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2012年12月7日
天草・南島原紀行(3)

12月4日午後。
本渡から東向寺へ向かう。曹洞宗の寺で鈴木重成による創建。
キリシタンの学校だったコレジオがあったとされる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会やキリシタン関係の施設があったところは、ことごとく寺院が建てられたという。
仏教によるキリスト教の否定という意味がある。
それはそれとして、山門の裏て稲荷を祀っているのも面白い。
 
そこから2.5キロ、鈴木神社に行く。三河から来た鈴木重成らが祀られている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本殿の真裏には鈴木重成の遺髪を祀る遺髪塚があった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
社殿の脇には演劇などを奉納できる舞台が作られているが、
座石部分が円形に整えられていて、シアタースタイルで作られていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木神社から富岡城に向かう。非常に狭い、つづら折れの山道を急勾配で上り下りする。
1607年に唐津藩主寺沢広高によって築かれたが、島原の乱の時にキリシタン勢の
攻撃によって、陥とされそうになった所でもある(ここの戦いの後、拠点を原城に移した)。
 
本丸跡からは陸繋島の地形がよく分かる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
富岡城跡に続いて、富岡キリシンタン供養碑を見る。
島原の乱の死者の3分の1の首(3333体と言われる)をここに埋めて、
塔としたもので、鈴木重成の手によって供養塔が作られた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一番上の文字はよく分かっていないが、種字説によれば、これを種字に使えば、
どんな罪人でも極楽浄土へ行けるという意味で、罪人であったキリシタンでも
許されるという意味になるとする。
 
たしかに罪人扱いなのだろう。キリシタンを「鬼利志丹」と書いてある。
 
続いて大江天主堂へ行く。ロマネスク様式のコンクリート造り。
潜在キリシタンが復活キリシタンになった最初の地であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに崎津天主堂へ行く。海岸沿いで、とてもきれいな風景。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会は、ゴチック様式である。元々庄屋の家を買い取って教会にしたもので、
聖壇の場所は、かつて「踏み絵」を行っている場所であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、コレジオの跡へ。崎津の入り江の一番奥で、天草にキリスト教を布教に来た、
アルメイダの上陸地点である。本渡と並んで、南蛮船が到来した港がここである。
この湾の奥、崎津川を上ったところにコレジオ(天草学林)跡と推定される場所がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに天草コレジヨ館を見る。この当時持ち込まれた西洋楽器や、
グーテンベルクの印刷機の復元がある。
天草本といわれる本をここで印刷したと言われる。
 
この印刷機は、バテレン追放令後島原に移され、最終的にマカオに運び出されたそうだ。
 
夕食は伊勢エビ、ヒオウギ貝、アジ、イカなどの刺身、ウツボの刺身(免許が必要だそう)、
車エビの塩焼き(天草が養殖の始まりとか。)ワタリガニ、カワハギの煮付けなど、魚がメイン。
豚のしゃぶしゃぶも。
 
 
 

Posted by hajimet at 21:05 | Comments (0)

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