちょっとだけ早かったものの、やはり秋だ。シイタケも多くの店に置かれた。韓国で見たシイタケは立派なドンコが多い。
 
修徳寺を出発して、再び西海高速道路を南下。途中論山のサービスエリアで休憩する。降りた途端に、「かぐわしいにほひ」が。田舎の臭い。しかも豚小屋の近くのような。芝などに肥料をやるために鶏糞をまいたらしいのだ。そんなこともありつつ、西海に沈む夕日を眺め(この日東京は天気はよくなかった)、さらに南下する。
 
バスの到着した全羅南道の霊光(ヨングヮン)はイシモチの干物(クルビ)で有名なところだ。韓国では好まれ、贈答品としても使われる。夜はイシモチをメインにした御飯。不味くはないが…。泊まったホテルは、3級のホテルであったが、荘級旅館と大差のない設備だった。翌日はこの霊光から出発である。
 

Posted by hajimet at 22:48 | Comments (0)


2005年10月10日
佐原

10月9日、千葉の佐原まで行った。品川から臨時特急「佐原秋祭号」に乗る。形式は183-3。房総特急用に昭和47年に作られたもので、かなり老朽化している。車内の形式板がなくなっていて、マジックで書いてあるところがもの悲しさを感じさせる。
 
佐原には調査したいことがあり、それをお祭りにぶつけて見に行った。
 
佐原は利根川の河口から40q。近隣の物の集散地として発展した。列車に乗っているときも、潮来の人が子供の時、一番大きな都会である佐原で買い物をしたということを話しているのが聞こえてきた。かなり早い時期に三菱銀行がここに支店をだしていたそうで、今でも明治時代のレンガ造りの建物が残されている。
 
現在は、水運は衰えていて町の勢いはかつてほどではない。戦災に遭っていないため、江戸時代からの蔵等が多く残っている。中心を流れている川沿いには、船下りが出来るようになり、そのまわりに伊能忠敬の家や蔵、昔の旅館などが整備されていた。戦前の文化住宅も綺麗に整備されていて、瀟洒な感じが出ていた。
 
そういう町中を山車が巡航する。それぞれの町ごとに山車をだすが、ほとんどが明治になる前後の物だ。山車の上には大きな人形を置く。素戔嗚尊、仁徳天皇、小野道風、浦島太郎、神武天皇などのテーマで創られ(之も明治期の物のようだ)、それが巡行する。山車の中に人が鈴なりに座り、囃子を吹いていくのだが、威勢がよいというよりは、のんびりしたテンポで演奏をしている。
 
その山車を引っ張るとともに、後ろから押すのだが、押す人は後ろを向いて背中で山車を押していた。さらにその後ろに踊りが続く。訪れた日は最終日で、山車が自由にコースを選んで回る日になっていた。そのためあちらこちらで山車どうしが鉢合わせをしたり、みていて飽きなかった。
 
帰りに酒蔵を覗く。そこで出しているミリンは雑誌などでも紹介されているのだが(そこのミリンで創る梅酒は絶品だとのこと)、その樽を見てきた。酒と違い、常に炭火で45度くらいに温めて醸造するということであった。
 
帰りも臨時特急で帰る。車両は行きと同じ。指定席3両、自由席3両であるが、指定席はぎっしりと込んでいた。反対に自由席はがらがら。おそらく旅行社のツアーのような形で席がおさえられていたのであろう。

Posted by hajimet at 11:17 | Comments (3)


2005年8月29日
ソウル(3)舎堂から市内へ

2日目。朝土砂降りで、遠出の予定を変更する。少し早いお昼を食べたが、珍しく不味い。チェーン点の鉄板クイでパイナップルとトマトも一緒に炒めているために変な味になるのだ。食べた場所は地下鉄2号線新林洞(シンニムドン)駅そば。それから2号線にのり、舎堂(サダン)駅で降りた。ソウル市立美術館南ソウル別館へ行く。駅から100b。画家による「自然の記録展」をやっていた(チラシでは7月31日までだったか)。キムスンヨンのNight Landscapeという作品は、写真をもとにしてコンテ風にしたものであったが、ずっと韓国のものだと思ってみていたら、最後1枚、銀座の風景が混ぜてあった。
 
この建物はかなり古風だ。レンガ造りでコロニアルスタイルのベランダがある。実は大韓帝国時代に建てられたベルギー領事館の建物で、のちにここに移築したとのことだ。続いて、4号線で景福宮(キョンボククン)まで行き、朝鮮時代に国の安泰を願って祭祀が行われた、社稷壇(サジクダン)、国の始祖、壇君廟などを見て、仁寺洞まで歩く。かなりの人出で町が沸き返ってきた。日本語、中国語も聞こえてくるし、南アジアの服装をした人も多い。もちろん、日本語通じる店も多いし、日本語の看板もあるのだが、中には?と思うような日本語もある。
 
