融通念仏供養碑について

融通念仏供養碑は姫川支流の中谷川沿い、中谷西集落の神宮寺にある。姫川橋から小谷温泉へ行く中間点である。

元々、この碑は小谷温泉に近い葛草連(クンゾーレ)集落にあった(「草連」は焼畑集落につけられる名称)。小谷温泉から葛草連を通り、越後方面に抜ける古道があり、この道を通って小谷温泉には越後からの湯治客が多かったという。しかし、もともと地滑りの多かったこの地域で近年、集落ごと地滑りにあう危険が高まったために集落は閉鎖され、碑も神宮寺に移された。

神宮寺の近くには、諏訪大社下社との関係がとても強いことで知られる大宮諏訪神社がある。神宮寺はその別当であって、その関係で移されてきたとのことだ。中央に彫られている「(梵字)融通念仏供養」の堂々とした文字は、神宮寺の住職であった「学了」の筆である。明朝のようにみえるが、所々に隷書の書法も取り入れられてい る。葛草連は融通念仏宗の盛んなところであった。この碑を挟んで左右にいくつかの石塔があるが、それらの配置は葛草連にあったときのままである。

中央の文字の左右に一列ずつ文字が彫られている。中央と雰囲気は異なるが、よく似た書体や筆運びの文字である。向かって左側が「日月セイメイ 天下泰平国家安全 葛草連村中」、右側は「文政13年トラノ7月吉日○○○○○○○○入○○サク」である。文政13年は1830年で、この年の12月から天保となる。「葛草連村中」の部分は後から加えられたようだ。

サクの前の○○の部分は、阿比留文字(神代文字)であると説明板に書かれている。一見すると似ているように見えるが、阿比留文字とは文字の作りが異なる。 しかも阿比留文字は祝詞など神道的なものに使われることが多いが、この碑文ではそのような使い方ではない。

文中にはハングルに存在しない文字もあるが、「倭漢節用無双嚢」(1784年刊)の「朝鮮の文字」項目に載せられているものとほぼ同じだ。「倭漢節用無双嚢」の前にハングルを紹介した「神国神字論」では神代文字(=阿比留文字)とは別の文字としてハングルを紹介している。

そのうえ、韓国語には存在しえない濁点まで彫られている。ここから、韓国語の知識 のない日本人が日本語を「なぜか」ハングルで表したことがわかる。なぜハングルか。四国大学文学部太田剛準教授(元長野県立大町北高等学校教諭)の示唆を もとに筆者の解釈もいれれば、次のように考えられる。

まず、碑文の読み方であるが、太田先生によると「長崎高橋入道サク」で、「サク」は「作」であるという。長崎は姫川橋と中谷の中間にある集落の名前である。神宮寺の住職によると、この当時の長崎の住民は高橋姓であった。「サク」を人名と考える説もある。実際、この頃の葛草連にサクという女性がいたからだ。融通念仏供養碑の脇にある茶湯供養塔に女性数人の名前が彫られているが、その中にサクの名前があり、しかも碑と同じ文政13年6月に立てられている。しかし、融通念仏供養碑の「サク」が女性の「サク」とは考えにくい。

その理由は、文政年間に長崎に入道喜平治なる人物がいたからである。喜平治は、十三の仏像を近くの雨冠山に建立しようとして、文政5年に周囲の村人90人近くを引き連れて集団登山するほど人望が篤かった。このとき葛草連からも12人参加している。「入道」が小さな集落の中で何人もいるとも考えにくい。入道 は仏門に入った男性を主に指すからである。喜平治の没年にもよるが、これらのことから「高橋入道」は「高橋喜平治」の可能性が高く、「高橋サク」という女性は想定しにくい。

「高橋入道」と「サク」の可能性もあるが、一方をハングルで刻み、サクをカタカナにするのはおかしい。また茶湯供養塔でも人名と人名の間は一字開けているが、融通念仏供養塔では連続して書いているところから、別人と考えることは難しい。この碑の中には漢字で書けるところをカナで書いている部分(セイメイ (清明)、トラノ(寅ノ))があり、「作」をカタカナで書いたとしても矛盾はない。金石をはじめとして、当時の文章を見ても、漢字、かなの使い分けは今のようには規則的でない。茶湯供養塔でも、寅年が「トらトし」と表記されている。

ただし、茶湯供養塔は、善光寺の信仰と結びついて作られたもので、葛草連の融通念仏宗が善光寺と関係深いことも分かっている。サク自身は葛草連の念仏講の中心として活躍していたことは間違いないようで、茶湯供養塔と融通念仏供養碑が関係ないとはいえなかろう。

では、なぜ「あえて」ハングルにしたのか。呪術的なものという解釈も目にするが、むしろ「何か」を秘したかったのであろう。この碑は「七月吉日」に建立さ れている。庚申塔などで具体的な日付まで彫られているものは、一揆の相談など村にとっては重要な何かがあったことを、外部に分からないように記憶するためのことが多いという。そのため、代が変わるとその内容は分からなくなることが多い。

文政年間の小谷地方は凶作続きで、文政7年には多くの死者が出ている。文政8年(1825)12月には「小谷一揆」がおきた。大宮諏訪神社に残る長崎の人が作った「奴歌」の中にも一揆を歌ったものがある。文政13年はその飢饉での死者の「七回忌」にあたる。その「7月」のお盆に融通念仏宗の盛んな葛草連で七回忌の法要を行ったのではなかろうか。しかし、何らかの事情で、為政者には知られたくないために、表向きあくまでも「融通念仏供養」として建立し、脇に「記憶のために」ハングルで「高橋入道が法要を主宰したこと」、人々を供養する目的の碑であることを記したように思う。

その上で「入」のみ、ハングルの一部のように漢字を入れることで、さりげなくその部分が高橋入道のことであると分かるように工夫したのだろう。「サク」の部分は実在の「サク」と混同させたとも考えられる。一見神秘性を持たせながら、実際は違うと言うことである。

中谷東の集落 葛草連の隣、大草連(オオゾーレ) 姫川地滑(1995年)跡(新国界橋)

融通念仏供養碑    目次    HOME     神代文字