| 2018年3月27日 |
| チェコ・韓国旅行(12) 終了 |
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取り敢えず、帰国前の夜。 抜いた親不知の破片が「生えてきた」事件を除いて大過なし。 歯(実は骨)が舌に当たって、プラハの2,3日は痛くて話ずらかった。 チェコ、スラヴの歴史、言語はこれから勉強するとして、ゲ ルマンとスラヴの交錯する面白い地域だと言うことが分かった。 そして、中国に行ったとき以上に、日韓がよく似た国だということを改めて認識した。 西洋から来たら、食べ物の味以外の違いは気がつきにくいのではないかとすら思った。 ついでに、ドイツ語と英語、ブロークンで何とかなることも分かった。 「ドイツ語の勉強をしているから、ドイツ語のパンフレット頂戴」と言ったときに ニコニコしてパンフレットをくれたのは本当に嬉しい。 また、話したことに英語で答えてくれたのも嬉しい。 もちろん、通じない方が多かったけど。 一方、韓国語は意識的に封印。Is there a Book 입니까?とやりたくなる。 I seeというつもりが네, 알겠습니다とやってしまったり…。 それを止めようとすると、英語の前にドイツ語が出てきて大慌て。 やっかいなことに、韓国語のYesは네(ネ)、チェコ語はアーノ。 韓国語のNoは아뇨(アニョ)。チェコ語はネー。 無意識でネー、ネーとやっていたので、向こうの人にはNo,No,と聞こえたはず。 怪訝な顔をしていたわけだ。 ともかく意識的に韓国語を封じていたので、 ソウルに着いたら楽に韓国語が話せること。普段以上にスラスラ言葉が出てきた。 ところで、今回印象的だったことはチェコとドイツの国境を越えたこと。 雰囲気ががらりと変わった。かといって断絶よりも連続も感じた。 日韓の違いも、実は違いと連続ではないか。 そうだとすると、チェコ、ドイツの違いとどう差があるのか ケーススタディになると思った。 また神聖ローマ帝国、ハプスブルグなどとの関係から、ドイツ語が優勢だった中で、 チェコ人の民族意識が形成された。 チェコ人とフス派が結びつく時期もあって、 カトリックが強化されたときに失郷民となった人が多く出た。 国民意識の高まりと共に、戦後、多くのドイツ人が失郷民になった。 この谷間にあったのがカフカ。ユダヤ人のドイツ語話者。 ドイツ語で作品を発表したから、チェコ人からは見向きもされない。 ナチスの時代は当然評価されず、思想的に合わないため共産主義時代も無評価。 民主化後チェコで評価されるようになって、我々の評価とかなり異なるようだ。 カフカ博物館ではチェコ語より英語、 英語よりドイツ語の分量が多いことが印象的だった。 この辺のことが日韓のこととパラレルに見える。 在日の学校の文化、朝鮮語で書かれた作品が朝鮮語がわからない話者に どう受け止められるかなど、多くのヒントを得たように思った。 時差ぼけ、身体を動かしていれば大丈夫。 止めると落ちる。一瞬の判断ミスは結構多く、注意力が落ちていることは分かる。 生理現象だからしょうがない。 飛行機の中でも行くときは寝ている人が多かったが、 帰りは着陸数時間前(ヨーロッパ時間で0時ころ)から寝る人が多かった。 新しい視野を広げさせてくれたと共に、 日韓をより深く見るきっかけになったように思う。 チェコ、韓国、ともに刺激的な旅行だった。 実は撮影ミスなのだが、意外と幻想的な写真が出来た。 8ミリ映画のような…戦前の彩色絵はがきのような…。 ![]() 旅のシメ。自分への土産。
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Posted by hajimet at 11:36
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| チェコ・韓国旅行(11) 2017年4月3日 |
思わず、日本語に目が行きます。![]() 紙が流せるトイレが増えました。 流せないトイレは、正直言って抵抗がありました。 ![]() 空港に行く前のひととき。韓国的風景を探して。 ![]() 6回目の機内食。韓国豆腐…。タレが中途半端。 そして、生タマネギの醤油和え。日本人はきついかも知れない。
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Posted by hajimet at 11:33
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| チェコ・韓国旅行(10) 2017年4月2日 |
♪朝焼けの光の中に立つ影は…![]() 竜仁民俗村。 これまでも何回か行ったが、丁寧に見たら、まる一日かかった。 ![]() 車中にて ![]() 昼。スジェビとトンドン酒 ![]() 韓国らしい(今の)民家の町並み ![]() 桜もちらほら ![]() 夜。予定が変わって一人メシ。 どじょう汁。 お酒が先に終わったので、だめもとで「スープだけ頂戴!」と言ったら出してくれた。 韓国では基本的にサービスで、お代わりを出してくれる。 ドジョウの入っていないスープ。 ここのドジョウは磨り潰し方だから、粉っぽい食感しかないのだが、 ドジョウがダシを出してくれることを再確認した。
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Posted by hajimet at 11:24
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| チェコ・韓国旅行(9) 2017年4月1日 |
午後、昌徳宮へ![]() いろいろ ![]() 京都の舞妓体験と同じ状態。 ![]() サムギョプサル、人心地ついた ![]() さて、大丈夫かな?。米の香りがふくよかな焼酎。
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Posted by hajimet at 11:20
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| チェコ旅行(8) 2017年3月31日 韓国へ |
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昼間で市内散策。お土産などを買う。 ついに、譜面を扱っている店を発見。 トロンボーンと言ったら、ごそっと古い譜面が。 一つは日本でも手に入るがこの際と買う。 ドイツで出た、ヒゲ文字時代のアルトトロンボーンの教則本というものもあった。 ![]() 空港。知らない航空会社が一杯。 ![]() 乗ったとたんに安心。 普段あまり感じないのだが、 客室乗務員の笑顔が日韓でよく似ていることに気が付いた。 ![]() 機内食第一回。ビーフ、チキンとピビンパップがある。 ピビンパップ、ユクスがついておいしそう。 別に辛ラーメンのカップ麺を頼んでいる人もいた。 酒はチェコ航空のほうが豊富。 ![]() 機内食2回目。粥の付け合わせが間違っていて、交換してもらう。 4月1日11時40分、仁川到着。降機、ソウル市内へ。
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Posted by hajimet at 11:14
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| チェコ旅行(7) 2017年3月30日 |
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ネルドヴァ通り。今日、二回登った。 1回は景色を見るために、1回は鐘の音を録るために駆け上がった …間に合った。 ![]() 音楽博物館。見たことのない楽器がたくさん。 もちろん、弦もピアノ系もたくさん。 ![]() さ〜く〜ら〜、さ〜く〜ら〜、や〜よ〜い〜の… ![]() 踊るビル。 ![]() 昼。ビーフと黒ビール。アコーディオンが歌う中、ベヘロフカも飲んだ。 ![]() 国民劇場。 ![]() ベツレヘム礼拝堂。聖キリルと聖メトディウス教会、クレメンティヌムも見た。 ![]() 今日のトラム ![]() 賛美歌、やっと探し出した。 ![]() チェコ最後の夜。居酒屋。 チーズのフライとタルタルソース(美味しい)、 プラハハムのおろしラディッシュ和え(こういう組み合わせも粋)、 オモロウツのチーズ(チーズのくさや風??? こういうの好き!)、 黒ビール(無濾過、要するにナマ。とても飲みやすい)で一献。 ![]() ホテルでマッサージ。チェコ式にやると言われる。 リンパマッサージ系だけれども、うまくこねくる感じ。 オイルマッサージも付いていたが、気持ち良い。 これで日本に帰るまでもつかな?。 それとも韓国でもう一度?。 マッサージ師さん、英語でいろいろ語ってくれたが、 チェコ語の発音との干渉か、癖があった。earlyが面白い発音になっていた。 チェコでの英語が聞き取りにくい一端かな?。ドイツは英語の聞きとりが遙かに楽だったのに… |
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Posted by hajimet at 11:00
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| チェコ旅行(6) 2017年3月29日 |
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午前中は、まだ混み合っていないカレル橋を見学してからスメタナ博物館へ。 リブシェのファクシミリ版があった。 でもそれ以外は…。 その後シナゴーグ巡り。 旧新シナゴーグはユダヤの帽子を頭に載せて見学。 次の修道院は墓地がある。 学生の後ろについて10分近く待つが、 実は、個人は関係なく入って良いことが分かった。表示が欲しい。 ユダヤの墓地、色々な形式、象徴が刻まれる。 お元気なら、先週亡くなった倫理の先生と酒の肴に出来たのにと、 ふっと思いをはせる。 スペインシナゴーグからアネシュカ修道院まで行き、絵と建物を見学。 それから一気に新市街地まで行き、フス教徒の乱のきっかけになった塔を見学。 その後は絵本とお土産を買う。全部で1万51000歩。 一番欲しい「賛美歌」が手に入らない。何としても手に入れて帰りたい。 ![]() トラム。ブレーキが秀逸。レールを押さえつけている。 これだと坂道を転げ落ちることもない。 50q近いスピードで飛ばしている。都電ではありえない… ![]() 昼。ポークとクネドリーキ。修道院のカフェにて。 ![]() チェコ的足場組み? ![]() 辻音楽。 チベット系の人の行進だろうか。変わったアコーディオンを持っている。 ![]() 漢字結構あります。ハングルと勘違いしそうなものは結構あります。 ![]() 共産主義博物館。プラハの春の展示が大きなウェートを占めていた。 絵はどこの国もよく似ている。 中国と北朝鮮のものは目にしてきたが、それとよく似た図柄がとても多い…。 そして、チェコの人々が共産主義時代をどう捉えているかよく分かる。 ナチスに続く思い出したくない時代のようだ。 ![]() トイレ使っレシートをもらうのは初めて。 EETという制度のためにト、有料トイレでもレシートを発行する義務が生じたそうだ。 ![]() シャールカ駅。伝説の地。これで「わが祖国」シリーズ完成。
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Posted by hajimet at 10:39
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| 2018年3月25日 |
| チェコ旅行(5) 2017年3月28日 |
朝食。インターバル。![]() 「朝いち」でストラフ修道院。 哲学の間、神学の間(いずれも図書館)の装飾がすごい。 幕末、初めて渡欧した人たちは、このような物を見てどう感じただろうか。 感じたことが文明開化に繋がったことは事実だが、それに対する疑問である。 個人的には文化背景が違いすぎて消化できない。 ヨーロッパ発のものが仕事、趣味の主体なのだが、 「こういうことだったのか」ということが正直な気持ち。 志賀直哉が日本の言葉をフランス語にしようといったり、 漢字は後れているからローマ字にしようという動きが、 いかに浅はかなものだったか強く感じた。 ![]() 最初にここに行った目的の一つは鐘の音を録音することだった。 静かな環境で録れると思ったら、鐘の音と共に工事の音が…。 こちらの人にとっては単なる時報・生活の音でしかないのだろう。 午前の2番目に聖ヴィート寺院。 ゴチック建築で、あらゆるものが天を志向している。 また、ステンドグラスと光…。「神」を感じる。 神が輝いていて、光が注ぐのだから。 …東京でも韓国でも同じ景色は見られるのだが、何か違う。 チェコで見ているためか、根本的に違うのか? 入場まで20分ならぶ。 自分の前後には中国人の団体、前が韓国人の団体。 韓国人の団体が礼儀正しく見えた …韓国に行くと余り感じないのだが、 中国人と比較すると、日本人と韓国人はよく似ていると思う。 中国に行ったときに感じたことを、チェコで再確認した。 ![]() 叔父に会う予定が出来て、12時に一旦ホテルに戻る。 午後、旧市内散策。フス像を中心に。イースターの準備も始まったよう。 ![]() 市民会館見学ツアー。英語だが聞き取りやすい。 スメタナホールもコースに。 こういう絵に囲まれて演奏を聴くのかと思った。 ほかいくつかの部屋を回るが、 メインは「市長の間」。 ここはムハ(ミューシャ)の絵で満たされている。 特にフスを見たかった(これの元絵はこのとき東京に来ていた)。 予約チケットを見せて、撮影許可のチケットを買ったのに、 なぜか元チケット消滅。 買い直しましょうか?とガイド氏に言ったが、 最終的にOKとなって事なきを得た。 ![]() 聖ミクラーシュ教会でミニコンサート。約1時間。 バッハ、ヘンデル、メンデルスゾン、ドボルザークをオルガンとアルトで。 とはいっても客席(礼拝席)からは見えない。 後方上にあるオルガンで演奏。 音が上から響き合いながら降りてくる。 色々な方から包まれる。 細かい動きは響きと時差で混ざり合い パッセージがどうなっているかはよく分からないが、 混ざる故に、かえって旋律線が浮かび上がってくる。発見だ。 バッハはその辺も計算しているのではないかと思った。 神はスッと降りてくるのではなく、 少しずつ、少しずつ降りてくるのだ。そんなことを感じた。 こういう演奏を、 礼拝の時に、しかも目の前にはイエスの絵を見ながら聞くのだから、 自然と音と絵が「神」と結びつくのだろうなと思った。 ![]() 教会の前の広場などあちらこちらで思い思いの辻音楽。 見たことのない楽器も(旧市街の広場にて)。 王宮前の民謡風の歌のフルートと、旧市街広場のサックスは上手かった。 ![]() 夜、プラハ市交響楽団で ペールギュント、ブルッフの交響幻想曲、ドボルザークの交響曲第8番。 ソロ:Mikhail Ovrutsky 指揮:インキネン。ホールはスメタナホール。 前2曲の弦が弱音器を付けたような響き、管も渾然一体と響く。 ブルッフは良かった。そして、アンコールのタイスの瞑想曲。うねるような演奏。 ドボルジャークは、響きが全然違った。 トロンボーンも最初のコラールが、チェロと対等に聞こえ、 かつ歌っていたのが印象的だった。 そして、展開部にはいってF(ff?)でもり上がるところ。 ただ強くなる演奏が多いのだが、 段差があってむやみに強くなるのではなく、 あくまでも前からの旋律の続き、 低音からバランス良く鐘が響くように音楽を支えていた。 つまり、そのあとの疾風怒濤のような展開のスタートでなく、 飽くまでもそれまでの集大成に響いていた。 音の強弱、楽譜の指示が全部意味を持って、 文脈に反していないことがよく分かる演奏だった。 トロンボーンの音色の変化も素晴らしく、 コラール、ソロ、オケの支えで全然響きが違う。 最後の15小節の部分、最初2小節は旋律の響きで吹き、 次の小節からは支えにパッと変わる。 こういう吹き方が出来ると良いなと思う使い分けだった。 客席は静かではない。色々な音が聞こえる。 でも聴いている人は楽しんでいることが分かる。 休憩も社交の場であることがよく分かった。 しかし…タイミングは大事。 ブルッフの最後のパウゼで盛大に一発咳をした人(不満なのかと思った)、 一部アンコールの幻想曲で、最後のトゥッティの直前にものを落とした人、 極めつけはドボルザークの2楽章の真ん中、 静かにコントラバスが演奏している部分で カカオトークの着信音を流した人…。 歌舞伎ならもの凄い絶妙な合いの手。 一斉に笑いが出ていました。 ![]() 買ってきた酒。スリヴォビッツ。 ドボルジャークがこれを飲み過ぎて、 譜面に間違いが多い云々と、高校の時の指揮者が語っていた。 ほんのり甘くて飲みやすい。でも30度。 朝が怖い(今0時10分。日本時間7時10分)。
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Posted by hajimet at 17:11
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| チェコ旅行(4) 2017年3月27日 |
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れからドレスデン。朝6時半の列車。 まだ時差の余韻が残っていて、3日連続で朝2時に一度目が覚める。 これが日本時間の9時。それから寝直して11時半に起きる。頭はすっきり。 10時半(朝4時半)には寝ているので、夜更かししていて限界になったころ 「お休み」というパターン。 午後3時ころドレスデン出発の列車で戻ってくる予定。 ドレスデン駅 ![]() ドイツに入って、なぜかホッとする。 まったく聞き取れないし読み取れないチェコ語と違って、 何となく聞き覚えのある言葉。 そして、町の雰囲気が「日本の都会的?」に。 治安も問題なくフラフラ歩けた。 ツヴィンガー宮殿、レジデンツ宮殿の歴史的緑の丸天井を見学。 続いてシュターツオーパ−へ。 ちょうどツアーの時間だった。 ドイツ語だけでとても聞き取れなかったけれども、見るだけで満足。 こういう雰囲気で演奏する、聴くのかと思うだけで幸せ。 ![]() 三位一体大聖堂を通り(中も見た)、フラオエン教会へ。 周囲の建物もそうだが、戦争の破壊のすさまじさを目の当たりにする。 尖塔まで登った。なかからは礼拝とパイプオルガンの音。 受付の人は入れると言ってくれたが、残念ながら入れなかった。 ![]() テラスで食事。 多すぎるからと注文の変更を勧められて変えたのだが、 それでも多すぎた。ビール、軽い味で飲みやすい。 ![]() プラハへ。エルベ川の渓谷が綺麗。 ドイツからチェコに入ると建物の雰囲気が何となく変わる。 ![]() 夜、ブドヴァルの店で食事。 バドワイザーはこの名前を英語風に表記したものだが、ブドヴァルとは関係ない。 ビールはバドワイザーより味が濃い。 食事は昨日と同じソーセージの和え物。 ソーセージを縦に半分、蝶番状に切ってキューリのピクルスを挟んである。 昨日のお店よりも食べやすい。 ところで、酒屋では食事をしている人は少ないと聴いていたが、 確かにそうだった。 ビールだけで語り合う感じ。 せいぜい一品何か頼む程度。 大量に頼んでいる人は大抵東洋人だった。 食文化の違いか。
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Posted by hajimet at 12:42
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| チェコ旅行(3) 2017年3月26日 |
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時差が1時間日本に近づいた。夏時間だ。 微妙に時差ぼけが残っている(早寝早起き)身体にとっては、 少しは、いやしになるかもしれない。 ![]() 今日は郊外へ。ブラニークとターボルを見学。 ボヘミアにある森 ![]() ボヘミアの草原 ![]() 伝説の山、ブラニーク山 ![]() ターボル到着。まずは腹ごしらえ。 オニオンスープとアヒルの足。チェコは昼食がメインだそうだ。 ![]() ターボル(城塞都市) ![]() ターボルの洞窟…(メット必要 何回ぶつけたことか) ![]() 夜。初めての一人メシ。チーズ、ソーセージとピクルスの合わせ。 意外と美味しい。チ ップ入れて400コルナ払ったつもりが(100+100+200=2000円弱)、 100+2000+100と払ったらしくて、店員がビックリして返してくれた しかし…beer 하고 チーズと言ってしまったり、 그리고と言いかけて言葉を飲んで、ついに英語が出てこなくなったり、 ソー−セージというつもりが、うっかりウィンナーと言ってしまう…、 結構いろいろやらかしている。
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Posted by hajimet at 12:21
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| チェコ旅行(2) 2017年3月25日 |
朝食はホテルのビュッフェ。日本食もある。![]() ホテル、日本のテレビも映る。 基本NHKで、こちらの時間で放送。朝ドラが朝8時から。 でも突然民放に切り替わったりもします。 短波ラジオも持ってきたが、NHKワールド、 ヨーロッパ向けの日本語放送やっていない。 英語とロシア語だけ。残念。 ガイド氏と一緒にプラハ散策 ![]() プラハ城。プラハ大司教の葬儀と重なり教会は入れなかった。 鐘の音が鳴り響いていて荘厳だった。 ![]() カレル橋 ![]() 昼。ガーリックスープとグラーシュ。 パンのようなものもナイフで切って食べると。 ガーリックスープだけでお腹いっぱい。 真夜中になってもこなれないのが分かる。 ![]() 高い城 ![]() 音楽家の墓 ![]() モルダウ。早すぎず、遅すぎず、淡々と流れる。 本来の意味は「暴れる川」だそうだ。 ![]() 路上ライブ。頑張っている。 しばらく耳をそばだてて、ようやく何の曲か分かるような、 かそけく音の外れていた演奏も(蝙蝠の中の一曲だった。お金も入っていた) …楽器の前に帽子をおいて。 ![]() 音の聞こえる方に行ってみたら何と…。 ヤングボヘミア・ミュージック・フェスティヴァルのパレード。 駒込学園、新潟敬和高校、渋谷幕張の生徒が先頭。 その後ろにヨーロッパ各国の若者。聞いている人の顔も素晴らしい。 ![]() プラハ点景 ![]() 夜は叔父と一緒。日本食のありがたみを感じつつ、ちらし寿司。 もとチェコ大使館付きの日本人がやっているので、味はとても良し。 プラハの日本人のたまり場になっているようだ |
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Posted by hajimet at 11:35
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| チェコ旅行(1) 2017年3月24日 初日 |
羽田出発![]() 仁川空港。9時到着。出発は2時の5時間待ち。 新しいターミナルビルから出発。シャトル列車に乗る。 空港でテンジャンチゲを食べる。 ![]() チェコ航空、機内食。ビール、ワイン美味しい。 ![]() 大韓航空の系列のためか、飛行機の説明板、英語と韓国語。 機内エンタメ、英語、中国語、日本語、韓国語。 シンゴジラを見た。ビール美味しかった。 長い曲をたくさん聞いた。 ブルックナーの5番はモノラル(フルトヴェングラーのようだった)。 確実に残り時間が1時間ずつ減るのが嬉しい。 でもね、曲の順番考えて欲しい。 ブラームスの交響曲。1番から4番の1楽章を再生し、 次に1番から4番の2楽章。 で、最後までそう行くかと思いきや、4楽章ではブラームスの1番が1番最後。 もちろん、1番の1楽章のあとに2番のそれが出てきても気持ち悪いから、 再生を止めて1番の2楽章を指定しなおす(そうしないと、オートで再生される)。 ブルックナーはもっとバラバラ。 なのに、5番の2楽章から4楽章は続けて入っている。 どういうコンセプトなんだろう。ウトウトし始めたころに睡眠は中断される。 プラハ空港もロシア語、英語、韓国語表記。 ![]() 夜。叔父に会う。韓国人が経営している寿司屋で食事。 かなり流行っている。ビールがめちゃくちゃ美味しい。 装飾は韓国風で、盆栽も韓国風盆栽だった。
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Posted by hajimet at 11:10
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| チェコ旅行(0) 2017年3月23日 出発前夜 |
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自宅出発。空港そば、穴守稲荷の弟宅に投宿。 飛行機は6時過ぎ、受けつけは4時20分から。 5時までに行けば大丈夫なのだが、起床は3時半。プラハ到着は17時半、日本時間1時半。 殆ど徹夜作業。まずは起きれるか!!! そういえば蒲田から乗ったリムジンバス。 後ろではしゃいでいた若者。 途中から「やべ、時間間違えた、7時半発だった」…沈黙… 「え、今離陸しているよ」「なぜ確認しなかった」 「もう一日泊るのか」…「空席があれば…」。 笑いをこらえるのが大変。でも明日、自分がそうならないように…。 |
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Posted by hajimet at 10:30
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| 2016年8月23日 |
| 下蒲刈島 2016年3月28日 |
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3月27日、会議前に尾道散策 |
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Posted by hajimet at 21:19
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| 鞆ノ浦対潮楼 2016年3月26日 |
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3月27日の広島での会議に合わせて前日出発。福山で降りて、バスで鞆の浦へ向かう。 |
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Posted by hajimet at 20:39
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| 2016年8月22日 |
| 伊豆下田 2016年3月21日 |
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浦賀に続いて下田まで日帰りで出かける。行きは踊り子号。 |
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Posted by hajimet at 21:17
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| 浦賀 2016年3月20日 |
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浦賀散策。まずは京急久里浜から歩いてペリー上陸地点 |
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Posted by hajimet at 20:35
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| 伊豆大島 2016年3月13日 |
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伊豆大島に行く。大島高校のお手伝い。 |
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Posted by hajimet at 20:01
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| 2016年8月21日 |
| 南漢山城と三田渡碑 |
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2016年4月3日 ソウルに到着後、すぐに南漢山城に向かう。 |
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Posted by hajimet at 21:38
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| 2016年8月15日 |
| 貞陵(2016年4月6日) |
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4号線漢城大入口からタクシーで行く(歩いても15分くらい) |
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Posted by hajimet at 22:36
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| 西五陵(2016年4月5日) |
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王陵巡り |
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Posted by hajimet at 21:51
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| 2016年8月14日 |
| 東九陵(2016年8月6日) |
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8月6日午前。世界遺産の東九陵を見学。往十里から中央線で九里まで行く。 |
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Posted by hajimet at 21:27
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| 倭城巡り+文禄の役の激戦地(2016年4月) |
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4月4日 ソウルから日帰りでKTXに乗って順天まで。 |
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Posted by hajimet at 20:29
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| 倭城巡り |
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文禄慶長の役で、朝鮮南部に作られた日本側による城。1593年から築城。 |
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Posted by hajimet at 08:52
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| 2016年8月13日 |
| 釜山 東横インのトイレにて |
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トイレの説明…絵が凄い |
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Posted by hajimet at 21:23
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| 韓国旅行 食事 |
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8月3日。出発 |
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Posted by hajimet at 21:04
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| ハングルデザイン |