寺洞麺屋の場合「サドンミョノク」になるのだが、「ン」が「メ」に、「ョ」が「ヨ」に、「ク」が「ワ」になっている。以前「スラックス」が「ズうツクス」になっているものを見たことがあるが、おそらく混同しやすいのであろう。きっと、日本にある韓国語の表記も似たようなものが結構あるのだろう。韓国語の方が一見記号にしか見えないから、そういうことが多いかも知れない。
 
仁寺洞の出口が鍾路である。そのも一本向こうが清渓川である。ここは朝鮮時代に首都漢城をつくるときに、整備された川で、もともと下水用の川で、朝鮮時代に川をさらって清流を流すか、下水のままにするか議論があった川であった。
 
朴政権のときに汚れの激しさから暗渠化工事をして上を清渓路とした。場所によっては高架道路もかけた。
 
しかし、実際川はそのまま残り朝鮮時代の石橋までそのまま道路の下にある状態であった。さたに、川からでるリュか水素で鉄筋が腐敗して、構造上もあぶなくなっていた。米軍がこの道の通行を避けていたと言うことすら聴いたことがある。
 
そこで、川を覆っていた道路をはずして、あらたに清流を流すことにしたのである。光化門交差点のそばに水のわき出し口を作って流すように工事をしたわけである。昨年は道路を空けただけで単なるガラ場だった。この正月は川道が整理されていたが、水は流れていなかった。今回は水が滔々と流れ、まわりには水草や花が植えられていた。
 
また、朝鮮時代に川の水位を測った、広通橋(クヮントンギョ またの名を広橋:クヮンギョ)が復元され、水位をはかる石標も、他の場所に保管されていたがを元に場所に戻して復元された。ソウルの変化はある意味ドラスティックである。突然高層マンションが出来たり、町の雰囲気が変わることもある。今回一番びっくりしたのは、南大門のロータリーが廃止されて一面の芝生となり、ソウル駅方面から門の真ん前まで直接行けるようになったことである。脇には城壁の一部も復元されていた。
 
南大門へ行ったのは3日目のことだった。昼間は知り合いの事務所に行っていたので(ついでに足裏マッサージも)、夕方4時になった。そして、ホテルに引き返し(5時)、金浦空港までタクシーを飛ばし(5時20分、1万5000ウォン)、飛行機が出発(7時15分)、雲の上辺を飛んでいるといることで結構揺さぶられながら羽田着(9時15分)。席が羽根のそばだったので、結構ローリングをかんじる。対地速度は900キロを超えていたから、なるべく揺れない航路を選んだのだろう。このスピードだと通常ならもう少し早くつくからだ。入国審査、税関検査を終え(9時40分)、家に到着(10時)。やはり近い…。

Posted by hajimet at 23:58 | Comments (3)


2005年8月28日
ソウル(2)新村
夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。 

ポソクチョンは本来、鮑石亭と書き新羅の古都慶州(キョンジュ)にある(リンク)。しかし、この店の「ポ」は「鮑」ではなくて「泡」である。慶州の鮑石亭のほうは鮑の形の石の溝があって、そこで曲水の宴を行った。それを模したのであろう。店の真ん中に大きな机があり、そこに似たような形の彫り込みがあり、マッコルリ(韓国風どぶろく)が流れているのである。

粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。

実際はアクリル板が溝の上に乗っていて、汚れが入らないようになっている。くみ取るところに穴が開いていてそこから手を入れるのだ。普段は穴の上にどんぶりが載っていて、ぴったり塞いである。

マッコルリの味は変わりやすい。瓶に入れておくと、どんどん酸化していくことがわかる。しかし、ここのものは酸味はほとんどなくて呑みやすかった。ついでに滝があると、と思ったが、けっこう臭いが強いから無理だろう。酸化もするし…。

帰り際KANSAIという日本ラーメン屋によった。関西ラーメン当というものを食べたが、コンソメの味が効いた豚骨風ラーメンで、日本風韓国ラーメンであった。麺を煮込む文化だからであろう。だいぶべとべとしていた。
Posted by hajimet at 09:35 | Comments (1)


2005年8月27日
ソウル1(仙遊島)

朝8時15分、羽田発のJALでソウル金浦空港へ向かった。1時間50分の飛行。11時にはもう市内にいる。一服した後、漢江中州の仙遊島(ソンニュード)へいった。もともと浄水場だったところで、それが公園として解放されたのだ。以前は入れなかった。ソウル日本人会の俳句会の吟行にご一緒させてもらったのだ。
 
地下鉄2号線堂山(タンサン)駅から車で行く。歩いても15分くらいの感じである。公園は漢江を渡りはめてすぐの所にあるが、車線の関係で一端橋の反対側までいってからUターンして戻ってくる。地下鉄2号線の合井駅(ハプチョン)からタクシーに乗った方が良かった。
 
さすが公園は川の中州である。かなり蒸し暑い日であったが、川を渡る風は涼しい。また、いくら暑いと言っても日差しはもう柔らかく秋の日差しになっていた。その中を赤とんぼが舞っている。漢江では観光船が走り、そのそばを水上スキーの若者が楽しんでいた。
 
