壁画墳
禹山下古墳群五盔墳5号墳

高句麗の古墳は、次第に積石式古墳から封土墳に変わる。積石塚後期になると横穴石室が発達するが、しだいに石積から土積に変わる。元々方形の墓だったため、封土墳でも方形の形に方錐状に土を盛った形になる。

石積の後期、4世紀くらいから次第に石室に壁画が描かれるようになる。集安では21基の存在が知られている。集安も桓仁も高句麗にとっては重要な土地であるため、都が移った後も古墳を作る集団がずっと残っていたのだ。

5世紀になると芸術的にも発達して、石室に踊っている女性が描かれた舞踏塚、相撲の様子などが描かれる角觝塚が知られる。

5世紀末から6世紀になると五盔墳のような巨大石室墳が発達する。そのころになると、壁画も変化し、踊りや狩のような日常生活を表したものから、仏教や道教の影響の強いものに変わるが、石室も発達して前室と後室がはっきり分かれる。天井は切石を方形に互い違いに積み三角持ち送り構造という形を取るようになる。その各面に四神図や天女などが天井まで描かれる。

5号墳は公開されている(写真撮影禁止)が、漆喰ではなく、壁面を磨いてそこに直接描かれている。5号墳周囲の古墳に壁画墳が多く、絵としては4号墳の方が保存状態がよいようだが、こちらは公開されていない。

角觝塚壁画(中国の書籍より) 角觝塚(左)と舞踊塚(右) 舞踊塚壁画(中国の書籍より)

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