鬼室神社(滋賀県日野町)
神社全景 伝鬼室集斯墓

百済系渡来人の多かった蒲生にある。祀られている鬼室集斯は百済系渡来人である。この地域は天智天皇時代に百済系の住民が多く移住させられた地域である。日本書紀には669年に、佐平(百済の官位)余自信、佐平鬼室集斯等男女700人を近江国蒲生郡に遷すという記録がある。近くには亡命百済人が建てたとされる石塔寺三層石塔やオンドル遺跡が多く発掘されている。

結局、鬼室集斯は学識頭という今で言う文部大臣になった。律令体制下での学校制度の創設を百済からの亡命知識人に頼ったのであろう。近江大津京ではこのような渡来人を重用するためこの地域に百済系渡来人を移住させたと考えられる。一方で新羅系、高句麗系の渡来人の多くは東国へ移された。関東には高麗郡はじめ新羅・高句麗系の遺跡や伝承が多く残る。

660年に滅亡した百済はその後も復興運動が続けられた。その中心人物の1人が鬼室福信であった。しかし、その復興運動も白村江の戦いによって挫折する。その流れで日本に多くの百済人が避難・亡命・渡来した。特に百済系の遺跡が百済王神社はじめ、関西を中心に多く残る。鬼室福信の息子である鬼室集斯もこのときに日本に来て、最終的に蒲生野に定住したと考えられる。

神社そのものは本来「不動堂」と呼ばれていたが、この裏から「鬼室集斯墓(正面)、朱鳥3年戊子11月8日歿(左面)、庶孫美成造(右面)」と彫られた「八角形」の「墓石」がでてきたため、鬼室神社と呼ばれるようになった。墓石は11世紀のものと考えられるが、今も本殿裏の石屋のの中に祀られている。なお、父の鬼室福信は韓国扶余郡恩山面、恩山別神堂に祀られていて、その縁で姉妹都市提携が行われている。

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