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2006年10月7日
中国東北紀行その6(最終)
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。

中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。

ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。

風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。

駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。

東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。

Posted by hajimet at 09:41 | Comments (0)

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