入り口を入ると、あちらこちらに浄水場だった施設が見える。沈殿池のあとは水生植物園や植物園になっている。そのようなところに睡蓮などの水生植物をうえた水生植物園、ガマや芹などが植わる水質浄化園、白樺などがうえられた生態の森等が作られている。なんでも、浄水場の建築構造物を再活用した国内最初の環境再生生態公園、すなわち「水公園」なのだそうだ。
 
沈殿池の跡は周りの影響か、とてもひんやりしていて、家族連れなどがビニルシートを広げて休んでいた。11万4千平方キロもある公園の最下流へ行くと、堂山側から半月型の橋が架かり、川の向こうには噴水が上がっていた。その向こうにワールドカップ競技場がちらりと見えていた。
そんな情景だった。
 
投句:木の陰で/家族よりそい/戻り夏
    木道を/歩き一息/夏残る
    つたの葉が/ひとひら赤し/秋入る
 
ともかく暑かったのだ。

Posted by hajimet at 16:23 | Comments (0)


2005年8月22日
館山

再び青春18切符で館山まで行く。内房線だが、単線のため待ち合わせが多い。あっちこっちで5分程度の接続時間あって、意外と時間がかかる。君津を過ぎて上総湊のあたりまで来ると、右手に東京湾が見えてくる。いつもは三浦半島が見えるのだが、この日は少しガスがかかっていて、そこまでは見えなかった。
 
館山の駅から館山城あとへ向かう。バスで五分ほど。途中、赤とんぼが乱舞している中を歩いていく。そこに市立博物館がある。常設展では館山の歴史を紹介していたが、三浦半島と近いため意外と共通点が多い。中世の墓である「やぐら」もこの地域だけあるとのことだ。
 
特別展ではちょうど戦争遺跡の展示をしていた。館山は東京湾の入り口で三浦半島と対峙する位置にあるために、首都防衛のための施設が多く作られていた。それらの紹介だった。それで気がついた。房総半島でも他の町を歩いているときに、比較的古い建物を目にするのだが、ここでは一軒も目にしなかったのだ。激しい空襲でやられたのだった。
 
山の上に天守閣が復元されているが、ここも砲台にするために削平されていた。天守閣は博物館の分館で、里見八犬伝の資料を展示していた。館山城は里見氏の本拠地で、城内には南総里見八犬伝の元となったと伝えられる八賢士の墓もある。天守台の高さは海抜70b。波が静かなことから鏡浦と言われる館山湾、旧軍の軍事施設などが一望できた。
 
山を下りて、鏡浦を散策して帰宅。この地域は大地震のために隆起するところで、1703年の元禄地震のときには5メートル以上も隆起したとのことだ。館山駅付近もそのときに陸となったという。

Posted by hajimet at 10:18 | Comments (0)


2005年8月20日
勝浦

青春18切符を使って外房線の勝浦まで言ってきた。学校の歴史を調べていたら、明治の校長であった、勝浦校長が勝浦で勉強合宿をやって、そのとき泊まったところが勝浦館というところだったという記録があって、どんな町か見に行こうと思ったからである。
 
外房線に乗って茂原、上総一ノ宮と乗り継いで勝浦まで行った。特に時刻は調べなかった。接続に時間があたら、町歩きでもしようと思っていたからである。上総一ノ宮で40分近い待ち合わせ。ここは横須賀線からの快速列車の終着駅なのだが、駅前は…何もなかった。おみやげ屋さんと駅前食堂くらい。あとは海水浴場までの汽船乗り場の幟が目立つくらい。きっと繁華街は駅から離れているのだろう。駅前の観光案内所の前では細長い色のほとんどついていないナスを売っていた。
 
勝浦の町はそれほど大きくはない。3方が山に囲まれているからだ。駅前から5分も歩くと勝浦漁港へ行く。駅から漁港へ行く道が緩やかにカーブを描いていて、道の右手から海があらわれる。太陽の位置などから、感覚的に外房の海岸と逆の方向から海があらわれるのだ。一瞬内房にいるような気分になる。地図を見てみると、勝浦は湾になっていて、太平洋は岬の向こう側になる。町の発展している方向は太平洋と半島の反対側なのである。つまり、ミニ房総半島状態なので、感覚は正しいことになる。
 
勝浦館あとは事前に調べてあったので、そこを見たのち、図書館へ行く。市史でもないかと思ったからだ。しかし、市史は編纂中で、図書館の二階にあった市史編纂室の担当の人からお話を伺った。明治の末に勝山は保養地として売り出していたとのことだった。銚子より塩分濃度が高い。銚子よりも海水浴の効果があるということだった。そういえば、海水浴はレジャーではなくて、温泉などと同じ湯治のような位置づけだったことを思い出した。
 
図書館の裏山の見晴らしの良いところへ行こうとしたが、こちらはスズメバチがいるとのことで止められた。代わりに一つ隣山の遠見岬神社へ上る。名前の通り見晴らしの良い神社で、勝浦湾が一望できた。海沿いにホテル三日月の大きな建物も。三日月って、勝浦湾の別名だそうで、たしかに海岸線の形は緩やかな三日月型だ。
 
