公州(공주:コンジュ)

【公州遷都】
公州はソウルの南方120キロほどのところにある。475年、蓋鹵王が漢城で高句麗軍に殺害される直前、文周(475-477)は父王の命令に従って漢城を脱し、今の公州である熊津に都を移した。

それまでの基盤と異なるところに国を移したため、最初のうち王権は不安定であった。文周王は家臣の解仇に殺され、解仇は13歳の三斤王(477-479)をたてて国政を牛耳ろうとしたが大豆城の戦い(478)で失脚し、王も短命であった。次の東城王(479-501)のときにようやく王権が安定し始めて王権の強化を行ったが、東城王も家臣に殺された。

【伽耶進出と新羅との対立】
次の武寧王(501-523)になって、王権の安定を目指して積極的な外交を行うようになる。中国の南斉に使臣を送った。文化的にも南朝の影響が強い。また、漢城が落とされるとすぐに倭王「武(雄略天皇)」が南宋に高句麗の無道を訴えたたり、東城王や武寧王が日本から百済に戻って王になったように日本とのつながりも強い。武寧王は国内的には全羅道方面に領域を広げ、さらに伽倻の領有を主張して己文、帯沙を手に入れた(513年)。このことが新羅との対立を激しくさせた。

百済と新羅は411年に婚姻同盟を結んでいたが、6世紀になり新羅の力が伸びて高句麗の影響力から離れると、百済と対抗するようになった。武寧王を継いだ聖王(523-554)は538年に扶余に遷都した。ここに都があったのは60年あまりのことであった。周囲を山に囲まれ、北を錦江が流れるため、防御には都合がよい。ただし、生産性に優れない

【熊津都督府】
都が扶余に移った後も百済の重要な拠点であった。百済が亡びた後、唐はここに熊津都督付をおき、百済の支配をもくろんだが、遺民の抵抗が続いた。663年に反乱を鎮圧して唐は、扶余を都督として地域の支配を進めようとした。そのため劉仁願(唐)と扶余文王(문무왕:ムンムワン 新羅)との間で境界画定の儀式を行ったが、新羅ののむところではなかった。661年、新羅は百済の大部分を抑え、熊津都督府は自然消滅した。

公州は高麗、朝鮮王朝時代も地域の中心地となり、仁祖が李刮の乱の時に一時、熊津時代の王城跡である公山城に逃げたこともあった。さらに1894年の甲午農民戦争の農民軍と政府軍の戦いもこの公州のすぐ近くで行われた。

韓国の歴史    前のページ    目次    HOME      次のページ