石村洞古墳群
3号墳 4号墳 2号墳
 
漢江(한강:ハンガン)流域には積石塚が残されている。石村洞(석촌동:ソクチョンドン)は漢江とほぼ同じ高さの微高地に築かれた古墳群であるが、1916年の時点では23基の積石塚と66基の円墳が残されていた。

当時の分布図では正確な様子が分からないが、積石塚は一カ所に固まっていたようだ。しかし、この石を利用して家の屋根を葺いたり畑にされて破壊されて、1987年には3号墳と4号墳が残されているだけであった。それを発掘整備した。

古墳は南側から、3号墳−4号墳−2号墳−外方内円墳−1号墳−5号墳と並ぶ。このうち積石塚として墳丘が見られるのは、3号墳、4号墳、2号墳である。これらは隣接してほぼ直線上に築かれているが、向きは一定でない。積石塚は高句麗の影響の墓制で、初期の百済でもその影響を強く受けた。

3号墳は一辺が50m程の大きさの巨大方壇積石 塚で4世紀のものである。土地を平らに地ならしした後、一番下に大きく長い石を置き、その上に自然石を積む。全体で3段からなるが、その平面の大きさは高句麗の将軍塚(広開土王の墓と考えられる)より大きい。もしかすると、3段以上あった可能性もある。古墳の周囲には古墳崩壊を防ぐ板石の痕跡が見られる。王陵級の規模であるが、遺物との関係から、近肖古王の陵であると考えられている。

4号墳は一辺が30mの方形基壇積石塚である。古墳のまわりを板石で補強しているが、高句麗の王陵ほど大がかりのものではない。3号墳にも板石の痕跡はあるが、こちらはかなりしっかりしたものだったようだ。2号墳は発掘によって復元されたもので板石はない。この両者は中を粘土で築き、表面に石をめぐらせたもので、3号墳に比べて土着化していると言える。

積 石塚は徐々に芯に粘土を使うなど、その形態は変わった。高句麗が平壌に都を移したあと、高句麗古墳も積石塚から土でつくられた横穴石室に変わる。その影響を受けて百済の古墳も横穴石室墳に変化して、公州で王陵に採用される。石村洞はその直前、漢城百済が滅びるまでの古墳群といえる。

少し離れて外方内円墳があるが、これは民家の下から礎石だけ出てきたものである。復元すると、日本の上方下円墳とほぼ同じ形になる。これと並ぶ1号墳も民家の下から発掘されたものであるが、2つの方墳が合わさったものである。

5号墳はこれらとはことなり、葺石墳丘の円墳で、この地域で唯一残っているものである。調査が十分には行われていないが、支配階層よりは若干階級の低い人の墓と考えられている。この墓の形式は公州に都が移った後は引き継がれなかった。

他に土壙墳、甕棺墓などが発見、発掘されているが、土壙墳2基は整備されて見学ができる。

1号墳 外方内円墳 25号墳

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