山を下りて海岸づたいに南へ行く。海沿いを10分ほど歩き100bほどの長さのトンネルをくぐり、八幡岬公園へ行く。トンネルは二本に分岐していて、片側は峠越え、片側は海岸沿いの道である。峠越えの道は途中の眺めはよいが、暑いときはきつかった。一方、海岸通りのトンネルは一部照明のないところがあって、そこを歩くときはスリリングだった。そういうときに限って車が入ってくるのだ。
 
公園は江戸時代の勝浦城のあったところで、徳川光圀のお祖母さんの生まれたところだ。城跡の片側には勝浦湾が広がり、湾の入り口の岩礁に立つ鳥居の脇を船が頻繁に通り過ぎていく。南には房総半島から伊豆大島まで見える。北側は太平洋への断崖絶壁に灯台が建ち、多くの船が列をなして勝浦に向かってくる。足下は海水浴やダイビングの服装をした人が…。改めて水平線が丸いことを感じた。
 
町へ戻り帰宅した。海岸沿いにはあちらこちらに乾物を作る工場があって、においが漂ってくる。

Posted by hajimet at 09:32 | Comments (0)


2005年8月16日
佐渡
約10年ぶりに佐渡へ日帰りで行ってきた。新潟から両津までジェットフォイルで1時間。お盆は初めてだ。墓の上に蓮の葉をかぶせていたり、仏壇の上に草で屋根をかける様子など、はじめて見る習慣もあった。墓については多くのところでそうだったが、蓮の葉が被さっているところと、そうでないものが同じ墓地の中にあって、何かかぶせ方に意味があるのかも知れない。集落ごとにも習慣が違うのだろう。ある集落では、玄関の前に仏画の描かれた灯籠の建っているところもあった。
 
2時間ほど時間が余ったので、島内巡りに行く。もちろん、周囲が200キロ以上有る大きな島なので、ごく一部しか見られない。出発点の両津は砂州に発達した町で、夷と湊の二つの港が有ることから付けられた名前である。安政の開国の時には新潟港の補助港となり税関もあった。二つの砂州の背後には加茂湖という湖がある。それまで淡水湖だったが、明治時代に海への水路を広げたことで汽水湖となった。今は牡蠣の養殖で知られる。
 
久知にある長安寺へ向かう。この付近は中世の佐渡の政治の中心地で寺も栄えたが、上杉景勝に地頭が滅ぼされて、寺も衰退した。朝鮮鐘のある寺で知られる(詳しくはHPで紹介)。近くの川は暴れ川でも知られていた。今は蛍の川でもある。さらに内陸に入る。
 
山下清の母親の生家跡(記念碑あり)を通り過ぎて、清水寺(せいすいじ)へ向かう。京都の清水寺を模した寺で、808年に建立されたという。入り口から階段を上ると、山の斜面に清水の舞台がある。京都のものより小降りであるが、仏像の配置や舞台の作りなどとてもよく似ている。このように京都や奈良を模した寺も多くあり、今回は行けなかったが奈良の長谷寺を模した長谷寺(ちょうこくじ)などもある。
 
続けて、佐渡に流された日蓮が半年滞在した塚原山根本寺を見る。佐渡金山を開拓した人の墓も残されている。ここを出た後、トキの森公園を見る。現在トキが80羽ほど育てられているとのことで、遠目に檻の中でトキの舞っている様子を見ることが出来た。この森の出口には白山神社がある。
 
トキの森と海岸段丘を挟んで挟んだ反対側には牛尾神社がある。安産の杉、能舞台などとともに(佐渡は民間芸能として能が盛んである)、拝殿の彫刻群が知られる。横に渡されているはりに彫られているが、向かって右側には鯉の透かし彫りが彫られ、正面に来ると、それが竜になっていく。その流が拝殿手前の階段にそって、拝殿に上っていくように彫られる。まさに、「登竜門」伝説そのものの姿である。ちなみに拝殿向かって右側は玄亀が彫られている。
 
ところで、この神社の名前はもともと「八王子牛頭天王社」といった。この神社の場所が近江日枝神社領新穂荘の鬼門にあたるという指摘もある。牛頭天王の額は大阪枚方の百済王神社にもあるが、素戔嗚尊が韓国のソシモリに降りてきたという伝説(ソ=牛、モリ=頭)に関係あるといわれる。牛尾神社も素戔嗚尊が祭神の一つとして祭られている。
 
佐渡にも渡来人の関係を示す物が多いようだ。近くの畑野は秦氏との関係が指摘され、そこの賀茂神社も新羅との関係を指摘するものがある。先ほどの長安寺も渡来人との関係があるのではないかとも言われている。そんなところを見ながら、両津港にもどった。港の脇には五泉から村松まで走っていた蒲原鉄道のものとおもわれる廃車体がおかれていた。(佐渡に鉄道はない)。
 
帰りのジェットフォイルは、途中の大雨による視界不良のために一時ジェットでの運航をやめていた。もともと小型船で水中翼を使って、飛行機のように水面から船体を浮上させて時速80qで滑空する船だから、ジェット運転をやめれば…ただの波に揺られる船である。スピードも15qがやっとだった。

