日本の歴史(1)

【弥生時代】
日本列島には旧石器時代(10万年以上前)から人の生活の跡がある。旧石器時代も縄文時代も大陸の影響が認められるが、弥生時代に入ると、影響が急速に明確化する。中国大陸で発生した農耕と鉄器文化が秦(前221-前202)、漢(前202-220)の成立によって周辺民族に影響を与えたからである。

稲作文化は朝鮮半島南部から九州北部へ伝えられた(前5-4C)。このとき青銅器、磨製石器、機織り技術も大陸から入り弥生文化が成立するが、それは、縄文文化と融合したものであった。また、朝鮮半島で広がっていた支石墓も北九州に広がる。すでにこの時代、九州の甕棺墓の中には中国鏡や青銅器を副葬したものがある。

弥生時代、農耕社会が成立したことで、クニも成立する。小国の王は「前漢」(前202-8)の時代に楽浪郡に、「後漢」(25-220)の時代には「奴」国王が洛陽に(57)、別の倭国王も皇帝に生口や(107)使者を送った。「魏・蜀・呉」三国時代(220-280)に入ると、「魏」は、「蜀」に近づいた高句麗に対抗するために朝鮮半島南部や「倭」に関心を持った。「邪馬台国」の卑弥呼は魏に使者送った(239)。しかし日本からの使者の記録は266年を最後に途絶えた。

【大和政権と朝鮮半島】
弥生時代後期より各地に大きな墳丘を持つ墓ができる。3世紀後半になると西日本を中心に前方後円墳が登場するが、もっとも規模の大きいものが大和に出現した。この政権を「大和政権」という。中国が「南北朝時代」(280-589)に入り周辺への支配力が弱まると、東アジアの諸民族は国家形成に向かった。朝鮮半島では既に成立している高句麗とならんで、百済新羅が起こったが、伽耶は統一政権になることはなかった。

倭は朝鮮半島の鉄 資源を確 保するために早くから伽耶と関係を持っていた。ここからは縄文時代の土器以来の日本由来のものが多く出てくる。また、百済とは伽耶の利益(日本側)や、高句麗との対抗(百済側)のために関係を結び、百済の近仇首王から七支刀を送られたり(369)、王族の多くが日本にいた。一方で、ソウルにある百済の王城からは日本の土器が発見されている。このような関係のため、倭国も高句麗新羅と戦った(4世紀末)。高句麗との戦いによって、倭人は騎馬技術を学ぶ必要を感じたのだろう。古墳も5世紀中頃から刀剣、甲冑などの鉄製武器、鞍などの馬具が増え、高句麗などの影響も見られるようになる。

【倭の五王】

朝鮮半島南部を巡る政治・軍事状況を有利にするために、5世紀初めより倭の五王が相次いで「南宋」に朝貢して、斉(允恭天皇 410-453)のときに、それまでの「安東将軍倭国王」から「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将郡倭国王」の称号を得た(451)。日本側は伽耶については「任那」だけを「南宋」に要求したが、称号には「加羅」も加えられていた。なお伽耶の地域には5世紀の前方後円墳が出てきて、倭人との関係を思わせる。

【大和政権と渡来人】
朝鮮半島からは戦乱を逃れるために多くの渡来人が日本に来た。書紀には西文氏東漢氏秦氏の祖先とされる王仁阿知使主、弓月君の説話が伝えられる。彼らは4世紀に渡来し、5世紀には鉄器、須恵器の生産、機織りなどの技術者も渡来し、韓鍛冶部、陶作部、錦織部、鞍作部などに組織して各地に居住させた。漢字も伝えられた。さらに、早い時期から高句麗の人々も渡来していたようで、長野、山梨、東京群馬山陰、北陸などにその痕跡がある。

6世紀に入ると主に百済からの渡来人が活躍し、五経博士(儒教)、医・易・暦博士、観勒(602 暦本)、曇徴(610 高句麗 紙・硯・絵の具の製法)、司馬達等(中国、孫は鞍作鳥)らが登場する。また仏教も伝えられた(538)。その他にも百済・高句麗からの伝来は多い。百済に留学する者も多かった。大和政権は「氏姓制度」を行った。氏には臣・連・君・直・造・首などがあった。また、朝廷の政務や祭祀などの職務は伴造らによって行われたが、渡来人は伴造や造になることが多かった。

こうした中で大和王権は力をつけていき、5世紀後半には大和の「大王」の勢力が東国九州にも伸びたことがわかる。それまで吉備、毛野等で作られた大型古墳も減ることからもわかる。6世紀に入ると古墳も竪穴石槨から、大陸式横穴式石室に変わる。一方で6世紀から各地で群集墳が現れるようになる。

【飛鳥時代と伽耶】
5世紀の半ば過ぎ、高句麗の南下が続くが、6世紀には「百済」(538 扶余遷都)、「新羅」(そのころの新羅)はそれぞれ政治制度を整えるとともに、「伽耶」に勢力を伸ばした。最初「百済」が勢力を伸ばし、「倭」も「百済」による「伽耶」4国の支配を認めた(512)が、「倭」は「伽耶」の反発を買った。この頃の「伽耶」の盟主、「大伽耶」は「新羅」と通婚した(522)。これに危機感を持った外の「伽耶」諸国は「倭」に援軍を求めるが、「倭」では、これを妨害しようとした筑紫の磐井との間に乱がおきた(磐井の乱 527)た。