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釜山にて |
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Posted by hajimet at 20:56
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| 2016年3月11日 |
| ソウル・水原紀行(4) 2016年1月7日 |
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景福宮 |
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Posted by hajimet at 11:17
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| ソウル・水原紀行(3) 2016年1月6日 |
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1号線で水原へ。まずは正祖陵の健陵と、思悼世子陵の髣ヒへ。 |
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Posted by hajimet at 11:06
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| ソウル・水原紀行 2016年1月5日 |
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許浚博物館 |
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Posted by hajimet at 10:50
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| ソウル・水原紀行(1) 2016年1月4日 |
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出国 |
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Posted by hajimet at 10:30
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| 釜山・慶州紀行(4) 2015年9月14日 |
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最終日。まず子城台公園へ行く。文禄慶長の役で釜山子城のあったところ。 |
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Posted by hajimet at 10:03
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| 釜山・慶州紀行(3) 2015年9月13日 |
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地下鉄で東莱駅。そこからバスで福泉洞古墳群へ。まずは福泉博物館。3度目の正直。 |
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Posted by hajimet at 09:14
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| 釜山、慶州紀行(2) 2015年9月12日 |
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午前中は慶州散策。 |
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Posted by hajimet at 09:00
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| 慶州・釜山紀行(1) 2015年9月11日 |
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9月11日、釜山に飛ぶ。釜山と九竜浦の取材。慶州は息抜き。 |
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Posted by hajimet at 08:43
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| 2016年3月10日 |
| ソウル紀行(6) 2015年8月28日 |
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前日、偶然存在を知ったハングル博物館へ。 |
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Posted by hajimet at 21:28
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| ソウル紀行(5) 2015年8月27日 |
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朝、ホテルのそばでコムタン。 |
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Posted by hajimet at 21:13
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| 2016年3月7日 |
| ソウル旅行(3) 2015年8月25日 |
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予報が当たり雨。 |
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Posted by hajimet at 21:48
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| ソウル紀行(2)2015年8月24日 |
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この日は月曜日。いろいろ番狂わせがおきた。 |
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Posted by hajimet at 21:18
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| ソウル紀行(1)2015年8月23日 |
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資料調査も兼ねたソウル行き。MERSの影響で1月遅れ。 |
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Posted by hajimet at 20:50
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| 2016年3月6日 |
| 掛川、浜松、天竜川 2015年6月28日 |
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遠州鉄道の終点、西鹿島に天然ウナギを食べに行くツアー。 |
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Posted by hajimet at 20:47
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| 園城寺、宇治平等院 2015年4月6日 |
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大阪での会議の帰り。JRで大津まで行き、バスで浜大津まで。 |
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Posted by hajimet at 20:26
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| 奈良・福岡紀行(4) 2015年7月24日 |
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最終日。福岡市立博物館へ行く。展示替えしてからは初めて。 |
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Posted by hajimet at 10:18
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| 奈良・博多紀行(3) 2015年7月23日 |
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福岡3日目。宗像の大島に渡る。宗像大社の中津宮の島。フェリーで25分。 |
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Posted by hajimet at 09:14
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| 2016年3月5日 |
| 奈良・博多紀行(2) 2015年7月22日 |
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福岡初日。 |
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Posted by hajimet at 22:46
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| 奈良・福岡紀行(1) 2015年7月20日、21日 |
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クラブツーリズムの白鳳展見学と、福岡紀行を繋げて行った。 |
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Posted by hajimet at 22:16
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| 2016年3月2日 |
| 関東渡来関係紀行20150619,29 |
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6月19日 |
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Posted by hajimet at 10:35
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| 2016年3月1日 |
| 大島・神津島紀行 その2 20151219 |
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朝6時半。大島岡田港から神津島へ。まだ暗い。 |
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Posted by hajimet at 21:16
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| 大島、神津島紀行(1) 20151218 |
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仕事で、朝のジェットフォイルで伊豆大島へ。波は穏やか。 |
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Posted by hajimet at 20:58
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| 2016年2月28日 |
| 佐賀、朝鮮紀行(その4) 2016年2月26日 田代 |
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9時半頃の各駅停車で鳥栖へ。 |
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Posted by hajimet at 13:58
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| 佐賀・朝鮮紀行(3) 2016年2月25日午後(佐賀) |
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3時頃佐賀に戻り、唐人町から旧長崎街道コースを散策。 |
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Posted by hajimet at 13:35
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| 佐賀・朝鮮紀行(その2) 2016年2月25日午前 有田 |
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朝8時前の各駅停車で上有田駅へ。 |
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Posted by hajimet at 13:05
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| 佐賀、朝鮮紀行 その1(2016年2月24日) |
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佐賀県に残る、文禄慶長の役の跡を見に、佐賀へ行く。 |
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Posted by hajimet at 12:31
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| 2015年3月1日 |
| 沖縄旅行 3日目 20150226 |
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朝、路線バスで浦添へ向かう。浦添ようどれ館に寄ったのちに、浦添城と浦添ようどれへ。 |
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Posted by hajimet at 20:10
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| 沖縄旅行 2日目 20150225 |
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2日目。 |
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Posted by hajimet at 19:04
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| 沖縄紀行 20150224 |
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沖縄紀行。初沖縄。琉球王朝をテーマに出かけた。 |
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Posted by hajimet at 15:31
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| 2014年12月1日 |
| 赤山禅院 20141230 |
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研究会の大会のため大阪へ行った帰り、京都で下車。赤山禅院に行く。 |
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Posted by hajimet at 21:56
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| 2014年9月26日 |
| 山東半島歴史紀行+北京紀行(3) 20140922 |
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朝から気になっていたことがあった。台風だ。 |
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Posted by hajimet at 21:17
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| 山東半島歴史紀行+北京紀行(2) 20140921 |
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この日は友人の都合が悪くなったため、一人で観光。 |
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Posted by hajimet at 20:25
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| 山東歴史紀行+北京紀行(1) 20140920 |
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9時に友人が迎えに来る。タクシーで中南海手前まで行き、あとは徒歩。 |
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Posted by hajimet at 14:45
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| 2014年9月25日 |
| 山東半島歴史紀行+北京紀行 20140919 |
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最終日。6時半起床。 |
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Posted by hajimet at 21:22
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| 山東半島歴史紀行 4日目 20140918 |
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朝6時半起床。 |
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Posted by hajimet at 20:30
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| 山東半島歴史紀行 3日目 20140917 |
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3日目。6時起床。6時半から朝食。今日は山東半島の付け根から先端へ移る日だ。 |
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Posted by hajimet at 19:32
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| 2014年9月24日 |
| 山東歴史紀行 2日目 20140916 |
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旅行2日目。6時起床。6時半から朝食。バイキングだが、健康酒も置いてあった。 |
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Posted by hajimet at 22:26
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| 山東半島歴史紀行 1日目 20140915 |
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日韓交流史フォーラムによる山東半島紀行初日。 |
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Posted by hajimet at 20:59
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| 2014年7月29日 |
| ソウル・九州旅行 7日目 20140726 姫島-国東半島-大分空港 |
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最終日。大帯八幡神社参拝。末社が多く独特な形をしている。また、中門があったり、本殿を塀で囲むことなど仏教寺院の影響が見られる。神社は八幡作り。 |
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Posted by hajimet at 14:14
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| ソウル・九州紀行 6日目(2) 20140725 宇佐-豊後高田-姫島 |
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昼食後、県立歴史博物館を見学。その後風土記の丘に行き、福勝寺古墳、免ヶ平古墳を見る。 |
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Posted by hajimet at 12:55
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| ソウル・九州紀行 6日目(1) 20140725 宇佐神宮 |
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まず、宇佐神宮の元宮、大元神社に行く。参拝用道路もあるが、ものすごい悪路。途中からは舗装もなくなる。補修が追いつかないとのことだ。 |
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Posted by hajimet at 10:24
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| ソウル・九州紀行 4日目(2) 20140724 英彦山-求菩提山-中津-宇佐 |
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昼食後、まず高住神社に寄る。ここも豊前坊という僧坊の跡。天狗信仰のある神社で、本殿の後ろは切り立った崖である。本殿も崖の洞窟の中に築かれている。扁額は高住神社ではなく、「豊前坊」。 |
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Posted by hajimet at 09:08
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| ソウル・九州紀行 5日目(1) 20140724 英彦山 |
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午前中は英彦山。古代からの山岳信仰と新羅仏教が習合し、修験の山になっていったところ。開基伝承も韓国の壇君神話によく似ている。新羅仏教は道教文化とも強く習合しているので、道教も流れ込んでいる。修験道の要素に道教的なものが多く見られ、修験道=日本の道教と指摘する人がいるくらいである。また、修験道は日本の中では珍しく弥勒信仰が行われる場所でもある。 |
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Posted by hajimet at 07:12
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| 2014年7月28日 |
| ソウル・九州紀行 4日目(2) 香春-英彦山 |
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香春に入る。石灰岩のビュート地形。小倉-田川断層によって、同じ石灰岩地形の平尾台と切り離されてしまった。石灰岩の地域に花崗岩が陥入したことからスカルンと呼ばれる地質構造が出来、そこに銅をはじめとした、様々な鉱物が蓄積された。採銅をするために、技術を持った新羅系渡来人が多く住んだ地域で、3つ岳のある香春岳の一之岳は「新羅神」を祀ると書かれている。現在の神の名前は「辛国息長大姫大自命」。 |
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Posted by hajimet at 21:04
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| ソウル・九州旅行 4日目(1) 20140723 博多-飯塚 |
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旅行4日目。職場の先輩と合流して新羅神の道をたどる旅を始める。 |
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Posted by hajimet at 20:29
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| ソウル・九州紀行 3日目 20140722 ソウル・福岡 |
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3日目朝。韓国人の教え子と会い、明洞まで散策。その後、南大門市場、ロッテ百貨店にお土産を買いに行く。明洞を通ってホテルに戻る。 |
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Posted by hajimet at 14:57
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| ソウル・九州旅行 2日目 20140721 ソウル |
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朝、F氏と合流。昼近くまで市内をぶらつく。 |
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Posted by hajimet at 14:28
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| ソウル・九州紀行 第1日目 20140720 ソウル |
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朝8時30分のJAL便でソウルへ。 |
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Posted by hajimet at 14:04
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| 2014年7月18日 |
| 厳正寺 水止舞 20140714 |
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京浜急行の大森海岸の近くに厳正寺がある。縁起では1272年海岸寺として創建。二世法密が密教に通じていた。15世紀初頭に浄土真宗となった。ここの水止舞を見た。毎年7月14日に行われるものである。 |
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Posted by hajimet at 15:52
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| 2014年6月16日 |
| 梅雨の中休み 20140615 |
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千束流れにて。 |
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Posted by hajimet at 20:03
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| 2014年5月27日 |
| 伊勢紀行 20140524(3) 帰路 |
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続けて参道を歩く。 |
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Posted by hajimet at 13:54
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| 伊勢紀行 20140524(2) 内宮他 |
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外宮からバスで内宮に向かう。約15分。 |
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Posted by hajimet at 13:33
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| 2014年5月26日 |
| 伊勢紀行 20140524(1) 外宮 |
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名古屋での用事に合わせて、伊勢と養老渓谷を巡った。 |
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Posted by hajimet at 21:19
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| 2014年5月25日 |
| 養老渓谷20140525 |
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9時45分名古屋発大垣行きに乗り、大垣へ。そこから養老鉄道で養老へ向かう。 |
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Posted by hajimet at 21:46
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| 2014年5月17日 |
| 皇居乾通通り抜け 20140407 |
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皇居の通り抜けに行って来た。 |
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Posted by hajimet at 13:39
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| 関西旅行 20140324 (4日目、京都散策) |
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関西4日目。最終日。春の特別公開期間は終わっているが、 |
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Posted by hajimet at 11:18
