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2006年10月4日
中国東北紀行 その3

9月28日。5時半起床。グループの起床時間までまだ1時間あるので、身繕いをした後市内散策へ出かける。街には新聞を配る人、体操をするグループ、太極拳をするグループなど多くの人々が出ている。この町も自転車は少ないが、オートバイを改造したタクシーを結構目にする。その間をロバが荷車を引いて優雅に進んでいった。中心街の道を一歩小道に入ると、そこは朝鮮族の街で、「宝来朝族焼烤(=焼肉)」等という看板がハングルと一緒に書かれている。後で気がついたが、ここから国内城、中朝国境までは数百mの距離だった。行っておけばよかった。

食事は相変わらず脂っこいが、饅頭類やお粥はとても美味しかった。さすが中国東北地方は小麦などの産地だ。一方コーヒーは人によっては、戦前の「代用コーヒー」に似ていると言うくらい濃く、その上インスタントコーヒーを煮詰めたのではないかというような粉っぽさであった。ホテルの売店でガイドブックや地図の他に北朝鮮の紙幣も入手する。この後この町の多くの売店で共和国紙幣を売っていることを知る。

まずバスで集安博物館へ行く。乗車時間30秒。博物館の題字は郭抹若のもの。中は高句麗関係のものを展示していて、中央に好太王碑拓本、左右に遺物が展示される。ただし、いつの時代の物かははっきり書かれていない、実は高句麗の歴史については韓国と中国でどちらの歴史と見るか、政治問題となっている。どちらの歴史でもあるとも言えるし、独自の高句麗史や北アジア史というアプローチもできると思うが、ともかく両国で争いとなっている。この博物館では高句麗の説明は、「三国志」などの中国の歴史書をひいていて、韓国側の「三国史記」「三国遺事」は引かないことでさりげなくその立場を表している。

博物館見学後丸都山城へ行く。途中の集落は日本的な要素を持った家が目に入った。この町にも日本人はいたのだろう。丸都山城は非常時の山城で平地とは5-6mの崖で隔てられている。比較的広い平らな地の後ろは急峻な山に3方を囲まれる。ここには門、望楼が残っている。ガイドから王宮跡もあるが、少し離れているのでやめましょうと言われるが、道があるようなので行ってみた。回りは葡萄畑で、途中の作業小屋ではひまわりの花を干して種を取っていた。その先に白い礎石が点々とおかれていて、高句麗時代と思われる赤瓦がときおり目にはいる。入り口には川が流れているが、そこで女性が一人選択をしていた。

城門の下は高句麗の古墳群である。高句麗古墳の初期のものは積石塚で、4世紀くらいから土を盛った石室墳にかわる。そして食後に見に行くような壁画が描かれるようになる。ここのものは洞溝古墳群と言われ、前期の古墳が累々とならぶ。貴族の古墳と言われ、山城が使われなくなってから造られようになったと説明される。このような古墳が集安には1万基以上あるとのことだ。昔からの積石のままのものと、近年修復したように見えるものがある。古墳の上にはススキが穂を出し、光に輝き、足下の草村にはイヌタデが赤い花を咲かしていた。近くには土砂崩れのあとが方々に見える。今年の夏に大量に雨が降ったためという。この雨は、日本付近の梅雨前線が北上して、この辺が雨期に入ったためのものだ。

そこから山城にたいする平城の国内城を見る。城壁が残っている。足下には「緑草青青、足下留情」という標語が書かれた石盤がある。これを見てから、鴨緑江まで移動。比較的流れは速いが、100m程の向こうは北朝鮮満浦市である。中国側は川それ自体は中国のものと主張しているため、対岸間近まで行くことが出来る(時間の都合で行かず)。中国側の整備された護岸に対して朝鮮側は自然護岸である。その朝鮮側の川中島にはトウモロコシが植わっていたが、本土側は農業がうまくいっているようには見えない。山も山火事があったと言うが、それだけでなく頂上まで開墾した形跡が見えるのに、作物らしきものは何も無く、荒れはてている。麓の集落には人の気配がほとんど感じられない。収穫期のはずなのに。車も一台通り過ぎて行っただけだ。近くには銅の精錬工場があり、足尾銅山のように、その周辺の木は枯れていたがそれも小規模で、精錬所からもほとんど煙が出ていなかった。集安も豊かな集落とはいえないが、それでも青々とした木々が茂り、作物も実り、人が多く行き交っている。まったく別世界が広がっているのだが、朝鮮側からは中国の様子をどのように見ているのだろうか。

