« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2006年2月22日
東京・交通博物館

神田万世橋の交通博物館へ行った。2007年にさいたま市へ移転するため、この5月で閉鎖になると聞いたからだ。また、閉鎖の記念として、昭和18年に廃止になった万世橋駅を見ることが出来るとも聴いていた。今の交通博物館自体、万世橋駅と一体で作られている。
 
前回訪れたのは、一昨年のこと。しかし、そのときは資料調査のため図書館へいき、ついでに駆け足で回っただけなので、じっくりは見られなかった。考えてみれば、高校の時以来じっくり見ていない。
 
1時30分すぎに博物館に着く。10年くらい前まで駅に見られた自動券売機に310円入れて入場券を買う。さっそくツアーの申し込みを。3時の回なら開いていると言うことで登録する。入り口目の前では鉄道模型のジオラマがまさに運転中。中央線を走っている車両には小型テレビカメラがつんであって、車窓風景を目の前のモニターに映してくれている。
 
脇の部屋では、鉄道模型蔵出しをやっていた。電気記貨車や日比谷線の3000系など、確かに子供の時に見た車両が多く展示されている。その後書く展示を見ながら進む。蒸気機関車、「機関車やえもん」の題材となった1号機関車、カットされた修学旅行列車などが昔のママ置かれる。物によっては最新の車両となっているが、多くは昔のママである。なかには写真撮影が自由なことに気がついていたら、本の題材に使いたかったものも多くあった。人車鉄道の車両が展示されていたのだ。
 
二階に行くと、船舶、飛行機の部屋となる。船舶のコーナーの中には連絡船のコーナーがある。青函連絡船などがメインだが、関釜連絡船の関連のものも展示されている。関釜連絡船は1905年に山陽鉄道によって開通され、それによって初めて日韓間に定期船が出来た。その最初の船が壱岐丸であるが、その壱岐丸の号鐘が展示されているのだ。今は鉄道記念物となっている。その脇には壱岐丸のランプがある。船が揺れてもつねに垂直を向くように工夫されたランプだ。
 
関釜連絡線は最初は壱岐丸、対馬丸だったが、つづいて高麗丸・新羅丸、昌慶丸となり景福丸、徳寿丸、さらには金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸などが就航する。日本の大陸進出に会わせて、その夢をも著しているせいか、名前がだんだん壮大になっていくのがわかる。だって、最初は日本の島だったものが、旧国名となり、さらに王宮、継いで朝鮮と中国の山々となるわけだから。このうち、興安丸と金剛丸の号鐘も合わせて展示されている。さらに別室には金剛丸は復元模型もあった。その勇壮さにしばらく見とれた。
 
いよいよ万世橋駅見学ツアーである。集合場所から模型展示室を抜け、細い扉を入る。建物のスキマの足場の悪いところを歩くと、左手にレンガ造りの入り口が見えた。そこから部屋へ入ると、レンガで作られたアーチ状の部屋となり、上に鉄橋が見えている。駅の入り口部分らしい。ここで「さようなら そして ありがとう」という5分ほどの映画を見る。その後アーチなどの記念撮影をしたのち、いよいよ昔のホームへ。曲がりくねった階段を登る。
 
万世橋駅は甲武鉄道から営業を引き継いだ鉄道院が作った駅で、中央線のターミナルとして作られた。駅のある神田須田町は東京一の繁華街だった。東京駅付近が寂しいところだったので一つ手前にターミナルを作ろうとしたのだ。ここに辰野金吾が駅舎を作ったが、関東大震災で焼けてしまった。
 
その後の万世橋駅は繁華街がうつったことや、ターミナルの機能がなくなり小さな駅となってしまった。そこに鉄道博物館ができたが、駅自体は太平洋戦争中不要不急となって廃止されてしまった。神田、お茶の水、秋葉原から至近距離過ぎたからだ。今、そのときのホームだけが残っている。そこを見たわけだ。見学が終わった後、万世橋のたもとの入り口あとを撮影して引き上げた。道路の向かいには肉の「万世」があった。ここの赤坂見附店のラーメンは高校の学校帰りによく食べたところだった。
 
 

Posted by hajimet at 21:08 | Comments (0)

Comments


Post a comment