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2006年10月3日
中国東北紀行その2

2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。

バスが出る前に駅前の地下街へ散策に出かける。土産物売り場や食堂、長距離電話がかけられる電話局などがあり、そのすきまを埋めるように本屋の棚が続く。地下街入り口ではドラム缶を改造した焼き芋売りが焼き芋を売っていた。バスで市内見物に出発。長春は文化の街、緑の街など4つの特徴を持っている。映画も盛んで、満州時代から撮影されていたという。ため息が出るほど満州時代のものが残る。泊まったところがヤマトホテルであったのもそうだが、その前には旧満鉄新京支店のビルがある。市内に進むと、旧デパート後や住宅が延々と続く。その中に新しいマンションも建つ。今長春は空前のマンションブームだそうだ。

中でも驚いたのは、旧関東軍司令部である。現在は共産党吉林省委員会が使っているが、その建物が日本の天守閣そのものなのである。日本の中で天守閣を見ても、当然不思議ではないのだが、異国の地でこの建物をみると非常に違和感がある。そのうえに日本と戦った共産党の委員会が入っているというと、象徴的なものが別の象徴的なものになったと言うことで、さらに違和感を感じるのだ。韓国では早いうちから立て替えられたものも多いのだが、おそらく感覚が違うのだろう。民族の興亡の歴史もあり、一か所をつねに同じ民族が支配したというわけでないこともあるのかも知れない。もちろん、当時の歴史の中での意図は否定しない。

さらに満州国皇帝溥儀がいた宮廷跡へ行く。溥儀が使った馬場後から始まり、当時の設備がそのまま公開されている。第1婦人の部屋もあったが、アヘン中毒になってしまい、中心の建物は第3婦人が主に使っていた。その寝室や、和室、ビリヤード部屋、会議室などが残されている。溥儀自身は盗聴を恐れて一度も使わなかったそうだ。中には先祖を祭った部屋もあり、清国を立てた最初の王、ヌルハチの位牌がおかれていた。その隣にはヌルハチを助けたとされる人の人形も飾られていた。一回に降りると、溥儀が使用した自動車がある。これは今でも走れるそうだ。

はなれの建物は実際に溥儀が使った。入り口には江沢民の筆で「918(満州事変)忽不忘」という銘板が入っている。こちらは執務室や日満議定書調印の部屋などがあり、宴会場も残されている。この裏に楽団が演奏したとされる部屋があるが、コントラバス、スーザホーン、トロンボーン、木管楽器、ワグナーテューバ、小太鼓がおかれていた。一体、何を演奏したのだろう。さらに溥儀の使ったトイレや、理髪室もそのまま残されている。溥儀はここでホルモン治療などを受けていたとのことだ。また溥儀の写真や第5婦人までの写真が飾られていて、その生涯が分かるようになっている。どの人との間にも溥儀の子供は生まれなかったとのことだが、婦人が再婚などをした先では子供が生まれている。

お茶の店で、お茶の入れ方を見てもらいお土産を買う。新茶のウーロン茶。茶色でなく緑の葉であった。そして「のした山査子」。この袋の日本語がすごい。「正しじべね滋味のすだぜへ体現友人享受すへ」…解読に挑戦してみて一部は原文の想像がついたが、徒労に終わった。昼食に出たビールは少し薄めの味だった。おそらく中国人から見るとこのように見えるのだろう。韓国でも「る」「ろ」などは混乱しているし、「スラックス」が「ズうつクス」などとなっていることを見たことがある。手書きで少し崩してあったらそう見えなくはないだろう。いずれにせよ違った言語の文字を見ても、その言語を使っている人の文字を見る感覚とまったく異なるという証明のようなものだ。

昼食後バスで集安へ向かう。道は比較的良い。途中の通化まで400Km、4時間ほどであるが、前半は見渡す限りのトウモロコシ畑、または水田の平原だった。土地は肥えているようには見えない。こんなところでも、日本から持っていった携帯のアンテナが普通に立っている。その間に農家が見える。切り妻の家が漢族の家、入母屋の家が朝鮮族の家だ。朝鮮族は稲作が得意と言うことだ。そういえば、一面稲を刈っているところと、稲穂の上の部分をいくつか束ねて稲穂だけを刈り取っているところがある。後者は韓国でも見る刈り方だ。
 
しかし、このような平原がずっと奥まで続いているわけで、そのような土地で突然終戦を迎え、ソ連軍の侵攻をうけたら、途方に暮れたというよりも「取り残された」という感覚を持つのではないか。そしてどうやって帰国するかと考えても答えは出なかったかもしれない。少なくとも、王道楽土、五族協和を夢見て渡った人たちなのだ。おそらく、朝鮮で終戦を迎えた人とはかなり違った意識を持ったのではないかと、両国を見ている経験から想像した。そんなことを想っているうち、長安を出発して1時間半ほどで伊通を通化する。地図で伊通火山帯という表記が見て、何だろうと想っていたが、たしかに溶岩地形と単発の小火山がほぼ同じ間隔でいくつか並んでいる。

後半2時間は山の中に入り徐々に高度を上げる。すでに紅葉が始まっている。この辺から地形が朝鮮半島と共通の地形になるのだ。犯罪事件が起きたということで検問を受けて、通化の街に入った。ここで夕食を食べた。通化のビールは少し苦みのあるビールで、滞在中飲んだものの中では一番口にあった。

通化はアイスワインが名産だという。満州時代から作っているそうだが、自然の状態で凍った葡萄をつけ込んでいると言うことだ。かなり甘く、ファンタグレープの炭酸を抜いてアルコールを加えたような味であった。男性陣には不評な一方、女性陣には好評であった。

さらに集安まで行く。60キロほどだが、道が余り良くないので、バスで2時間かかる。片道一車線の狭いカーブの多い山道であるが、そこをバスは平気で左側を走り、前方の車を抜いていく。ちなみに中国は右側通行である。もう目の前に対向車が迫っているのにである。怖い。

集安は鴨緑江沿いの街で、目の前は北朝鮮である。しかし、泊まった集安賓館では北朝鮮ではなく、韓国のテレビが見える。北朝鮮の放送が入るかと思ってラジオのスイッチを入れたが、AM,FMとも北朝鮮の地元局は入らない。海州の局は聞こえているから、近辺100キロ前後の場所に放送局はないと言うことだろう。その代わり韓国の放送や日本の放送はよく聞こえていた。よく聴いている韓国KBSの日本語放送もキレイに入っていて、何だか不思議な感覚に襲われた。ホテルの入り口には韓国語表記もあるが、韓国語は通じなかった。英語も日本語も、夜12時就寝。

Posted by hajimet at 22:08 | Comments (0)

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