陵寺址
陵寺復元風景(塔跡)
羅城(奥の丘)、陵山里古墳群(手前側)


羅城と王陵である陵山里古墳群の間の狭い低地には、陵寺址がある。聖王の偉業をたたえるために威徳王(昌王)が567年に発願した寺である。一塔一金堂式の典型的な百済式寺院である。木塔心礎から石造舎利龕が発見された。そこに「百済昌王十三年太歳在/丁亥妹兄公主供養舎利」と彫られていていて寺の由来が分かった。昌王は他にも王興寺を発願し、陵寺の建立10年後に創建した。

聖王(在位523-554)は父、武寧王の後を継いで王となり、泗批に都を移した王である(538)。国内統治制度や官位制度を整備し、伽耶への進出をはかり、伽耶復興会議を行ったりもした。551年には新羅と結んで漢城を回復したが、翌年には新羅に奪取された。554年、聖王の息子である昌(威徳王)は、多くの臣下の反対にもかかわらず、倭、大伽耶とともに新羅を攻めた。昌は窮地に陥いり、それを助けに行った聖王は新羅に捕らえられ殺されてしまった。聖王は首から下だけ百済に返された。昌もまた倭軍の助けで百済に戻れたという。

威徳王は王になることを延期して、父王の供養を行った。貴族の力が強くなった時期で、王権の危機でもあるあが、昌は聖王供養を名目に王権の立て直しを図ったと考えられる。だからこそ、陵寺や王興寺などの寺を造営することが出来たのであり、王権は依然として、かなりの力を持っていた。陵寺跡は最初、聖王を祭るための施設があったようで、のちに寺院化されている。

ここからは金銅竜峰蓬莱山香炉が発見された。竜を支えに、花開く蓮の上にそびえ立つ蓬莱山をイメージしたもので、フタの部分には23の山からそびえる74の峰に、39匹のトラ、ゾウ、サルなどの動物、16人の人(5人の楽器奏者、武人像、騎馬狩猟像)、鳳凰などが彫られている。さらに6本の木、12個の岩、滝、小川、湖なども掘られる。本体は蓮の花のような形をしていて、26匹の動物が彫られている。中国「漢」代の香炉の影響を受けているが、百済を代表する工芸品で、7世紀初めのものである。

伽藍復元想像図 石造形舎利龕(複製) 金銅竜峰蓬莱山香炉(中央博物館)

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