「伽耶」は「金官伽耶」(532)と「大伽耶」の滅亡(562)によって「百済」・「新羅」両国の支配下に入る。これによって朝鮮半島では本格的に、「新羅」、「百済」、「高句麗」が対立するようになった。「倭」は「伽耶」の勢力拠点を失ったが、その後も「百済」とつながりを保つことで大陸とのつながりを保った。また、磐井の乱を鎮めた大和政権は、各地に屯倉を置くなどして勢力を強めた。

一方で大和政権とともに多くの土地を支配するようになった豪族同士の対立も激しくなった。6世紀初め大伴氏は「百済」の「伽耶」支配承認をきっかけに失脚し、6世紀中頃には仏教受容を巡り新興の蘇我氏物部氏が対立した。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財産権を握り政治機構を整えた。このころの飛鳥には、5世紀前半、伽耶南部の勢力が落ちた頃にに安羅伽耶から来て、潅漑を行ったと思われる東漢氏と、5世紀後半、百済の漢城陥落に伴って来て東漢氏に属したと考えられる人々がいた。

【隋の成立と大和政権】
「隋」(518-618)が中国を統一すると(589)「高句麗」に出兵した。大和朝廷では蘇我馬子が物部守屋を滅ぼして政権を独占し(587)、崇峻天皇も暗殺した(592)。次に即位した推古天皇(592-628)は聖徳太子(574-622)を摂政として国政を担当させ、蘇我馬子と協力して国政の改革に当たらせた。聖徳太子は「伽耶」の回復を図ろうとして、「新羅」に大軍を送ることを考えたが成功せず、国内体制を整えることとした。

その中で「冠位十二階の制」(603)を定め、氏姓制度の門閥主義を脱して、渡来人の登用に道を開いた。太子は、「伽耶」の復興を有利にするためもあって「倭の五王」以来途絶えていた中国「隋」との国交を開き、遣隋使を派遣した(607〜894)。こうした中で仏教が朝廷の保護を受けて急速に発達して、飛鳥寺法隆寺などが創建され、諸氏もこぞって氏寺を建てた。聖徳太子自身「高句麗」や「百済」の渡来人から仏教を学んで解説書を書いている。このころ、それまで渡来人の影響を受けて発達した古墳文化の上に、「百済」や「高句麗」を通じて伝えられた文化の影響を受けた飛鳥文化が生まれた。これらの中にはペルシア文化の影響も見られる。後の斉明天皇の時代の人面石などにペルシアの影響が現れている。

 【律令政治】
中国では「隋」が滅び、「唐」がおこった(618)。「唐」は律令に基づく中央集権の国家体制を作った。朝鮮半島でも「高句麗」、「百済」、「新羅」とも それぞれが 中央集権化を目指すとともに、朝鮮半島の統一を目指 した。日本では蘇我蝦夷が大臣となり、蘇我入鹿が権力の拡大を図り、山背大兄王を自殺させた (643)。しかし、東ア ジアの変動が伝えられると、日本でも豪族の世襲から、唐式の中央集権体制をめざす動きが高まった。蘇我入鹿の権力の拡大もこの一環であるが、これ に対して、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇 我親 子を滅ぼし(乙巳の変)、「大化の改新」を行った(645)。孝徳天皇(645-654)は都を難波に移し、親新羅政策をとろうとしたが、その晩 年、中大兄皇子は再び飛鳥 に戻った。孝の死後、再び皇位に付いた斉明(皇極天皇)は、親新羅政策から親百済政策に外交政策を戻した。

【朝鮮の動きと大和政権】
朝鮮半島では「新羅」武烈王が「唐」と連合して「百済」を滅ぼした(660)。「百済」は「日本」に救援を求めた。斉明天皇はこれに応じたが、日本軍は白村江の戦いで敗北して(663)、朝鮮から退いた。さらに「新羅」は「高句麗」も滅ぼし(668)、「唐」の勢力も追い出して朝鮮を統一した(676)。「高句麗」や「百済」からは大量の王族・貴族等が日本に渡ってきた。その影響で宮廷で漢詩文が盛んに作られるようになった。

日本では「新羅」や「唐」に対抗して防人山城、太宰府の水城設置などの国防を強化するるとともに、内政に力を注いだ。さらに唐との回復もはかり遣唐使を再開している(665)。天智天皇は(668-671 中大兄皇子)は都を近江に移して、唐式の国作りを図ろうとした。近江への移転については飛鳥の人々の反対も強かったという。天智天皇の死後、大海人皇子と大友皇子の間に壬申の乱(672)が起こり、これに勝った大海人皇子は天武天皇(673-686)となり強大な実権を握った。天武天皇は「百済遺民」との関係を重視したため、「唐」との関係は一時期途絶えた。日本は「新羅」を通じて最新の文化を得ている。その後持統天皇(690-697)の時代を通じて中央集権国家体制を完成させた。また、持統天皇は都を藤原京に移した。

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