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2007年3月16日
久々に・上州渡来人紀行(1)

久々の更新。あまり出かけていなかったもので。

高句麗紀行へ行った名古屋のメンバーと一緒に、上州から高麗川へ抜ける渡来人紀行にきている。やっと初雪の降った東京を9時半に出発。
 
親戚が新潟・佐渡にいる関係で群馬県はしょっちゅう通過するが、降りるのはほとんどない。高崎で降りたのは2回目。1回目は平成8年。父が亡くなった後、終戦直後に疎開した新潟五泉で父がお世話になった人に挨拶に行った帰りだった。新潟では油田を案内してもらった。その帰りに高崎で降りて多胡碑を見に行ったのだった。畑で採ってきたばかりのネギをロッカーに預けて(ロッカーの臭ったこと匂ったこと)。それからも高崎はしょっちゅう通過はしている…。
 
高崎駅でだるま弁当を買う。出かけるときからきめていた。東京のチキンライス、新潟の、ます寿司、横川の釜飯と同じくらい定番だ、普段の赤いプラスティックの入れ物に入ったものではなく、「復古だるま」。普通のが900円に対して1300円。素焼きの入れ物に入る。中身も素朴で。お品書きには牛肉のしぐれ煮(おいしい)、地鶏の付け焼き(そんなものかな?)、マイタケ委の含ませ煮、花豆のふっくら煮(食べであり)、マイタケのわさび和え(珍味)等々であった。
 
上信電鉄に乗り吉井へ。ワンマン運転。駅間距離が長いのと、レールが貧弱でよく揺れる。一部高規格のレールだがここだけは揺れない。以前乗ったときは西武の旧型車で、「弱め界磁」が自動的にできずに、手動スイッチで「弱め界磁」に切り替えていたのが印象的であったが、今回はさすがにそれはなかった。西武から来た車両には違いないが…。線路はしばらく河岸段丘と谷底平野の間を走るが、吉井の手前からは段丘面に乗る。
 
吉井駅で町歩きのパンフレットを探したが…なかった…やむを得ず持参したラフな地図で徒歩で辛科神社へ。駅前から国道254号線に出る。本当は古墳などを見ながら行きたかったが、名古屋のメンバーが「順調に」ついたとのことで神社へ直行。それでも少しコースを外れれば神保古墳群があるということで、そちらへ向かったが見つからなかった。
 
辛科神社も上神保という集落にあるが、河岸段丘の上にある。途中で畑越しに眺めた妙義、浅間は絶品。もともと韓郷と呼ばれていて、かなり早い時期から渡来人が生活していた。12時半に到着。「だるま弁当」を食べながら到着を待つ。神社は大宝年間に創建した神社で、この地域に古くから住んでいる渡来人が作ったと伝えられる。祭神はスサノオの命とその子、イソタケルの尊。ただし変遷があるようだが、いずれも渡来系の神であることはわかる。周りには神保氏が戦国時代に作った館跡の空堀が残る。
 
なお、神社が所有している古墳もあるが、そのようなところからは渡来人そのものの明確な遺物は出ない。そうとう土着化した渡来人がいたのだろうという。カラは加羅の事だとすれば、かなり早い時期の渡来人である。神社の入り口には「狛犬」らしきものが置かれている。少し雰囲気が違うが…実は「神獣」である。宮司さんの話によると、もともと仁王像があったが、神仏分離で別の寺に移されたとのこと。その後空いている場所に、先代が中国で買い求めたものだそうだ。由緒は…ない!
 
続いて多胡碑をみる。周りの風景は依然とずいぶん変わり、記念館ができていた。以前は碑の周りに回廊状に展示物があったが、それはなくなっていた。多胡碑は普段は覆堂の外から見るが、この日は特別に開けてもらい、間近でみることができた。但し碑にさわってはいけないとのこと。カビが出るそうだ。なぜここに碑があるかというと、ここに国衙があったからだとされるが、まだ発掘はされていないとのこと。記念館では文字の解析、付近から発掘されたもの、朝鮮、中国に渡った多胡碑の文字の話などが展示されていた。…しかし、胡が多いとは。ここに郡が作られた時期なら、そうとう土着した「胡」だったはずなのに。
 
続けてバスで30分ほどで保渡田古墳群へ行く。王家クラスの古墳で、石葺きの大前方後円墳が3つある。規模も大きいもので、一時期に3代分作られたことが分かっている。このうち八万塚古墳は作られた当時の姿に復元されている。関東にはほとんどない舟型石棺も出てきている。また、埴輪がすごい。群馬の古墳は堀に中島があったり、埴輪が多いのが特徴だが、墳丘に6千あったという。現在は3千復元されている。中には狩をする人と、その矢に射られて血が流れるイノシシが対になっているものもあった。近くから館あとや、渡来系の積石塚が見つかっている。2段の方墳で上段は完全な石積。埴輪も出ていて両方が混じっていることが分かる。ここからは「飾履」など渡来毛糸のものが出ている。
 
水田跡などもあるが、古墳時代の榛名山の噴火で一瞬にして埋まってしまったとのことである。そのため耕作したばかりの足跡も残っていた。たしかに目の前に榛名、赤城、妙義、その後ろに浅間が見えていて、火山災害の多いことが伺われる。たしか日本のポンペイといわれた遺跡もこの辺だっけ。そういえば、新幹線から眺めた土、熊谷あたりまでは白い砂であるが、高崎に近づくにつれて赤い火山灰の色が混じっていた。
 
…赤城おろしのひどい一日だった。あしたは埼玉方面へ。

Posted by hajimet at 18:02 | Comments (1)

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お知らせです。「飛鳥と渡来人〜古代国家を支えた人々」をテーマにした古代史講演会(奈良県明日香村、読売新聞社など主催)が7月10日(土)午後1時から名古屋市中区の東建本社ビル内の東建ホールで開かれます。最新の飛鳥の発掘成果の発表、亀田修一・岡山理科大学教授と木下正史・東京学芸大学特任教授の講演、パネル討論があります。会場では明日香村の特産品や古代史の書跡の販売もあります。参加は無料ですが、明日香村文化財課へ申し込みが必要です。詳しくは明日香村のホームページをご覧になるか明日香村教育委員会文化財課(0744・54・5600)へお尋ね下さい。参加をお待ちしています。
  Posted by: 柳林 修 at 2010/06/19 13:53:28


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