将軍塚
将軍塚全景

将軍塚は好太王碑から1650mほど離れた岡の上にある方壇階梯式石室積石塚である。中国では「東方金字塔(東方のピラミッド)」と呼ばれている。一辺が31.6m、高さ12.5mで7段の階梯からなる。石は花こう岩で、22キロ離れた五女峰に採石場が残っている。規模は大王陵より一回り小さい。

墳丘のまわりは各面に3枚ずつの石板が立てかけられる。崩壊防止と言われるがよくわからない。必ずしも古墳の強度を維持するのに役立っていないからで、信仰上のものという説もある。石室は第5壇にあるが、最上段を平行持ち送り式にしたもので、棺床は二台である。石室は盗掘にあい残されているものはない(現在は非公開)。頂上部からは瓦が出てくるが、柱を立てて屋根をかけて祭祀を行った跡だという説もある。

この古墳の被葬者について、中国では広開土王の息子、長寿王の陵と考えている。長寿王は広開土王を継いで高句麗の勢力拡大に尽力した王で、百済王の蓋鹵王を漢城で殺害したり、都を平壌に移すなどした王で、文字通り90代まで生きた。

しかし、日本では長寿王陵と言うより、広開土王陵と考える者が多い。墓の完成度が高いこと、これだけの古墳を作るためには労働集団を統率する強固な政治権力が必要があるが、それが完成したのは長寿王のときであることがあげられる。そもそも平壌に都した長寿王が集安に埋葬された証拠は何も残っていないのである。むしろ長寿王の時に広開土王陵が建設されたと考えるべきで、何よりも広開土王の賜号である「国岡王」に合致した岡の上に陵はあると主張する。

将軍塚の東北側に一辺9.2mの陪塚が残る。規模は小さく、崩壊しているが方壇階梯石室積石塚である。その横には二号墳の跡と、祭台があるが、祭台も陪塚かもしれないという。さらにその奥、山の斜面上に円墳があるが、ここまで陪塚にいれるかは議論になっている。

いずれにせよ、古墳の周りに陪塚があり、近くに古墳を管理する人々とのものと思われる集落が見つかっていて、1つの埋葬地システムが構成されていることはわかる。

墳丘の護石 墳丘より見た陪塚(遠方の山は北朝鮮) 陪塚

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