日本の渡来人
【日本と渡来人】
日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれるが、これには東アジア全体の動きと、日本(ここでは地域名として日本を使う)の王権の伸張、そして日本の朝鮮半島、大陸政策との関係を考えなければならない。言い換えると、王権との関係で渡来人(=帰化人)をどう考えるかということである。渡来人が日本に来たということともに、渡来人を日本に引きつける日本側の力も大きかったと言うことである。

さらに王権と関係を持った渡来人以外にも、日本に渡来した人々がいた。長野県に見られる渡来人関係の遺跡など、中央との関係では説明の付きにくいものもあるからだ。

【第1の波 紀元前5世紀-3世紀】
第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(403-221)で、群雄割拠の時代を迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多く、さらにこれに押し出されるように朝鮮半島から日本に来た人々が多くいた。彼らの持っている稲作の技術によって、日本はそれまでの縄文時代から農耕を中心の弥生時代に移行した。集落も稲作に適した平野の近くに作られるようになった。

【第2の波 4世紀-5世紀】
日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が南下して、それに押されるように高句麗朝鮮半島を南下しはじめ、新羅は高句麗の影響下に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増えた。この時期日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っていた。そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿内から西日本へ勢力を拡大した。この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との関係の深い漢(あや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。これらのうち漢氏の東文(やまとのあや)氏の力が強くなる。

ヤマト政権は伽耶の鉄資源を巡り朝鮮半島にも勢力を伸ばしていたが、その軍事力を目当てに百済が関係を持ち、ヤマト政権に七支刀を送っている。しかし伽耶のヤマト勢力は、北から進出した高句麗に敗れた(400)。高句麗の圧力によりこれをきっかけに百済、倭とも中国に朝貢する(倭の五王 413-502)。一方で高句麗の騎兵の影響を受けて、乗馬の風習が顕著になる。西文(カワチノアヤ)氏の地盤の河内地域にこれに関する伝承が多い。

【第3の波 5世紀末-6世紀】
雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)、熊津に遷都し、さらに泗沘(扶余)に都を遷す(538)など深刻な政治情勢に陥り、日本は機内中心の古代国家の形成が本格化していた。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術として、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。

今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦部、須恵器をもたらした陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。

彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤であった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に異なった地域を形成していった。河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うようになる。渡来人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群集墳が築かれるようになった。

【6世紀の渡来人】
こうした渡来人の勢力を蘇我氏は接近した。そのため積極的に仏教を受容しようとした。仏教の公伝は538年とされるが、それ以前でも東漢氏のいる高市郡で司馬達等が継体天皇の時に草庵を営んでいたという。いずれにせよ百済系の仏教の強い地域であった。蘇我氏は司馬達等の娘を尼僧、善信尼として、これも漢氏一族の豊女と石女と一緒に百済へ派遣して仏教を学ばせた(543)。帰国後10人あまりが得度したが、いずれも漢氏系である。

6世紀の後半には、ヤマト政権と高句麗との交流が始まり(570)、高句麗を通じた文化流入が始まった。飛鳥寺では高麗尺を使った。高句麗の使節が日本に来たときに警護したのは東漢氏であるが、彼らはそれ以外にも新羅征討計画(602)、壬申の乱(両軍とも)で軍事力において大きな役割を果たした。さらに造仏造寺など土木工事にも活躍した。さらに外交でも外国の事情に明るい渡来人が利用され、漢氏系の高向玄理や南淵請安が派遣された。

一方で秦氏は中央政権との関係よりも地方の豪族から力をつけてきた。主に京都盆地、近江愛智軍、摂津豊島に分布して資材を蓄積した。京都広隆寺に見られるように、新羅系の影響が強いとされ、蘇我氏でも蘇我本家に反する人々が秦氏に接近した。豪族的性格が強かったため、彼らの信仰と、固有信仰が融合した。そのため稲荷、賀茂社、松尾神社の神主にもなっていった。

【第4の波 7世紀後半】
新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。また、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668)によって一度途絶える。日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。こえに対応して百済人男女400を神前郡(665)、男女2000名を東国(666)、余自信ら男女700名を近江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも高麗若光や背奈福徳等が来ているが、高麗人687名を常陸国(687)に、さらに1799名を武蔵国(716)に配している。新羅とも国交が回復して(668)、新羅人を下野国に配した(持統期)。

大和朝廷は百済復興運動に失敗して、国内体制を立て直す必要が出来た。そのため渡来人の多い近江に都を一時的に遷した。沙宅招明、鬼室集斯、憶礼福留など百済からの渡来人を積極的に登用した。これ以降渡来人の勢力は、この時期に百済から渡来した人々が中心となっていく。一方で百済人2000名が東国に配されている(666)。

【奈良・平安時代】
一方で漢氏系集団はそれぞれの地域に土着化する。秦氏も同様である。地方官人クラスとして忌寸を称する帰化人集団が増えてきた。天武、持統朝になると百済男女214名を武蔵に、高麗人56人を常陸へ配するなど、渡来人を関東などの遠隔地に配するようになる。これは、大宝律令以降(701)、外国使節の往来する道路の近くに外来人を置かないとすることと、遠隔地の開発が眼目にあった。この流れで上州には新羅系渡来人を中心とした多胡郡が置かれ(711)、武蔵国の未開の地には新羅人による新羅郡が置かれた(758)。彼らはそれらの地域で土着化していく。

平安京に遷都した桓武天皇は母が渡来系であったため、秦氏の勢力が強くなる。また、東漢系の坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵愛を受けた。その息子が坂上田村麻呂である。しかし9世紀にはいると、朝鮮を蕃国と見る思想が強まり、新羅人を陸奥に配したりした。これに対して駿河、遠江の新羅人が反乱を起こすこともあった(820)。830年には帰化を認めなくなった。一方で北九州や西国での新羅との交流などは続いていった。

このような流れの中で帰化氏族は始祖を中国に求めたり、8世紀に日本風の氏に改姓するものも増えた。この中で武蔵の新羅人が姓を金に変えたり(728)、上州の新羅人が吉井に姓を変える、百済王氏の一部が三松氏に変えるなど、全国的に名字が変えられ、一見渡来系とは分からない者も増えていった。この流れによって、日本が対外関係が希薄になることに合わせるように、9世紀に入ると渡来人と、日本側の人々との間に融合が起こり、「渡来人として」の姿は消えていく。もちろん、その後も様々なところに渡来人の影響は形をかえて顔を出してはいるが。

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