真平王陵、明括山城

普門寺あと(보문사:ポムンサ)の近くにある。真平(진평:チンピョン)王(597年〜632)は善徳王の父親で新羅の中央官制を整えた王である。594年に隋の冊封をうけ、隋が高句麗征討に失敗して亡び、かわって唐がおこると百済や高句麗に先駆けて唐の冊封を受けた。古墳は他の王陵からは独立した場所にある。

王が狩りばかりしていたことを諫めるために、家臣の金后稷(김후식:キムフシク)が遺言で作らせた諫墓(간묘:カンミョ)も真平王の時代のことであった。

近くには薛聡(설총:ソルチョン)の墓と伝えられる古墳もある。薛聡は芬皇寺(분황사:プナンサ)の住持であった元暁(원효:ウォニョ)の子供と伝えられ、新羅から高麗にかけての代表的な儒学者の一人である。日本の万葉仮名にあたる、韓国の吏読(이두:イドゥ)を発明したと伝えられる。

真平王陵の近くの明括山(명활산:ミョンファルサン)は、仙桃山などとならんで外からの慶州の入り口にあたる。この先は石窟庵のある吐含山(토함산:トハムサン)ごしに日本海につながる。倭からの防御が必要だった。そのため山城がつくられた。実際に5世紀初め、ここで倭軍と戦闘が行われ撃退している様子が好太王碑などに書かれている。

普門寺跡と真平王陵 伝薛聡墓 明括山城城壁
 
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