« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2005年10月19日
韓の国「仏が来た道」紀行(2)の2

長くなったので第2弾。
 
バスは論山(ノンサン)のインターで降りる。論山を見るのは後回しにして、益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)へ向かう。論山は軍隊の訓練所があるところで、その近くの横断幕には「愛国の精神で生まれ変わろう」「生まれ変わった気持ちで、お母さんにあいさつを」というようなことが書かれていた。ここで半年訓練を受けたのち、1年半持ち場に配属されるそうである。
 
弥勒寺は百済最大の寺で、石塔がある。地盤が軟弱なため東西の石塔とも崩壊した。西塔はかなり崩壊していながらも、コンクリートで補強してかろうじて残っていたのだが、近年解体補修工事を始めていた。西塔の周囲には飛鳥の欽明天皇陵下にある猿石にそっくりな石があるが、石塔の屋根をひっくり返した者の上に置かれたことがわかり、百済のものかは怪しくなっている。東塔は最近復元されたものだ。博物館にいる日本人女性が通訳に回る。
 
ここから論山へ戻る。あたりは柿の実がたわわに実っていた。灌蜀寺(クヮンチョクサ)は韓国で最大の石仏のあるところである。バズは道に迷いなら寺へ向かう。車内ではキムチの付け方をガイドさんが話していた。
 
参道はここでも稲の乾し場に使われていて、その周囲にマッコルリや焼き栗、蚕のさなぎを売る店があった。子供の時にこれを醤油味で食べたと懐かしそうにつまんでいる人もいた。
 
寺への階段を登る。山寺が多いが、ここもそうだ。寺に般若心経が流されるが、なぜかトイレにも流れている。上がってすぐ左手に消防車が止まっていた。自警団のようなものが置いているのようだが、そこに書かれていた文字は「甘露水」。たしかにそうなのだが、きっと、仏のご加護も多いことであろう。弥勒殿の中には仏像がなく、ガラス越しに石塔と弥勒仏が見られる。ただし、弥勒仏と言うが、観音であるといわれる。
 
石仏は頭の上に細長い帽子をかぶり、その上に早稲田大学の角冒のようなものを二段に重ねてかぶっている。拝礼するためには靴をぬいで、仏像の前に行かなければならない。そこにはろうそくと、米が備えられていた。
 
仏像から出る光が中国まで届いて、僧侶がわざわざ参拝に来たとか、なにかと伝説の多い仏像である。その右手に持っている紫の蓮は、弥勒殿脇の水槽に綺麗に開いていた。
 
寺の入り口では、お土産用の扇子を1000ウォンで売っていた。ソウルで買うと安くても5000ウォンはするものがである。バス停の前には、一休みが出来るように水やジュース、アルコールが売られていた。その中にお土産用の塩辛を売っている店もあった。いろいろなものがあったが、中にイシモチの子供の塩水付けも売っていた。
 
バスは扶余へ向かう。30分ほどの距離をうとうとしながら一般国道を進む。扶余の入り口、陵山里古墳群、香炉、羅城の話をしながら、市内へ。こじんまりとした町で、歩いて回ることも出来るところだ。
 
バスは宮南池(クンナムジ)へ行く。以前行ったときは水田の中にぽつんとある池であったが、まわりは一面蓮畑と沼になり、ノルティギ(ブランコ)などが置かれ子供が楽しんでいた。その上池には帆船が一隻浮かび、遠くには階白(ケベク)将軍の逸話を描いた大石碑が置かれている。改めて見に行く必要をかんじるほど、整備されていた。
 
夕食は錦江を渡ったところでウナギを食べた。ぶつ切りを焼いたもので、一人前2匹。これをサンチュなどに包んで食べる。かなり油っこい。宿泊は扶余三井ユースホステル。一人部屋は電源コンセント以外なにもない。テレビも電話もなく、風呂もトイレにシャワーだけついているものだった。オンドルも効かない。場所によってはコンセントにガムがつまっている。どうも学生が泊まる部屋が割り当てられたようなのだ。
 
他の部屋は設備がそろっていて、オンドルも効いていたので、フロントに文句を言いに行ったら、一言「ガイドさんから説明はなかったのですか?変更できる部屋はありません…」。けんもほろろであった。広々としているから、まあ、いいっか…!。12時過ぎに就寝。
 
でも情報がないと寂しいから、こういう時用に日本から持ってきた短波ラジオでNHKの国際放送を聴く。ラジオ第1放送と同時放送だから、重宝だ。しかも東京の放送が流れるので、違和感もない。
 

Posted by hajimet at 21:54 | Comments (0)

Comments


Post a comment