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| 2014年5月16日 |
| 関西旅行 20140323(3日目) |
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昼間は吹田で会議。山陽本線で姫路から向かう。 |
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Posted by hajimet at 21:43
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| 関西旅行 20140322(2日目 姫路・赤穂) |
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2日目。姫路の書写山圓教寺に行く。966年創建。 |
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Posted by hajimet at 20:41
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| 2014年5月15日 |
| 関西旅行 20140321(初日) |
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3月21日、関西へ向かった。 |
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Posted by hajimet at 21:00
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| 2014年1月13日 |
| 2014年朝倉・宗像紀行(5) |
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宮地嶽神社の次は宗像大社。付近の古墳は時間の関係で割愛する。宗像(胸形)氏に関連する古墳群とされる。 |
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Posted by hajimet at 09:33
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| 2014年朝倉・宗像紀行(4) |
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1月11日 8時30分博多のホテル出発。宮地嶽神社、宗像大社へ向かう。 |
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Posted by hajimet at 08:57
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| 2014年1月12日 |
| 2014年朝倉・宗像紀行(3) |
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1月10日。朝倉橘広庭を見たあと、さらに斉明天皇が船遊びをしたとされる「桂の池」跡による。脇を桂川が流れている。ここは女官と庭掃きの源太との哀話である謡曲「綾の鼓」にちなむ所でもある。続いて、その源太じいの墓と呼ばれるところを見る。 |
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Posted by hajimet at 22:48
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| 2014年朝倉・宗像紀行(2) |
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10時半過ぎに朝倉に移る。まず円清寺。栗山利安が黒田如水の冥福を祈るために建てた寺。位牌がある。また黒田長政が寄進した朝鮮鐘が残る。新羅末から高麗初の作品。 |
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Posted by hajimet at 22:26
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| 2014年朝倉・宗像紀行(1) |
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2014年1月9日、14時10分の飛行機で福岡空港に向かう。向かい風が強く、着陸は予定より遅い16時20分。地下鉄、鹿児島本線と乗り継ぎ、基山で甘木鉄道に乗り継ぐ。この日は甘木泊。甘木は元朝倉郡であったが、甘木市として独立していた。近年朝倉町と合併して朝倉市となる。駅前には「日本発祥の地」の碑が建つ。「邪馬台国朝倉説」があるのだ。 |
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Posted by hajimet at 22:01
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| 2013年12月3日 |
| 古代出雲・伯耆紀行(3日目)11月20日 |
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神在祭は昨日でお終い。神様も帰っていった。ジンクス通り、後になればなるほど天候が回復する一日だった。 |
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Posted by hajimet at 20:11
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| 古代出雲・伯耆紀行(2日目)11月19日(その2) |
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2時という、遅い昼食後、出雲大社に参拝。「神在月」の「神在祭」、「神迎祭」の最中。 |
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Posted by hajimet at 19:27
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| 2013年12月1日 |
| 古代出雲・伯耆紀行(2日目)11月19日(その1) |
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第2日目。朝風呂に入り旅支度。田和山遺跡へ出かける。弥生期の高地性集落であるが、勘合の底から攻撃用の石が出た事と、狭い頂上部に出雲大社と同様の建物の基礎が出てきたことから、祭祀史跡か、防禦集落か見解が分かれるところ(西谷先生は防御施設説)。 |
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Posted by hajimet at 22:54
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| 古代出雲・伯耆紀行(初日)8月18日(2) |
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日韓友好資料館を出て、時雨の中、芸木晩多遺跡に向かう。西谷先生から、九州系の遺物は海伝いに出てくることを教わる。 |
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Posted by hajimet at 22:08
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| 古代出雲・伯耆紀行(初日)11月18日(2) |
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鳥取駅で旅行メンバー、解説の西谷先生と合流。 |
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Posted by hajimet at 16:19
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| 古代出雲・伯耆紀行(初日)11月18日(1)。合流前に |
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古代出雲・伯耆紀行。初日。 |
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Posted by hajimet at 15:52
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| 古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(3) 吉備路の神社 |
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古墳に続いて神社めぐり。この地域は浦島太郎の原形とされる温羅伝説のある所。 |
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Posted by hajimet at 15:19
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| 古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(2)吉備路の古墳 |
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続いて吉備路へ。本来は牛窓による予定だったが、熊山遺跡で時間を取り過ぎたのでカット。 |
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Posted by hajimet at 15:07
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| 古代出雲・伯耆紀行(前日)11月17日(1)熊山遺跡 |
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11月16日。昼間の公開講座「忠臣蔵めぐり」を終わらせて、16時50分品川発の新幹線に乗る。 |
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Posted by hajimet at 14:54
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| 2013年11月30日 |
| 紅葉がピーク |
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11月27日。浜田山にて。 |
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Posted by hajimet at 08:59
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| 2013年8月17日 |
| 2013年佐渡紀行 |
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お盆の墓参りのついでに、佐渡紀行。 |
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Posted by hajimet at 21:03
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| 生月・平戸紀行(番外編) |
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8月2日、飛行機の時間まで、太宰府散策。 |
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Posted by hajimet at 18:04
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| 生月・平戸紀行(6) |
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平戸からの帰路、田平を見る。 |
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Posted by hajimet at 17:09
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| 生月・平戸紀行(4) 根獅子 |
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平戸島の根獅子に向かう。 |
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Posted by hajimet at 16:07
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| 生月、平戸紀行(3) |
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生月島をまわる。 |
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Posted by hajimet at 15:42
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| 生月・平戸紀行(2)…生月島 |
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まず、「島の館」へ向かう。 |
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Posted by hajimet at 15:30
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| 生月、平戸紀行(1) |
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8月1日、博多から平戸に行く。202号線から唐津街道に入り、 |
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Posted by hajimet at 15:03
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| 2013年4月8日 |
| 金沢・能登「古代幻視紀行」3日目(4月7日) |
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爆弾低気圧で大荒れの予報が出ている中、8時30分出発。大風の一日だった。さいわい、雨は一時を除いて大したことはなかったが。傘をさそうとすると体が持って行かれる。転倒した人がいなかったことがさいわいの一日だった。 |
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Posted by hajimet at 11:11
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| 金沢・能登「古代幻視紀行」2日目 4月6日 |
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「金沢白鳥路ホテル」を8時に出発。ホテルは、温泉ホテルで、少し黒い色をしたナトリウム塩泉で、硫黄泉のような肌触りの湯であった。 |
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Posted by hajimet at 09:21
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| 2013年4月7日 |
| 金沢・能登「古代幻視紀行」1日目 4月5日 |
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富山から金沢に移る。富山のホテルの前は地鉄駅前という路面電車の駅。駅前には「おわら」の笠をモティーフにしたものや、薬売りの像などがある。 |
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Posted by hajimet at 23:26
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| 金沢・能登「古代幻視」紀行 前日(高岡、富山) |
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日韓交流史フォーラムの旅行で、金沢、能登方面に行くが、せっかくなので前日、富山に寄ることにした。朝9時過ぎの「とき」で越後湯沢へ。ほくほく線経由で高岡に向かう。東京は桜が終わっていたが、途中越後湯沢はまだ1m近く雪が残っていた。糸魚川で白山が海に落ち込むところを眺める。 |
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Posted by hajimet at 20:43
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| 2013年3月20日 |
| 関西渡来人紀行(3) 百済王氏関係 |
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阿部野橋まで戻り、関西本線で平野に行く。杭全神社を見る。平野川の工事で杭を全て打つことが出来たからこの名前になったというが、この地域は「百済郷」「百済郡」と呼ばれた場所で、いまでも「百済野」と言われている。杭全(くまた)は百済が転訛下とも言われる。拝殿うらに三連の第一本殿から第三本殿まであるが、元禄時代の第一本殿は「素戔嗚尊」と「牛頭天王」が祭神である。 |
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Posted by hajimet at 22:48
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| 関西渡来人紀行(2) 藤井寺・古市 |
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新快速で近江八幡から大阪(約1時間)−(弁天町経由)−天王寺(15分)と向かい、阿部野橋から近鉄で藤井寺に行く(約20分)。東京と違って大阪には駅前などに在来市場をよく見かける。藤井寺駅前もそう。 |
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Posted by hajimet at 22:15
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| 関西百済紀行(1) 近江編 |
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2013年3月19日 関西での用事に合わせて渡来人百済紀行を行った。今回回ったところは、曾て一回訪ねた所だが、デジタルで写真を撮る必要が出たための再訪問だった。まずは近江蒲生。 |
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Posted by hajimet at 21:44
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| 2012年12月30日 |
| 関西紅葉紀行(11月17、18日)…その4(東山) |
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出町柳からバスで銀閣寺通へ。哲学の道を歩く。紅葉は盛りを過ぎたようだ。 |
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Posted by hajimet at 21:20
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| 2012年12月29日 |
| 関西紅葉紀行(11月18日、19日)…その3(鞍馬寺) |
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叡山電鉄で約20分。鞍馬駅に着く。沿線に大学が多いので、途中まではすし詰め状態。二軒茶屋付近から単線になり、アップダウンの激しい線路となった。列車は、途中紅葉のトンネルを通過する。ここの部分は徐行運転をしていた。 |
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Posted by hajimet at 22:34
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| 関西紅葉紀行(11月18日、19日)…1 |
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11月18日、研究会の仕事で大阪へ行った。その帰り、新大阪駅前の東横インに宿を取り、京都紅葉紀行をすることにした。 |
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Posted by hajimet at 22:08
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| 2012年12月7日 |
| 天草・南島原紀行(5) |
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12月5日午後。 |
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Posted by hajimet at 22:44
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| 天草・南島原紀行(4) |
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朝8時に下田温泉を出発。鬼池港へ。島原口之津港に渡る。30分。 |
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Posted by hajimet at 21:42
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| 天草・南島原紀行(3) |
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12月4日午後。 |
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Posted by hajimet at 21:05
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| 天草・南島原紀行(2) |
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12月4日午前 |
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Posted by hajimet at 20:23
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| 天草、南島原紀行(1) |
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12月4日、天草空港へ飛ぶ。 |
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Posted by hajimet at 20:04
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| 2012年6月12日 |
| 中国東北部史跡紀行8日目(6月3日) |
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最終日。雨。 |
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Posted by hajimet at 23:08
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| 中国東北部史跡紀行7日目(6月2日) |
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朝、ホテルの周りを散歩。 |
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Posted by hajimet at 22:23
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| 中国東北史跡紀行6日目(6月1日) |
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朝、早めに起きてホテル周辺を散策。 |
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Posted by hajimet at 21:24
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| 中国東北部史跡紀行 5日目(5月31日) |
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東北紀行5日目。そろそろ中華に飽きつつ、朝食。饅頭が中心だが、 |
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Posted by hajimet at 20:37
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| 中国東北部史跡紀行4日目(5月30日) |
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ひたすら移動と見学を繰り返す一日。 |
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Posted by hajimet at 08:26
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| 2012年6月11日 |
| 中国東北部史跡紀行 3日目(5月29日) |
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朝はホテルの30階でバイキング。 |
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Posted by hajimet at 23:17
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| 中国東北部史跡紀行2日目(5月28日) |
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朝、窓の外は親に連れられた小学生が、ホテル前の学校に向かって歩いている。 |
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Posted by hajimet at 22:32
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| 中国東北部史跡紀行(1日目)5月27日 |
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この日から6月3日まで、 |
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Posted by hajimet at 22:05
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| 2011年10月2日 |
| かっぱ |
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10月1日、古墳巡りの途中、久留米市田主丸を通りがかった。町中カッパだった。 6月8日に町内のカッパ達が集まって、祭りを行うと言うことだ。 |
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Posted by hajimet at 20:08
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| 対馬の食事(3)…と言っても、壱岐と唐津 |
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9月29日昼 ウニのぼっかけ(壱岐、ハラホゲ)
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Posted by hajimet at 09:32
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| 対馬の食事(2)その他の郷土料理。 |
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9月27日夜。いしやき。 この店では黄色いタレに付けてから焼く。 |
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Posted by hajimet at 09:19
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| 対馬の食事(1)ろくべえ |
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27日に対馬到着。すぐ韓国の見える展望台に行き、すぐ近くの比田勝で「ろくべえ」を食べる。
下は、ろくべえを団子風にこねて、黒蜜をかけたもの。 サツマイモを砕き、水にさらすなどしてデンプンを取りだし、 さらに団子状にして、数日、日に干して発酵させる。 |
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Posted by hajimet at 09:12
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| 対馬で見たハングル(2) |
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韓国に行くと、日本語で「トイレットペーパーはゴミ箱に」と書いてあるものを見かけますが、これはその逆バージョンです。
そんなこと言われても…。改行を工夫した方がよいような…。 |
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Posted by hajimet at 08:44
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| 対馬で見たハングル(1) |
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対馬、壱岐方面に行ってきた。震災後一時期を除いて、対馬は韓国から定期船と定期便が出ている場所。韓国客の9割近くが韓国人のため、韓国語表記もあちらこちらで見られる。ホテルの中もそうである。 프런터の方が普通ですが…。
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Posted by hajimet at 08:35
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| 2011年9月10日 |
