好太王碑
好太王碑碑閣(山は北朝鮮) 好太王碑(第一面) 「新羅以為臣民」の部分

好太王碑は、391年から412年まで在位した広開土王を顕彰した記念碑で、息子の長寿王が立てたものである。「岡上広開土地好太王」という名前のため、このように呼ばれる。禹山の麓のなだらかな丘陵の中腹にある。ここから鴨緑江までは1.5kmほどあるが、直接見ることはできない。谷越しに目の前に広がる山は北朝鮮の山々である。高句麗の古墳は石柱を立てる例があるが、文字が彫られているものはこれだけである。

高句麗の建国伝説、広開土王の生涯、墓守の規定からなっていて、墓守に関する部分が最も多い分量を占めている。

広開土王はその名の通り、高句麗の勢力範囲を大きく拡げた王である。5世紀、高句麗は魏晋南北朝時代の中国の政権と巧みにバランスをとり国を安定させた。そして積極的に朝鮮半島へ進出し、新羅を高句麗に従属させるなどした。特に広開土王の時、その拡大は著しく、粛慎や契丹に遠征し、百済を攻撃するとともに、400年には新羅王都にいた倭軍を駆逐し、任那伽倻まで軍を進めた。410年には東北の東夫余に親征するなどして広く領土を拡げた。

碑は覆い屋の中に立っている。近年まで東屋のようなもので屋根をかけられただけで、事実上野ざらし状態であった。だが、世界遺産化するにあたって、保護処置をとったとのことだ。

そばで見ることが出来るが、文字は6センチ角で非常に大きい。「百残新羅旧是属民」ではじまる400年の倭との戦争の文は第一面7行目の下の部分から始まる。この碑は清国の封禁政策のため長いこと忘れられ、苔に覆われていたという。碑文を確認するために焼き払ったため非常にもろくなっている。また、拓本するときに拓本工が石膏を盛り、木槌で叩いて行ったため、文字の状態も良くない部分が多い。<

好太王碑と近くの王陵との関係については、様々な議論があるが、いずれにせよどの王陵とも離れた位置で、しかもどの古墳の石室の向きとも違う方向を向いて立っていることが不思議である。

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