阿且山
漢江から見た「阿且山」 阿且山城城壁(新羅時代)

阿且山(아차산:アチャサン)はウォーカーヒルホテルの裏山である。阿且山(285m)を主峰とする3つの山からなる。東西南北それぞれへの眺望がよいだけでなく、南側に漢江が流れているため、防御に都合がよい。百済時代は北から攻めてくる高句麗の防御の役割をした。

ここは百済の蓋鹵(개로:ケロ)王が殺害され、百済が一時滅びた場所でもある(475)。高句麗の朝鮮半島南下の勢いが強まり、平壌に都を移した(427)長寿王の時である。百済近仇首王は高句麗の故国原王を殺したが(371)、今度は反対に殺された。

高句麗が漢城を攻め落としたとき、蓋鹵王はこの城の下で捕まり、臣下に唾棄された上で首を刎ねられた。これにより太子の文周(문주:ムンジュ)は熊津へ逃げ、弟は日本へ亡命した。高句麗は攻撃の前に、王が囲碁を好きなことを利用して、囲碁が上手な家臣を潜り込ませ、高句麗の情報を王に与えるような顔をしながら、百済の内情を盗み取っていたという。

高句麗が百済を追い出した後は、山の峰などに16カ所の保塁が築かれ、高句麗兵が駐屯した。1997年の発掘で多くの土器や鉄器、鉄製武器などが発掘されたが、主に高句麗系統のものであった。もっとも大きな第1保塁では10名ほどの軍人が駐屯できたと考えられていて、ここからは高句麗瓦が発見された。そのため、指揮官クラスの駐屯地であると考えられている(高句麗漢城時代の遺物はこちら)今度は南側に対する防御である。その後再び百済が奪回するが(551)、すぐに新羅に奪われる(552)。

これによって再びここで悲劇が起きた。高句麗は竹峰以北の漢江流域の失地を回復しようとした。そのために高句麗平原王の婿、温達(オンダル)将軍が新羅軍と戦ったが、この下で矢にあたり殺されたと伝えられる。城内には温達井といわれる井戸が残っている。(590)

新羅が漢江流域をとってからは、新羅もここを防御のために利用して、南側の峰に阿且山城が造られた。最も高いところで海抜203.4m、低いところで海抜122mの斜面に作られる。城壁と門の跡、水路が一部残っているが、周囲1038m、平均の高さが10m程度で作られた鉢巻式の城である。城の中からは統一新羅の遺物が多く出ている。

ソウル市内方面 漢江上流方面(山城下より撮影) 風納土城(橋のたもと付近)方面

前のページ    目次    HOME    公州