新
羅の歴史
新羅の都、慶州には古くから人が住んでいた。南方式の支石墓が残っていること
か
らもわかる。紀元前後、朝鮮半島南部には馬韓、弁韓、辰韓の3つのクニの集まりがあった。これが次第に成長し、それぞれ百済、伽倻、新羅へと発展した。伝説では紀元前57年にここにあった斯露6村の村長が、国のあり方を相談していてたところ、馬のいななきとともに生まれた初代王朴赫居世にこの地域の統治を任せたことで新羅ができたことになっている。その後昔氏、
金氏と王系は連なるが、それぞれ始祖伝説にまつわる発祥地がある。
実際に国がまとまり始めたのは、4世紀初め奈勿王(356-402)の頃とされる。同じ頃百済では近肖古王が
百済をまとめはじめ、一時衰退した高句麗も
力を伸ばし、楽浪郡、帯方郡を攻撃するようになった。さらに4世紀末になると、高句麗は
本格的に朝鮮半島に勢力
を伸ばして、新
羅と直接境を接するばかりか、高句麗の強い影響の下におかれるようになった。一方で南から倭も
勢
力を伸ばし高
句麗軍と新羅
軍が倭の軍隊を慶州郊外の明括山城下で駆逐した。
高句麗の影響の下で新羅は国力をのばすと、高句麗と対抗
していた百
済と同盟を結ぶようになった。5世紀後半に
は本格的に高句麗と対抗するようになる。古墳公園や路東洞、路西洞に残る古墳はこの頃のものである。高句麗や百済と異なり、新羅の王宮は月城から動いていない。国の始まりから滅亡まで一度も遷都していない。慶州という土地の条件がよかったの
だろう。
6世紀に入ると、正式に「新羅」を名乗り、統治者が「王」を名乗る。それまで
天変地異などを原因に王権が移っていたものが世襲制に変わる。法興王(514-540)のときに律令制を整え、中国北部の遼と関係を結び、仏教を公認した
(532)。受容までかなり時間がかかったようで、百済や高
句麗に比べて、三国の中ではもっとも遅く、百済が都を扶余に移して日
本
で仏
教が
伝来したとされるとき(538)とほぼ同時期である。このときに土着勢力とかなり軋轢があっ
たようである。法興王は、さらに金官伽倻を併合するなど領土の拡大を図った。
次の真興王(540-576)のときには仏教の力で国を治める
ことに力をおき、皇竜寺な
どが造られた。また百済が高句麗から奪い返した漢城を新羅が奪うことで、百済、高句麗、新羅の三国は決定的に対立するようになった。こうした中、
新羅は非火伽倻や大伽
倻を併合して伽倻を滅ぼした
り朝
鮮半島北部の咸興
平野までその領域を広げ、566年に中国北斉に冊封された。王の回った昌寧やソウル北漢山などの4カ所に記念碑が残っている。
【三
国統一】
新羅は漢江から泰安半島を支配したことにより、中国との交易路ができあがった。その新羅が三国統一への一歩を進めたのは、善徳王(632-647)の時であった。伝説の多い
王であるが、百済との対抗が山場になったときで、金春秋(後の武烈王)を日本や
高句麗に派遣した。両国とも協力を拒否したため唐に援軍を求めた。唐は高句麗を滅ぼしたかったので、新羅と結ぶことで南北から高句麗を挟むことができ
た。
金春秋は王権を事実上奪い取り武烈王(654-661)となった。その後王系が武烈王系になる。それまでの王系を「聖骨」というのに対し
て、武烈王系を「真
骨」という。武烈王と次の文武王(661-681)の時に三国統一が行われ、唐との連合によって百済(660)、高句麗(668)が滅ぼされ、日本と百済が行った百済復興運動(白村江の戦い)にも勝利した(663)。このとき活躍した武将が金庾信で、断足山を
はじめとして彼にまつわる伝説を持つところは多い。
新
羅が三国を統一したことで、華やかだった百済文化の影響を受けて新たに発展した。特に仏教
や儒教が発達した。石仏もそれまでの古拙なものか
ら、新羅独
自のものに変わる。石塔も百済の石塔の影響を受けて、それまでの磚塔の作り方との折衷による新たな形式ができあがった。現在の朝鮮の石塔の基礎となっている。統治制度も唐の制度を取り入れ、五
京九県の郡県制が確立した。
聖徳王(702-737)の時に唐との関係が正式に回復した。このときにエミレの鐘が
鋳造された。そして景徳王(742-765)の頃に絶頂
期を迎え
た。仏国寺、石窟庵も景徳王のときである。この頃までは華厳経に基づいた護国の寺が多く造られたが、このころからは、個人のための寺も増える。このような寺跡が南山には多く残る。しかし、王の権力が絶対化した一方で貴族の反発も強まり、政治的混乱が始
まった。特に元聖王(785-798)以降、頻繁にクーデターが起こり、王権も衰退した。
8世紀半ばになると、地方に住んでいた貴族を中心に唐から流入した禅宗を信仰
するようになった。地方にも多くの寺が造られ、旧百済地域や、
安東(アンドン)などに地域独自の石塔が造られるようになった。興徳王(826-836)の頃には中国から風水思想も流入した。中央貴族は派手な生活を送り政治を顧みなく
なった。このころ日本と新羅の交流もほぼ途
絶えた。一方で庶民の生活は苦しくなり、生活のできない人は日本に渡る者も
出た。秦氏のように古くから日本に渡っていた者もいるが、それとは別である。
新羅に関連する遺跡は滋賀県栗東市や園城寺のように
関西にもあるが、その多くは関東地方に配置されたために、高句麗の渡来人遺跡と
並んで新羅に関係する遺跡・伝承も関東に残されている。埼玉県志木、新座などはこの758年に建郡された新羅郡の名残の地名であるし、711年に多胡郡が
できた
ことを記念した群馬県の多胡碑は新
羅式の書法で書かれ、さらにこの地域に住んでいる新羅人の記録が「続
日本紀」にでてくる。
907年唐が滅び五大十
国時代に
入ると、新羅の王権もいよいよ衰退し、後百済、後高句麗などをはじめとする地方政
権が多く誕生した。一方で中央貴族は華美におぼれるようになり、王も酒に溺れた。927年、景哀王(924-927)は鮑石亭での宴会中、後百済の甄萱に攻撃されて死亡し、次の高麗の都に連れ去られた敬順王(927-935)によって高麗王に王
権が譲られ国は滅亡
した。
その後も慶州は政治上の中心地として栄え続けた。そのため高麗時代、朝鮮王朝時代の遺跡も多く残っている。