(扶蘇山城−クドゥレナル−定林寺−陵山里古墳群−昼食−渓流山甲寺−東鶴寺) 朝、とても深い霧の中を扶蘇山を登りはじめる。 百済の王宮の裏手にあたり、山城になっている山である。高さは100メートルほど。だらだらした坂を上り、戦前、扶余神宮を作ろうとしていたところにある、三忠祠を左に見ながら進む。ところどころ土塁や石垣のあとが見られる。百済時代、日の出を楽しんだという迎日楼まで来るが、やはり霧が深く、遠くは見えない。
さらに西腹寺、軍倉あと、送月楼跡を見ながら登る。軍倉あとは、百済の軍米が置かれていたところで、今でも炭化した米が出てくる。15分も歩いたであろうか。いよいよ落花岩だ。三国遺事では堕死岩と書かれているのだが、百済が亡びるときにここから宮女が落下して死亡したという。 伝説では300人近い人数と言うことになっている。その宮女達のスカートが風邪で花びらつぼみのように広がりながら落ちていく様子をみて落花岩(ナックヮアム)と名付けたという。 普段白馬江の見晴らしもよいし、足下の水面までのきりたった崖煮立つと、吸い込まれるように川面が見えるところだが、何せ川霧がすごく、下は真っ白で何も見えない。うっかり足を滑らせたら、とんでもないことになるような恐怖を感じた。まるで地獄のそこに落ちていくように感ずる。
しばらく、そこで百済に思いをはせた後、白馬江下りへコラン寺まで降りていく。寺の後ろに泉があり、それを飲むと若返るという。この辺まで来ると、陽も射してきて川霧が晴はじめた。徐々に川の対岸が見え始め、川の全貌が見える。いつもよりも水が満々とたたえられた白馬江が見え始めた。 船に乗る。先ほどの落花岩を下から見ながら船は進む。遠くに飛鳥三山ならぬ扶余三山の一つ、浮山(プサン)を見ながら船は進む。慶州は奈良に似ているが、扶余は飛鳥に似ている。残っているものが少なくて「心の眼」で見るところまでだ。日本語で案内が流れ続けるが、ちょっとうるさい。30分の船旅と言うが、10分でクドゥレナルへ到着した。
ここから定林寺(チョンリムサ)へ移動する。多くの子供や観光客が来ている。百済時代の石塔、高麗時代の石仏が残っている寺だ。昼食まで少しあるので、急遽陵山里古墳群まで行く。百済王家の古墳で装飾古墳が残されている。そばに扶余を囲む羅城があり、都邑地を出たことが分かる。装飾古墳の本物は見ることが出来ず、模造で見ることが出来る。 あたりは秋の始まりを思わせる景色で、僅かにハゼなどが赤くなり、ススキの穂が銀色に輝いていた。古墳を建学している最中に、食堂から電話がかかってきた。「食事、もう出来ているんですけど…」。お昼は石焼きピビンバップ。人数分石焼きの中に入って、配膳されているということだ。
店に着き、席に着いたときは石は冷え、お焦げは固くなり、上に乗っていた生卵は半半熟に近い状態になっていた。食後バスに乗り鶏竜山(ケリョンサン)へ行く。竜の上に鶏冠が乗ったような形をしているので、このような名前になったという。歴史的にも重要な山で、古代以来韓国史の中では何回も登場している。まずは甲寺。「春麻谷、秋甲寺」というほどよく知られた寺で、新羅以来の様々な遺物がある。 しかし、それよりも何よりも人が多い。入り口は門前市をなしていて、どの店も「KBS」で紹介されたと出ている。本当に一見ずつ紹介されたのであろうか。寺まで見て、新羅時代の鉄製幢竿支柱を見て、東鶴寺へ。
ここはもっと人がすごかった。渋谷センター街も真っ青な混み方である。門前市ももっとすごい。寺そのものは朝鮮戦争で焼けてしまい、建物そのものは新しい。古いものといえば、高麗時代の石塔があるくらいだが、途中の渓谷はきれいであった。 山は上が岩山、下は紅葉が始まりはじめて色が変わりはじめた青。水辺では家族がビニールシートを広げて宴会をしている。ただし、寺まで遠い。ゆるやかな上り坂を15分以上かけて登っていかなければならない。さすが、韓国の山寺である。 バスはソウルへ向かう。専用レーンが出来ているので、渋滞の斜線を尻目にソウルへ入った。ホテルはソウル観光ホテル。今までの中で一番よいホテルであった。竹筒御飯を食べて就寝。
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