国内城
国内城北門 国内城北壁(西側を見る) 南西隅。防禦のための馬面

集安市内、鴨緑江沿いにある方形の城壁である。東側以外は城壁がほぼ残っていて、世界遺産化にともなって、整備工事が進められている。

高句麗時代、425年まで高句麗の政治の中心の城であった。戦時の丸都山城に対する平時の城で、西壁に掘りのように沿う通溝河から丸都山城が見渡せる。城壁は全長2686mで、北壁715,2m、東壁554.7m、南壁751,5m、西壁664,6mである(長さは資料により若干異なる)。門跡が6か所ある。

もともとここには漢の郡の土城があって、そこに高句麗が石を積んであらたな城を作った。漢のときの郡名については議論があり、「高句麗郡」とか、漢四郡の「玄菟郡」とする説もある。石積は方形の石を階段状に積んでいる、高句麗方式の積み方である。このような階段式の積石で基礎をしっかり作った上に垂直の壁を築くのが高句麗式の石積である。石城築城の時期は中国側では1世紀を主張し、日本の学者は4世紀を想定している。

それぞれの隅には馬面という張り出しが築かれているが、北壁の西側の門の場所は発掘したままの状態で見ることが出来る。最初は堤防の機能を持たせて高く積んだようだが、その後崩れてしまい、現在は3-4mしかない。また、何度も補修されたことが分かっている。高句麗時代に1度修築されている。

高句麗滅亡後、城の機能はなくなり放っておかれた。清国時代は200年近く封禁政策がしかれ、集安に人が戻ったのは19世紀も末になってからのことである。その後1921年に大改修され、その後も満州国時代に修築されている。そのため、全体が必ずしも高句麗時代のものとはいえない。

城内では体系的な発掘は行われていないが、様々な高句麗時代の遺物が発見され、市役所横の体育館あとから出てきたオンドル跡を伴う建物跡は保存されて見学できる。なかでも銭湯から出てきた「太寧4年」の銘の入った瓦当は議論を呼んでいる。東晋の年号ではあるが、太寧は3年(324年)までしか存在しないからである。おそらく325年のことだろうと考えられている。都市化が進んでいるため遺跡の破壊が懸念されているが、遺跡内の建物の撤去を進めている。

西壁から丸都山城を見る(一番奥) 西門址(下)ら見る北朝鮮の山々 体育場跡遺跡

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