丸都山城
丸都山城全景(山城下貴族墓区より) 南門(甕城) 宮殿の八角形の礎石

集安の中心、国内城から 通溝河を北に2.5キロほど遡った丸都山の麓にある。国内城が平時の平城に対して、丸都山城は戦時の避難場所である。桓仁の五女山城以来の、高句麗の城の配置である。五女山城は天然の要害で城壁は必要なかった。しかし丸都山城は城壁を築いた。谷と山を囲み込むをように築いたが、この作り方は、その後の高句麗の山城の基本となった。このような城(平城-山城、包谷式城壁)の作り方は高句麗だけでなく、百済新羅、そして日本の朝鮮式山城にまで影響を与えた。

三国史記には紀元3年に「尉那岩城」を築いたと書かれるが、おそらく丸都山城のことだとされる。3年が正しいかどうかは議論がある。城は三方を高い山で囲まれ、城壁も残る。城内は平野になり、そこに王宮が築かれるが、その平野は数メートルの崖となって通溝河沿いの谷に落ちている。平野の一方には谷川が流れ、また、王宮跡には水のわき出すところがあり、今も湿地帯となっている。

城の入り口までは集安市内から鴨緑江に流れるこむ通溝河の谷に沿って登る道しかない。何かあれば国内城から谷沿いに逃げ込めばよいし、敵もこの方向からの防禦をとりあえず考えれば良い。ただし、実際は北からのルートもあり、そちらから何回も攻め込まれている。城門も6か所残るが、南門は最も重要な道で防御の中心であった。谷を塞ぐように城壁を築き、しかも排水も考られていた門で、比較的良い状況で残っている。

水面門のすぐ上は点将台(見張台)と兵の駐屯地跡がある。点将台は南方に対して視界の開ける場所に築かれた高さ4.5メートルの石築の台である。ここからは、国内城から鴨緑江向こう側の山々や、宮殿を見通すことが出来る。

平野の真ん中には宮殿跡がある。発掘が行われ、三段に土地を整地して、三列に建物を建てたことが確認されており、同時に排水施設も見つかっている。今も礎石が多く残り、よく整えられた石も転がっている。中には井戸の跡もある。建物の形は正方形や長方形のものが多いが、八角形の基壇が2つ並んで存在しているところが興味深い。丸都山城時代に高句麗に仏教が入ってきているので、仏跡としてもよいのだが、2つ並んでいるところが議論の対象となっている。

高句麗寺院の本堂には八角形の形をしたものが見られる。その形は八正道に由来しているとされるが、もしかすると八角形に対する信仰がもともとあって、それと仏教寺院建設が融合したのかも知れない。

なお、南門のすぐ前は山城下貴族墓区である。

点将台から集安、北朝鮮方面(奥の山)を見る門 点将台 点将台付近から宮殿(奥の段)を見る

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