瀬戸岡古墳群(東 京都あきる野市)
石室の様子

JR五日市線昭島駅から北に15分ほど歩いたところにある。地面に川原石で石室を作り、それを木の蓋で覆った後、さらに漬物石大の川原石で覆ったもので特 異な形をしている。東京で唯一の積石塚である。台地の上、150メートル四方の中に50近い石室墳が密集していると言われる。その多くは個人の栗畑の中に あり、歴史環境保全地域となっている。

栗畑の斜面下には復元したと思われる積石がある。この周辺にはこの古墳群の石を使っ たと思われる塚なども散在し(本物かも知れない)、往事は相当の規模だったことを思わせる。7世紀の古墳時代末期のものとされ、どの石室もほぼ南北を向い ている。石室から奈良時代の火葬骨もでているが、後から葬りなおしたものと考えられる。

積石塚は高句麗・新羅からの渡来系の文化と考えられていて、その影響の地域に 多く残る。新羅は地面を薄く掘り下げて埋葬施設を作り、その 上に川原石を積み上げてさらに粘土と土で墳丘自体を覆う作 り方を、7世紀前後まで行っていた。一方高句麗は川原石大のも のを積み上げるが、5世紀前後までの習慣である。この形の古墳は長野県に多い。瀬戸岡古墳群は高句麗の特徴がかなり色濃く残っているが、かなり早い時期に日本に来た集団 が、少しずつ葬制を変えながらここまで来たと言うことだろう か。

この周囲に住居跡などの遺跡が出現したのもほぼ同じ時期であることが分かっていえる。また8世紀には「牧」があったこと が分かっていて、ここにいた佐魯牛 養などに小川連の姓を与えたとなっていて、これらのことも、あわせて今後の研究が待たれる。

復元 された積石塚 杭の 下に石の囲いが見える 保全 地区の景色

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