12月4日午前 殉教公園に行く。本来は天草氏の本渡城跡で、 1589年に加藤清正、小西行長連合軍によっている陥された。
本丸跡にはキリシタン墓地がある。島原の乱前後のものか。

墓石には、十字架を彫っているものがみられる。一方で、名前を彫ったものは見当たらない。
.jpg)
下に降りていくと、天草四郎を供養するために手まりを作ったという、 手まり塚やメモリアルの広場。

出丸跡の島原の乱の供養塚である千人塚がある。

そして、天草キリシタン館を見学。 http://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kirishitan/ 当時の切支丹関係の資料が多く集められている。 このときは、陣中旗の本物が展示されていた。 この周囲に植わっている樹木はいくつも寄生植物をつけている。 どれもハギが植わっているのも面白い。
キリシタン館から明徳寺に向かう。島原の乱後、この地をキリスト教から仏教に変えるため、 代官の鈴木重成によって創建された。山門は1714年のもの。

ここの柱聯、右側が注目される。除耶蘇之邪宗と書かれているのだ。

ただし、色があせてきて、修繕が望まれる。境内の前はイチョウが黄色く色づいていた。

司馬遼太郎は『街道を行く』の中で、階段に十字架が刻まれていると書いてあるが、 残念ながら、確認出来なかった。 司馬遼太郎は、十字架を踏みつけて仏の寺へ行くということだと書いていた。
|