中原高句麗碑

韓国、忠清北道(충청복도:チュンチョンプクト)中原(중원:チュンウォン)郡にある。高さ1.5m弱で隷書で書かれているが、摩滅が激しい。5世紀末の碑で、高句麗長寿王(장수왕:チャンスワン)の時代にあたる。長寿王は高句麗(고구려:コグリョ)の版図を最大にした王で、百済の蓋鹵王(개로왕:ケロワン)を殺害し、忠清北道から慶尚北道(경상북도:キョンサンプクト)北部まで版図に入れた。この碑はそのことを表している。

4,5世紀の新羅(신라:シルラ)は百済などから自国を護るためにも高句麗の制圧下に入った。慶州の路西洞古墳群からは広開土王(광개토왕:クヮンゲトワン)に関係する壷杅などが出ている。いずれも長寿王時代のものである。

5世紀にはいると百済と和議を結んだり、高句麗と戦うなど独自の動きが見られるようになるが、それでも政治的に高句麗の圧力下に入っていたことが、この碑から分かる。即ち、高句麗を「兄」、新羅を「弟」とする表現が出てきたり、新羅の官職に関係する衣服を送ったり、軍司令官を送り込んでいることが分かるからである。

なお、近くの忠州(충주:チュンジュ)には統一新羅時代最大の五層石塔(中央塔(중앙탑:チュンアンタプ))がある。

全景 説明板 中央塔(参考)
 
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