富山から金沢に移る。富山のホテルの前は地鉄駅前という路面電車の駅。駅前には「おわら」の笠をモティーフにしたものや、薬売りの像などがある。
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金沢駅は新幹線開業に向けて工事中。正面は完成していて、鼓型の巨大な柱をモティーフにした正面玄関は圧巻だった。京都駅と同じ建築家が設計したとのことだ。
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金沢駅から野田山墓地へ行き、前田家の墓の前で合流。前田一族の墳墓が方墳のような形に整備されている。明治になり神葬に変わったため、江戸時代とは様相が違うそうだ。そのなかに、豪姫(宇喜多秀家夫人)の墓がある。豪姫は朝鮮人金如鉄を育てたことで知られる。 文禄慶長の役で孤児となった如鉄を、宇喜多秀家が漢城から岡山に連れてきて、豪姫に庇護させた。8歳の時に金沢に連れて来て、以後前だけの保護の元成長する。関ヶ原の戦いの後、豪姫も金沢に戻り如鉄を育てた。如鉄は加賀藩の士、脇田直賢となった。写真は前田利家の墓(左)、豪姫の墓(右)
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前田家墓地の近くには『石川県戦没者霊園』がある。西南戦争以来の供養碑(上左)、日露戦争のロシア捕虜の墓(上右)、陸軍軍人の墓(下右)、一般兵の墓(下左)がある。日露戦争のロシア捕虜の墓は、日本が戦時でも「国際法」を遵守している姿勢を見せようとしているときに作られたもの。一等国として認めさせ、条約改正を目指していたときである。旧ソ連大使によって植樹された木が墓を囲む。一般兵の墓の中で、西南戦争の時の墓を見ると、ここが名古屋鎮第に属していたことが分かる。
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霊園のすぐ下に、朝鮮独立の志士、尹奉吉の墓がある。尹奉吉は1932年、上海で行われた天長節の式典会場に爆弾を投げ、白川義則大将らが死亡、重光葵らが重傷を負う事件となった。尹は死刑判決を受け、金沢に移され、1907年12月19日銃殺。野田山の通路に埋められた。それを戦後掘り出し、遺骨を祖国に送り出し、遺髪と遺影が野田山に埋葬された。日本史と韓国史で見方が異なるが、韓国では義士の扱いである。
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その後昼食。上品なお店だったが、配膳やちょっとした飾りが素晴らしい。
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.jpg) 食後、石川県埋蔵文化財センターに行く。ここで今回の講師、小嶋芳孝金沢学院大教授と合流。畝田寺中遺跡からでた墨書土器を中心にお話を伺う。「津」だけでなく、「津司」という文字を書いたものが出ていること。類例との関係からすると、大和朝廷が渤海などとの交易を管理する職として任命した可能性が高いこと、「天平二年」の墨書は遣渤海使の引田虫麻呂が無事に渤海に帰着した年であること。「蕃」と書かれた土器も出ている。 この場所が「越前国加賀郡」時代の港に関係した遺跡であって、非常に発展していたことが分かる。しかし、823年越前から加賀が独立すると、あらたに港の機能が移った。畝田田ナベタ遺跡の建物跡などが、その跡だとされる。渤海末期の影響を受けたとみられるバックルが出ている。ただし、渤海使に対する客館あとはまだ出ていないとのことだった。 一方で畝田寺中遺跡の方は、この近辺が東大寺の荘園であったことと関係するものが出てくるようになるそうだ。

その様子を実際に石川県庁の展望台まで見に行く。畝田寺中遺跡方面(上左)、畝田ナベタ遺跡方面(上右)。市内立山方向(下左)、市内白山方向(下右)。畝田は加賀でも最も古い地名の一つ。また、砂丘が見えるが、鎌倉時代以来発達したもの。 実は、新潟砂丘もそうだし、関東の利根川、荒川水系の自然堤防もその頃発達したという論文を読んだ記憶がある。たしか、温暖化した時期だと思うが、それと関係あるのだろうか。
金沢の砂丘の砂の供給源は白山。しかし、現在は砂防工事をしたために、砂浜が痩せ始めているとのことだ。また、砂丘の終点羽咋付近では砂が細かくなり、海岸を車で走ることが出来るとのことだ。
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小嶋教授に寄れば、金沢は「百万石」がクローズアップされるが、その下地が既にあったということと、前田氏も港から城下へ一直前の道を作り、港の機能を重視していたことを指摘していた。湖j魔先生と別れて、西田庭園に行く。残念ながら休園。ここにはキリシタン灯籠などがある。 夕食は満開の桜を眺めながら。イサザの躍り食いも絶品。
 
.jpg)  夕食後、兼六園へ。無料開放。桜ライトアップ(上右、左)。灯籠と松(下右:琵琶湖唐崎の松を摸したもの)、海石塔(下左:加藤清正が持ち帰り、前田利家に寄附したもの。朝鮮前期か)。ともかく満開。人でも凄い。
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