法聖浦(법성포:ポプソンポ)
法聖浦の入り江 聖地化 マラナンダ像

法聖浦は霊光近くの漁村である。19世紀までは漁村としてとても栄えたところで、霊光よりも大きな町であった。

「三国史記」によれば、384年に東晋から胡僧、摩羅難陁(マラナンダ)が上陸して、百済に仏教を伝来した。その地点が法聖浦とされる。マラナンダは近くの仏甲寺に留まった。また、これをきっかけに漢城で寺が作られたとされる。法聖浦の入り江は、東晋から海路でまっすぐ入ってこられる場所にある。法聖浦の以前の地名は「芙蓉」「阿無」だったことから、初期の仏教と密接に関係があった地ともされる。

この頃、高句麗は前秦 −高句麗新羅と連携していたが、それに対抗して東晋−百済−倭とつながっていた。奈良県の石上(いそのかみ)神宮にある、近肖古王から送られたとされる七支刀も東晋の年号が刻まれている。

だが、4世紀当時、霊光一帯はまだ百済に属していない。また、漢城百済時代の寺院遺構は存在しない。馬韓地域に百済寺院の遺構も出てこないため、少なくとも4世紀に百済王室が取り入れるような仏教がここに上陸することはないであろう。また、南シナ海を直接渡ることもかなり危険である。中国からの航路も山東半島から渡るか、高句麗方面から海岸沿いのルートが主であった。

百済寺院は公州、扶余、益山周辺に多い。王権に関係する地域だけで、王権が統治するための道具としたと考えられる。特に威徳王の時代に、陵寺、王興寺などが作られるが、これらは北朝と関係の強かったときである。実際に北朝側の山東半島経由で仏教が入ってきていて、泰安半島にはかなり早い仏教遺跡がある、これらは山東半島との関係が強く、山東半島にいたペルシア系技術集団との関係が強く考えられている。このように仏教を入れたのは、その直前に新羅が北朝系の仏教を正式に受容したことの影響もあるとされる。

百済仏教は南朝系の影響が圧倒的に強い。それが法聖浦を通じて入っていったことは十分考えられる。複数の仏教伝来に関係する話が融合してマラナンダの話が出来上がったようである。

現在は干潟となってしまい、水深も浅い海だが、伝説に因み聖地化され、観光開発が行われている。

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