Posted by hajimet at 10:07 | Comments (0)


2005年8月12日
妙義山

1週間の志賀高原、御代田での仕事も終わりバスで帰路についた。長野自動車道である。長野県側は比較的平坦な高原状の所を走るのに、群馬県側に入ったとたんに複雑怪奇な形をした山沿いの景色に変わる。妙義山である。
 
上毛三山(赤城山、榛名山)の一つで、奇怪な山の形をしていることで知られる。その奇妙な山の形は、上越新幹線からも遠く眺めることが出来る。
 
山の稜線の上に、岩が地下から突きだしているような形であるが、もともとは700万年から550万年前の火山活動で出来た榛名山くらいの山が元となっているとのことだ。その山が激しい地殻変動で陥没し、のちの風化、浸食の影響で今のような形になったとのことだ。この奇岩が多いことで大正12年に名勝に指定されている。
 
この山の様子を長野自動車道から如実に眺めることが出来る。特に横川のサービスエリアからの眺めはよい。この辺はこのような山が多い。手前の高井山は山の上に奇岩が二つ飛び出している。道はその下をトンネルでくぐるが、威圧感を覚える景色をしている。行きは靄がかかっていてその様な山容を見ることが出来なかったが、帰りははっきり見ることが出来た。
 
これに対して、軽井沢側が比較的平坦なのは、浅間山の噴出物や火砕流などで出来た湖に、土砂が溜まってで来た地形のためである。
 

Posted by hajimet at 13:21 | Comments (0)


小諸(3)北国街道

懐古園をあとにして、北国街道を歩く。善光寺を通って行くことから、善光寺街道とも呼ばれた。加賀百万石の参勤交代のルートであり、佐渡の金山の金を江戸に運ぶ道でもあった。もともとここは小諸城の城下町、宿場町であった。今でも大手門が残されているし(現在修復工事中)、本陣の立派な建物が残されている。
 
現在は道筋も改修されているが、もともとは直進できないように枡形に道が築かれていた。この道沿いに町が広がっていた。
その様な町に、信越本線が開通して、城の門前に駅ができたために、商業の町として発展しはじめた。そのために、この道沿いには江戸時代末期から戦前に至る建物が多く残されている。まずは、明治初期の土蔵をそば屋とした丁字屋、元郵便局跡(当時のポストが復元されている)、土蔵作りの小諸銀行跡などを見て歩く。
 
さらに歩くと、柳茂(柳田茂十郎)商店があらわれる。明治の建物で、屋根の上に望楼が乗っている事が特徴的である。小諸の大商人が造った建物である。この望楼と玄関先の看板建築があわないのだが、道路の拡張の際に道路側が切り取られたためにこのような形になったとのこと。
 
この付近は、通りに対して直角に店の名前を書いた白木の看板があちらこちらに出されている。
 
近くにある信州味噌(山吹味噌)、酢久商店は「御味噌」と書いた看板を高いところに掲げている。小諸藩の御用商人で武士に近い待遇を与えられていた。明治に入り鉄道敷設など小諸の町の発展に寄与したという。道路沿いに安政年間の蔵が残されている。
 
柳茂商店の向かい側には山崎長兵衛商店がある。こちらは明治初期の建物である。かんざしや櫛、降水などを売る店で助成にとても人気があったという。
 
明治初期の建物というが、建物はセセッション風とよばれる洋風の外観である。この付近(荒町銀座会)にはその様な建物が多く残されているのだ。実は、大正から昭和の初期にかけて店の正面を洋風にすることが流行ったのだそうだ。その名残だそうである。
 
そばの嶋田屋も古い。江戸時代の御用商人だった呉服商が、明治のデフレで没落し、その家を買い取ったという物である。伝統的な小諸の豪商の屋敷が前を残していると言われる。今はそこで縄や農機具、下駄などを扱っている。
 
この辺の道は緩やかにカーブを繰り返しながら次第に高度を上げいてる。荒町の商店街を抜けたところには高浜虚子記念館がある。虚子は戦争中小諸に疎開していたのだ。
 
小諸の町は江戸時代から、戦前まで、建物の移り変わり、近代建築の様々な要素が取り入れられた町であった(小諸では城下町めぐりのスタンプラリーを行っている。1時間強でポイントをまわることができる)。

Posted by hajimet at 12:05 | Comments (0)


小諸(2)千曲川

小諸といえば、「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/」で始まる、島崎藤村の「千曲川旅情」の歌が有名だ。もちろん懐古園の中に詩碑が建てられていて、観光スポットになっている。多くの人がこの句碑の前に来ては写真をとっている。
 
さて、その千曲川であるが、懐古園の反対側にある。小諸の町は千曲川の河岸段丘にもなっていて、千曲川へ向かって断崖絶壁となっているのだ。その中で千曲川が見えるのは、富士見台と藤村の詩碑のそばにある水の手展望台である。
 
