大王陵
大王陵全景

大王陵は好太王碑の西、200m程の場所にある大型方壇階梯石室墓である。この形式の古墳は王陵クラスのものである。

方壇の一辺は66mで、高さは15m弱である。各面5枚の大型板石が墳丘にもたせかけて、墳丘の崩壊を防ごうとしたが、実際はかなり崩れてしまった。現状は一層目と石室のあたりで階梯状を偲ばせるだけで、それ以外はその痕跡を示しているに過ぎない。最上段に石室があるが、天井は平らな石を合わせた家型の石槨からなっている。

清国末期にここから大量の蓮花紋の瓦当や磚が発見され、その中に「願太王陵安如山固如岳」という文字が彫られたものが発見された。この磚や好太王碑の存在、墓の作られた年代から、中国ではこの大王陵を好太王陵と比定している。

しかし、日本では古墳の年代や規模などから、故国原王(位 331-371)と考える者が多い。好太王碑が大王陵のために立てられたとするには墓との距離が遠すぎるし、石室の向きと石碑の向きがあまりにも違いすぎるからである。

た だし、太王陵から100mほどのところに土塁のあとがあり、その内側に陪怩フ跡があること、その外側には集落跡があり、好太王碑は集落のそばにあること。そして好太王碑の碑文中最も多く割かれているのは、墓の管理についてで、墓域、碑、集落を一体のものと考えるべきと言う見解もある。

故国原王は広開土王の祖父で、鮮卑の慕容氏(燕)と対抗した。燕軍が高句麗王都に侵入して、故国原王の父、美川王の墓を暴き、王墓や妃を捉えて人質として連れ去るなど、滅亡の危機にさらされた(342)。南方では百済が成長し、高句麗と対抗しはじめた。その中で故国原王は、平壌に侵入した百済の近仇首王軍の矢にあたり戦死してしまった(371)。

石段の痕跡 石室入り口 好太王碑を見る(赤い東屋)

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