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2005年8月12日
小諸(3)北国街道

懐古園をあとにして、北国街道を歩く。善光寺を通って行くことから、善光寺街道とも呼ばれた。加賀百万石の参勤交代のルートであり、佐渡の金山の金を江戸に運ぶ道でもあった。もともとここは小諸城の城下町、宿場町であった。今でも大手門が残されているし(現在修復工事中)、本陣の立派な建物が残されている。
 
現在は道筋も改修されているが、もともとは直進できないように枡形に道が築かれていた。この道沿いに町が広がっていた。
その様な町に、信越本線が開通して、城の門前に駅ができたために、商業の町として発展しはじめた。そのために、この道沿いには江戸時代末期から戦前に至る建物が多く残されている。まずは、明治初期の土蔵をそば屋とした丁字屋、元郵便局跡(当時のポストが復元されている)、土蔵作りの小諸銀行跡などを見て歩く。
 
さらに歩くと、柳茂(柳田茂十郎)商店があらわれる。明治の建物で、屋根の上に望楼が乗っている事が特徴的である。小諸の大商人が造った建物である。この望楼と玄関先の看板建築があわないのだが、道路の拡張の際に道路側が切り取られたためにこのような形になったとのこと。
 
この付近は、通りに対して直角に店の名前を書いた白木の看板があちらこちらに出されている。
 
近くにある信州味噌(山吹味噌)、酢久商店は「御味噌」と書いた看板を高いところに掲げている。小諸藩の御用商人で武士に近い待遇を与えられていた。明治に入り鉄道敷設など小諸の町の発展に寄与したという。道路沿いに安政年間の蔵が残されている。
 
柳茂商店の向かい側には山崎長兵衛商店がある。こちらは明治初期の建物である。かんざしや櫛、降水などを売る店で助成にとても人気があったという。
 
明治初期の建物というが、建物はセセッション風とよばれる洋風の外観である。この付近(荒町銀座会)にはその様な建物が多く残されているのだ。実は、大正から昭和の初期にかけて店の正面を洋風にすることが流行ったのだそうだ。その名残だそうである。
 
そばの嶋田屋も古い。江戸時代の御用商人だった呉服商が、明治のデフレで没落し、その家を買い取ったという物である。伝統的な小諸の豪商の屋敷が前を残していると言われる。今はそこで縄や農機具、下駄などを扱っている。
 
この辺の道は緩やかにカーブを繰り返しながら次第に高度を上げいてる。荒町の商店街を抜けたところには高浜虚子記念館がある。虚子は戦争中小諸に疎開していたのだ。
 
小諸の町は江戸時代から、戦前まで、建物の移り変わり、近代建築の様々な要素が取り入れられた町であった(小諸では城下町めぐりのスタンプラリーを行っている。1時間強でポイントをまわることができる)。

Posted by hajimet at 12:05 | Comments (0)

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