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2007年3月18日
上州渡来人紀行(2)

第2日目。8時20分宿舎発。宿舎は東横イン高崎駅前。LANでインターネットには接続し放題。朝はおにぎり、味噌汁、スープ、パンのサービス。夜はカレーライスのサービスのあるホテルだった。カレーライスの魅力的な匂いは、14階のエレベーターホールまで充満していた。おなかのすいていた身でこれから飲み会の立場からは「何とかして〜」であった。それ以外は居心地はよい。
 
まず綿貫観音山古墳へ。しかし上州は大きな前方後円墳の多いところだ。ここもそうだ。石室を開けてもらい入る。榛名山の噴石を側面に、多胡石と同じ砂岩を天井石にしていて、崩壊していたものを復元したそうだ。入り口は西南を向いていて、その方向は百済だと言うが、この方向は太平洋である。あえて百済と考えるとすれば、遺体の頭の向きが北西を向いていれば、(つまり入り口の通路に直角方向)そちらが百済になる。なぜ、百済かというと、この古墳から百済公州武寧王から出てきた鏡と同じ型から鋳出した鏡が出ているからである。ここからは「泣き女」3人が一つにされた埴輪が出ている。まわりは妙義、浅間、榛名。妙高、穂高などの山が囲んでいる。その山からの出口で、しかも利根川などの大河が流れるのだから、いかに豊かな土地か想像できる。
 
その埴輪などを見に群馬県立歴史博物館へ行く。特別展で雛人形をやっていて、御殿雛に関心を持つ。旧石器時代の話、縄文期の海進の時の群馬、縄文、弥生の説明を受け改めて上野国の勢力の大きさを感じさせられる。また古墳や仏教伝来時の3国からの影響なども見られる。ちなみに昨日見た多胡碑をはじめとする上毛三碑は碑石を作る習慣のほとんどない日本では珍しいことで、文字の使い方などに新羅の影響が見られるとのことであった。ついでに多賀城碑のレプリカも今回何カ所かで見たが、これも渡来人の影響があるとのことだ。なぜか靺鞨という文字もあるのだが、これはのちの靺鞨と同じか分かっていないとのこと。庭にでる。馬のモニュメントがある。渡来系の「牧」の事かと思ったが、そうではなく、現代彫刻の「巨馬(おおうま)」であった。
 
群馬を後にして17号線を南下。行田行く。約1時間であるが、それにしても関東平野は広いと改めて思う。まわりはただ平野だけ。埼玉古墳群につく。5世紀に突然大古墳が出現するので有名で、武蔵の南部の政権との勢力争いの結果、上州と結んだ南武蔵が負け、大和政権と結んだ埼玉の勢力が勝ったためと言われる。雄略天皇の名前の入った鉄剣が出たことでも有名。これは埼玉の資料館に本物が展示される。丸山古墳に登った後、鉄剣の出た稲荷山に登るが「何だか変」だ。ここは3回目であるが、記憶の古墳と違う。後で分かった。2回目に来たときにトレンチを掘っていたのだが、それをもとに前方部を復元したのだった。将軍塚は日本ではわずかにしかない馬具が出たことで知られる。馬具は直感的に加羅を連想するのだが。資料館では稲荷山古墳の出土物と、横穴古墳の特別展をやっていた。
 
吉見百穴へ行く。いつ行っても異様な風景だ。旧軍時代の地下軍事工場もここにあって、途中までは行くことができる。古墳はいくつかの形に分けられるようだが、蒼ケが付き、棺台がある。上は粘土、下はグリーンタフの凝灰岩でいずれも掘りやすい土質である。だからこれだけ掘られたのだろう。渡来系との関係を想定することもあるが、たしかに須恵器は出てくるが、いかんせん横穴古墳はそもそも副葬品が少なすぎる。遠くからは訓練であろう。銃声が聞こえてくる。さらにバスで一時間。飯能に就く。地名については韓国語の「ハンナラ」(偉大な国)との関係を指摘する人もいる。ここで1泊。東京への通勤圏の中なので、こんな機会でもなければ泊まれないところである。

Posted by hajimet at 21:20 | Comments (0)

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