金海(김해:キムヘ)
【金官伽耶】     こちらも参照のこと
金海は釜山の西側、洛東江の対岸にある。金海平野の西北端で、新石器時代から鉄器時代の貝塚、支石墓、古墳などが散在する。遺物の中には、中国の王莽時代の貨泉と炭化米がある。現在は広い平野であるが、このようになったのは比較的最近のことで、朝鮮時代でも海として描かれている。しかし川による土砂の堆積や干拓によって、現在のような平野となった。元海だったところは現在でも軟弱地盤で、高層マンションなどが建てられない。一方、金海の近くになると高層住宅がでてくる。このような洛東江の氾濫原であったため、金海の地域は洪水に見舞われることも多く、当時の遺物は地中2m近いところに埋没していることも多い。

伽倻時代、金海には「金官伽耶」があった。3世紀までの狗邪韓国が前身である。もともとは内陸にあったが、3世紀頃洛東江河口部の精力が大きくなり、金官時代をむかえた。これは洛東江河口に立地するために、その奥にある伽耶諸国の出口を押さえていたことと、日本との海上路、日本海や黄海への航路等を押さえられたからである。日本との交易の拠点となったため、弥生土器や甕棺、巴型銅器、翡翠製品、黒曜石の石器など倭系の遺物が多く出土する。一方で、九州からは、伽耶やこの地を経由したと思われる楽浪系の遺物が多く出る。

【金官伽耶の成長】
地政学的な条件だけでなく、近くから鉄が出るため、鉄の生産技術を支配することができた。砂鉄か鉄鉱石かまではわからないが、紀元前1世紀くらいから製鉄の技術が確立していた。すなわち、それまでの青銅に比べてはるかに硬い鉄を支配できたのだ。強い武力を持つことができ、同時に農耕を支配することが出来た。そのような条件のもとに、3世紀くらいからクニを形成し始めて、4世紀には伽倻の盟主的地位となった。特に4世紀には北方の騎馬民族の文化の影響を強く受けるようになる。

一方で、鉄を求めて様々なクニの勢力争いが起こる地域でもあった。実際、出土した弥生土器を見る限り、金海に渡った倭人が作製したと思われるものも出土している。また、好太王碑によれば、400年には高句麗が新羅慶州にいた倭人を追撃して金官伽倻まで攻めてきている。好太王碑では「任那加羅」と書かれるが、5世紀に中国南朝と倭の五王の間でやりとりされる称号に出てくる「任那」は「金官伽耶」のことと考えられている。

【滅亡】
5世紀高句麗、新羅の攻撃(400)によって打撃を受けた。新羅の勢力は洛東江の対岸までせまり、金官伽耶が自由に洛東江を使った貿易をすることが出来なくなった。そのため金官伽耶の力は落ち、盟主の地位は大伽倻に移った。532年、金官伽倻の最後の王、仇衡王(仇亥とも書く)は新羅に降伏した。仇衡王らは新羅の慶州に移され新羅王族に編入されたが、彼の曾孫が新羅の三国統一で活躍した金庾信である。

金海は朝鮮時代には都護符がおかれ、1931年に邑(日本の町にあたる)に昇格した。

洛東江 金海平野、マンションは対岸の釜山側 金海出土の弥生系土器

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