扶蘇山城(1)
扶蘇山案内図

扶蘇山城(부소산성:プソサンソン)は王宮跡の北につながる山である。二つの嶺(104.9m、98.2m)から出来ていて中に大きな谷がある。西門跡から入ると道は左右に分かれる。左へ進むと「西腹寺」(서복사:ソボクサ)址である。王宮内のこじんまりした寺で南門、中門、塔址、金堂跡が一直線にならんでいる。講堂はなかったようだ。さらに上がると「半月楼」(반월루:パノルル)である。ここで日の入りや月を楽しんだという。

右へ進むと、すぐ「三忠祠」(삼충사:サムチュンサ)である。百済滅亡直前の臣下である「成忠」(성충:ソンチュン)、興首(흥수:フンス)、階伯(계백:ケベック)将軍を祭っている。成忠は百済最後の王、義慈王の時の忠臣で、誤った政治をただすために努力した諫臣であるが、獄につながれ断食をして死亡した。

興首は唐と新羅の連合軍が攻めてきたとき炭峴の城を守ろうとしたが、大臣達の反対で守りきれず滅亡し、そのとき階伯は5000名の決死隊を作り戦ったが、戦死した。日本植民地時代には、ここに扶余神宮の本殿を造る予定である程度の基礎工事は終わっていたという。

脇の百済時代の池跡を通過して山を登っていくと、南門あとになる。はっきりとは分からないが、城壁の崩れた跡がみられる。さらに登ると「迎日楼」(영일루:ヨンイルル)だ。「半月楼」に対するもので、ここで百済の王族が日の出を楽しんだという。

三忠祠 迎日楼

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