公山城(공산성:コンサンソン)
城壁は朝鮮時代 包谷式城壁と錦江 案内図

公山城は公州北部、北に錦江(금강:クムガン)を擁する包国式の海抜110mの低い山城である。他の百済の城同様、高句麗に対する防御に神経を使っている。公州と漢城の間は高い山地はない。間にある車嶺山地があるが、険しいことはない。公州は南部から北へ向かうときの交通の要地でもある。

公山城がいつ作られたかは分からないが、漢城陥落で文周王が476年に緊急避難的に逃げ込んだところであるから、それ以前から城が整えられていたと見るべきである。城壁は石築であるが、朝鮮時代(仁祖時代)のもので、百済時代の以降は土塁と見られている。城壁は東西800m、南北400m、全約2600mのほぼ長方形型をしている。

城内の発掘調査の結果、百済時代の王宮の建物や池の跡が発見されているが、現在王宮跡と考えられているところは、百済時代の建物跡ではあるが、別の所であるとされる。

なお、ここは交通の要地であるため、朝鮮時代にも重要なところであった。そのため、仁祖が李刮の乱の時(1624)に、公山城に10日間避難した。そのとき仁祖が避難した建物の前にあった二本の樹木に官位を与えた。そのことを刻んだ誌石碑と、記念した双樹亭が避難した場所に建てられている。

水溜あと(百済時代) 済民川永世碑 双樹亭誌石碑

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