富士見台は空気が澄んだときに文字通り富士山が見えるそうだ。一方、水の手展望台は足下に東京電力のダムと蛇行した川の流れが広がり、とても見晴らしがよい。さすがに夏の水の多いときだけあって、川の水の流れにも勢いがあった。
 
…昭和61年正月にここを訪れたときは、寂寞とした景色が目の前に広がっていた。雪こそなかったものの、気温が低く、目の前のダムには一面氷が張っていたのだ。川も水が流れずに凍り付いていた。

 
その中を布引観音まで歩いたのだ。断崖沿いに(今でも残っているそうだが)懐古園から川まで降りる細い道があった。途中には獣の足跡があるような道だった。10分くらいかけて降りたように思う。
 
布引観音は清水寺のように断崖絶壁に作られた堂宇をもつ寺である。ここの観音が牛に化けて、信心の薄いおばあさんを善光寺まで連れて行ったという「牛に引かれて善光寺参り」伝説のある寺だ。
 
布引観音へは昭和の初めに私鉄が通っていた。不況の中で電気代が払えず、送電を止められるなどの辛酸をなめ、遂に廃止された鉄道であるが、昭和61年頃はまだ線路の跡が残っていたのだ。それを見たいと思ったのだ。千曲川の中に倒れた橋脚があり、途中の交換駅のあとがあった。
 
いよいよついた布引観音は上るのが大変であった。その少し前に降った雪で階段が凍り付き、足をおく場所がほとんどなかったからだ。そんなことを思い出しながら千曲川を眺めていた。

Posted by hajimet at 11:35 | Comments (0)


小諸(1)懐古園

翌日小諸へ行く。
御代田駅から信濃鉄道で10分ほど。15年ぶり、4回目の訪問だ。最初は昭和61年、真冬だった。その次は、青春18切符で上野から信越本線(数少ない横軽越えの各駅停車に乗りたかった)に乗り、小海線に乗り換える1時間ほどの時間に懐古園によった。もう一度夏によった記憶がある。

御代田駅はかなり勾配がきつい駅である。汽車時代はスイッチバックだったそうだ。今でもその後が残っているそうだが、残念ながら見つけられなかった。列車は浅間山の「箱地形」と呼ばれる中を走っていく。小諸ではまず懐古園を見る。
 
小諸駅から懐古園へ行く。駅のすぐそばで歩いて5分かからない。ここは江戸時代の小諸城の跡であるが、他の城と異なり、周囲より低いところにある「穴城」である。城下町の方が高いところにあるのだ。入り口である三の門も線路よりかなり低いところにある。

この辺は浅間山の火山灰でできているために、土がもろい。崩れやすいために城の周囲の断崖が天然の要塞になるからである。

もちろん、中には空堀などがあり、地獄谷と呼ばれる掘はかなり深い。上を渡る酔月橋は橋の途中に高さを調整するための階段がついているくらいだ。

三の門から天守台方面へ歩いていくと黒門橋があらわれる。その手前には牧野氏が勧請した稲荷、寛文の洪水の時に作られたという城内唯一の井戸である荒神井戸などがある。本丸あとは懐古神社となっている。小諸領と他の領との境界石標や、明治14年に懐古園が作られたときの記念碑である「懐古園の碑」がある。これは勝海舟の筆だそうだ。
その脇に天守台があるが、それほど高くはない。しかしその石垣は野面積で全国でも珍しい。天守閣そのものは寛永三年の落雷で焼失して、その後は再建されなかった。
 
園内には多くの歌碑が建てられている。懐古園の周囲には藤村記念館、郷土博物館、小山敬三美術館、寅さん記念館などがある。これらを眺めたうえで駅前に戻った。園内には動物園もあるのだが、そちらへは足を伸ばさなかった。駅の近くには、15年ほど前に小諸へ行ったときに、なぜか印象に残った建物が今でも残っていたので、写真に納めた。

Posted by hajimet at 11:24 | Comments (0)


2005年8月9日
御代田散策
志賀高原に続いて、8月4日から7日まで長野県御代田へ移った。こちらも仕事だ(ということはまる一週間家に帰れないというわけで…)。浅間山の麓に広がる町で、中山道と北国街道の分岐点でもある。浅間山は時折白煙を上げていた。宿舎の付近は粗く赤く変色した砂と岩があちらこちらに見えた。火砕流のあとである。
 
近くの浅間縄文ミュージアムでは常設展の他に皇女和宮降下の特別展をやっていた。縄文文化は、国宝となっているこの地域にしかない焼町土器が目をひいた。
 
半日御代田の町を散策した。出だしは真楽寺。用明天皇のときに創建された寺と伝えられる。浅間山の噴火をおさえることを祈願した寺だとのことだ。同様の寺は浅間山の反対・群馬県側にもあったが、江戸時代の大噴火の時に泥流の下になってしまった。
 
寺の下には浅間山の伏流水の湧口がある。この付近にはそのような湧水口が多くある。そこからは冷たい水がこんこんとわき出していて、池になっている。そこにオオヤンマが悠然と飛んでいた。水の味は若干硬さを感じた(資料によると若干酸性の傾向が強い)。
 
