丹芝里(단지리:タンジリ)古墳群
古墳群全景(尾根の向側にも分布する)

丹芝里古墳群は公山城の北西7キロ、牛城面丹芝里にある古墳群である。低い尾根の上に築かれ、墳墓の下は錦川とその支流が作った平野が広がる。

横穴墓は斜面に横穴を掘って埋葬する墓で、複数人を埋葬することが出来る。その発生は5世紀後半、北九州の豊前地域と考えられていて、それが、列島の海岸伝いに伝わっていった。単独のものは少なく、多くは群集墓である。埼玉の吉見百穴もその一つである。この形式のものがこれまでも公州、扶余で発見されていたが、数が少なかった。丹芝里古墳群は23基まとめて発見された。北九州の初期の形式のものや南九州の地下式横穴墓に繋がるものがある。また、出土物の中には倭系の須恵器と見られるものもあり、倭と百済の関係を示しているといえる。いずれにしても熊津前期、5世紀後半の墓である。

この5世紀後半から6世紀前半にかけて馬韓地域には前方後円墳が出現し、伽耶地域には倭系古墳が出現する。いずれも、高句麗の南進に刺激を受けた東アジアの国際変動の中で理解すべき動きであるが、公州の横穴墓の存在は、この地域を守だけの倭人集団がいたことを語っている。

日本書紀によれば、三斤王が16歳で急死したため(479)、蓋鹵王の直系が途絶えてしまった。ところで、漢城百済が滅亡するときに、文周王の弟である昆支は難を避けて倭へ逃げていた。そこで、昆支の息子である末多(東城王)を王にすることとして、筑紫の兵500人が警護について百済に戻ったという。このような軍人集団が公州に滞在していたとも考えられる。

(参考)埼玉、吉見百穴 (参考)熊本石貫穴観音横穴(8世紀、装飾墳〔千手観音、ひさし〕)

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