埼玉古墳群

将軍山古墳

埼玉県中部の埼玉古墳群は、利根川と荒川が出会い乱流を始めていた関東平野の 中にある。5世紀末の稲荷山古墳から突然大古墳が出現し、7世紀末の薄葬令まで続く。群馬の保渡田古墳群の 末期から綿貫観 音山古墳の時期である。群馬地域の大古墳が少なくなり、一方で南武蔵の古墳の規模も小さくなる。日本書紀による534年、武蔵の国造も乱があり、 埼玉の地に勢力を持つ笠原の使主(おみ)と、南武蔵の小杵(おき)が争った結果で、小杵が上毛野君小熊と、使主が大和朝廷と結んだ事に関係するとする考え も強い。

一番古い稲荷山からは雄略天皇の名前の入った鉄剣が発見されるとともに、渡来系の文化の影響である馬具が出る。稲荷山の100年後、6世紀後半に作られた 将軍山古墳は横穴石室が採用されたもので、高句麗古墳の壁 画新羅 の古墳か ら出てくるような多くの馬具が発見されるなど、朝鮮半島とのつながりが深い。稲荷山で発見された馬具とは比べものにならない規模である。特に馬兜や旗竿が 出ているが、馬兜は将軍山以外には和歌山で一例発見されているだけである。

埼玉古墳群には多くの古墳があるが、6世紀初頭の丸墓山古墳は日本最大の円墳で、直径105mある。この古墳の前から土手が続いているが、これは1590 年に石田三成が忍城を水攻めするときに造った堤跡とされる。このとき丸墓山の山頂に陣をはったという。




丸墓山古墳 稲荷山古墳 稲荷山古墳礫槨(複製)

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