境内には厄除観音の他に三重の塔が建つ。他に古木や、芭蕉の句碑「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」の句碑が建っていた。
 
真っ赤に塗られた仁王像が建つ門を出てぶらぶら散策する。同行者は水田をはじめて間近に見たと感激していた。考えたら、都会で間近で水田を見ることはなかなかない(ついでに虫も)。まわりにはカボチャ、スイカ、トウモロコシ、アスパラガス、ブロッコリーの他に高原野菜としてのレタス畑も広がっていた。途中多くの石仏、道祖神、石碑が広がり、集落には藁葺きの家が多く見られた。まだ半鐘も残っており、のぼり口には半鐘の鐘の叩き方の標が置かれていた。
 
かんかん照りの暑い中、普賢寺まで行った。途中、栗やカリンの木が多い。黄檗宗の寺で、1677年に開基された。こちらも浅間山の噴火をおさえることを祈願したということだ。古い建物は門以外残されていない。火災で焼失したとのことだった。
 
大雄殿の入り口には、中国風に魔除けの桃を描いた扉がつけられ、屋根にも黄檗宗独自の物が置かれていた。天上には竜画が描かれている。また、奥には、日本ではじめて刷られた八万大蔵経の経蔵があった。
 
大雄殿裏には石庭らしきものがある。大きな岩が建っているだけのもので、不思議な雰囲気であるが、釈迦の十代弟子をかたどったものだそうである。火山の焼け石を使ったものであるが、焼け石は通常「鬼」を象徴する。あたかも「渋柿転じて甘柿になる」ように「鬼」が転じて「仏」になることを象徴しているそうだ。翌日は、小諸まで足を伸ばした。
Posted by hajimet at 23:26 | Comments (0)


久しぶりの志賀高原

8月1日から4日まで、志賀高原へ行った。場所は発哺温泉。お湯がポッポとわき出るので、この名前がついたという。周囲にはほんのりと硫黄のにおいが立ちこめていた。山からは急傾斜で谷に下る所だが、これは火山のカルデラの縁にあたるためである。


学校の仕事で行ったのだが、もう一つ懐かしさを持っていった場所でもある。志賀高原自体は大学の時にも行っているのだが、発哺温泉は中学校の林間学校、スキー教室以来なのだ。

そのとき泊まったホテルは西発哺温泉ホテル。今回泊まったサンシャイン・志賀からは目と鼻
の先である。発哺温泉からホテルへ行くときに、分岐して行く下り坂があった。行ってみたいと思っていた所だったが、そこがサンシャイン志賀である。ものすごい急傾斜を降りていく。

当時の道を思い出して行ってみた。少し広がっているみたいだが、砂防ダムやロープーウェー、見覚えのある景色が広がっていた。ここでこんなことをして…などと思い出しながら歩いていったら、目の前に三角屋根の当時のままのホテルがあらわれた。

建物物の中に入り、声をかけてから眼下に広がる景色を眺めて帰ってきた。当時の記憶では途中小さな沢に木の橋がかかっていた。それは、新しくできた道路の下に残されていた。ちょっとしたタイムトリップであった。

Posted by hajimet at 23:04 | Comments (0)


2005年6月1日
東福寺(2)

塔頭を眺めながら東福寺へ向かう。13世紀の寺である。

途中路の向こうにトンネルのようなものが見えてきた。臥雲橋という木で造られた橋で、屋根がついていたためにトンネルのように見えたのだ。かなり深い谷で、一面カエデが植わっていた。

行ったときは新緑というにはちょっと遅かったが、さぞかし綺麗だっただろうとおもわせる風景だった。もちろん、モミジも楽しみ。

橋の向こうにもう一つ木の橋が見える。こちらは東福寺境内の橋で、本堂のあるところから寺を開山した僧侶を祀る開山堂へとつなぐものだ。名前を通天橋という。

臥雲橋から通天橋をみると、まるで木々で作られた雲海の上に橋が浮かぶように見えるが、通天橋から臥雲橋を見ると緑に埋もれたトンネルのように見える(写真は通天橋よりみた臥雲橋)。

開山堂のまわりには、ツツジがさく庭園と石庭が並べて作られるという面白い配置をしていた。開山堂も面白い建て方がされていて、その2階に納められている布袋和尚の像は、伏見人形の源になっているとパンレットは書いていた。

本堂を中心とした伽藍配置は戦国時代に作られた三門から南北一直線にならんだものである(塔はない)。

それらを見て、カワセミが羽繕いしている池をとおり、裏へ回る。創建当時の十三重の塔や神社があったが、その麓に「維新戦没者供養碑」が立っていた。篆額は山県有朋、文選は三浦悟楼である。

東福寺に続き、新那智山今熊野観音寺を拝観し、続いて泉湧寺を訪ねる。孝明天皇までの菩提寺で天武天皇以来の位牌がある。なぜか天智系の位牌がないとも言われる。本堂は谷底にあり、その裏手は歴代天皇皇后陵や皇族の墓所となっている。