| 御殿場散策(両面石) |
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御殿場の宝寺院に行って来た。足柄方向へ2`弱のところにある。 |
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Posted by hajimet at 20:25
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| 2011年7月31日 |
| 市区改正 |
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明治23年(1890)の市区改正=都市計画地図である。 |
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Posted by hajimet at 09:00
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| 2007年8月27日 |
| 大津・各務原紀行 |
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Posted by hajimet at 21:25
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| 2007年5月20日 |
| もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開 その2(ツアー) |
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Posted by hajimet at 11:40
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| もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開1(ツアー) |
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久しぶりの更新。 |
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Posted by hajimet at 10:50
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| 2007年3月19日 |
| 武州渡来人紀行(3) |
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昨日の後半から、武蔵国を回っているので、上州から武州に名前を変える。 |
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Posted by hajimet at 20:07
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| 2007年3月16日 |
| 久々に・上州渡来人紀行(1) |
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久々の更新。あまり出かけていなかったもので。 |
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Posted by hajimet at 18:02
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| 2006年11月25日 |
| 昭島、羽村紀行 |
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土曜日、天気がよいので昭島まで行った。東京で唯一の積石塚があると言うことなので見に行ったのだ。多摩地区から埼玉にかけては狛江、調布、志木、新座、狛江など渡来系の関係が以外と多い。大和朝廷が新羅、高句麗の渡来人を関東に配したこともあるのだろうが、古墳となると時代は少しさかのぼる。 立川から青梅線、拝島から五日市線に入る。青梅線はカメラを持った集団が先頭を占領していた。ディーゼル機関車が旧型客舎を牽いて走るとのことで、それがお目当てだそうだ(途中でそれ違ったが、プッシュプルで運転していた)。 東秋留駅で降りてまず二宮考古館へ。ここで発掘品を見たり、資料を集めて昭島に向けて歩き始めた。五日市街道のケヤキが見事に紅葉している中をひたすら西へ歩く。五日市街道のあるところは台地の上だが、秋川はじめ両岸を流れる川の向こうは急流が広がる。その向こうに関東山地が見え、富士山や大山まで見える。道の先にも山が立ちはだかり関東平野の末端であることを感じさせる。何となく韓国慶州の風景を思い出させる光景だ。左手に大山古墳を見る。円形だが、よく見ると墳丘全体が角張っている。方墳らしい。墳丘の上からは台地全体から丘陵一帯が見渡せる。都立秋留高校の標識を見ながら、昭島駅に到着。約25分ほど。昭島駅から積石塚の瀬戸丘古墳群までは徒歩15分くらい。民家の中に石室があらわれる。その後古墳が密集しているという栗畑へ行く。落ち葉がおちてよく分からないが、一か所だけ石室らしき石組みが見えた。詳しくはこちらを。 駅に戻ると1時半。近くで食事をとり、福生行きのバスに乗る。15分ほどで福生駅だ。地図で見ると十分歩ける距離なのだが、少々疲れたのだ。福生駅から青梅線で一駅。羽村駅だ。駅前に神社があり、そこに「まいまいず井戸」がある。ずっと話に聴いていたのだが、一度見てみたかった。地面を10メートルくらいくぼめ、螺旋状に井戸に下りていく。上から見るとカタツムリ(マイマイ)の様に見えるのだ。下りてみる。おりきったあたりがローム層の下端で、そこから礫層になる。井戸はさらに10メートルくらい深いところにあった。ところで、どこにも説明がなかったが、井戸わきに「隼人墓(塚)?」というのがあった。こりゃいったいなんだ?(疑問を残しつつ) 駅の反対に抜ける。まっすぐ坂を下りていく。途中馬の水飲み場跡を眺めながらどんどん下りていくと、そこは多摩川である。羽村は玉川上水の取水口がある。そこを見に行ったのだ。江戸時代に多摩川兄弟が作った堰とほぼ同じ場所に堰が作られ、多摩川の水の多くが一旦上水側に引き込まれる。そのうち余剰分を多摩川に戻すようになっている。堰の真ん中には筏用の門も残されている。多摩川兄弟の像を見る。これを見つけて嬉しそうに喜んでいたカップルもいた。そして玉川上水を下ってみたが、水の豊富なのは500メートルほど。そこで水は羽村浄水場へ引き込まれてしまい、その下流は少しの水が流れているだけであった。ここで3時半になった。薄暗くなったので帰宅した。この日の東京の日の入りは4時29分なのだ。 |
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Posted by hajimet at 22:27
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| 2006年11月20日 |
| 広島 |
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ここのところ、HPのUPの関係でブログはお休みだった。その間にも韓国、コンサートなど行っているので、改めて書くことにしよう。 まずは広島訪問。韓国語の教員研修のためで、17日から19日まで。往復飛行機。割引を使ったので、ほぼ新幹線と同じ金額だ。広合間訪問は91年以来2回目。あの時は駆け足だったが、今度は時間があることはある。 17日、授業が終わってから羽田空港へ。18時30分広島着。しかし、広島から先が悪かった。山陽道が事故渋滞で空港から市内まで2時間かかった。結局新幹線の方が早い。夜先に来ているメンバーと合流して韓国風料理を食べ、そのまま寝る。宿所は法華クラブ広島。 18日、6時半起床。朝食はバイキング。ヤマイモ、メカブ、広島漬けなどこの手のものにしては充実した内容だ。研修は午後からなので、午前中は宮島へ行くこととする。紙屋町東から広島電鉄で宮島へ。途中線路幅と道幅がそれほど違わないところを通りながら列車は進む。分岐点などは専用信号があるが、基本的には交通信号で走る、広電西広島からは専用軌道で鉄道用の信号で走る。隣は山陽線が併走する。 途中から忽然と戦前の建物が現れ始めた。広島市内は当然原子爆弾のためその様な建物はないので、突然何軒も固まって目の前に現れたのには驚き、改めて原爆の威力を知った。 宮島駅で降りる。道の向かいに船乗り場があるが、宮島行き船乗り場の看板が2つあり、入り口も二つ。JR連絡船と広電系の二社が競合しているのだ。まるで箱根の伊豆箱根鉄道と箱根登山鉄道の戦いみたい。あちらはバス停留場も船着き場も完全に会社ごとに別れているが、こちらはJRも広電もほぼ同じ場所に停留所がある。波止場も一緒で、対岸もならんでいる。駅の位置や列車本数から行けば広電に歩があるが、広電はJRに比べ時間がかかる。船は大鳥居のそばまで行けるJRに歩があるが、その分時間がかかる。実際行きは15分かかるが、帰りは鳥居によらないので10分だ。 厳島神社は多くの観光客でにぎわっていた。近くのガイドの話を聞いていると、やたら台風で崩壊したことを強調している。大鳥居を眺め、紅葉谷へ。名前の通り一面紅葉で、「旬は旬に楽しまなきゃ」という事を思い知らされた。それと一緒に、今年は中国、韓国、広島と紅葉前線に沿って旅行したので、なんと恵まれているのだろうと思い感慨にふける。秀吉が作らせ、途中で終わった千畳閣などを眺め、JRで西広島駅まで。昔の己斐駅だ。そこから広電で原爆ドーム前まで戻り、ドームと平和記念公園を見学する。18日。雨(一時土砂降り)。 7時半起床。研修会が9時30分に始まるので、その前に広島城へ行く。1キロほどで歩いて15分ほどだ。目的は旧大本営址を見ること。広島城内にあるが、土台だけ残っていた。原爆で建物は吹き飛ばされてしまい、入り口に上がる階段までしか残されていない。原爆ドームは爆風がほぼ真上から来たため、建物の駆体は残ったが、こちらは横風だったのだろう。新羅の寺院跡とか、藤原京の旧薬師寺跡を見ているような不思議な気分だ。これが4秒程度の出来事だなんて。 午後、終了後、平和通りを歩いて比治山へ向かう。約2キロ。歩いて30分はかからなかった。途中被爆した石塔のある寺などを眺めながら陸軍墓地をめざす。予備知識なしで行ったが、入り口に「木口小平」の写真が。戦前の修身の教科書に「死んでもラッパを放しませんでした」といった人物だ。墓地の中に日清戦争でなくなった広島陸軍の合同墓があり、そこに名前が刻まれていた。朝鮮成歓で死亡。ソウル南方100キロの天安の少し北だ。戦前は天安駅前に銅像が立っていた。しかし、死亡場所を眺めていると、この戦争が朝鮮を舞台に行われたことが改めて分かる。墓地には北進事変で死亡した外人墓地もあった。墓地からは陸軍広島被服支敞あとから宇品港まで見渡せる。要するに陸軍の要地そのものだ。その後広電で宇品港に向かう。似島や江田島へ行く船もあったが、時間の関係であきらめる。さらに広電で平和記念館へ向かい、資料を集める。高校の修学旅行生と一緒になったが、見学を進めるにつれての反応の変化が興味深かった。 18時30分発の飛行機で帰宅。飛行機はまず日本海へ飛び、それから東京へ向かった。関西にある低気圧を避けたのだと思ったが、それとともに直前に大阪上空で乱気流に巻き込まれ、けが人が発生したことが、あとになってわかった。実際飛行機は大揺れで、突然突き上げるように上昇したり、スッと下降したりで客室乗務員が思わずしゃがみ込むくらいであった。こちらの読んでいた本は一瞬にぐちゃっとなってしまった。機長も2回も放送を入れる位ひどい揺れだったのだ。 |
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Posted by hajimet at 21:07
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| 2006年10月7日 |
| 中国東北紀行その6(最終) |
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。 中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。 ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。 風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。 駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。 |
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Posted by hajimet at 09:41
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| 2006年10月6日 |
| 中国東北紀行その5 |
9月30日。朝5時起床。早めの朝食を済ませ、瀋陽北駅へ。駅はホテル(瀋陽グロリアプラザホテル)の目の前である。このホテルはPCをインターネットに接続できるので、溜まっていたメールを整理することが出来た。雑踏の中待合室に入る。軟座となっているので、ようするにグリーン車の待合室だ。30分ほど、時刻表を買ったりして時間を潰し、改札時間にホームへ移動する。列車は2階建て編成の2階。時間になると音もなく出発するが、一方で車内には音楽が流れ少々うるさい(しばらくすると静かになるが、大連手前で再開)。 大連では餃子店に食べに行く。蒸し餃子、水餃子、焼き餃子、その他の中華料理と出てくる。これまで入った店でもお茶がなくなると、すぐに継ぎ足しに来たが、ここは少し趣が違った。クコ、菊、茶葉、ライチなどが入ったカップに少年が長い注ぎ口のある薬缶を勢いつけて注ぐ。時にはカップを手に持って背中に薬缶を回してついだりして、まるでドラゴンボールの世界だ。やはりお茶がなくなった頃次に来る。しかもカメラ目線。撮影され馴れている。餃子はこの地域では主食代わりで、水餃子が中心である。どれも美味しかったが、焼き餃子に食べ慣れているせいか、焼き餃子が一番美味しく感じた。 食後、旅順に向けて出発。バスで30分位の距離だ。旅順は外国人に対して完全には解放されておらず、限定されたところにしかいけない。まずは東鶏冠山。日本軍との激戦があったところで、外からはなだらかな山であるが、一歩中にはいると露西亜軍の要塞が築かれていたという。日本軍の爆撃跡が生々しく残り、頂上には記念碑も残る。近くには「銘記歴史、勿忘国恥」という看板があった。日本は旅順の激戦地に多くの記念碑を建てたと言うが、注意してみると他の山にも記念碑らしきものが残されている。 そして203高地。頂上の爾霊山と書かれた弾丸型の記念碑や、乃木希典の次男、乃木保典が殺された場所の記念碑が残る。露西亜側の塹壕も縦横に走っている。ここから旅順港には大砲をうっても弾は届かなかったが、状況を一望できたので、司令所としての意味があったと言われる。山は今でこそ木が茂っているが、もともとははげ山である。そこで日本軍兵士が多く殺された。もちろん露西亜兵も。両国が協力して一時停戦して遺体をかたづけたという話もきいている。しかし今は唯一の桜の名所として花見をするところになっているとか、篭屋がいて観光地化しているとかでかなり複雑な気持ちになった。旅順は日本人が主に訪ねる街とのことである。戦跡としてそうなのかなとも思う。おかげで道路がキレイになったといわれたが、かなり複雑な気持ちだった。日露戦争だけでなく、日清戦争の時もここで大きな戦闘が行われ、中国人が多く殺されているので、地元の人にも厳しい感情があると聞いた。一方でロシア人でここを訪れる人は多くないとも聴いた。大連に来るロシア人は漁船員か、長期休暇で海水浴に来るリゾート型の人が多いとのことである。考えたら、ロシアで海水浴できる地域はほとんどない。 夕食は海鮮料理。大連は鮮魚が上がるため、海鮮料理が食べられる。まずはカレイの刺身。醤油は日本のものだった。続いてトコブシ、海老、海鼠、牡蠣の揚げ物(フライよりも天ぷらに近い)、蟹などが出てきて、最後にカレイのフライが出てきた。此までも桓仁の川魚、通化の鯉のあんかけなどのように魚が出るには出たが、海の鮮魚を食べられたことで、何となくほっとする。夕食後大連の町へ繰り出した。9時ころ勝利百貨店へいったが、9時が閉店時間のようだった。どの店も閉店準備に入り、9時の案内とともに、シャッターを下ろしたりバサッと売り場の台に布をかけてしまうところが多かった。見事であった。屋台で乾燥ライチを買った。11時30分就寝。
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Posted by hajimet at 20:19
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| 2006年10月5日 |
| 中国東北紀行その4 |
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9月29日。4日目になる。さすがに疲れが出てきて、肩や背中が張ってきた。考えてみたら、2日目の移動距離が500q。東京−大阪を見学を取り入れながら一気に走り抜けたようなものだ。昨日は移動距離こそ200qだが、内容は濃密だった。確かにガイドさんが言うように中国では短距離なのだろうが、絶対的な距離は相当である。しかしながら、「点と線」であることには違いない。数字の感覚は日本と中国でかなり違うようだ。人口にしても少ない街(郷、鎮クラス)で数万という数字が語られる。日本なら2万を超えたら市くらすだ。 朝食後、バスで桓任へ向かう。通化市内は太平洋戦争末期、ソ連軍の侵攻によって関東軍司令部を移した街である。今でもそのときの建物が残っている。軍事関係の施設なので撮影禁止だが、上から見ると航空機の形をしている。町中は市場が人でごった返していた。通化市を抜け出て、20分ほどで通化県の中心地に入る。通化市のベッドタウンとして発達していて、市内よりも活気がある。 さて、ここからが大変であった。バスは高級バスでエアサスが効いている。一方で道は狭く悪い。まるで気流がものすごく悪い中を行く飛行機のような感覚だ。こんな中を1時間以上進む。途中ですれ違う市内バスも100q以上進むような長距離のものだ。その道で中国の教育事情を聴いた。農村など貧しい所の人がよく勉強して、良い大学に入ること、大学を出れば職業も保障され、そうすれば農民の戸籍から都市の戸籍に変更できることなどが話のメインだった。また、通化からのガイドは文化大革命のときに日本語を学んだため、諺などが中心の勉強で、日本人と話しただけでも批判の対象になったと言うことを聴いた。中国の友人もいるのだが、文革の時の話を具体的に聞いたのはこのとき初めてであった。バスは農村を進む。 9時すぎ、桓仁についた。ここからバスを乗り換えて山を登る。高句麗の最初の山城、五女山城へ行くためだ。ここも世界遺産に指定されているが、交通が不便なため日本人は余り行かない。この旅行社が扱ったのも今年2例目で、しかも20名を越える大人数を扱ったのはおそらく初めてであろうとのことだ。集安を含めて大人数で訪問したケースはほとんど無いという。下から見ると山の上の方が崖で切り立っている。その崖の麓まで行くのだ。かなり急な上り坂を10分ほどで到着。しかし、中国の車はよく警笛を鳴らす。注意!、邪魔!のほかに、お礼など日本ならハザードかパッシングで表示することも警笛で表現しているようなのだ。 麓から階段を上がる。最初「段数は99段です。かなり険しいです。99段とはホンコンの返還を記念したものです。」という説明だった。ホンコンの租借期間99年をイメージしたものと思ったが、それにしては入り口にカゴ屋がいるし(最初の言い値は100元。それがどんどん下がる)、99段には見えない。慌てて「999段の言い違いでした」。ということは租借期間でなく、返還年である1999年のことだ。ともかく脇道なども上手く利用しながら登る。直りきっていない右足が痛み始めた。中には倉庫跡、泉あと、住居跡がある。住居跡はオンドルの煙道の痕跡が残されていて、今の朝鮮民族の文化に影響を与えたことがわかる。 城跡は平坦だが、すぐ脇は足下がすくわれるほどの大絶壁である。200b近くある。下を流れている川ダム湖となっていたが、そこには「遼寧第一の景色」と書かれた石碑が建てられている。湖は広々としていて、対馬の浅芽湾を眺めたときの感じを思い出した。この辺のカエデはすでに赤くなるが、階段を下りていった山下はまだであった。しかし…階段を下りてから「高所恐怖症、心臓病、高血圧、老齢者、弱者は登るな」という看板があっても…。絶壁を降りたところに南門跡があり、山上に向けて城壁が築かれていた。城をあとにして市内に入る。食事は今までの中で一番脂っこい。というより油の中に食べ物があるような感じだ。今までもそうだが、食事は五月雨しきに出てきて、いつが終わりかはっきりしない。それどころかデザートの果物が先に出たりする。この辺は感覚の違いだろう。桓仁は満族自治区である。満族はの家は高床式であるというが、残念ながら気づかなかった。 バスで30分ほど、桓仁の郊外へ行く。10キロほど離れた米倉溝というところだ。桓仁は満族自治区であるが、米倉号はそのなかの朝鮮族の自治郷である。道にはヤギが群れを成し、馬車や牛車、ロバが動き回る。その間を鳥がかけずり回る。村にはいると子豚が追いかけっこをしている。その中を川端で女性が洗い物をし、家々はトウモロコシが干してあり、焚き付けようの藁束が積まれている。足下には肥料にする牛糞がおちていて、畑には大根、豆、黍などが植えられていた。その中を将軍墓へと進む。土を盛った貴族の墓であるが、高句麗初代王の朱蒙の陵だという伝説もある。古墳の時代と合わないが、そう考えても面白い。なお、後からわかったことだが、この村は満州帝国時代、関東軍によって焼き討ちされている。パルチザンとの接触を断ち、集団部落に移住させるためである。 再び桓仁に戻り、瀋陽へ。一般道を120qで快走??!する。途中から吉林と瀋陽を結ぶ高速道路に入った。直前まで快適だった道路が、なぜか入口直前の取り付け部分で未整備となった。高速道はその入り口から瀋陽側しか開通していないが、運転手もガイドもその道を知らなかった。路面はキレイで縁石はまだ揃っていない。ガードレールは光っている。道の脇をスコップを持った一団が歩いていく。それもそのはず、この日の10時に開通したのだ。中国では急速にインフラ整備が行われていて、今回の旅行中、同じようなことが何回かあった。日本人ではじめてかも知れない。などと思っているうちに日が落ちてきた。赤い夕焼けに向けて、バスは瀋陽へ向かう。ちなみに瀋陽は、中国の簡体字では「沈よう(こざとへん+日)」となる。ということは「沈陽で洛陽をみた?」。トイレ休憩にサービスエリアに入るが、まだ未開業だった。トイレだけ借りる。ここも工事がほぼ終わったばかり…とういうことは…。途中通過した撫順は炭鉱の露天掘りで知られる。炭鉱こそ見えなかったが、燃料に石炭を使っているのだろう。黒い煙がでていて街は煤煙の底に沈んでいた。撫順の入り口には火力発電所があるが、これも石炭で発電しているとのことだった。 瀋陽で通化からのガイドと別れ、瀋陽のガイドに変わる。通化のガイドとバスはそのまま通化にもどるとのことで、ここから再び桓仁を通るルートしかないとのことだった。ということは6時間近くかかる計算だ。瀋陽は川の北にあるから、陰陽で「陽」の自我宛てられた等との説明を聞きつつ夕食会場へ。夕食を食べた後、世界第2位の規模のコリアタウンへ行く。ちょっと危険な所もあるので、ガイドもついてくる。街はハングルが溢れている。その中でピョンヤン館へ行く。北朝鮮の直営店だ。中にいるウェートレスはとてもキレイだった。ショーの女性も。記念に北朝鮮の国旗をかたどったバッジを買った。ピョンヤン焼酎の4合瓶が80元なのに対し、このバッジも80元…。ちなみに朝鮮の焼酎は25度である。普段少しきついと思って飲むのだが、中国の白酒が50度近くあるので、やたら薄く感じた。瀋陽は清国皇帝が即位し、第2代皇帝まで生活した街である。世界遺産の宮殿跡と王陵跡がある。都が北京に移ってから満州時代までは奉天と呼ばれ、様々な見所があるが、次回の楽しみにとっておくこととする。 |
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Posted by hajimet at 22:13
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| 2006年10月4日 |
| 中国東北紀行 その3 |
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Posted by hajimet at 20:14
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| 2006年10月3日 |
| 中国東北紀行その2 |
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2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。 |
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Posted by hajimet at 22:08
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| 2006年10月2日 |
| 中国東北紀行その1 |
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9月26日から10月1日まで中国東北地方をめぐった。目的は旧満州帝国の遺産と高句麗の遺跡を訪ねるというものだ。 高句麗は中国側で起こった民族で、それが朝鮮半島に拠点を移すため、最初の頃の遺跡は中国側に残されている。行きにくい場所であるが、今回機会に恵まれた。 9月26日、羽田6時50分発関空行きに乗り、関空から大連行きに乗る。発達した低気圧の影響で飛行機は揺れ気味。大連行きは途中まで機内サービスが行えない状態だった。釜山上空からななめに韓国を横切り、黄海を大回りして大連に着陸…のはずが、着陸態勢に入ってから一向に降りない。大連が強い雨で、しかも霧がでているため、旋回して待っていることだった。 空港は日本便、韓国便が多いのだが、どちらの言語もほとんど通じない。しかし簡体字とはいえ、普段使っている漢字表記なので(大分違うには違うが)、文字が自然に目に飛び込んでくる。空港はこぢんまりとした印象を受ける。市内見学に出かける。一番最初に目に飛び込んできたのは、朝鮮料理の店だった。表記からすると朝鮮族だろう。自転車は目にしない。坂が多く使いづらいという説明であった。車は、かなり自由に走り怖い。人もあちらこちらで渡ってくる。 まず大連港へ向かう。眼下に数本埠頭が広がり、ロシアの作った埠頭、日本の作った埠頭がならぶ。満鉄時代の設備も残っている。韓国の仁川への航路もこの埠頭からでる。その後市内中心地へ。中心地は最終日にゆっくり見るので、そこで説明したい。関東州時代の建物の多くが文化財に指定されたりして大事に使われているという印象を受けた。満鉄関係者が住んでいた自宅も残っているが、非常に豊かな生活をしていたことが伺われる。もちろん、あちらこちらに最新の高層ビルも建っている。食事で青島ビールが出る。日本のビールより少し薄い感じがした。この後、各地で地元のビールが出て、味を楽しむ。 食後大連空港より長春空港へ向かう。手続き場では 説普通話、迎四方賓客 用文明話、送一片真心 という標語が電光掲示板に表示されていた。搭乗口待合所の売店ではお酒の他、干海老や干海鼠などを売っている。飛行機もどことなく干物系の臭いが漂う。 飛行時間は1時間。途中気流が悪く、ベルト着用サインが出たにもかかわらず、機内サービスは続く。コーヒーを注いでもらった途端、強い揺れが来て、こぼれてしまった。そういえば、戦前飛行士だった人が、この辺はかならず揺れる気流の悪い場所があって、操縦がイヤだったということを言っていたが、そこを通ったのだろう。長春で泊まった長春春誼賓館は満州時代の大和ホテル。ホテルの前はロータリー越しに長春駅である。23時半就寝。1時間の時差のため、体感時間と実時間がずれて、何だか変だ。
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Posted by hajimet at 10:20
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| 2006年8月29日 |
| 千葉ハングル石塔紀行 |
8月28日、知人の車で千葉にあるハングルで書かれている石塔を見に行く。まずは館山へ。ちょうど一年前にもここに行っているが、そのときはとても暑かった。今年は涼しい…というよりも夏らしい暑さはあまり感じない夏だった。暑いときは湿気もすごく、からっとした感じはなかった。首都高で湾岸、館山道と入り、終点君津から一般道に入る。海沿いでもよいのだが、山道を利用する。実は南房総方面は山道の方が早いのだ。ただしルートを間違え、国道465号から県道88号に入る路を選んでしまった。88号は未整備で多くの場所が片道一車線。しかも路肩が弱いとか、落石注意なんていうところばかり。実際に法面が崩壊して片側交互通交なんて言うところもあった。道も細かいカーブが多く、自分が運転しているつもりで路面を見ていないと、確実に酔う。運転手が目が回ると言ったほどだ。 館山に出る。目指すは大巌寺。127号線でJRをこえた付近にある。この付近は館山地溝帯の崖面にあたる。16世紀後半の僧侶、雄誉上人が里見氏の依頼で開山した浄土宗の寺で、そこにある四面石塔を見に行った。雄誉上人の時代に建てられたもので、「南無阿弥陀仏」の名号が四面に彫られているのだ。それも日本の漢字、中国の篆書、梵字、ハングルの4つの書体だ。ハングルは今使われているものでなく、15世紀に発表された形式で、漢字音をハングルで表そうとしたものである。だから今の者とはかなり違う。この書き方で彫られた石碑は、実は韓国には存在しない。かなり早い時期にその書き方は消えてしまったからだ。寺で探し出すのは大変だと思ったら、なんと山門から本堂へ行く途中にしっかりと建っていた。脇には顕彰碑もある。こちらは今の書き方で「南無阿弥陀仏」と彫られている。 寺を出た後、那古観音を見る。日露戦争記念碑、県内に二つしかない多宝塔などを見たのち、観音堂に入る。観音堂自身は修築工事中で解体補修中であった。そのため、参道は仮に造られ、 プレハブで覆われた建物に入る。韓国の弥勒寺の石塔の修復現場でも同じことを感じたが、まるで工事現場のお稲荷さんか神棚に手を合わせている気分になる。観音堂裏の展望台に上がる。なぜか和泉式部の供養費があるが、それが向かっている先は館山湾である。湾の反対から自衛隊のヘリコプターが上がってくる。遠くには伊豆大島や伊豆半島がうっすら見えている。大島はこの夏に行こうと思っていたが、時間(+資金)的に断念。神津まで足を伸ばしておたあジュリア関係の遺跡を見て回ろうと思っていたのだ。寺あとにして、千葉方面に向かう。今度は海沿いに走る。すぐに崖観音が目にはいる。崖ップチに建てられていて、背後の崖はあたかも仏像の光背のようになっている。崖は砂の地層の重なり具合がよく分かる。 1時間ほど北上して竹岡に入る。ここの松翁院を訪ねる。場所を調べようと竹岡の駅に行ったが、無人駅で何もない。道路地図をよく見てみると、竹岡の駅の近くの集落は竹岡でなく、千葉よりの半島一つこえたところが竹岡だった。むしろ上総湊の方が近い。地元のお店に聴き寺を訪ねる。本堂の手前に墓地があるが、見晴らしがよい。すぐ目の前に三浦半島の横須賀が見えている。幅が10キロほどしかないので、まるで大きな川のようだ。そういえば道路地図も竹岡付近と横浜の金沢八景付近が同じ図面に表されている。奥の方には横浜ランドマークタワーが見え、海ホタルの人口島も見える。手前には富津岬が長く横たわって見える。ともかく見晴らしがよいのだ。 この墓地の中にもよく似た四面石塔がある。大巌寺の約50年後に建てられたもので、ハングルもよく似ている。ただハングルをパーツの組み合わせで出来ている文字という意識は内容で、ほとんどデザインと捉えているように思われる。この塔の由来は火災で焼けてしまい、よく分かっていないようだ。ただ、竹岡は会津藩と白河藩に江戸守備のための砲台を作らせたため、この寺も会津藩とのつながりも強い。また、東京芝の増上寺との関係も強く、この塔が立てられたのは徳川家との関係の強い時期とのこと。大巌寺も松翁寺と同じく浄土宗の寺で、しかも徳川家と関係の強い僧侶であった。そのようなことから何か糸口が出てくるかも知れない。このことは近いうちにHPに公開する予定である。
