大巌寺四面石塔
大巌寺入り口 四面石塔前掲

千葉県館山市の大巌寺にある。大巌寺は1603年に創建された浄土宗の寺で、開祖は雄誉(おうゆう)上人である。雄誉上人は徳川家康、秀忠、家光と直接関 係を持った上人で、晩年は京都知恩院32世となった。また、霊岸を名乗り、江戸時代初期の江戸霊岸島埋め立ての時に霊岸寺を創設した。

四面石塔は入り口と本堂の中間にある。柔らかい房総の石ではなく、一般の人が 使えない伊豆石に彫られている。四面に南無阿弥陀仏と彫られているが、4面の書体が異なる。南は普通の漢字、 西は梵字、北は中国の篆字、そして東はハングルである。4つの面に阿弥陀の名号を刻むことで、阿弥陀の慈悲が四方=世界を照らすようにということで、当時 日本を取り巻く外国である朝鮮・唐・天竺の文字を刻むことによって単に自分のまわりだけでなく、全世界に慈悲の光が届くことを願っているのだろう。

ハングルと書いたが、今のハングルとはかなり異なる。15世紀にハングルが出 来た目的は、民がたやすく自分の言葉を書けるようにという事とともに、「乱れた音」を糺すという目的があった。つまり中国からは行ってきた漢字音が朝鮮風 にかなり変型したので、それを修正しようという者である。そのため実際に朝鮮には無かった音を文字で表したと言うことにもなった。

しかし、実際に発音され ている音と、文字の音が合わないため、実用にならず、次第にこの書き方は消えていき、実際に自分たちが使っている音を表す役割のみが残った。17世紀には 使われなくなった書き方である。しかし韓国でもハングルの彫られた石碑は少ない。漢字が正統であって、ハングルは庶民や女の使う文字とされていたからで ある。

そのため碑字体が少ない上に、この書法のハングルが刻まれた石碑は (今の所)韓国には存在せず、千葉県の2基だけである。他にハングルが刻まれた江戸時代の碑は、長野 県小谷村に2基あるだけであるが、こちらの文面は日本 語である。

韓国語の漢字音一音節と中国音一音節は対応するが、この時のハングルの最大の 特徴は、子音で終わらない単語には子音がないという記号「○」を文字の下につけたのである。今「○」が子音の位置に来るとngを表すが、このときにはよく 似た別の文字が使われていた(書いたらほとんど区別できない)。この記念碑で「南無阿弥陀仏」の「無、阿、弥、陀」の下に子音がないことを表す「○」がつ いている。

しかし、なぜハングルが彫られたのか。この書き方はほとんど一般化しなかった のにである。詳しいことは分からないが、いくつかの論文などを参考にすると、この背景は次のようだった。

この塔が出来たのは元和10年(1624)年である。碑文から山村茂平の逆襲 供養塔であることが分かる。筆跡は雄誉。雄誉とこの塔の作られた年号でいくつかの糸口が見えるかも知れない。雄誉は徳川家と関係の深い僧侶で、この年は江 戸幕府の大事業の霊岸島を造成し、霊岸時を創建した年である。朝鮮王朝の初期にはハングルと漢字を併記した仏典を多く作っていたが、文禄慶長の役などで朝 鮮から来た仏典を見た可能性も大きい。実際、ここに彫られたハングルは、朝鮮の「阿弥陀経諺解」の復刻版であるとほぼ断定されている。また、浄土宗の芝増上寺には高麗 大蔵経などがある。

1624年はその文禄の役(秀吉の朝鮮侵攻)から33回忌にあたる。また、元 和10年は寛永元年であるが、この年には朝鮮通信使が来ている。このときの通信使の正式名称は「回答兼刷還使」で、文禄慶長の役で捕虜になった者の送還が 主な任務であった。伝説では通信使日光参拝のおりに館山まで来たというが、史実としては確認できない。このようなことと、ハングルを彫ったことに何か関係 があるかも知れない。

和風漢字 ハングル 中国風篆書 梵字

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