扶蘇山(2)
百花亭(박화정:ペックァジョン)

「迎日楼」(영일루:ヨンイルル)から進むと左手に「軍倉」跡がある。百済時代の建物跡も、わずかにあるようだが、痕跡はほとんどない。現在残る軍倉跡は朝鮮時代に築造されたもので、「北庫」の礎石は、百済時代のものを移設・再利用している。こからは炭化米のほか、炭化した麦や豆も大量に発掘されるが、これも朝鮮時代の倉庫が焼け落ちて堆積したものである。「北庫」からは米、麦類、「南庫」からは豆類が主に出てくる。山城西南部と軍倉南部、北門東側一帯で兵営として使われたと見られる建物跡が発見された。

軍倉の近くには「迎月台(영월대:ヨンウォルデ)」があって、東側で最も標高が高い。

さらに進むと右手に土塁が見えてくる。土塁はそれぞれの嶺を囲む城壁と、二つの嶺と谷の山全体を囲み込む外郭土塁の二重構造からなっている。山全体を包むことは、高句麗以来の伝統で、外郭土塁も百済時代に築かれた。

一方で峰を囲む内側の土塁は統一新羅時代に築かれ、さらに内側の土塁を二分する部分は朝鮮時代の初期に築かれた。扶蘇山は王城となる前から人が住んでいたところで、建物址もある。また、百済時代の軍営と思われる竪穴住居も19基発見された。

西側の山の最も高いところには「泗沘楼(사자루:サジャル)」が建っている。ここは百済時代「送月台」といって王が月を愛でた場所である。扶蘇山全体で標高が最も高い。泗沘楼の名前は、1919年にここに楼閣を建てたときにつけられた。この付近からは統一新羅時代の遺構が多く発見されているが、楼閣を建てるときには百済の金堂釈迦如来立像も発見されている。

そのすぐ脇にある東屋が「百花亭」である。百済滅亡の時にここから多くの宮女が足下の白馬江(백마강:ペンマガン)に飛び込んだ。「百花亭」はその宮女を祀るために1929年に建てられた。大きな岩の上に立てられていてら白馬江までは絶壁である。その岩を「落花岩」(낙화암:ナックァアム)という。落花岩の下には「皐蘭寺(고란사:コランサ)」があり、クドゥレナルまでの遊覧船の船着き場に至る。

軍倉跡 土塁 泗沘楼の額

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