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| 2006年8月19日 |
| 旧盆の一日 |
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8月13日、新潟へ行く。東京駅で新幹線を1本待って、無事に座れた。本当は、春に行けなかった佐渡へのリベンジ旅行も考えたが、あきらめる。実際行こうと思っていた12日は、越佐海峡は大雨だった。たしか、一年前も船に乗っている最中に大雨になり、ジェットフォイルが着水してしまい、ただのゆれる漁船になった記憶がある。 13日、夜親戚が集まり墓参りに。どこの家も線香一束を持ってくるが、この辺は東京と違うようだ。その後宴会。丼一杯の枝豆が何杯でも出てくる。 翌日、別の親戚の家に行き、その家にある古い物を写真に撮る。江戸時代後期の当主の肖像画、藩札、御城米船の旗(廻船問屋もやっていた)、鑑札、剣道の免許皆伝の書、梧竹の書などなど。その後車で外出。行き先は乙宝寺。日本で一番交通量の多い(でも何故かほとんど渋滞のない)国道7号線のバイパスに乗る。道の駅豊栄、新潟競馬場、新潟東港のクレーンを眺めながら聖籠のインターで、村上方面への一般道に入る。海岸沿いの砂丘の間を道は進んでいく。途中、米子、築地などの地名を目にする。読み方は、「よねこ」、「ついじ」だ。この辺はつい先日まで中条市だったが、平成の大合併で胎内市となった。胎内川にそっているからであろうが、今まで胎内という地名は山の中の地名だったので、なんだかぴんと来ない。川も加治川、胎内川を渡り、逆水川、乙大日(きのとだいにち)川など面白い名前のついた小河川を目にしながら進んだ。あたりの家は、切り妻に多くの桟を入れる作りをしている。また、砂丘の上は工業団地として開拓されていて、アデランスの工場などもあった。 約40分で乙宝寺につく。地名は乙(きのと)。越後随一の古刹で、行基が創建したと言われる寺である。それが本当かは別として、今昔物語にも登場し、そこから猿供養寺と言われたりもする。また、芭蕉も奥の細道を歩いたときに、ここに寄ったようだ。入り口の石橋を渡ると両方に池が広がる。池の中には弁天道が建つ。池を過ぎると山門。中の仁王像は右側の像の頭の一部が残念ながら欠けていた。左手に三重の塔が見える。国指定の重要文化財になっていて、武骨ながらも味わいのある塔である。その手前、手水鉢には「わき水」がわいている。「どっこん水」というそうだ。これは「独鈷水」が訛ったもので、弘法大師がこの寺にやってきて独鈷をさしたところ、水がこんこんとわき出したという伝説に因んでいる。実際この水は、胎内川の伏流水で、味はよい。…なぜか伏流水が湧くところや、川が伏流水になるところに弘法大師の伝説が多いのだが、不思議なことである。あちらこちらで見聞きするのだ。 山門横には、風流な懸板がある。「浮世散桜会 うきよのちりや」…トイレであった。この寺はこれで3回目か、4回目の訪問になる。お盆の帰省シーズンのせいか、これまでにない人出であった。寺の前には「きのとまんじゅう」という名物の饅頭がある。餡の甘みが抑えられ、皮がもっちりした饅頭である。大抵、お昼過ぎには売り切れ、2時頃夕方の分が蒸し上がるのだが、この日は11時過ぎでもう売り切れていた。寺を後にして、超遠縁の人の実家の仏壇をお参りして帰京した。新潟駅では特に待たずに座ることが出来た。実は一本後の列車のホームへ行ったのだが、よく見たらその前の列車に空席があったのだ。慌てて階段をおりて隣のホームへ。列車に乗ったときは発車2分前だった。 |
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Posted by hajimet at 12:54
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| 2006年8月9日 |
| フォッサマグナミュージーアム |
融通念仏供養碑を見学したのち、糸魚川のフォッサマグナミュージーアムへ向かう。その前に、住職から話題に出た大宮諏訪大社を見る。小谷の総鎮守で諏訪大社下社と関係が深い。神社には薙鎌があり、七年に一度、新潟との県境にある神社の神木に薙鎌を打ち込むことで御柱祭が始まる。薙鎌はこの神社のお守りにもなっている。本殿は1600年代に建てられたものだった。本殿は長野県の文化財になっているが、他にも舞などが文化財に指定されていた。千国街道はここから山へ入っていく。姫川を下る。あたりは深い山の峡谷で、足下は姫川の早い流れが怖ささえ感じさせる。国道も鉄道も洞門で落石から守られている。途中新潟県との県境、新国界橋の脇に慰霊碑がある。1995年に大規模に崩落した場所で、その復旧工事の最中に支流からの土石流で工事関係者が多くなくなった場所だ。95年の崩壊現場はいまだに崩壊が続いていて、斜面が生々しい。 新国界橋からトンネルに入るところは、何となく硫黄の臭いが漂っていた。トンネルと洞門を抜け、次の谷が小滝川の谷である。昭和13年、日本で最初に翡翠が見つかったところで(それまで日本に翡翠原石はないと考えられていた)、谷の奥に翡翠峡がある。谷をさかのぼりそこまでいく。目の前にあらわれたのは明星山の大岩壁であった。谷底から頂上まで石灰岩の岩壁で、500mほどの高さがある。この日は見られなかったが、ロッククライミングをする人も多いそうだ。翡翠峡はその足下。下流側である。近くまで降りる道もあるようだが行く時間はなかった。もっとも天然記念物のために原石を採取することは出来ない。あたりは落石地帯で、ここに行くときにはなかったはずの石が、戻るとき(といってもわずか10分)にはあり、車の底をこすってしまった。姫川に戻り、下流近くの河岸段丘上のフォッサマグナミュージアムへ行く。鉱物などが充実している。特に翡翠については力を入れていることがよく分かる。特別展示ではアスベストの紹介をしていた。フォッサマグナそのものはナウマンの言っているものよりももっと広いものだそうだが、その成因をわかりやすく説明していた。糸魚川静岡線の境界より西側は古い地層だが、それらの成因や、フォッサマグナの変化などを岩石や、化石と関連づけて説明しており、とてもわかりやすかった。化石もいろいろ集めていて、足の生え始めたオタマジャクシの化石や、なんと「うんこ」の化石まで展示されている。うんこの化石は、置き換わった鉱物の関係(確か鉄)でなんとも生々しい色だ。ここの博物館は関連の出版物も充実している。 ミュージアムでヌナガワ(奴奈川)姫と大国主命の伝説の映画を見る。大国主が出雲からやってきて、ヌナガワ姫を嫁にするために越の国にやってきて、生まれた子供の1人が諏訪大社の神になったという話だ。先ほど見てきた諏訪神社のみならず、姫川沿いには諏訪神社が多いという。しかも、この川は翡翠があるところで、確かに古代の人はここの翡翠を使う文化をもっていた。のみならずここの翡翠は広い範囲に広がっていたのだ(それが忘れられていたわけだ)。姫川をさかのぼり長野側に入ると、そこは渡来人によって開発されたところだ。おそらく渡来人のルートの一つだろう。ミュージアムを出て、ミュージアムパークに向かう。姫川と根知川の分岐点であるが、そこにある根小屋の集落の入り口には不思議な人形のようなものが道をマタイでぶら下げられていた。 根知川は糸魚川、静岡構造線が横切っているところで、そこを発掘して公開している。断層線沿いには粘土が分布し、その西側にはかなり古い岩石が、東側は新しい安山岩が分布している。また、海底で溶岩が噴出したことを示す枕状溶岩が東側にはあちらこちらで見ることが出来た。糸魚川と松本を結ぶ千国街道もこの構造線にそって通っている。姫川沿いの渓谷は危ないため、道路が開発されたのは明治になってからだ。そういえば、栂池高原の千国街道も神城断層にそって通っていた。 |
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Posted by hajimet at 10:58
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| 2006年8月8日 |
| 融通念仏供養碑 |
8月初旬、用事で栂池高原まで行った。時間によって白馬三山の見え方が変わる。朝はっきり見えていたかと思うと、もう8時過ぎには靄に隠れてしまう。そして夕方、夕日をシルエットにまた山が浮かび上がってくるのだ。うすら赤い山肌に大雪渓などの雪渓が、白い血管のように浮かび上がってくる。宿舎の前は白樺の木陰があり、楽器を吹くと気持ちよい。そこから水田を越えた反対側には「塩の道」、千国街道が通っていて、百体観音がある。散歩中に「天蚕」の繭を拾った。その道の入り口の看板が信州らしかった。「この地帯の山菜、樹木、きのこ、地蜂の採取を禁止します」 栂池自然園にあがる。栂池からゴンドラで20分。6人乗りだが、20分は長い。特に帰りは1人で降りてきたので、退屈きわまりなかった。途中駅でゴンドラのロープを載り替える。今までのロープをはずれ、ゆっくり動きながら新しいロープに載せ替えるのだ。乗る瞬間は勢いよく滑り台(といっても数十p)を滑り落ち、ロープの上に落ちていくので、一瞬ジェットコースター的感覚を味わえる。ゴンドラを降りた後、今度は71人乗りのロープーウェイに乗り換えて約5分。自然園の入り口につく。外から植物などを持ち込まないように、足ふきのマットの上を歩く。自然園の中はいくつかの湿原から出来ている。今年の冬が寒かったせいか、残雪はあるし、普段なら終わっているはずの花が未だ咲き誇っていて、幻想的な風景だった。その足下にはモウセンゴケが頑張って口を開けている。 午後、小谷村の融通念仏供養碑を見に行く。なぜかハングルらしきものが彫られている江戸時代の供養碑だ。2002年に一度訪問して、連れて行ってもらった人(今回と同じ人)に拓本の採り方を教えてもらった。姫川に沿っていくが、深い谷と地滑り地帯のため、トンネルと洞門が連続する。途中から中谷川に沿い、小谷温泉へ向かい山を入っていった中谷の集落の裏手、神宮寺にそれはある。もともと葛草連(クンゾーレ)という所にあったが、地滑りの危険性があって、集落ごと移転した結果、ここに移してきた。住職に話を聞くと、神仏分離前に同じ村の中の大宮諏訪神社を管理していた関係で、葛草連にあった諏訪神社の碑を移してきたということだ。大宮諏訪神社も古いお札の中にハングル(阿比留文字?)で書かれたものがあったという。融通念仏供養碑に書かれている文字も阿比留文字ということになっているが、いわゆる阿比留文字とは字体がかなり異なる。それよりも江戸時代に発行された本の中にある「朝鮮の文字」とまったく同じ書体なのである。阿比留文字の方は神代文字の一種で、日本に漢字が入ってくる前にあったと主張される文字だが、なぜかハングルを読める知識があれば、読めてしまうと言うものである。 この本の中にはハングルには存在しない文字も含まれているのだが、まさしくその文字が供養碑の中にあるのだ。しかも御丁寧にハングルには絶対あり得ない濁点まで出ている。ということは日本人が韓国語とは関係なく彫り込んだということだ。誰がどのような目的で彫り込んだのだろう。文の中には「ナガサキ」と読める部分があって、近くの長崎集落に関係あるようだ。融通念仏供養碑の他に、碑のまわりには六済供養塔や茶湯供養塔、不喰供養塔などがあり、いずれも融通念仏宗と関係あるものと住職からの示唆があった。葛草連は融通念仏宗の盛んなところだった。念仏は口伝で代々伝えられていた。念仏といってもとても長いもので和讃に近いものだったようだ。代が続かないことを憂慮して戦前に書き記したものを見せてもらったが、かなり分厚いもので、節回しまで書かれていて、よく覚えられるものだと感心した。最初から最後まで2時間以上かかったそうだが、残念ながら、現在は途絶えてしまった。新しくいろいろなことが分かったので、HPも改訂をすることにした。写真、解説はこちらを参照。 |
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Posted by hajimet at 10:09
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| 2006年6月3日 |
| 裁判所と韓国語 |
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6月2日、学校の仕事で東京地裁の法廷見学へ行ってきた。 |
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Posted by hajimet at 20:05
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| 2006年5月9日 |
| 三河島探検 |
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近くで話には聞いていても、なかなか訪ねられないところがある。三河島もそんなところだ。自宅から見て山手線の反対側。しかも常磐線の快速しかないところで、むしろ二つ先の北千住や綾瀬の方が便利に感じる…そんな場所であった。三河島事故の記憶も(生まれる直前だが)、訪問をおっくうにした原因かもしれない。 |
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Posted by hajimet at 10:58
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| 2006年4月6日 |
| ソウルそして佐渡 |
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3月29日、羽田発のJALでソウルへ向かった。ばったり空港で友人と会う。先方は仕事で週1回ソウルへ飛ぶとのこと。今回も水曜日に出て金曜日に帰国とのことだ。 |
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Posted by hajimet at 10:39
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| 2006年2月26日 |
| 東京大仏 |
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板橋区の乗松寺へ行った。 |
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Posted by hajimet at 22:01
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| 2006年2月22日 |
| 東京・交通博物館 |
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神田万世橋の交通博物館へ行った。2007年にさいたま市へ移転するため、この5月で閉鎖になると聞いたからだ。また、閉鎖の記念として、昭和18年に廃止になった万世橋駅を見ることが出来るとも聴いていた。今の交通博物館自体、万世橋駅と一体で作られている。 |
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Posted by hajimet at 21:08
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| 2006年2月16日 |
| 京都大原 |
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14日夜、大阪で用事があった。レセプションでは鶴橋で仕入れたキムチサンドが振る舞われた。不味くはない。 |
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| 2006年1月7日 |
| 関西・信州 |
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1月4日、1月5日、大阪東京鈍行の旅を行った。 |
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Posted by hajimet at 10:23
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| 2005年12月9日 |
| 諏訪、山梨 |
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Posted by hajimet at 09:57
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| 2005年10月27日 |
| 韓の国「仏が来た道」紀行(3) |
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(扶蘇山城−クドゥレナル−定林寺−陵山里古墳群−昼食−渓流山甲寺−東鶴寺) |
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Posted by hajimet at 21:42
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| 2005年10月19日 |
| 韓の国「仏が来た道」紀行(2)の2 |
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長くなったので第2弾。 |
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Posted by hajimet at 21:54
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| 韓の国「仏が来た道」紀行(2)の1 |
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2日目 晴 【法聖浦−仏甲寺(霊光)−弥勒寺(益山)−灌蜀寺(論山)−扶余】 |
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Posted by hajimet at 21:23
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| 2005年10月18日 |
| 韓の国「仏が来た道」紀行(1) |
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10月14日から3泊で「日韓市民ネットワーク名古屋」のメンバーと一緒に韓国へ行ってきた。現地解説のためである。といっても、行ったことのないところも多いので事前勉強が大変だった。百済に仏教が上陸したと言われるところから、遺跡をめぐるものである。 |
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Posted by hajimet at 22:48
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| 2005年10月10日 |
| 佐原 |
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Posted by hajimet at 11:17
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| 2005年8月29日 |
| ソウル(3)舎堂から市内へ |
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Posted by hajimet at 23:58
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| 2005年8月28日 |
| ソウル(2)新村 |
夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。 ポソクチョンは本来、鮑石亭と書き新羅の古都慶州(キョンジュ)にある(リンク)。しかし、この店の「ポ」は「鮑」ではなくて「泡」である。慶州の鮑石亭のほうは鮑の形の石の溝があって、そこで曲水の宴を行った。それを模したのであろう。店の真ん中に大きな机があり、そこに似たような形の彫り込みがあり、マッコルリ(韓国風どぶろく)が流れているのである。 粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。実際はアクリル板が溝の上に乗っていて、汚れが入らないようになっている。くみ取るところに穴が開いていてそこから手を入れるのだ。普段は穴の上にどんぶりが載っていて、ぴったり塞いである。 マッコルリの味は変わりやすい。瓶に入れておくと、どんどん酸化していくことがわかる。しかし、ここのものは酸味はほとんどなくて呑みやすかった。ついでに滝があると、と思ったが、けっこう臭いが強いから無理だろう。酸化もするし…。 帰り際KANSAIという日本ラーメン屋によった。関西ラーメン当というものを食べたが、コンソメの味が効いた豚骨風ラーメンで、日本風韓国ラーメンであった。麺を煮込む文化だからであろう。だいぶべとべとしていた。 |
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Posted by hajimet at 09:35
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| 2005年8月27日 |
| ソウル1(仙遊島) |
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朝8時15分、羽田発のJALでソウル金浦空港へ向かった。1時間50分の飛行。11時にはもう市内にいる。一服した後、漢江中州の仙遊島(ソンニュード)へいった。もともと浄水場だったところで、それが公園として解放されたのだ。以前は入れなかった。ソウル日本人会の俳句会の吟行にご一緒させてもらったのだ。 |
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Posted by hajimet at 16:23
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| 2005年8月22日 |
| 館山 |
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再び青春18切符で館山まで行く。内房線だが、単線のため待ち合わせが多い。あっちこっちで5分程度の接続時間あって、意外と時間がかかる。君津を過ぎて上総湊のあたりまで来ると、右手に東京湾が見えてくる。いつもは三浦半島が見えるのだが、この日は少しガスがかかっていて、そこまでは見えなかった。 |
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Posted by hajimet at 10:18
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| 2005年8月20日 |
| 勝浦 |
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青春18切符を使って外房線の勝浦まで言ってきた。学校の歴史を調べていたら、明治の校長であった、勝浦校長が勝浦で勉強合宿をやって、そのとき泊まったところが勝浦館というところだったという記録があって、どんな町か見に行こうと思ったからである。 |
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Posted by hajimet at 09:32
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| 2005年8月16日 |
| 佐渡 |
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約10年ぶりに佐渡へ日帰りで行ってきた。新潟から両津までジェットフォイルで1時間。お盆は初めてだ。墓の上に蓮の葉をかぶせていたり、仏壇の上に草で屋根をかける様子など、はじめて見る習慣もあった。墓については多くのところでそうだったが、蓮の葉が被さっているところと、そうでないものが同じ墓地の中にあって、何かかぶせ方に意味があるのかも知れない。集落ごとにも習慣が違うのだろう。ある集落では、玄関の前に仏画の描かれた灯籠の建っているところもあった。 |
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Posted by hajimet at 10:07
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| 2005年8月12日 |
| 妙義山 |
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Posted by hajimet at 13:21
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| 小諸(3)北国街道 |
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Posted by hajimet at 12:05
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| 小諸(2)千曲川 |
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Posted by hajimet at 11:35
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| 小諸(1)懐古園 |
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Posted by hajimet at 11:24
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| 2005年8月9日 |
| 御代田散策 |
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近くの浅間縄文ミュージアムでは常設展の他に皇女和宮降下の特別展をやっていた。縄文文化は、国宝となっているこの地域にしかない焼町土器が目をひいた。 半日御代田の町を散策した。出だしは真楽寺。用明天皇のときに創建された寺と伝えられる。浅間山の噴火をおさえることを祈願した寺だとのことだ。同様の寺は浅間山の反対・群馬県側にもあったが、江戸時代の大噴火の時に泥流の下になってしまった。 境内には厄除観音の他に三重の塔が建つ。他に古木や、芭蕉の句碑「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」の句碑が建っていた。 かんかん照りの暑い中、普賢寺まで行った。途中、栗やカリンの木が多い。黄檗宗の寺で、1677年に開基された。こちらも浅間山の噴火をおさえることを祈願したということだ。古い建物は門以外残されていない。火災で焼失したとのことだった。 大雄殿の入り口には、中国風に魔除けの桃を描いた扉がつけられ、屋根にも黄檗宗独自の物が置かれていた。天上には竜画が描かれている。また、奥には、日本ではじめて刷られた八万大蔵経の経蔵があった。 |
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Posted by hajimet at 23:26
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| 久しぶりの志賀高原 |
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8月1日から4日まで、志賀高原へ行った。場所は発哺温泉。お湯がポッポとわき出るので、この名前がついたという。周囲にはほんのりと硫黄のにおいが立ちこめていた。山からは急傾斜で谷に下る所だが、これは火山のカルデラの縁にあたるためである。
建物物の中に入り、声をかけてから眼下に広がる景色を眺めて帰ってきた。当時の記憶では途中小さな沢に木の橋がかかっていた。それは、新しくできた道路の下に残されていた。ちょっとしたタイムトリップであった。 |
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Posted by hajimet at 23:04
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| 2005年6月1日 |
| 東福寺(2) |
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塔頭を眺めながら東福寺へ向かう。13世紀の寺である。
開山堂のまわりには、ツツジがさく庭園と石庭が並べて作られるという面白い配置をしていた。開山堂も面白い建て方がされていて、その2階に納められている布袋和尚の像は、伏見人形の源になっているとパンレットは書いていた。 本堂を中心とした伽藍配置は戦国時代に作られた三門から南北一直線にならんだものである(塔はない)。 それらを見て、カワセミが羽繕いしている池をとおり、裏へ回る。創建当時の十三重の塔や神社があったが、その麓に「維新戦没者供養碑」が立っていた。篆額は山県有朋、文選は三浦悟楼である。 東福寺に続き、新那智山今熊野観音寺を拝観し、続いて泉湧寺を訪ねる。孝明天皇までの菩提寺で天武天皇以来の位牌がある。なぜか天智系の位牌がないとも言われる。本堂は谷底にあり、その裏手は歴代天皇皇后陵や皇族の墓所となっている。 泉湧寺に入りすぐ左手に楊貴妃観音堂と宝物館がある。楊貴妃観音は13世紀に中国から持ってきたもので、とてもふくよかな仏像である。 宝物館では孝明天皇の遺物点などをやっていた。孝明天皇は30代半ばでなくなり、泉湧寺で葬儀を執り行った最後の天皇である(孝明天皇から仏式でなくなった)。そこに展示されている夜具は、とても湯愚とは思えないものであった。袖つきのかい巻き風のものであるが、若草色の地に金で模様が織り込まれていて、外着や晴れ着に使えそうなものなのだ。 そんなものを見た後、京都駅へ歩いた。途中新熊野神社(いまくまの神社)、三十三間堂を眺めながら15分ほどの距離だった。 |
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Posted by hajimet at 23:10
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| 京都東福寺(その1) |
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5月28日は大阪で韓国語の教員の会合に出た後、御幸森通り近くの焼き肉やで懇親会を行う。 |
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Posted by hajimet at 21:41
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| 2005年5月31日 |
| 大阪近つ飛鳥風土記の丘 |
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Posted by hajimet at 20:31
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暑い夏。8月の頭に膝の靱帯をのばし家でゆっくりする日が多かった。それでもお盆は佐渡へ行って法事に参加したし、下旬には関西方面へ旅行に行った。
続いて大津宮跡を見る。京阪「近江八幡」駅のそば。折り返し線のある駅で、脇には車庫がある。駅前に空き地があり、そこが宮跡。
坂本から比叡山の麓へ行く。まず日吉大社をみる。日枝神社の総本社であって、立派な山王鳥居がたっている。中は西、東にそれぞれ宮があり、古式ゆかしい拝殿が建っている。途中には室町時代の御輿が特別展示されていた。さらに水垢離のできる滝があったり、「いわくら」であろう石が多くある。気温は30度を超えているが、さわやか。山の雰囲気と木立の中、周りに豊富に流れるきれいな水がそう感じさせるのだろうか。
今回の旅行で一番びっくりしているのは、もしかするとこのレンタカーかもしれない。予想外の悪路だったし、カーナビは操作を間違えて延々と大津港への道を案内していたし…(京都に着くまで)。しかし、大型ワゴン車がそちらへ向かって上がっていった。こちらは車高の高い車の勝ち?