昼は朝鮮族の店で料理を食べる。辛味を控えてもらったようだが、漢族の料理に比べて脂っ気は少ない。それでも大分漢化しているようで、トラジのあえ物に、香草が使われたりもした。スンデは朝鮮風(×韓国風)に餅米が詰められたものだが、醤油の味が違う(ただし、朝鮮北部の味かも知れない)。餅菓子はでたが、キムチはなかった。また、中華料理と同じで机の真ん中には回転台があって、韓国の料理店の雰囲気とはかなり異なる。
 
店には朝鮮語の分かる人がほとんどいない。唯一人青年がいたが、中国語の方が得意のようだった。発音「r」が中国的な音に代わっていたし、話の最後に「了」がつく場面もあった。また、朝鮮語はごく親しい関係でしか使わないのであろう。訪問者の多くが60歳以上であったにもかかわらず、一切パンマルで話していた。店の一階には健康酒が。中を見たら…イモリ、タガメ、クコなどが一緒に…。店の前は朝鮮人参を売る商人が集まっていた。中国語で語りかけてきたり、韓国語でアンニョンハシムニカと言ってきたりだ。

五かい(灰かんむり+皿)墳5号墳で壁画を見た。以前はビデオなどでしか見られなかった、直接は入れるようになったのだ。高松塚と違い直接石室に描いたからかもしれないが、いずれにしても本物はすばらしい。周囲の古墳(4号墳、舞踊塚、角觝塚など)にも壁画があるが、いずれも非公開である。この付近の店は朝鮮族の土産物屋が多く、いずれも韓国語が通じた。そして、好太王(広開土王)碑へ。現在は覆堂がつくられ碑文は直接見られない…はずが、中に入れた。碑文は6センチ角の大きな文字で、読めなくなったものも多い。しかし「百残新羅旧之属民」の文字は目の高さより少し低いところにあってはっきりと読み取ることが出来た。倭が戦争に関係した部分は上の方になるので残念がら見えなかった。

近くの大王陵(広開土王陵と言われる)に行き、屋根型の石室をみたのち、将軍塚へ移る。石をピラミッド型に積み上げ、崩壊防止(といわれる)のために大きな石を各面に3つづつ立てかけてあるものだ。この陵は長寿王のものといわれる。長寿王は北朝鮮の平壌に都を移し、百済を一度滅ぼした王として知られる。90過ぎまで生きたとされ、それにあやかり春に漢族が長寿を祈りこの陵にお参りに来る習慣があるとのことである。ここも墓室に入れる。大王陵と違い一枚板の天井だ。屍床台にはなぜか札や硬貨がおかれていた。ほとんどが中国の人民元だが、なかには韓国の1000ウォン札もあった。

紅葉の中、通化にもどる。途中日本時代のトーチカを見る。集安は北朝鮮へ渡る鉄道のあるところだ。中朝国境で鉄道で渡れる場所は3か所しかない。そのため鉄道の要所として警備されていたのだ。夕食は通化の北京ダックの「店」。いっこうに出てこないなと思ったら、店であってそのものは出ないとのご宣託。しかし後になって出てきました。ただし皮だけでなく肉付き。皮を巻くものはかなり油こく、食べた後は手がテカテカ光った。味は絶品。
 
夜、超市(スーパーマーケット)に見学へ行く。酒類はワインか、焼酎の類がほとんどで、紹興酒はない。近くの店でスケトーダラの干物を焼いてもらった。韓国のものほど、カチンカチンにはなっていない。しかし、焼き方を見て驚いた。焼いている最中に上から油をかけているのだ。やはり油がベースになる国なのだ。

Posted by hajimet at 20:14 | Comments (0)

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