日本の歴史(2)

【律令国家の完成と白鳳文化】
天武、持統の時代を通じて律令体制のもとを築いた日本は、藤原不比等らによる大宝律令(701)、班田収授法などによって完成した。全国を畿内・七道にわけ、さらに国・郡・里にわけた。この時期に多くの郡が創設され、百済以外の渡来人も、主に関東に配され、多胡郡(711)、高麗郡(716)、新羅郡(758)等が作られた。一方で関東にいたそれまでの勢力は東北に配された。土地については班田収授法が行われ、良民には租庸調と兵が義務づけられた。

7世紀から8世紀にかけて遣唐使をほぼ20年に1度派遣され、新羅との間も使節が往来した。薬師寺が建てられ、法隆寺壁画や高松塚、キトラ古墳壁画もこの頃のものである。権威の象徴が古墳から寺院に移るころである。薬師寺は塔が2基建てられるが、この様式は直前に新羅でおきたものであるし、高松塚やキトラの壁画は高句麗の影響が指摘されている。

新羅外交は日本側が朝貢形式の使節派遣を要求したのに対して、新羅は対等外交を求めるようになった。新羅は日本の攻撃に備えて城などを造ったり、「王城国」と国名変更を告げたりしたので(735)、日本の中には新羅攻撃を主張する者もでた(藤原仲麻呂 764)。

一方で朝鮮半島北部から満州にかけておきた渤海は新羅・唐と対抗するために数多くの使者を送ってきた。一方で日本からも13回使者を送っている。新羅との関係悪化で、新羅経由で遣唐使を送れなくなったことと、直接東シナ海を横断することが困難なためである。

【奈良時代】
710年、都を平城京に移す。長安にならった都市で、薬師寺をはじめとする飛鳥地方にあった多くの寺が移された。政府は蝦夷、隼人、薩南諸島に対する支配を進めていった、8世紀半ばになると、藤原氏の進出によって政界に動揺が高まった。長屋王の変(729)、藤原広嗣の乱(740)等が続き、都も恭仁、難波、紫香楽と転々とした。

これに対して、聖武天皇(724-749)は鎮護国家の思想によって政治や社会不安をしずめようと考えて国分寺建立の詔(741)、大仏造立の詔(743)をだした。これにより東大寺の大仏が完成し開眼供養が行われた(752)。大仏鋳造の総監督は国中連公麻呂で、祖父が百済からの渡来人(663)。大仏の鍍金は陸奥国司百済王敬福の献上による。大仏殿の建立は新羅系渡来人が行った。このとき新羅からは金泰廉はじめ700名を越える使節団を送ってきた。そのときの贈り物は正倉院に多く残されている。なお、大仏の開眼供養の前年には慶州で仏国寺が再興されている。同じ鎮護仏教の寺である。

聖武天皇の死後、皇族や貴族の反乱が続いたが、藤原氏の建てた光人天皇(770-781)は律令政治の再建に努めた。一方農村では租庸調の厳しさから口分田を捨てたり、律令制の支配を逃れる者が増えた。そのため政府は三世一身法(723)、墾田永年私財法(743)を出した。これによって地方豪族は私有地拡大に走り、東大寺領などの初期荘園が発生した。

都では天平文化という華やかな貴族文化が栄えた。遣唐使、新羅、渤海との交渉が8世紀後半から貿易中心に変わったため、貴族の関心のまととなったこともある。古事記(712)、日本書紀(720)、万葉集などが成立した。仏教も南都六宗が形成された。

【平安時代前半】

光仁天皇は政治の再建に努め、桓武天皇(781-806)は都を、水陸の交通の便のよい山背国の長岡京(784)、平安京(794)に移した。桓武天皇は貴族の勢力を押さえ政治改革に取り組んだ。兵制についても軍団と平氏を廃して「健児」を採用するようになった。農村では9世紀には班田の施行も難しくなり、中央集権的体制は崩れていった。

このような中で唐の影響を受けて、密教が盛んとなった。最澄、空海は遣唐使とともに渡唐した。最澄の弟子の円仁、円珍らも渡唐し、本格的に密教が取り入れられた。

【9世紀】
9世紀半ばになると藤原北家の権力が絶大となり、10世紀広範囲は絶頂期を迎え、摂関政治の時代になる。この過程で宇多天皇(887-897)は菅原道真を登用して藤原氏を押さえようとしたが、宇多天皇が死ぬと道真は追放された。菅原道真の建議で遣唐使が廃止された(894)。すでに新羅との関係は中断されていた(836)。また新羅の動乱が西日本にも影響を及ぼすようになったために、太宰府での新羅商人との取引も停止された(842)

中国は宋 の時代にはいるが、宋とは国交を結ばなかった。渤海、新羅も滅び契丹高麗となったがこれらの国とも国交は結ばなかった。一方、中国東北で力を持ち始めた女真族(刀伊)が九州北部に来襲したこともあった(1019)。しかし僧侶などの渡航は続き、高麗鐘なども日本に多く残されている。海外の珍宝を求める動きも強く、福岡を中心に貿易は続けられた。

国際関係の変化は文化にも影響を及ぼし、国風文化の時代となった。カナ文字が成立し、古今和歌集が編集された。源氏物語をはじめとする文学が成立した。このような「国風文化」が中国に紹介されることとなった。宗教面でも本地垂迹説が生まれ、浄土教が流行し、末法思想が強まった。このような動きは新羅、高麗でもあった。また建物には寝殿造りが現れた。

【律令体制の崩壊】
一方で10世紀初めになると、律令体制の変質と崩壊がはっきりしはじめた。政府は国司に一国内の統治をゆだねるようになった。初期荘園のかわりに寄進地系荘園が現れ、開発領主などの権力者を領主と仰ぐようになった。地方政治が大きく変質して行く中で、豪族や有力農民が、勢力を拡大するために武装して武士となった。関東では良馬を産して武士の成長が著しかった。その中で平将門の乱(932)、藤原純友の乱(941)がおきた。中央ではこのような地方武士の力を知り、治安維持に利用するようになる。

武士の力は11世紀に入るといっそう強大化した。東国では、源氏が進出した。東北では奥州藤原氏が力を持ち、京都文化を移入したり日本海を巡る交流や、北海道からさらに北方との交易によって独自の文化を育て、繁栄した。

中央では院政の時代にはいるが(1086-92)、院の力と日宋貿易を背景に平家が力を持った。なかでも平清盛は絶大な権力を持った。11世紀後半以降日本と高麗、宋の間で盛んに商船が往来するようになっていた。このとき宋船などの持ち込んだ物は日本の文化に大きな影響を与えた。平清盛の晩年に平氏打倒の動きがおこった。5年近い内乱を経て、平家が壇ノ浦で滅亡すると(1185)、東国では源頼朝を中心に権力が集まり、鎌倉幕府の成立(1192)へとつながる。日本史はこうして中世へと移る。

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