高句麗とは
【高句麗発祥の地】   
高句麗は、中国東北地方南部の山岳地帯におきた騎馬民族である。この地域に最初に勢力を拡げた民族は、夫余であった。その後紀元前1世紀末に力を持った民族が高句麗であった。夫余族は山岳地帯の北部で、漢族の影響の強い東北平原に近いところでおきたが、高句麗はそれよりも南部、中国文化の影響の弱い地域で発生した。最初の都は渾河沿岸の桓仁であった。伝説では高句麗王は夫余族の末裔で紀元前37年に国を興したことになっている。高句麗はいくつかの部族の連合政権であった。

【高句麗の伸張】
紀元1世紀初めは、中国の前漢が亡び、漢族が弱体化した時期にあたるが、23年に後漢が出来ると、高句麗は後漢に朝貢した。そして朝鮮半島北部から中国東北の南部にあった漢四郡に進入したり、遼東半島と朝鮮との交通の要衝を抑えるなどして力をのばした。

【公孫氏・魏と高句麗】
2世紀末、後漢の力が落ちて三国時代、五胡十六国の混乱期に入り、東北地方は、公孫氏が力を持った。公孫氏は北朝鮮の平壌から韓国のソウル付近に存在していた楽浪郡を支配し、帯方郡を独立させて、百済の成立(3世紀頃)に大きな影響を与えた。一方高句麗では、3世紀初めに王権の後継者争いが起きた。兄が公孫氏を頼る一方、山上王(197-227)は都を鴨緑江沿岸の集安に移す。公孫氏は高句麗の本拠地である丸都山城を攻撃し、高句麗に服属していた夫余族などを服属させたため、一時的に高句麗は衰退した。

238年に公孫氏が北魏に倒されることで、高句麗と北魏が、直接国境を接するようになった。北魏も高句麗を攻撃したので高句麗は一層衰弱したが、4世紀初めには中国の戦乱に乗じて復興し、楽浪郡、帯方郡を攻撃するまでになった(313)。戦乱に堪えきれなかった住民は遼東半島に勢力のあった鮮卑の慕容氏の元に逃げた。一方で帯方郡などに依然として定住する漢族も多くいて、彼らは中国東晋の年号を用い続けた。東晋年号の書かれた七支刀は百済王から日本に送られている

【高句麗の朝鮮半島本格進出】
鮮卑が前燕をおこし、高句麗と境を接するようになると(319)その圧迫で高句麗は勢力を、南に向けるようになり、南方で勢力を持ち始めた。中国の郡県である楽浪郡を駆逐すると(313)、百済と境を接するようになって対立するようになる。百済王が平壌まで来て、故国原王を殺したこともあったが(371)。

4世紀末、広開土王(391-412)の時に南方に本格的に勢力範囲を拡げ、百済、新羅伽倻などと衝突し、さらにその子、長寿王(413-492)の時には百済の蓋鹵王を殺害し、漢城(ソウル)を征服しすることで百済を一旦滅ぼした。この途中、高句麗に仏教が伝来する(317)。

長寿王は 都を、現在の北朝鮮の首都である平壌に移し(427)、中国の南北朝の対立の中、バランスを取りつつ国力を伸ばした。王は南北朝それぞれの王から冊封されるが、その称号は百済や倭よりも高いものであった。高句麗は南方への進出を進め、朝鮮半島南部で勢力を拡張しつつあった新羅に軍を駐留させるまでになった。これは、韓国忠清北道の中原高句麗碑慶州の出土物などで知ることが出来る。

【隋唐と高句麗】
6世紀に入ると王位継承の争いが起こり、国力が落ち始めたが、551年には新羅百済連合軍によって漢城を奪われた。高句麗は新羅と対抗するために倭に使者を送るようになった。581年に隋が成立すると朝鮮半島では三国間の抗争が激しくなる。隋も高句麗を滅ぼそうとして軍隊を送ったが、これが随が滅びる原因の1つとなった。隋に次いで唐も高句麗に軍隊を送った。高句麗はいずれの戦いもよくしのいだが、その間に百済が新羅と唐の連合軍によって滅ぼされ(660)、遂に668年、高句麗は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた。

【高句麗と朝鮮・中国】
高句麗の歴史は、中国の政権との関係の中での動きであるとともに、朝鮮半島の中の動きでもある。また、中国東北地区から朝鮮半島中南部まで支配したことで、これまで朝鮮半島を支配した民族の中で、最大版図を実現した政権でもあった。中国から見れば、中国東北地区におこり、漢が設定した漢四郡の地域を支配した民族と言うことにもなる。高句麗は百済新羅加倻に大きな影響を与える一方で、朝鮮半島の国々の抗争と隋・唐の関係の中で滅亡する。高句麗が滅亡したことは、朝鮮史からすれば、中国東北地方を失ったことを意味するし、騎馬民族として活躍した最も力の強い民族を失ったことを意味する。

【高句麗の日本影響】
日本にも大きな影響を与えた。飛鳥寺創建のときに高句麗僧が法要を行い、聖徳太子の仏教の師匠も高句麗僧である。鳥取県には高句麗系石塔とされる岡益石堂や高句麗系の四隅突出墓がある。

東日本には高句麗からの渡来人に関する遺跡が多く残り、高句麗の墓制である積石塚が長 野県や山梨県、群馬県に多く見られる。特に長野県の大室古墳群は積石塚の一大集積地である。東日本は大和朝廷から命ぜられて渡来人が開墾したところも多い。埼玉県には716年に高麗郡が作られ高麗神社聖天院(高麗王若光の墓)などが残る。また、神奈川県にはその高麗王若光が上陸したとされる高麗山、高来神社がある。関東南部の古墳からも高句麗系の遺跡が多く出る。そのような遺物の出た東京の狛江という地名は「高麗(こま)=高句麗」から来ているとされ、調布市深大寺周辺には高句麗にまつわる伝説が多く残されているし、あきる野市の瀬戸岡古墳群には積石系の古墳群があるなどその影響は大きい。

高句麗最初の山城とダム湖 山城下貴族墓区の積石塚 好太王陵とされる将軍塚

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