宋山里古墳群(송산리고분군:ソンサンニコブングン)
1号墳から4号墳 5、6号墳、武寧王陵(中央)

宋山里古墳群は武寧王陵(무녕왕능:ムニョンワンヌン)を含む20基ほどの古墳群である。王城があった公山城からみて西方に位置する。現在7基残っているが、谷を挟んで、1-4号墳と5,6号墳、武寧王陵に分かれる。5号墳からの古墳群は風水地理説の影響があるようだ。1-4号墳が先に築かれ、6号墳、武寧王陵、5号墳の順に作られたと考えられている。

石室は1から5号墳までは石積の百済方式の片袖式横穴石室墳である。百済の墓制は漢城時代は高句麗の影響を受けて積石塚であった。一方、5世紀に入ると、これも高句麗の影響で持ち送り方の横穴石室封土墳になる。この墓制が公州(熊津)遷都後、王陵の墓制としても取り入れられた。現在、直接見る事は出来ないが、武寧王陵展示室の模型で見学できる。

一方、6号墳、武寧王陵は磚室墳である。トンネル型の断面をしていて、かがり火を置いた龕が彫られる。このような磚室墳の作り方は中国南朝「梁」の形式である。南朝との関係がとても強かった時期で、その墓制を採用したものと考えられるが、磚の作り方まで梁の形式によっていて、造墓集団が梁から来て築いたいたものと考えられる。ただ、このような磚室墳を、その後百済の王室が採用することはなかった。5号墳が石積に戻っていることと、扶余陵山里で最も古い2号墳(中下塚)が石積の横穴石室だからである。

6号墳は漆喰の上に四神図、月、日、星などが描かれた壁画古墳で、公州唯一のものである。但し、絵はかなり薄くなってしまった。百済の壁画古墳は扶余の陵山里古墳群とあわせても2基しかない。武寧王の前の東城王(동성왕:トンソンワン)の陵と推測されている。

宋山里古墳群の裏手、 錦江(금강:クムガン)沿いはコムナル(곰나루)がある。ある時川の東側の山の麓の洞窟に住む雌熊がいた。相手がいなかったが、ある日コムナルで漁師を捕まえて洞窟で一緒に生活を始め、子供を2人作った。ある日、熊がもう漁師は逃げないものと思い、洞窟の入り口を開けて猟に出かけて帰ってきたところ、洞窟に漁師はいなかった。熊は猟師を訪ねていったが、会ってもらえず、子供と一緒に川に身を投げてしまった。その後コムナルで魚が捕れなくなり、事故が増えたので、村人は熊を祀ることにしたという。近くからは石で出来た熊の像が発見されている。

6号墳石室(現在は見られない) 6号墳の石室 5号墳の石室

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