まず各務原の中央図書館の埋蔵文化センターへ行き、発掘品を見る。古代寺院の遺物、古墳からのものなど多くを見る。続いて須恵器窯へ。付近は須衛という地名。この近くに村国神社があって、壬申の乱の時の関係が深いことも分かる。神社裏の森の中は大量の古墳がある。半分藪となっているところを入っていき、古墳らしきものを見る。村国神社も古代の氏族との関係を感じさせる祭神が祀られている。
続いて近くの田県神社へ。子宝祈願などの神社で、男根の奉納物がやたら多い。若い夫婦が多く訪れて、祈願していた。写真は珍宝窟で、前に置かれている玉をさすって願い事をする。その上をキノコ型をした笠が覆う。参拝した後、東京へ。夏休み最後の週末のため上りの新幹線は大混雑。指定席をとったが、「のぞみ」はかなり後までなく、「こだま」でのんびり帰ってきた。
2日目。
さっそく飛鳥資料館へ。キトラの玄武公開で混み合うため、真っ先に行く。8時50分頃バスが到着するが、すでに100人ほどが並んでいた。資料館の庭には飛鳥の石造物(人面石、酒船石、須弥山石、甕石など)のレプリカがおかれ、特別展示室では山田寺の回廊などが復元されていた。
男綱とよばれ、道祖神などと同じ役割をするそうだ。下流側は神式で貼られ、上流側は仏式で貼られる。中央につり下げられている物は、下流側は男性を、上流側は女性を示している。ここから旧道に沿って谷をあがる。まず飛石。続いて南淵請安の墓。ここで滝のような雨に遭遇した。墓のある所は周囲に比べて高く、雷も鳴り始めたので、集落まで降りて雨宿り。雨は10分ほどで上がり、すぐに晴れ上がった。道路からはもうもうと湯気が上がっていた。後から分かったが、このそばに竹石王石塔もあった。
栢森集落から奥は芋峠となり、吉野へつながる。その吉野からの入り口を守る神社である。式内社であって、格もとても高かった。飛鳥は百済、高句麗の影響はあちらこちらで見られる。しかし、加羅、新羅に関係するものは少ない。加羅との関係も指摘されるこの集落も、飛鳥の中心地からすると、非常に山奥である。飛鳥中心地との関係であろうか、それとも吉野方面から進出してきたのであろうか。 このあとキトラ古墳を見学して、帰京した。
バス停の前には小墾宮跡とも言われる土壇がある(今は蘇我氏の邸宅跡との説が強い)。向原寺は日本で最初にできた寺とされる。百済聖明王が欽明天皇に送った仏像を、蘇我稲目がここでまつったとされるからだ。後に推古天皇がここで即位して豊浦宮をおき(593-603)、その後蘇我馬子が譲り受けて豊浦寺とした。住職から発掘の様子などを聞く。江戸時代や鎌倉時代、飛鳥時代の寺跡の下から、宮跡が出てきて、さらにその下から邸宅が跡が出てきているという。
寺跡には講堂、塔、金堂の跡が残されていて、塔のあとには平安時代に建てられた13層石塔がある。この地域は渡来系の勢力が強かった場所で、高松塚もキトラもこの一帯にある。講堂跡からは高松塚の覆屋が一望できる。そういえば壁画は高句麗の強い影響が指摘されている。そもそも高市郡の7割が渡来系の姓だったそうだ。
古墳は地の窪集落の裏手にある。整備されていて墳丘に木などが生えていないので、慶州などで見る古墳のイメージに近い。高松塚やキトラと同じく終末期のもので、石室の構造もほぼ一緒である。発掘したところ、石室は漆喰で塗られていたが、石室はなかったとのことだった。たここからみる飛鳥の風景は絶景。山の稜線がほぼそろっているのも印象的だった。
高崎駅でだるま弁当を買う。出かけるときからきめていた。東京のチキンライス、新潟の、ます寿司、横川の釜飯と同じくらい定番だ、普段の赤いプラスティックの入れ物に入ったものではなく、「復古だるま」。普通のが900円に対して1300円。素焼きの入れ物に入る。中身も素朴で。お品書きには牛肉のしぐれ煮(おいしい)、地鶏の付け焼き(そんなものかな?)、マイタケ委の含ませ煮、花豆のふっくら煮(食べであり)、マイタケのわさび和え(珍味)等々であった。
なお、神社が所有している古墳もあるが、そのようなところからは渡来人そのものの明確な遺物は出ない。そうとう土着化した渡来人がいたのだろうという。カラは加羅の事だとすれば、かなり早い時期の渡来人である。神社の入り口には「狛犬」らしきものが置かれている。少し雰囲気が違うが…実は「神獣」である。宮司さんの話によると、もともと仁王像があったが、神仏分離で別の寺に移されたとのこと。その後空いている場所に、先代が中国で買い求めたものだそうだ。由緒は…ない!
続いて
続けてバスで30分ほどで
東秋留駅で降りてまず二宮考古館へ。ここで発掘品を見たり、資料を集めて昭島に向けて歩き始めた。五日市街道のケヤキが見事に紅葉している中をひたすら西へ歩く。五日市街道のあるところは台地の上だが、秋川はじめ両岸を流れる川の向こうは急流が広がる。その向こうに関東山地が見え、富士山や大山まで見える。道の先にも山が立ちはだかり関東平野の末端であることを感じさせる。何となく韓国慶州の風景を思い出させる光景だ。左手に大山古墳を見る。円形だが、よく見ると墳丘全体が角張っている。方墳らしい。墳丘の上からは台地全体から丘陵一帯が見渡せる。都立秋留高校の標識を見ながら、昭島駅に到着。約25分ほど。
駅に戻ると1時半。近くで食事をとり、福生行きのバスに乗る。15分ほどで福生駅だ。地図で見ると十分歩ける距離なのだが、少々疲れたのだ。福生駅から青梅線で一駅。羽村駅だ。駅前に神社があり、そこに「まいまいず井戸」がある。ずっと話に聴いていたのだが、一度見てみたかった。地面を10メートルくらいくぼめ、螺旋状に井戸に下りていく。上から見るとカタツムリ(マイマイ)の様に見えるのだ。下りてみる。おりきったあたりがローム層の下端で、そこから礫層になる。井戸はさらに10メートルくらい深いところにあった。ところで、どこにも説明がなかったが、井戸わきに「隼人墓(塚)?」というのがあった。こりゃいったいなんだ?(疑問を残しつつ)
駅の反対に抜ける。まっすぐ坂を下りていく。途中馬の水飲み場跡を眺めながらどんどん下りていくと、そこは多摩川である。羽村は玉川上水の取水口がある。そこを見に行ったのだ。江戸時代に多摩川兄弟が作った堰とほぼ同じ場所に堰が作られ、多摩川の水の多くが一旦上水側に引き込まれる。そのうち余剰分を多摩川に戻すようになっている。堰の真ん中には筏用の門も残されている。多摩川兄弟の像を見る。これを見つけて嬉しそうに喜んでいたカップルもいた。そして玉川上水を下ってみたが、水の豊富なのは500メートルほど。そこで水は羽村浄水場へ引き込まれてしまい、その下流は少しの水が流れているだけであった。
宮島駅で降りる。道の向かいに船乗り場があるが、宮島行き船乗り場の看板が2つあり、入り口も二つ。JR連絡船と広電系の二社が競合しているのだ。まるで箱根の伊豆箱根鉄道と箱根登山鉄道の戦いみたい。あちらはバス停留場も船着き場も完全に会社ごとに別れているが、こちらはJRも広電もほぼ同じ場所に停留所がある。波止場も一緒で、対岸もならんでいる。駅の位置や列車本数から行けば広電に歩があるが、広電はJRに比べ時間がかかる。船は大鳥居のそばまで行けるJRに歩があるが、その分時間がかかる。実際行きは15分かかるが、帰りは鳥居によらないので10分だ。
厳島神社は多くの観光客でにぎわっていた。近くのガイドの話を聞いていると、やたら台風で崩壊したことを強調している。大鳥居を眺め、紅葉谷へ。名前の通り一面紅葉で、「旬は旬に楽しまなきゃ」という事を思い知らされた。それと一緒に、今年は中国、韓国、広島と紅葉前線に沿って旅行したので、なんと恵まれているのだろうと思い感慨にふける。秀吉が作らせ、途中で終わった千畳閣などを眺め、JRで西広島駅まで。昔の己斐駅だ。そこから広電で原爆ドーム前まで戻り、ドームと平和記念公園を見学する。
7時半起床。研修会が9時30分に始まるので、その前に広島城へ行く。1キロほどで歩いて15分ほどだ。目的は旧大本営址を見ること。広島城内にあるが、土台だけ残っていた。原爆で建物は吹き飛ばされてしまい、入り口に上がる階段までしか残されていない。原爆ドームは爆風がほぼ真上から来たため、建物の駆体は残ったが、こちらは横風だったのだろう。新羅の寺院跡とか、藤原京の旧薬師寺跡を見ているような不思議な気分だ。これが4秒程度の出来事だなんて。
午後、終了後、平和通りを歩いて比治山へ向かう。約2キロ。歩いて30分はかからなかった。途中被爆した石塔のある寺などを眺めながら陸軍墓地をめざす。予備知識なしで行ったが、入り口に「木口小平」の写真が。戦前の修身の教科書に「死んでもラッパを放しませんでした」といった人物だ。墓地の中に日清戦争でなくなった広島陸軍の合同墓があり、そこに名前が刻まれていた。朝鮮成歓で死亡。ソウル南方100キロの天安の少し北だ。戦前は天安駅前に銅像が立っていた。しかし、死亡場所を眺めていると、この戦争が朝鮮を舞台に行われたことが改めて分かる。墓地には北進事変で死亡した外人墓地もあった。墓地からは陸軍広島被服支敞あとから宇品港まで見渡せる。要するに陸軍の要地そのものだ。
中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。
ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。
風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。
駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。
9月30日。朝5時起床。早めの朝食を済ませ、瀋陽北駅へ。駅はホテル(瀋陽グロリアプラザホテル)の目の前である。このホテルはPCをインターネットに接続できるので、溜まっていたメールを整理することが出来た。雑踏の中待合室に入る。軟座となっているので、ようするにグリーン車の待合室だ。30分ほど、時刻表を買ったりして時間を潰し、改札時間にホームへ移動する。列車は2階建て編成の2階。時間になると音もなく出発するが、一方で車内には音楽が流れ少々うるさい(しばらくすると静かになるが、大連手前で再開)。
大連では餃子店に食べに行く。蒸し餃子、水餃子、焼き餃子、その他の中華料理と出てくる。これまで入った店でもお茶がなくなると、すぐに継ぎ足しに来たが、ここは少し趣が違った。クコ、菊、茶葉、ライチなどが入ったカップに少年が長い注ぎ口のある薬缶を勢いつけて注ぐ。時にはカップを手に持って背中に薬缶を回してついだりして、まるでドラゴンボールの世界だ。やはりお茶がなくなった頃次に来る。しかもカメラ目線。撮影され馴れている。餃子はこの地域では主食代わりで、水餃子が中心である。どれも美味しかったが、焼き餃子に食べ慣れているせいか、焼き餃子が一番美味しく感じた。
食後、旅順に向けて出発。バスで30分位の距離だ。旅順は外国人に対して完全には解放されておらず、限定されたところにしかいけない。まずは東鶏冠山。日本軍との激戦があったところで、外からはなだらかな山であるが、一歩中にはいると露西亜軍の要塞が築かれていたという。日本軍の爆撃跡が生々しく残り、頂上には記念碑も残る。近くには「銘記歴史、勿忘国恥」という看板があった。日本は旅順の激戦地に多くの記念碑を建てたと言うが、注意してみると他の山にも記念碑らしきものが残されている。
そして203高地。頂上の爾霊山と書かれた弾丸型の記念碑や、乃木希典の次男、乃木保典が殺された場所の記念碑が残る。露西亜側の塹壕も縦横に走っている。ここから旅順港には大砲をうっても弾は届かなかったが、状況を一望できたので、司令所としての意味があったと言われる。山は今でこそ木が茂っているが、もともとははげ山である。そこで日本軍兵士が多く殺された。もちろん露西亜兵も。両国が協力して一時停戦して遺体をかたづけたという話もきいている。しかし今は唯一の桜の名所として花見をするところになっているとか、篭屋がいて観光地化しているとかでかなり複雑な気持ちになった。
夕食は海鮮料理。大連は鮮魚が上がるため、海鮮料理が食べられる。まずはカレイの刺身。醤油は日本のものだった。続いてトコブシ、海老、海鼠、牡蠣の揚げ物(フライよりも天ぷらに近い)、蟹などが出てきて、最後にカレイのフライが出てきた。此までも桓仁の川魚、通化の鯉のあんかけなどのように魚が出るには出たが、海の鮮魚を食べられたことで、何となくほっとする。夕食後大連の町へ繰り出した。9時ころ勝利百貨店へいったが、9時が閉店時間のようだった。どの店も閉店準備に入り、9時の案内とともに、シャッターを下ろしたりバサッと売り場の台に布をかけてしまうところが多かった。見事であった。屋台で乾燥ライチを買った。11時30分就寝。
さて、ここからが大変であった。バスは高級バスでエアサスが効いている。一方で道は狭く悪い。まるで気流がものすごく悪い中を行く飛行機のような感覚だ。こんな中を1時間以上進む。途中ですれ違う市内バスも100q以上進むような長距離のものだ。その道で中国の教育事情を聴いた。農村など貧しい所の人がよく勉強して、良い大学に入ること、大学を出れば職業も保障され、そうすれば農民の戸籍から都市の戸籍に変更できることなどが話のメインだった。また、通化からのガイドは文化大革命のときに日本語を学んだため、諺などが中心の勉強で、日本人と話しただけでも批判の対象になったと言うことを聴いた。中国の友人もいるのだが、文革の時の話を具体的に聞いたのはこのとき初めてであった。バスは農村を進む。
9時すぎ、桓仁についた。ここからバスを乗り換えて山を登る。高句麗の最初の山城、五女山城へ行くためだ。ここも世界遺産に指定されているが、交通が不便なため日本人は余り行かない。この旅行社が扱ったのも今年2例目で、しかも20名を越える大人数を扱ったのはおそらく初めてであろうとのことだ。集安を含めて大人数で訪問したケースはほとんど無いという。下から見ると山の上の方が崖で切り立っている。その崖の麓まで行くのだ。かなり急な上り坂を10分ほどで到着。しかし、中国の車はよく警笛を鳴らす。注意!、邪魔!のほかに、お礼など日本ならハザードかパッシングで表示することも警笛で表現しているようなのだ。
麓から階段を上がる。最初「段数は99段です。かなり険しいです。99段とはホンコンの返還を記念したものです。」という説明だった。ホンコンの租借期間99年をイメージしたものと思ったが、それにしては入り口にカゴ屋がいるし(最初の言い値は100元。それがどんどん下がる)、99段には見えない。慌てて「999段の言い違いでした」。ということは租借期間でなく、返還年である1999年のことだ。ともかく脇道なども上手く利用しながら登る。直りきっていない右足が痛み始めた。中には倉庫跡、泉あと、住居跡がある。住居跡はオンドルの煙道の痕跡が残されていて、今の朝鮮民族の文化に影響を与えたことがわかる。
城跡は平坦だが、すぐ脇は足下がすくわれるほどの大絶壁である。200b近くある。下を流れている川ダム湖となっていたが、そこには「遼寧第一の景色」と書かれた石碑が建てられている。湖は広々としていて、対馬の浅芽湾を眺めたときの感じを思い出した。この辺のカエデはすでに赤くなるが、階段を下りていった山下はまだであった。しかし…階段を下りてから「高所恐怖症、心臓病、高血圧、老齢者、弱者は登るな」という看板があっても…。絶壁を降りたところに南門跡があり、山上に向けて城壁が築かれていた。
バスで30分ほど、桓仁の郊外へ行く。10キロほど離れた米倉溝というところだ。桓仁は満族自治区であるが、米倉号はそのなかの朝鮮族の自治郷である。道にはヤギが群れを成し、馬車や牛車、ロバが動き回る。その間を鳥がかけずり回る。村にはいると子豚が追いかけっこをしている。その中を川端で女性が洗い物をし、家々はトウモロコシが干してあり、焚き付けようの藁束が積まれている。足下には肥料にする牛糞がおちていて、畑には大根、豆、黍などが植えられていた。その中を将軍墓へと進む。土を盛った貴族の墓であるが、高句麗初代王の朱蒙の陵だという伝説もある。古墳の時代と合わないが、そう考えても面白い。なお、後からわかったことだが、この村は満州帝国時代、関東軍によって焼き討ちされている。パルチザンとの接触を断ち、集団部落に移住させるためである。
再び桓仁に戻り、瀋陽へ。一般道を120qで快走??!する。途中から吉林と瀋陽を結ぶ高速道路に入った。直前まで快適だった道路が、なぜか入口直前の取り付け部分で未整備となった。高速道はその入り口から瀋陽側しか開通していないが、運転手もガイドもその道を知らなかった。路面はキレイで縁石はまだ揃っていない。ガードレールは光っている。道の脇をスコップを持った一団が歩いていく。それもそのはず、この日の10時に開通したのだ。中国では急速にインフラ整備が行われていて、今回の旅行中、同じようなことが何回かあった。日本人ではじめてかも知れない。などと思っているうちに日が落ちてきた。赤い夕焼けに向けて、バスは瀋陽へ向かう。ちなみに瀋陽は、中国の簡体字では「沈よう(こざとへん+日)」となる。ということは「沈陽で洛陽をみた?」。
瀋陽で通化からのガイドと別れ、瀋陽のガイドに変わる。通化のガイドとバスはそのまま通化にもどるとのことで、ここから再び桓仁を通るルートしかないとのことだった。ということは6時間近くかかる計算だ。瀋陽は川の北にあるから、陰陽で「陽」の自我宛てられた等との説明を聞きつつ夕食会場へ。
9月28日。5時半起床。グループの起床時間までまだ1時間あるので、身繕いをした後市内散策へ出かける。街には新聞を配る人、体操をするグループ、太極拳をするグループなど多くの人々が出ている。この町も自転車は少ないが、オートバイを改造したタクシーを結構目にする。その間をロバが荷車を引いて優雅に進んでいった。中心街の道を一歩小道に入ると、そこは朝鮮族の街で、「宝来朝族焼烤(=焼肉)」等という看板がハングルと一緒に書かれている。後で気がついたが、ここから国内城、中朝国境までは数百mの距離だった。行っておけばよかった。
博物館見学後丸都山城へ行く。途中の集落は日本的な要素を持った家が目に入った。この町にも日本人はいたのだろう。丸都山城は非常時の山城で平地とは5-6mの崖で隔てられている。比較的広い平らな地の後ろは急峻な山に3方を囲まれる。ここには門、望楼が残っている。ガイドから王宮跡もあるが、少し離れているのでやめましょうと言われるが、道があるようなので行ってみた。回りは葡萄畑で、途中の作業小屋ではひまわりの花を干して種を取っていた。その先に白い礎石が点々とおかれていて、高句麗時代と思われる赤瓦がときおり目にはいる。入り口には川が流れているが、そこで女性が一人選択をしていた。
城門の下は高句麗の古墳群である。高句麗古墳の初期のものは積石塚で、4世紀くらいから土を盛った石室墳にかわる。そして食後に見に行くような壁画が描かれるようになる。ここのものは洞溝古墳群と言われ、前期の古墳が累々とならぶ。貴族の古墳と言われ、山城が使われなくなってから造られようになったと説明される。このような古墳が集安には1万基以上あるとのことだ。昔からの積石のままのものと、近年修復したように見えるものがある。古墳の上にはススキが穂を出し、光に輝き、足下の草村にはイヌタデが赤い花を咲かしていた。近くには土砂崩れのあとが方々に見える。今年の夏に大量に雨が降ったためという。この雨は、日本付近の梅雨前線が北上して、この辺が雨期に入ったためのものだ。
