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2005年5月31日
大阪近つ飛鳥風土記の丘


5月28日土曜日、大阪へ行ってきた。

近鉄南大阪線貴志駅からバスで20分。近つ飛鳥風土記の丘に着く。途中PLのタワーや大阪学芸大の脇を通り過ぎる。
 
風土記の丘一帯は一須賀古墳群といって、6世紀後半、古墳時代の末期の古墳が大量にあるところだ。全部で102基のうち、40基が公開されている。
 
ともかく路沿いに石室が累々とある。奈良の石舞台山古墳とよく似ていて、天上石に大きな石が使われている者が多い。古墳の中には封土が失われて石室だけのもの、天上が落ちてしまったものもあるが、羨道と石室がよく残されている。
 
石室に石棺をおいたようだが、一人だけを埋葬したのではなく、あとからどんどん死亡者を埋葬した。そのために前に埋葬された人の状況をみることになり、それが「伊弉諾尊」の黄泉の国の話の原形になったのではないかと、近つ飛鳥博物館では紹介していた。
 
副葬品からは渡来人に関係したと言われるものが多く出ている。
 
展望台からは古市方面の古墳群や、聖徳太子や推古天皇の古墳があって、王家の谷とも言われる磯長谷が一望できる。磯永谷 の反対側も河内飛鳥と呼ばれるところで、渡来人関係の遺跡が多い。

多くの古墳の中でD-4号墳(写真)は規模も大きく、中の石室も大きい。中にはいるとひんやりしている。多くのカマドウマをここで見ることが出来た…。
 
展望台からJ支群へ行く途中に平石城あととP支群へ行く路があった。里山風の路を歩く。シシガシラ、ウラジロがしげり、アザミの花が咲き、ウグイスがちょっとリズムの偏った三連符を奏で、足下ではカナヘビやニホントカゲがちょろちょろ(どころではない)という中、林の中から人声が聞こえてきた。そこをのぞき込むとゴルフ場だった。風土記の丘がゴルフ場を取り囲むようにあるのだ。P支群までいったが、藪の中で墳丘を見ることは出来なかった。
 
ここから谷を挟んだ反対側は、生駒山地を越えて奈良県である。

近つ飛鳥博物館へ行く。ここも弥生から古墳時代からのものを多く展示している。古墳の成り立ちから奈良時代の墓制の変化まで一目で見られるところに特徴があった。ただ、古墳の多さに圧倒されてしまい、感動が減ってしまった。最初にこちらから見るべきであった。

Posted by hajimet at 20:31 | Comments (0)

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