泉湧寺に入りすぐ左手に楊貴妃観音堂と宝物館がある。楊貴妃観音は13世紀に中国から持ってきたもので、とてもふくよかな仏像である。

宝物館では孝明天皇の遺物点などをやっていた。孝明天皇は30代半ばでなくなり、泉湧寺で葬儀を執り行った最後の天皇である(孝明天皇から仏式でなくなった)。そこに展示されている夜具は、とても湯愚とは思えないものであった。袖つきのかい巻き風のものであるが、若草色の地に金で模様が織り込まれていて、外着や晴れ着に使えそうなものなのだ。

そんなものを見た後、京都駅へ歩いた。途中新熊野神社(いまくまの神社)、三十三間堂を眺めながら15分ほどの距離だった。

Posted by hajimet at 23:10 | Comments (1)


京都東福寺(その1)

5月28日は大阪で韓国語の教員の会合に出た後、御幸森通り近くの焼き肉やで懇親会を行う。

この近くは平野川の開墾と、戦前、済州島からの連絡船が来た関係で在日が多い。
もっとも百済の時代から渡来人が住んでいたという記録もある。
商店街には釜山弁で오이소,보이소,사이소とかき、下に大阪弁で「来てえな、見てえな、買うてえな」と書いてあるとても郷土色あふれるものだった。
 
翌日京都へ向かう。特に見るものは決めていない。駅で「特別拝観」を聴いてから決めようと思ったが、珍しくほとんど終わりだった。で、観光地図と韓国語のバスの乗り換え案内をもらって、奈良線で一駅のところにある東福寺へ。
 
特に期待はしていなかったが、これがすごい。まず塔頭がものすごく多い。その中で霊雲院へ入った。石庭を見せてもらえるというので中に入った。

庭の中央には細川家から送られたという遺愛石が台と石船に乗っておかれていた。石船が力強く進むように庭の砂利は力強い波形を描いている。
 
今まで見たどの石庭よりも波がはっきり描かれている。庭は二面だが、片方は九山八海の庭と名付けられ、遺愛石が中心に、もう一方は臥雲の庭としていずれも力強い庭となっている。
 
さて、本堂を眺めると、ガラスケースが。よく見るとバイオリンやバラライカがある。

東福寺は日露戦争の時、ロシア人捕虜が収容されたところ、彼らがバイオリン、バラライカ、タンバリンなどを自分たちで作て演奏していたそうだ。帰国するときに寺においていったものを展示されている。ニスもかからず白木の粗末なものだが、木の組み合わせなど作り慣れた人がいたのではないかと思わせるものだった。
 

Posted by hajimet at 21:41 | Comments (0)


2005年5月31日
大阪近つ飛鳥風土記の丘


5月28日土曜日、大阪へ行ってきた。

近鉄南大阪線貴志駅からバスで20分。近つ飛鳥風土記の丘に着く。途中PLのタワーや大阪学芸大の脇を通り過ぎる。
 
風土記の丘一帯は一須賀古墳群といって、6世紀後半、古墳時代の末期の古墳が大量にあるところだ。全部で102基のうち、40基が公開されている。
 
ともかく路沿いに石室が累々とある。奈良の石舞台山古墳とよく似ていて、天上石に大きな石が使われている者が多い。古墳の中には封土が失われて石室だけのもの、天上が落ちてしまったものもあるが、羨道と石室がよく残されている。
 
石室に石棺をおいたようだが、一人だけを埋葬したのではなく、あとからどんどん死亡者を埋葬した。そのために前に埋葬された人の状況をみることになり、それが「伊弉諾尊」の黄泉の国の話の原形になったのではないかと、近つ飛鳥博物館では紹介していた。
 
副葬品からは渡来人に関係したと言われるものが多く出ている。
 
展望台からは古市方面の古墳群や、聖徳太子や推古天皇の古墳があって、王家の谷とも言われる磯長谷が一望できる。磯永谷 の反対側も河内飛鳥と呼ばれるところで、渡来人関係の遺跡が多い。

多くの古墳の中でD-4号墳(写真)は規模も大きく、中の石室も大きい。中にはいるとひんやりしている。多くのカマドウマをここで見ることが出来た…。
 
展望台からJ支群へ行く途中に平石城あととP支群へ行く路があった。里山風の路を歩く。シシガシラ、ウラジロがしげり、アザミの花が咲き、ウグイスがちょっとリズムの偏った三連符を奏で、足下ではカナヘビやニホントカゲがちょろちょろ(どころではない)という中、林の中から人声が聞こえてきた。そこをのぞき込むとゴルフ場だった。風土記の丘がゴルフ場を取り囲むようにあるのだ。P支群までいったが、藪の中で墳丘を見ることは出来なかった。
 
ここから谷を挟んだ反対側は、生駒山地を越えて奈良県である。

近つ飛鳥博物館へ行く。ここも弥生から古墳時代からのものを多く展示している。古墳の成り立ちから奈良時代の墓制の変化まで一目で見られるところに特徴があった。ただ、古墳の多さに圧倒されてしまい、感動が減ってしまった。最初にこちらから見るべきであった。

Posted by hajimet at 20:31 | Comments (0)