そこから山城にたいする平城の国内城を見る。城壁が残っている。足下には「緑草青青、足下留情」という標語が書かれた石盤がある。これを見てから、鴨緑江まで移動。比較的流れは速いが、100m程の向こうは北朝鮮満浦市である。中国側は川それ自体は中国のものと主張しているため、対岸間近まで行くことが出来る(時間の都合で行かず)。中国側の整備された護岸に対して朝鮮側は自然護岸である。その朝鮮側の川中島にはトウモロコシが植わっていたが、本土側は農業がうまくいっているようには見えない。山も山火事があったと言うが、それだけでなく頂上まで開墾した形跡が見えるのに、作物らしきものは何も無く、荒れはてている。麓の集落には人の気配がほとんど感じられない。収穫期のはずなのに。車も一台通り過ぎて行っただけだ。近くには銅の精錬工場があり、足尾銅山のように、その周辺の木は枯れていたがそれも小規模で、精錬所からもほとんど煙が出ていなかった。集安も豊かな集落とはいえないが、それでも青々とした木々が茂り、作物も実り、人が多く行き交っている。まったく別世界が広がっているのだが、朝鮮側からは中国の様子をどのように見ているのだろうか。
五かい(灰かんむり+皿)墳5号墳で壁画を見た。以前はビデオなどでしか見られなかった、直接は入れるようになったのだ。高松塚と違い直接石室に描いたからかもしれないが、いずれにしても本物はすばらしい。周囲の古墳(4号墳、舞踊塚、角觝塚など)にも壁画があるが、いずれも非公開である。この付近の店は朝鮮族の土産物屋が多く、いずれも韓国語が通じた。そして、好太王(広開土王)碑へ。現在は覆堂がつくられ碑文は直接見られない…はずが、中に入れた。碑文は6センチ角の大きな文字で、読めなくなったものも多い。しかし「百残新羅旧之属民」の文字は目の高さより少し低いところにあってはっきりと読み取ることが出来た。倭が戦争に関係した部分は上の方になるので残念がら見えなかった。
近くの大王陵(広開土王陵と言われる)に行き、屋根型の石室をみたのち、将軍塚へ移る。石をピラミッド型に積み上げ、崩壊防止(といわれる)のために大きな石を各面に3つづつ立てかけてあるものだ。この陵は長寿王のものといわれる。長寿王は北朝鮮の平壌に都を移し、百済を一度滅ぼした王として知られる。90過ぎまで生きたとされ、それにあやかり春に漢族が長寿を祈りこの陵にお参りに来る習慣があるとのことである。ここも墓室に入れる。大王陵と違い一枚板の天井だ。屍床台にはなぜか札や硬貨がおかれていた。ほとんどが中国の人民元だが、なかには韓国の1000ウォン札もあった。
バスが出る前に駅前の地下街へ散策に出かける。土産物売り場や食堂、長距離電話がかけられる電話局などがあり、そのすきまを埋めるように本屋の棚が続く。地下街入り口ではドラム缶を改造した焼き芋売りが焼き芋を売っていた。バスで市内見物に出発。長春は文化の街、緑の街など4つの特徴を持っている。映画も盛んで、満州時代から撮影されていたという。ため息が出るほど満州時代のものが残る。泊まったところがヤマトホテルであったのもそうだが、その前には旧満鉄新京支店のビルがある。市内に進むと、旧デパート後や住宅が延々と続く。その中に新しいマンションも建つ。今長春は空前のマンションブームだそうだ。
中でも驚いたのは、旧関東軍司令部である。現在は共産党吉林省委員会が使っているが、その建物が日本の天守閣そのものなのである。日本の中で天守閣を見ても、当然不思議ではないのだが、異国の地でこの建物をみると非常に違和感がある。そのうえに日本と戦った共産党の委員会が入っているというと、象徴的なものが別の象徴的なものになったと言うことで、さらに違和感を感じるのだ。韓国では早いうちから立て替えられたものも多いのだが、おそらく感覚が違うのだろう。民族の興亡の歴史もあり、一か所をつねに同じ民族が支配したというわけでないこともあるのかも知れない。もちろん、当時の歴史の中での意図は否定しない。
さらに満州国皇帝溥儀がいた宮廷跡へ行く。溥儀が使った馬場後から始まり、当時の設備がそのまま公開されている。第1婦人の部屋もあったが、アヘン中毒になってしまい、中心の建物は第3婦人が主に使っていた。その寝室や、和室、ビリヤード部屋、会議室などが残されている。溥儀自身は盗聴を恐れて一度も使わなかったそうだ。中には先祖を祭った部屋もあり、清国を立てた最初の王、ヌルハチの位牌がおかれていた。その隣にはヌルハチを助けたとされる人の人形も飾られていた。一回に降りると、溥儀が使用した自動車がある。これは今でも走れるそうだ。
銘板が入っている。こちらは執務室や日満議定書調印の部屋などがあり、宴会場も残されている。この裏に楽団が演奏したとされる部屋があるが、コントラバス、スーザホーン、トロンボーン、木管楽器、ワグナーテューバ、小太鼓がおかれていた。一体、何を演奏したのだろう。さらに溥儀の使ったトイレや、理髪室もそのまま残されている。溥儀はここでホルモン治療などを受けていたとのことだ。また溥儀の写真や第5婦人までの写真が飾られていて、その生涯が分かるようになっている。どの人との間にも溥儀の子供は生まれなかったとのことだが、婦人が再婚などをした先では子供が生まれている。
昼食後バスで集安へ向かう。道は比較的良い。途中の通化まで400Km、4時間ほどであるが、前半は見渡す限りのトウモロコシ畑、または水田の平原だった。土地は肥えているようには見えない。こんなところでも、日本から持っていった携帯のアンテナが普通に立っている。その間に農家が見える。切り妻の家が漢族の家、入母屋の家が朝鮮族の家だ。朝鮮族は稲作が得意と言うことだ。そういえば、一面稲を刈っているところと、稲穂の上の部分をいくつか束ねて稲穂だけを刈り取っているところがある。後者は韓国でも見る刈り方だ。
9月26日、羽田6時50分発関空行きに乗り、関空から大連行きに乗る。発達した低気圧の影響で飛行機は揺れ気味。大連行きは途中まで機内サービスが行えない状態だった。釜山上空からななめに韓国を横切り、黄海を大回りして大連に着陸…のはずが、着陸態勢に入ってから一向に降りない。大連が強い雨で、しかも霧がでているため、旋回して待っていることだった。
空港は日本便、韓国便が多いのだが、どちらの言語もほとんど通じない。しかし簡体字とはいえ、普段使っている漢字表記なので(大分違うには違うが)、文字が自然に目に飛び込んでくる。空港はこぢんまりとした印象を受ける。市内見学に出かける。一番最初に目に飛び込んできたのは、朝鮮料理の店だった。表記からすると朝鮮族だろう。自転車は目にしない。坂が多く使いづらいという説明であった。車は、かなり自由に走り怖い。人もあちらこちらで渡ってくる。
まず大連港へ向かう。眼下に数本埠頭が広がり、ロシアの作った埠頭、日本の作った埠頭がならぶ。満鉄時代の設備も残っている。韓国の仁川への航路もこの埠頭からでる。その後市内中心地へ。中心地は最終日にゆっくり見るので、そこで説明したい。関東州時代の建物の多くが文化財に指定されたりして大事に使われているという印象を受けた。満鉄関係者が住んでいた自宅も残っているが、非常に豊かな生活をしていたことが伺われる。もちろん、あちらこちらに最新の高層ビルも建っている。
飛行時間は1時間。途中気流が悪く、ベルト着用サインが出たにもかかわらず、機内サービスは続く。コーヒーを注いでもらった途端、強い揺れが来て、こぼれてしまった。そういえば、戦前飛行士だった人が、この辺はかならず揺れる気流の悪い場所があって、操縦がイヤだったということを言っていたが、そこを通ったのだろう。長春で泊まった長春春誼賓館は満州時代の大和ホテル。ホテルの前はロータリー越しに長春駅である。23時半就寝。1時間の時差のため、体感時間と実時間がずれて、何だか変だ。
館山に出る。目指すは大巌寺。127号線でJRをこえた付近にある。この付近は館山地溝帯の崖面にあたる。16世紀後半の僧侶、雄誉上人が里見氏の依頼で開山した浄土宗の寺で、そこにある四面石塔を見に行った。雄誉上人の時代に建てられたもので、「南無阿弥陀仏」の名号が四面に彫られているのだ。それも日本の漢字、中国の篆書、梵字、ハングルの4つの書体だ。ハングルは今使われているものでなく、15世紀に発表された形式で、漢字音をハングルで表そうとしたものである。だから今の者とはかなり違う。この書き方で彫られた石碑は、実は韓国には存在しない。かなり早い時期にその書き方は消えてしまったからだ。
プレハブで覆われた建物に入る。韓国の弥勒寺の石塔の修復現場でも同じことを感じたが、まるで工事現場のお稲荷さんか神棚に手を合わせている気分になる。観音堂裏の展望台に上がる。なぜか和泉式部の供養費があるが、それが向かっている先は館山湾である。湾の反対から自衛隊のヘリコプターが上がってくる。遠くには伊豆大島や伊豆半島がうっすら見えている。大島はこの夏に行こうと思っていたが、時間(+資金)的に断念。神津まで足を伸ばしておたあジュリア関係の遺跡を見て回ろうと思っていたのだ。寺あとにして、千葉方面に向かう。今度は海沿いに走る。すぐに崖観音が目にはいる。崖ップチに建てられていて、背後の崖はあたかも仏像の光背のようになっている。崖は砂の地層の重なり具合がよく分かる。
1時間ほど北上して竹岡に入る。ここの松翁院を訪ねる。場所を調べようと竹岡の駅に行ったが、無人駅で何もない。道路地図をよく見てみると、竹岡の駅の近くの集落は竹岡でなく、千葉よりの半島一つこえたところが竹岡だった。むしろ上総湊の方が近い。地元のお店に聴き寺を訪ねる。本堂の手前に墓地があるが、見晴らしがよい。すぐ目の前に三浦半島の横須賀が見えている。幅が10キロほどしかないので、まるで大きな川のようだ。そういえば道路地図も竹岡付近と横浜の金沢八景付近が同じ図面に表されている。奥の方には横浜ランドマークタワーが見え、海ホタルの人口島も見える。手前には富津岬が長く横たわって見える。ともかく見晴らしがよいのだ。
この墓地の中にもよく似た四面石塔がある。大巌寺の約50年後に建てられたもので、ハングルもよく似ている。ただハングルをパーツの組み合わせで出来ている文字という意識は内容で、ほとんどデザインと捉えているように思われる。この塔の由来は火災で焼けてしまい、よく分かっていないようだ。ただ、竹岡は会津藩と白河藩に江戸守備のための砲台を作らせたため、この寺も会津藩とのつながりも強い。また、東京芝の増上寺との関係も強く、この塔が立てられたのは徳川家との関係の強い時期とのこと。大巌寺も松翁寺と同じく浄土宗の寺で、しかも徳川家と関係の強い僧侶であった。そのようなことから何か糸口が出てくるかも知れない。このことは近いうちにHPに公開する予定である。
翌日、別の親戚の家に行き、その家にある古い物を写真に撮る。江戸時代後期の当主の肖像画、藩札、御城米船の旗(廻船問屋もやっていた)、鑑札、剣道の免許皆伝の書、梧竹の書などなど。その後車で外出。行き先は乙宝寺。日本で一番交通量の多い(でも何故かほとんど渋滞のない)国道7号線のバイパスに乗る。道の駅豊栄、新潟競馬場、新潟東港のクレーンを眺めながら聖籠のインターで、村上方面への一般道に入る。
約40分で乙宝寺につく。地名は乙(きのと)。越後随一の古刹で、行基が創建したと言われる寺である。それが本当かは別として、今昔物語にも登場し、そこから猿供養寺と言われたりもする。また、芭蕉も奥の細道を歩いたときに、ここに寄ったようだ。
山門横には、風流な懸板がある。「浮世散桜会 うきよのちりや」…トイレであった。この寺はこれで3回目か、4回目の訪問になる。お盆の帰省シーズンのせいか、これまでにない人出であった。寺の前には「きのとまんじゅう」という名物の饅頭がある。餡の甘みが抑えられ、皮がもっちりした饅頭である。大抵、お昼過ぎには売り切れ、2時頃夕方の分が蒸し上がるのだが、この日は11時過ぎでもう売り切れていた。寺を後にして、超遠縁の人の実家の仏壇をお参りして帰京した。
融通念仏供養碑を見学したのち、糸魚川のフォッサマグナミュージーアムへ向かう。その前に、住職から話題に出た大宮諏訪大社を見る。小谷の総鎮守で諏訪大社下社と関係が深い。神社には薙鎌があり、七年に一度、新潟との県境にある神社の神木に薙鎌を打ち込むことで御柱祭が始まる。薙鎌はこの神社のお守りにもなっている。本殿は1600年代に建てられたものだった。本殿は長野県の文化財になっているが、他にも舞などが文化財に指定されていた。千国街道はここから山へ入っていく。
新国界橋からトンネルに入るところは、何となく硫黄の臭いが漂っていた。トンネルと洞門を抜け、次の谷が小滝川の谷である。昭和13年、日本で最初に翡翠が見つかったところで(それまで日本に翡翠原石はないと考えられていた)、谷の奥に翡翠峡がある。谷をさかのぼりそこまでいく。目の前にあらわれたのは明星山の大岩壁であった。谷底から頂上まで石灰岩の岩壁で、500mほどの高さがある。この日は見られなかったが、ロッククライミングをする人も多いそうだ。翡翠峡はその足下。下流側である。近くまで降りる道もあるようだが行く時間はなかった。もっとも天然記念物のために原石を採取することは出来ない。あたりは落石地帯で、ここに行くときにはなかったはずの石が、戻るとき(といってもわずか10分)にはあり、車の底をこすってしまった。
ミュージアムでヌナガワ(奴奈川)姫と大国主命の伝説の映画を見る。大国主が出雲からやってきて、ヌナガワ姫を嫁にするために越の国にやってきて、生まれた子供の1人が諏訪大社の神になったという話だ。先ほど見てきた諏訪神社のみならず、姫川沿いには諏訪神社が多いという。しかも、この川は翡翠があるところで、確かに古代の人はここの翡翠を使う文化をもっていた。のみならずここの翡翠は広い範囲に広がっていたのだ(それが忘れられていたわけだ)。姫川をさかのぼり長野側に入ると、そこは渡来人によって開発されたところだ。おそらく渡来人のルートの一つだろう。ミュージアムを出て、ミュージアムパークに向かう。姫川と根知川の分岐点であるが、そこにある根小屋の集落の入り口には不思議な人形のようなものが道をマタイでぶら下げられていた。
根知川は糸魚川、静岡構造線が横切っているところで、そこを発掘して公開している。断層線沿いには粘土が分布し、その西側にはかなり古い岩石が、東側は新しい安山岩が分布している。また、海底で溶岩が噴出したことを示す枕状溶岩が東側にはあちらこちらで見ることが出来た。
8月初旬、用事で栂池高原まで行った。時間によって白馬三山の見え方が変わる。朝はっきり見えていたかと思うと、もう8時過ぎには靄に隠れてしまう。そして夕方、夕日をシルエットにまた山が浮かび上がってくるのだ。うすら赤い山肌に大雪渓などの雪渓が、白い血管のように浮かび上がってくる。宿舎の前は白樺の木陰があり、楽器を吹くと気持ちよい。そこから水田を越えた反対側には「塩の道」、千国街道が通っていて、百体観音がある。散歩中に「天蚕」の繭を拾った。その道の入り口の看板が信州らしかった。
栂池自然園にあがる。栂池からゴンドラで20分。6人乗りだが、20分は長い。特に帰りは1人で降りてきたので、退屈きわまりなかった。途中駅でゴンドラのロープを載り替える。今までのロープをはずれ、ゆっくり動きながら新しいロープに載せ替えるのだ。乗る瞬間は勢いよく滑り台(といっても数十p)を滑り落ち、ロープの上に落ちていくので、一瞬ジェットコースター的感覚を味わえる。
午後、小谷村の融通念仏供養碑を見に行く。なぜかハングルらしきものが彫られている江戸時代の供養碑だ。2002年に一度訪問して、連れて行ってもらった人(今回と同じ人)に拓本の採り方を教えてもらった。姫川に沿っていくが、深い谷と地滑り地帯のため、トンネルと洞門が連続する。途中から中谷川に沿い、小谷温泉へ向かい山を入っていった中谷の集落の裏手、神宮寺にそれはある。もともと葛草連(クンゾーレ)という所にあったが、地滑りの危険性があって、集落ごと移転した結果、ここに移してきた。
この本の中にはハングルには存在しない文字も含まれているのだが、まさしくその文字が供養碑の中にあるのだ。しかも御丁寧にハングルには絶対あり得ない濁点まで出ている。ということは日本人が韓国語とは関係なく彫り込んだということだ。誰がどのような目的で彫り込んだのだろう。文の中には「ナガサキ」と読める部分があって、近くの長崎集落に関係あるようだ。融通念仏供養碑の他に、碑のまわりには六済供養塔や茶湯供養塔、不喰供養塔などがあり、いずれも融通念仏宗と関係あるものと住職からの示唆があった。
駅をでて三河島通りを北へ5分ほど。途中に韓国系の店などを見ながら歩く。在日の店だけでなく、ニューカマーが経営する食堂も多くある。その中、ハングルで書かれた宣伝看板が突然現れ、古びたマーケットが奥に続く。朝鮮マーケットである。
一見突き当たりと思われる肉屋(こちらはキムチ、各種焼酎(韓国焼酎から平壌焼酎まで))のわきに人がやっとすれ違えるだけの路地があった。上には建物が覆い被さり、暗いトンネルのようなところだ。
朝鮮マーケットを見た後仲町通り商店街を歩く。在日の多い地域で古くからの在日がやっていると思われる店も多い。その中にニューカマーの店も多くあった。それまでの店が出て行ったあとにニューカマーが入ってくるとのことであるが、商慣習の違いなどいろいろあるそうだ。三河島に住んでいる、ある在日がかつて、「ニューカマー・在日といっても、そのニューカマーが長くいれば在日になるんですよ」といっていたのをふと思い出した。またニューカマーだけでなく中国人も増えてきたとのことだ。新宿が、韓国人に限らず、ほぼニューカマーだけの町であるのに比べて町の取り巻く条件もかなり違うだろう。
仲町通り商店街を抜け、在日の経営するカバン工場を見学した後、第一朝鮮学校の脇を抜けて韓国キリスト教教会に行く。9割以上が韓国人で、説教も韓国語で行われるとのことだ。近くに韓国の禅宗系(曹渓宗)の東京布教所まである。朝鮮学校は1945年12月の国語教習所以来の学校である。かつては学校のまわりにスローガンなどが書かれていたが、さっと見た限りは見あたらなかった。肖像画も教室には飾ってないそうだ。このあたりは町工場と住宅が混在していて、表札も韓国系の名前の書かれた者が多い。
翌日ヨイドで友人にあった後、国立中央博物館へ。ともかく大きい。門から建物まで緩やかな坂を登って5分。入場料を払って中に入る。韓国では3月が新学期であるが、社会科見学で来ている学生、軍人の見学、慶尚道方言を話すハラボジ・ハルモニの団体で混み合っていた。
1階は旧石器時代から統一新羅、渤海までの考古館と金石文や印刷技術などを示す歴史館となっている。中央の吹き抜けの広場には90年代にもとの国立中央博物館の前から消えていた敬天寺の十層石塔が建てられている。タプゴル公園の石塔と同じくモンゴル=チベット仏教の影響が強く見られる石塔であるが、このまわりに三階までのエスカレーターがあってそれぞれの層に彫られた仏像が観察できるようになっている。
31日は午前中景福宮と徳寿宮を見る。景福宮は復元作業が行われていて、あちらこちらで工事・発掘が行われている。大きく変わったところは一番奥の香遠亭の付近だ。ここは高宗時代に宮が作られ、明成皇后もここで殺されている。90年代までは帝冠様式の民族博物館があったがそれが壊され、広場となっていたところである。この宮の復元事業が始まった。その左手は軍が駐屯していて立ち入り禁止であったが、そこが解放されたためであろう。王宮復元が始まっている。さらに、チャングムに影響されたか、スラクカンの発掘現場に説明板が建てられていた。そういえばMBCでチャングムが再放送されていたっけ。ただし、チャングムの時使われていた王宮はここではない。
池袋から東武東上線の各駅停車で14分、下赤塚で降りる。赤塚の商店街を抜け(洋品店の値段の安いこと。1000円以下がずらずらと…)、旧鎌倉街道を散策する。そこからバス通りをひたすら進む。まわりは古い集落だったようで、比較的大きな家だった痕跡や、屋敷にまつった稲荷などが多く見られる。
