瑞山磨崖三尊仏

瑞山(서산:ソサン)は扶余(부여:プヨ)や公州(공주:コンジュ)から中国へ行く交易路の途中にある。そこに瑞山磨崖仏が彫られた。道行く人の安寧を願うためと考えられている。

磨崖仏は瑞山郊外の山の中腹、岩壁に彫られている韓国最古の磨崖仏の一つで、西暦600年頃に彫られた。いずれも古拙なほほえみを浮かべているが、本尊仏は高さ2.8m、右の脇侍は高さ1.7mである。左脇侍は半伽思惟像の弥勒像である。弥勒信仰はこのころ三国を通じて流行したものである。新羅でも断足山(단족산:タンジョクサン)磨崖仏に弥勒像が彫られている。

最古の磨崖仏は雲山磨崖仏であるが、その次のものである。雲山より若干百済化されているという。この時期山東半島で磨崖仏がはやるが、それが百済にも入ってくる。山東半島ではシルクロードを経てここにやってきた胡人が寺院を築いていた。そのための技術者集団もいた。彼らが山東半島で仏教を流行させた。末法思想も流行していて、その影響は王興寺の塔芯楚等にも見る事が出来る。その一部が泰安半島に移ってきたと考えられる。磨崖仏などの様式が山東半島に共通するからである。くしくも威徳王の時代、南朝よりも北朝の関係が強まる時期であった。

その影響で6世紀頃から朝鮮半島で石仏が彫られるようになった。その最初が磨崖仏であった。これは丸彫りの石仏と異なり、硬い岩壁に薄く仏像を彫るには技術がなければならない。そのために丸彫りよりも若干時期が遅れて作られる始めるのに、いきなり磨崖仏から始まるのである(日本の磨崖仏は柔らかい岩に丸彫りされる事例が多い)。このような技術が新羅に入り大きく発展することになる。

泰安半島の磨崖仏によって、韓国の仏教の3つの流れが確立する。
 1. 百済の立像の形式が出来上がる。→法隆寺百済観音
 2. 磨崖仏の技法が完成する。→慶州南山の磨崖仏
 3. 石窟寺院が作られ始める。→雲山で試作、瑞山で完成。軍威石窟寺院、慶州南山仏谷、慶州石窟庵、甘浦骨窟庵へ。

  ※寺院は伽藍を作る場合と、石窟寺院の形式がある。石窟寺院はインドで流行した形式。国家的な寺院建設の場合伽藍配置
    形式を取るのに対して、比較的私的な信仰の場合、石窟寺院を作る場合があった。瑞山も含めて、磨崖仏は石窟寺院の
    系統で、韓国の磨崖仏は飛び出した大きな岩で、わずかに前傾した部分に掘られ、そこに屋根が架けられていた場合が多い。

磨崖仏のすぐ下に弥勒仏といわれる仏像がある。実際は高麗時代の菩薩像で、この地方に流行した石仏の形である。

建物の中に磨崖仏 右脇侍如来 左脇侍(弥勒菩薩) 近くの菩薩像

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