陵山里古墳群
陵山里古墳群全景 1号墳石室 2号墳

陵山里(능산리:ヌンサンニ)古墳群は扶余をとりまく羅城のすぐ外にある古墳群で、王陵である。扶余時代は、王陵などの墓地は城壁の外に築かれた。しかも正規の使節を迎え入れる東門のすぐそばである。

陵山里古墳群に最初に埋葬された者は聖王(聖明王)だったとされる。世子時代の威徳王が周囲の言葉を無視して、大伽耶、倭と連合して新羅と闘った(554)。管山城で威徳王が孤立してしまい、それを救援するために聖王は援軍をだした。しかし、新羅に捕らえられ殺されてしまった。その聖王を陵山里の日当たりの良いところに埋葬したとする。実際に陵山里古墳の立地は風水を考えられたものとなっている。古墳両方を挟むように尾根がのび、古墳のある谷の出口をふさぐように狭まっている。谷の先には川がある。風水上の墓地の立地的にかなった地形である。武寧王のときには、風水の影響があった可能性はあったが、陵山里を作ったときには明確に風水の考え方が流れ込んでいたのであろう。

ここには古墳7基が残されていて、前後2列に3基ずつ並んでいる。すべて円墳、地下式の横穴石室墳である。但し、形そのものは復元で、元来の形そのままではない。日本時代には「東下塚」のように呼ばれたが、下段向かって右側から左方向に1号墳、2号墳と番号が付いている。6号墳までは日本時代に発掘されていたが、7号墳は1971年に発見された。

古墳は盗掘されてしまい、被葬者は分からない。最も古い古墳は2号墳である。そのため、被葬者は聖王(聖明王)と考えられている。これは公州武寧王陵と同じく天井がトンネル式である。ただし、磚室墳ではない。石室は漆喰でぬられていた。1号墳は壁画墳である。百済の古墳では公州の宋山里古墳6号墳とここにしかないもので、四神図、蓮華紋、雲が描かれる。なお、棺材は高野槙である。

2号墳以外の古墳の石室は、切石を積み上げたのち、長大石を横積みにした構造の平斜式横穴石室墳である(陵山里式石室)。トンネル型のアーチ部分が直線状になり、全体として六角形の形で、扶余時代の古墳の特徴である。その後百済地域の古墳に広く採用される形である(石積みが多い)。特に陵山里古墳群のそばにある、百済貴族の墓所と考えられる陵安ゴル(능안골:ヌンアンコル)古墳群1号墳の石室構造は日本の飛鳥時代の墓制との関係が指摘されている。

これらの古墳から少し離れたところに、義慈王(의자왕:ウィジャワン)壇と扶余隆(부여윤:プヨ・ユン)壇がある。壇とは祭祀を行うための場所のことである。どちらも近年のものだが、義慈王は百済最後の王である。新羅と唐に攻撃された王は扶余から熊津へ逃げ出したが、降服して唐の長安へ送られた。王は長安でなくなったが、墓誌が確認出来ないので長安の土をもってきて、ここで祭ることにした。

王が捕らえられたとき、太子の隆も一緒に送られた。隆はその後、唐の熊津都督として一時期帰郷したが、新羅と和解した後、すぐに唐に戻った。驍ヘ墓誌が発見されている。

古墳群前。左右から尾根が延びる 義慈王壇 扶余髓d

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