扶余(부여:プヨ)
扶蘇山半月楼よりみた扶余市街

【扶余遷都】
百済が、公州(熊津)から今の扶余である泗沘に都を移したのは、538年のことであった。このときの王は聖王(聖明王(523-554))で、百済から日本へ仏教を伝えたとされる年と同じである。公州は盆地で防御にはよいが、平地が少ないため生産性が不利であった。 一方扶余から南は平野が広がり、生産性の大きな土地である。しかも白馬江伝いに海へ出るのにも都合がよい

扶余に遷都した頃、新羅では法興王の時代で、国力を急速に伸ばしたときであった(この頃の新羅)。また、北の高句麗の圧力が強まり、それらに対抗するために公州よりも南の豊かな地、扶余に都を移したのだ。都のまわりは羅城とよばれる城壁をめぐらせ、町の北に王宮をつくり、その北にある山を避難用の山城(扶蘇山城)とした。この王宮の作り方は高句麗の王城の作り方と同じである。北に山城を置いたのも、漢城、公州と同じく北から攻めてくる高句麗に備えてのことであった。

【新羅との対抗】
551年、百済は新羅、加倻と連合して高句麗を攻撃して、漢城を回復した。しかしその翌年、漢城は新羅に奪われた。これに対して百済は新羅を討とうとした が、554年、管山城の戦いで聖王が殺されてしまい、百済が勢力を伸ばそうとした加倻は新羅に併合されてしまった。581年、中国は隋によって統一された。

その後、武王(600-641)は益山弥勒寺を作るなどしたが、一方で新羅との戦いは続く。次の義慈王(641-660)は642年の大耶城の戦いで旧加倻地区の大半を奪った。これに対して新羅は金春秋を高句麗に送り対抗しようとしたが、逆に高句麗は百済と連合して新羅を攻撃した。そこで新羅は唐と接近した。

【百済滅亡】
百済は660年、唐と新羅の連合軍により滅ぼされ、焼き払われた。唐は熊津に都督府をおき支配しようとしたが、それに対して百済復興運動が起きた。その中心だった鬼室福信は日本にいた王子豊璋を迎えた。しかし内部の分裂で弱体化してしまった。日本からも援軍を送ったが、白村江(はくすきのえ)の戦いで負けてしまった。

百済が亡びたことにより、日本の政治も大きな変化が起きた。日本にも多くの亡命者が来るとともに、新羅の侵攻に備えて多くの朝鮮式山城が作られたり、防御態勢が整えられた。日本に行った百済系の渡来人の中には百済王氏をはじめ奈良時代以降の日本の政治や文化に大きな影響を与えた者も多い。

現在の扶余の町は南北に2つのロータリーがあり、扶蘇山にまっすぐ進んでいる。これは植民地時代、扶蘇山に扶余神宮を造ろうとしたことに合わせて行われた都市計画によるものである。

扶余三山の1つ、浮山(부산:プサン) 白馬江(扶蘇山百花亭より) 扶蘇山下の寺院跡
 
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