天明の飢饉のときの供養塔や、江戸時代の年後の刻まれている無縁仏も多い。その中で東京大仏は昭和52年に作られたもので、黒光りしている。関東大震災や東京大空襲のような悲惨なことを二度と繰り返さないように願って作られたものである。
全体を見た感じでは、すべてが朝鮮から持ち帰ったとは言い切れないように思う。文殊菩薩や鉄拐仙人像は何となく朝鮮風の印象もうけるのであるが、役の小角の石仏は、朝鮮では使わない高足の下駄を履いているところから、日本で作られたものではないかと思われる。鉄拐仙人像の脇には文禄2年になくなった人の墓が祀られている。戒名を見るとかなり格の高いものであるが、特に表示がなかった。誰のものであろうか。
1時30分すぎに博物館に着く。10年くらい前まで駅に見られた自動券売機に310円入れて入場券を買う。さっそくツアーの申し込みを。3時の回なら開いていると言うことで登録する。入り口目の前では鉄道模型のジオラマがまさに運転中。中央線を走っている車両には小型テレビカメラがつんであって、車窓風景を目の前のモニターに映してくれている。
二階に行くと、船舶、飛行機の部屋となる。船舶のコーナーの中には連絡船のコーナーがある。青函連絡船などがメインだが、関釜連絡船の関連のものも展示されている。関釜連絡船は1905年に山陽鉄道によって開通され、それによって初めて日韓間に定期船が出来た。その最初の船が壱岐丸であるが、その壱岐丸の号鐘が展示されているのだ。今は鉄道記念物となっている。その脇には壱岐丸のランプがある。船が揺れてもつねに垂直を向くように工夫されたランプだ。
関釜連絡線は最初は壱岐丸、対馬丸だったが、つづいて高麗丸・新羅丸、昌慶丸となり景福丸、徳寿丸、さらには金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸などが就航する。日本の大陸進出に会わせて、その夢をも著しているせいか、名前がだんだん壮大になっていくのがわかる。だって、最初は日本の島だったものが、旧国名となり、さらに王宮、継いで朝鮮と中国の山々となるわけだから。このうち、興安丸と金剛丸の号鐘も合わせて展示されている。さらに別室には金剛丸は復元模型もあった。その勇壮さにしばらく見とれた。
いよいよ万世橋駅見学ツアーである。集合場所から模型展示室を抜け、細い扉を入る。建物のスキマの足場の悪いところを歩くと、左手にレンガ造りの入り口が見えた。そこから部屋へ入ると、レンガで作られたアーチ状の部屋となり、上に鉄橋が見えている。駅の入り口部分らしい。ここで「さようなら そして ありがとう」という5分ほどの映画を見る。その後アーチなどの記念撮影をしたのち、いよいよ昔のホームへ。曲がりくねった階段を登る。
その後の万世橋駅は繁華街がうつったことや、ターミナルの機能がなくなり小さな駅となってしまった。そこに鉄道博物館ができたが、駅自体は太平洋戦争中不要不急となって廃止されてしまった。神田、お茶の水、秋葉原から至近距離過ぎたからだ。今、そのときのホームだけが残っている。そこを見たわけだ。見学が終わった後、万世橋のたもとの入り口あとを撮影して引き上げた。道路の向かいには肉の「万世」があった。ここの赤坂見附店のラーメンは高校の学校帰りによく食べたところだった。
三千院をでて、さらに裏山へ登る。音無の滝と書いてあったからだ。右手を流れていた呂川が離れていき、左から律川が近づく(あとで、誰かが「津川」だといって、間違いに気付いて恥ずかしがっていた)。川沿いに登っていくと、鉄道のレールを利用した橋を渡るようになる。そこに「音無の滝」の表示が…。矢印の向きは川の方向を指していて、そこにあるのは砂防ダムの「滝」なのである。みていた写真とあまりにも違う。そんなはずはないと気を取り直して、もう少し登っていったら、ありました、ありました。細い流れだが、途中で別れたり一緒になったりした立派な滝が。でも、きっと勘違いしていく人もいるのだろうな…。
滝から降りて三千院の裏の来迎院へ。寺は質素な作りで、本堂の中の薬師、阿弥陀、釈迦如来がすばらしい。庭には雪が残っている。そのなか、寺の裏手に回った。融通念仏宗をおこした良忍の寺で供養塔があるということだったからだ。
山を下りながら、三千院裏の勝手神社を参拝し、「大原問答」の行われた勝林院を見る。仏像の顔は柔らかい表情をしている。次に行ったところは宝泉院。伏見場から供養のために持ってきた血染めの天井などがあるが、それよりも本堂から見る庭がすばらしかった。格子窓から見る鶴亀の庭、本堂の縁側の柱を額縁に見立てて作られた庭もよい。入場料を払うともらえる抹茶券でお茶を点ててもらい、しばらく一服する。大きな五葉の松も立派だ。トイレでは真言を唱えてから使うようにと指示が貼ってあった。
バスで八瀬まで行く。そこで叡山電鉄に乗り換えた。高校の時に乗って以来で、久しぶりだ。そのとくはグループ行動で貴船神社、鞍馬寺へいったのだ。車両は新しくなったが、スピードは出ない。出町柳駅についた。バスから見たときは新しい駅舎になったものだと思っていたが、外観が変わっただけで中は昔のままだった。
さて、大阪で20分ほど待って、大阪10時4分発の大和路快速に乗り込む。途中生駒山地を越えるが、それまでの平野が突然高くなり、山間に入ったようにいくつかトンネルや橋梁を渡ると、もう奈良盆地だ。奈良を通過すると10分ほどで加茂駅に到着する。加茂の手前から山らしい景色にはいるが、まだ大阪からの住宅街が続き、近郊の様相を見せている。
約1時間で伊賀上野に。急に視野が広がり、豊かな場所であることが分かる。列車は亀山駅へ。20分後に接続があるのだが、市内巡りをしたくて1本列車を送らせる。亀山の駅前は、静かな商店街が広がっているだけであるが、市街は20メートルほどの丘陵の上にあった。ここに旧東海道が通っている。東町の商店街はほとんど昔のものがなくなってしまい、アーケードの柱に本陣あとなどの位置が示されている。城下町でもあるため枡形に道が曲がっているが、その後を黄色い舗装で示している。西町にかけては古い町並みが続いていた。
翌日、名古屋10時3分発の中央西線中津川行きに乗る。列車は高蔵寺、多治見で本数が減るが、なるほど高蔵寺までは市街地が広がり、その先は急に山が深まる。列車は多治見の手前で岐阜県に入る。徐々に雪が増え、遠くに木曽山脈の雪化粧した山々が見え始めた。王子特種製紙の看板を眺めつつ、11時14分に中津川着。中山道の要衝である。
谷沿いの少し広いところに集落が広がり、切り出した杉の幹がうずたかく積まれている。あちらこちらに製材所の文字が目に入り、杉林も広がる。手入れが行き届いていて、枝打ちも行われている林が多い。川にはところどころダムが作られ、発電所も多い。列車はさらに高度を上げ、上松の手前で寝覚めの床を通過し、木曽福島に入った。沿線で一番広いところのようで、建物も多い。その後も奈良井のあたりまで高度をあげて鳥居峠まで。
上諏訪では1時間ほどの時間を利用して諏訪湖へ。12月に訪れたときはまだ湖は凍結していなかったが、この日はほぼ全面結氷していた。高さは高くないが、御神渡りを見ることが出来た。駅に戻り15時9分発高尾行きで東京へ向かう。左に八ヶ岳、右に甲斐駒ヶ岳。前方に富士山を眺めながら列車は進む。
ここのところ、めちゃめちゃ忙しかった。本作成の最終工程(まもなく出版)もあり、夜も寝られない状態がかなり長く続いた。(ついでに20年ぶりに楽器を買い換え、こちらは満足)。でも、その本の写真撮影のおかげで、春以来いろいろなところに行くことが出来たのだから、疲れたなどとはいっていられない。といっても、終わってしまえば、気も抜けるものである。
諏訪の町を通過して、下諏訪大社まで行く。神社の脇の川を進むと、万治の石仏があらわれる。岡本太郎が見つけたという話だが、奇怪な形をした石仏である。大きな石の上に石仏の首が乗っている。日本的な石仏というより、韓国で見られる石仏に似ているのだ。見た途端に、頭は韓国安東のチェビ庵の石仏の仏頭(高麗時代)、胴体は韓国慶州の
白州でサントリーの工場を見学。「南アルプスの天然水」の工場のあるところである。後ろの山から平野に出る扇状地の上で、いかにも美味しい伏流水の豊富そうな地形をしている。この生のウィスキー工場を見学。知人とばったりあったりしながら、コースを回る。まずつけ込み、蒸留工場。小麦と麹をつけるので、入り口では醤油工場と同じような甘い香りが漂っていた。ここで3日間つけ込むのだが、1日目と2日目では発行の仕方が違う。
翌日は昇仙峡へ。以前谷を歩いて、ロープーウェイの乗り場まで行ったのだが、その乗り場付近の様子しか覚えていなかった。今回はロープーウェー乗り場まで行きそこから谷を半分くらい歩いて降りた。あたりは雪がちらつく。仙峨滝をみて、屹立する花こう岩の狭い岩の間を降りる。川がものすごい勾配を流れ落ちる。谷底にも直径が10メートル近くにもなる岩がごろごろしていた。岩にも夢の松島とか、天狗岩など様々な名前が付けられている。前を親子連れが歩く。
さらに西腹寺、軍倉あと、送月楼跡を見ながら登る。軍倉あとは、百済の軍米が置かれていたところで、今でも炭化した米が出てくる。15分も歩いたであろうか。いよいよ落花岩だ。三国遺事では堕死岩と書かれているのだが、百済が亡びるときにここから宮女が落下して死亡したという。
しばらく、そこで百済に思いをはせた後、白馬江下りへコラン寺まで降りていく。寺の後ろに泉があり、それを飲むと若返るという。この辺まで来ると、陽も射してきて川霧が晴はじめた。徐々に川の対岸が見え始め、川の全貌が見える。いつもよりも水が満々とたたえられた白馬江が見え始めた。
ここから定林寺(チョンリムサ)へ移動する。多くの子供や観光客が来ている。百済時代の石塔、高麗時代の石仏が残っている寺だ。昼食まで少しあるので、急遽陵山里古墳群まで行く。百済王家の古墳で装飾古墳が残されている。そばに扶余を囲む羅城があり、都邑地を出たことが分かる。装飾古墳の本物は見ることが出来ず、模造で見ることが出来る。
店に着き、席に着いたときは石は冷え、お焦げは固くなり、上に乗っていた生卵は半半熟に近い状態になっていた。食後バスに乗り鶏竜山(ケリョンサン)へ行く。竜の上に鶏冠が乗ったような形をしているので、このような名前になったという。歴史的にも重要な山で、古代以来韓国史の中では何回も登場している。まずは甲寺。「春麻谷、秋甲寺」というほどよく知られた寺で、新羅以来の様々な遺物がある。
参道はここでも稲の乾し場に使われていて、その周囲にマッコルリや焼き栗、蚕のさなぎを売る店があった。子供の時にこれを醤油味で食べたと懐かしそうにつまんでいる人もいた。
石仏は頭の上に細長い帽子をかぶり、その上に早稲田大学の角冒のようなものを二段に重ねてかぶっている。拝礼するためには靴をぬいで、仏像の前に行かなければならない。そこにはろうそくと、米が備えられていた。
寺の入り口では、お土産用の扇子を1000ウォンで売っていた。ソウルで買うと安くても5000ウォンはするものがである。バス停の前には、一休みが出来るように水やジュース、アルコールが売られていた。その中にお土産用の塩辛を売っている店もあった。いろいろなものがあったが、中にイシモチの子供の塩水付けも売っていた。
バスは宮南池(クンナムジ)へ行く。以前行ったときは水田の中にぽつんとある池であったが、まわりは一面蓮畑と沼になり、ノルティギ(ブランコ)などが置かれ子供が楽しんでいた。その上池には帆船が一隻浮かび、遠くには階白(ケベク)将軍の逸話を描いた大石碑が置かれている。改めて見に行く必要をかんじるほど、整備されていた。
2日目の朝。8時にバスは法聖浦(ポプソンホ)へ向かった。東晋から来たマーラナンダが上陸したという伝説のあるところだ。港まで15分ほど。港そばの店はどこも紐につるされたイシモチを売っていた。全国からこれを買いに人が集まるそうだ。もともとこの海の先でイシモチが大量にとれたことに由来するが、仮に輸入されても、ここで霊光クルビ(いしもち)の名前で売り出されるとのことである???
次に藤原惺窩 (1561-1619)の思想に影響を与えた姜(カンハン)を祭った書堂(ソダン)を見に行く。風水的に優れたところにあるのだが、それ以上に感心したのは米のほし方であった。ちょうど稲刈りシーズンで、田には手で稲を刈る者や、機械で刈る者がいたのだが、どこにもハサで干している様子が見えなかったのだ。結局、道ばたにシートをおき、そこにモミを広げて天日干ししていたのだ。ときどき混ぜるのか、京都の竜安寺の石庭のように米の表面には筋が付いていた。国中のそこここにその様な風景が広がっていた。
う。寺は山を背にしているが、その前に広がっていく谷は、広がりを感じさせるすがすがしい景色だった。
めに鶏糞をまいたらしいのだ。そんなこともありつつ、西海に沈む夕日を眺め(この日東京は天気はよくなかった)、さらに南下する。
現在は、水運は衰えていて町の勢いはかつてほどではない。戦災に遭っていないため、江戸時代からの蔵等が多く残っている。中心を流れている川沿いには、船下りが出来るようになり、そのまわりに伊能忠敬の家や蔵、昔の旅館などが整備されていた。戦前の文化住宅も綺麗に整備されていて、瀟洒な感じが出ていた。
その山車を引っ張るとともに、後ろから押すのだが、押す人は後ろを向いて背中で山車を押していた。さらにその後ろに踊りが続く。訪れた日は最終日で、山車が自由にコースを選んで回る日になっていた。そのためあちらこちらで山車どうしが鉢合わせをしたり、みていて飽きなかった。
夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。
粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。
入り口を入ると、あちらこちらに浄水場だった施設が見える。沈殿池のあとは水生植物園や植物園になっている。そのようなところに睡蓮などの水生植物をうえた水生植物園、ガマや芹などが植わる水質浄化園、白樺などがうえられた生態の森等が作られている。なんでも、浄水場の建築構造物を再活用した国内最初の環境再生生態公園、すなわち「水公園」なのだそうだ。
館山の駅から館山城あとへ向かう。バスで五分ほど。途中、赤とんぼが乱舞している中を歩いていく。そこに市立博物館がある。常設展では館山の歴史を紹介していたが、三浦半島と近いため意外と共通点が多い。中世の墓である「やぐら」もこの地域だけあるとのことだ。
山の上に天守閣が復元されているが、ここも砲台にするために削平されていた。天守閣は博物館の分館で、里見八犬伝の資料を展示していた。館山城は里見氏の本拠地で、城内には南総里見八犬伝の元となったと伝えられる八賢士の墓もある。天守台の高さは海抜70b。波が静かなことから鏡浦と言われる館山湾、旧軍の軍事施設などが一望できた。
勝浦の町はそれほど大きくはない。3方が山に囲まれているからだ。駅前から5分も歩くと勝浦漁港へ行く。駅から漁港へ行く道が緩やかにカーブを描いていて、道の右手から海があらわれる。太陽の位置などから、感覚的に外房の海岸と逆の方向から海があらわれるのだ。一瞬内房にいるような気分になる。地図を見てみると、勝浦は湾になっていて、太平洋は岬の向こう側になる。町の発展している方向は太平洋と半島の反対側なのである。つまり、ミニ房総半島状態なので、感覚は正しいことになる。
公園は江戸時代の勝浦城のあったところで、徳川光圀のお祖母さんの生まれたところだ。城跡の片側には勝浦湾が広がり、湾の入り口の岩礁に立つ鳥居の脇を船が頻繁に通り過ぎていく。南には房総半島から伊豆大島まで見える。北側は太平洋への断崖絶壁に灯台が建ち、多くの船が列をなして勝浦に向かってくる。足下は海水浴やダイビングの服装をした人が…。改めて水平線が丸いことを感じた。
とから付けられた名前である。安政の開国の時には新潟港の補助港となり税関もあった。二つの砂州の背後には加茂湖という湖がある。それまで淡水湖だったが、明治時代に海への水路を広げたことで汽水湖となった。今は牡蠣の養殖で知られる。
で、遠目に檻の中でトキの舞っている様子を見ることが出来た。この森の出口には白山神社がある。
佐渡にも渡来人の関係を示す物が多いようだ。近くの畑野は秦氏との関係が指摘され、そこの賀茂神社も新羅との関係を指摘するものがある。先ほどの長安寺も渡来人との関係があるのではないかとも言われている。そんなところを見ながら、両津港にもどった。港の脇には五泉から村松まで走っていた蒲原鉄道のものとおもわれる廃車体がおかれていた。(佐渡に鉄道はない)。
1週間の志賀高原、御代田での仕事も終わりバスで帰路についた。長野自動車道である。長野県側は比較的平坦な高原状の所を走るのに、群馬県側に入ったとたんに複雑怪奇な形をした山沿いの景色に変わる。妙義山である。
るが、もともとは700万年から550万年前の火山活動で出来た榛名山くらいの山が元となっているとのことだ。その山が激しい地殻変動で陥没し、のちの風化、浸食の影響で今のような形になったとのことだ。この奇岩が多いことで大正12年に名勝に指定されている。
覚える景色をしている。行きは靄がかかっていてその様な山容を見ることが出来なかったが、帰りははっきり見ることが出来た。
懐古園をあとにして、北国街道を歩く。善光寺を通って行くことから、善光寺街道とも呼ばれた。加賀百万石の参勤交代のルートであり、佐渡の金山の金を江戸に運ぶ道でもあった。もともとここは小諸城の城下町、宿場町であった。今でも大手門が残されているし(現在修復工事中)、本陣の立派な建物が残されている。
さらに歩くと、柳茂(柳田茂十郎)商店があらわれる。明治の建物で、屋根の上に望楼が乗っている事が特徴的である。小諸の大商人が造った建物である。この望楼と玄関先の看板建築があわないのだが、道路の拡張の際に道路側が切り取られたためにこのような形になったとのこと。
柳茂商店の向かい側には山崎長兵衛商店がある。こちらは明治初期の建物である。かんざしや櫛、降水などを売る店で助成にとても人気があったという。
そばの嶋田屋も古い。江戸時代の御用商人だった呉服商が、明治のデフレで没落し、その家を買い取ったという物である。伝統的な小諸の豪商の屋敷が前を残していると言われる。今はそこで縄や農機具、下駄などを扱っている。
小諸といえば、「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/」で始まる、島崎藤村の「千曲川旅情」の歌が有名だ。もちろん懐古園の中に詩碑が建てられていて、観光スポットになっている。多くの人がこの句碑の前に来ては写真をとっている。
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翌日小諸へ行く。
小諸駅から懐古園へ行く。駅のすぐそばで歩いて5分かからない。ここは江戸時代の小諸城の跡であるが、他の城と異なり、周囲より低いところにある「穴城」である。城下町の方が高いところにあるのだ。入り口である三の門も線路よりかなり低いところにある。.jpg)
記念館などがある。これらを眺めたうえで駅前に戻った。園内には動物園もあるのだが、そちらへは足を伸ばさなかった。駅の近くには、15年ほど前に小諸へ行ったときに、なぜか印象に残った建物が今でも残っていたので、写真に納めた。 .jpg)
当時の道を思い出して行ってみた。少し広がっているみたいだが、砂防ダムやロープーウェー、見覚えのある景色が広がっていた。ここでこんなことをして…などと思い出しながら歩いていったら、目の前に三角屋根の当時のままのホテルがあらわれた。
いていたためにトンネルのように見えたのだ。かなり深い谷で、一面カエデが植わっていた。.jpg)
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