新徳古墳(신덕고분)
1号墳(前方後円墳) 2号墳(円墳) 1号墳の後ろに2号墳

咸安にある前方後円墳である。同じ墓域に円墳(2号墳)がある。栄山江支流の古幕院川上流の平野地帯で、細長い残丘の上にある。1号墳は全長51m、細い溝がめぐっていて、周濠が存在した可能性が高い。墳丘には段築と葺石があり、石室は北部九州型で王塚古墳との関係が指摘されている。この北部九州方の石室とは、腰石、持送りの玄室で、石室に赤い顔料を塗布するものである。平面プランは福岡県荒神森古墳と類似している。百済式冠と倭系遺物が出土した。6世紀初期のものとされる。

ここに埋葬されている人物は倭系勢力と見られている。前方後円墳が倭人によって発展させられたこと、日本に同じ設計プランの古墳があること。5世紀後半から6世紀初めにかけてだけしか前方後円墳があらわれず、原則として各盆地に一つしか作られていないことがあげられる。さらに、新徳古墳の近くには、馬韓勢力の首長墓である万里村古墳群があるが、これが3-4世紀のもので平地に作られ、新徳古墳と直接結びつかない事などが揚げられる。さらに、この時期、近くの山には百済系の古墳が作られていることなどがあげられる。

同時に北九州からこの時期に百済系、栄山江系のものが出るようになる。江田船山古墳が典型的である。継体期以降大和と百済の関係が本格的に強まるが、九州でもこの地域との関係が密接であった。大和政権と百済の結びつきを妨害しようとした磐井の乱が、そのことを傍証する。

ただし、倭人にしても性格は2つ考えられる。

 1. 5世紀後半から6世紀初頭は熊津に都を移したときで、一方で馬韓に勢力を広げようとしていた。しかし、百済だけでは支配することが出来ない
   ので、倭系百済官僚を支配層として派遣したというもの。百済系の威信材が出てくることからそういえる。

 2. 5世紀後半から6世紀の百済の馬韓進出に対して、百済を牽制するために北九州系倭人を呼んだ。

一方で、在地首長説もある。

 3. 百済の進出や倭の進出など、当時の国際情勢の中で、自分の勢力を守るために墓制を選択したというもの。遺物の多くが栄山江系統のもので
   ある。同じような例は百済でもある。百済は5世紀後半以降、南梁との関係を重視したため、宋山里6号墳や武寧王陵のような墓制を採用した。
   もしも墓誌がなければ、熊津に北梁人の墓としてもおかしくない。それと同様で、馬韓を取り巻く国際情勢の中で、首長が生き残りをかけるため
   に、陵山里式、倭式、甕棺墓式と墓制を選択せざるをえなかった。

いずれにしても倭王権との関係の大きい地域であることは間違いない。

2号墳は同じ墓域に作られ、陵山里式石室をもつ。1号墳の被葬者の子供の可能性が高い。倭人勢力というよりも、土着化したといえそうである。

万家村古墳群 万家村3号墳発掘風景(中央博物館) (参考)首長の甕棺墓(中央博物館)

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