高麗時代
【後三国時代と高麗】
9世紀末期、新羅は衰退しその勢力は朝鮮半島南東部に縮小した。あちらこちらに地方政権ができたが、なかでも朝鮮半島南西部の「後百済」、朝鮮半島中部の(のちの)「摩震」が有力であった。「後百済」は新羅景哀王殺害した(927)。一方で朝鮮半島中部で実権を握った弓裔(901)は「摩震」をたて(904)、ほどなく国号を「泰封」に改めた(911)。弓裔は「高句麗を滅ぼした新羅」を敵視したが、その弓裔も王建に実権を奪われた。

王建は家臣に推戴されて王となり、国号を「高麗」とした(918)。「高句麗」を継ぐ国という意味である。王建は翌年開京(北朝鮮開城)に都を定めた。王建は平壌を北の抑えとした。新羅とは和平の態度で臨み、新羅王室の降伏を受け入れた(935)。後百済には戦闘で勝ち、領土を合わせた(936)。

【高麗初期の国際情勢】
高麗が統一した頃、中国では五代時代であった。高麗は五代諸国の冊封を受けていたが、963年、宋の冊封を受け入れた。一方満州では契丹が強まり高麗との通好をもとめたが、かえって高麗は契丹を攻撃した。契丹によって渤海が滅びると(926)、渤海の移民が高麗に合流するとともに、契丹の驚異は増大した。さらにこの地域では女真の勢力も伸びていた。

一方高麗は日本との通好を求めたが、日本はこれに応じなかった。日本とは正式な国交は開かれなかった。その一方で民間貿易は盛んであった。

【契丹対策と国家体制 11世紀】
満州では契丹の力が伸びて、宋と対立する。契丹は宋と結んでいた高麗に3度にわたり本格的な侵入を行った(993,1010,1018)。2回目の侵攻の時は開京が廃墟になってしまった。3度の侵攻により高麗は契丹と冊封関係にはいるとともに(1022)、北部に千里の長城(1033築造開始)を築いた。

このような状況の中で、高麗の政治体制は整えられた。宋の影響による中央集権化と中央官制の整備。五廟と太廟および社稷の造立という中国的国家祭祀の開始、儒学重視と科挙の実施などが上げられる。ただし文科のみで武科はなかった。実際の政治でも、文官が優位で行われた。

一方で仏教も興隆した。契丹の撃退を願って高麗大蔵経が彫られた(1020)。各地に寺院が造られた。新羅末から高麗初期には禅宗が流行していたが、11世紀にはいると天台宗が流入した。これらを統合する形で、12世紀初めに曹渓宗がおこり、朝鮮独自の仏教が展開した。さらに新羅末に流入した風水地理説が発展し、政治問題と絡んで国内の南北対立が起こるようになった。

【女真の侵入と武臣政権 12世紀】
12世紀初め満州では契丹に変わり女真(金 1115)が勢力を伸ばした。高麗とは千里の長城以北の地を巡り紛争状態であった。高麗は対宋貿易を続けていたが、宋の南遷を見極めて「金」の冊封体制下に入った(1128)。

この頃から国内でも内乱状態になった。高麗当初の社会的矛盾が大きくなってきたのだ。特に毅宗の奢侈や土木工事に反発した武臣がクーデターを起こし、新しい王を擁立した。以後約100年間、武臣が政治の実権を握る「武臣政権」が続く(1170-1270)。当初は文臣を除いた政権運営であったが、途中から文臣も入れるようになった。武臣は正規軍として「三別抄」を組織した。

【モンゴルの侵攻と降伏 13世紀】
13世紀、満州では女真に代わりモンゴルの勢力が伸びる。モンゴル2代オゴタイのとき、使者の殺害を口実に高麗に侵攻した(1231)。以後4回にわたり侵攻して(1236,38,54,57)、国土は荒れ果てた。38年の侵攻ではモンゴル軍は東京(慶州)まで攻めて、新羅の皇竜寺を焼失した。契丹撃退を願った大蔵経の版木も焼失した。高麗王朝は島である江華(江京)に遷都して(1232)抗戦体制を取った。また、モンゴル撃退を祈念して高麗大蔵経を彫りはじめた(1236)。このときの大蔵経は日本にも多く残されている

1259年、高麗は太子(元宗)をフビライに送り、モンゴルに降伏した。国内では風水地理の影響による反乱状態で、北部はモンゴルに投降した。このため北部はモンゴルのものとなった(一部は後に高麗に戻る)。

高麗は都を開京に戻し(1259)、武臣政権は終わりを告げた(1270)。一方武士政権の正規軍であった三別抄は解散命令に反発して反乱を起こした。モンゴルの状況を伝えに日本に使者を送ったこともある(1271)が、結局殲滅されて(1273)、本拠地の済州島は元国(モンゴル)の直轄地となった。済州島が馬の産地になったのはこのときからだと言われる。

続いて高麗・元は連合して日本遠征軍を送った(1274,81)がいずれも失敗した

【元との冊封関係】
元に降伏した後の高麗は、それまでの中国歴代王朝と同じく冊封体制下に入った。しかし、それまでの冊封体制が基本的に冊封された国の内政にまでは立ち入らないのに対して、元は高麗を取り込む体制を取った。高麗国王は忠誠の証を示さなければならない。王が死亡した後に与えられる号は「忠○王」であるし、官職、官制もモンゴル式に改められた。さらに世子(王子)はモンゴル皇帝の娘と結婚して娘婿になった(駙馬)。

モンゴルの影響は多く残され、王室関係の言葉などをはじめとする韓国語にはモンゴル語の影響が見られる。仏教にもラマ教の影響の強い石塔などが残されている。さらに、焼き肉など肉を食べる習慣もこのころ定着したとされる。このような中で、高麗の国際的地位は高まった。

【元の衰退と高麗滅亡】
14世紀に入ると元が衰退し始めた。中国では紅巾の争いが起こり、元に追われた紅巾軍が開京まで逃げ込んだこともあった(1359-61)。一方南からは1350年頃から倭寇の活動が活発となり、開京付近まで侵攻する者も現れた。1389年には対馬を攻撃したが、成功しなかった。

この中で恭愍王は反元運動を開始した(1356)。元の年号を使用停止し、北方の元に割譲されたところを取り返した。これに対して国内では反元勢力と親元勢力の争いがおきた。1389年、明が成立すると恭愍王は元との国交を断絶した。1374年以降親元勢力が中心となり明と元の両方をにらんだ政策を行った。

1388年、明国が「鉄嶺」以南を高麗領にすると通告してきたことをきっかけに反明行動することとして、倭寇撃退で功績を挙げていた李成桂に出陣させた。李成桂は出陣に反対して、鴨緑江の中州で軍を回帰させ開京を占領した(威化島回軍)。翌年恭譲王が擁立されたが、1392年李成桂に禅譲する形で、高麗は滅亡した

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