王興寺あと
王興寺跡(中央が木塔址) 王興寺跡と扶蘇山城 王興寺跡側から見た落花岩(中央)

扶蘇山の対岸、窮岩面(규암면:キュアムミョン)新里(신리:シンニ)一帯にある寺跡である。「三国史記」によると、百済法王2年(600)に創建され、ここで僧30人が得度し、武王35年(634)に落成したとされる。

しかし、2007年10月に新資料が発見され、創建時期が30年ほど遡ることが分かった。木塔あとから舎利荘厳具が発掘され、そこに文字が彫られていた。それは「丁酉年二月十五日百済王昌為亡王子立刹本舎利二枚葬時神化為王」というものであった。百済王の名前が彫られているものは3例目。1つが武寧王で、残り2つは「昌」である。「昌」は威徳王のことである。

威徳王の丁酉年は577年である。威徳王が子どものための祈願寺として創建されたのである。威徳王の子どもは597(推古4)年に来日した阿佐太子がいたが、もう一人王子がいたことが分かった。威徳王は父、聖明王のために陵寺をつくり、息子のために王興寺を造った。当時としては最新、先端技術を備えた寺を造ることは、相当の力がなければ出来ないことで、威徳王は、記録と異なり、大きな力を持った王と言うことが分かる。

王 興寺の10年前に陵寺ができた。また、王興寺の塔の芯礎に埋められたものには武寧王陵と同じ系譜のものがある。武寧王陵以来50年近く、同じものを作れる技術集団が滞在していたと考えられる。威徳王の時期は中国北朝の影響が強まる時期で、百済仏教も山東半島に栄えていた寺院文化の影響を受けているとされる。山東半島の寺院文化は胡人によって開かれたとされるが、その文化が胡人とともに百済に来たと考えられる。王興寺の直後に作られる大和飛鳥寺の技術集団は百済から送られてくるが、その人々の名前は古代のペルシア語名であるとされることも傍証となる。

王興寺は益山弥勒寺と並んで百済末期の重要な寺として扱われ、歴代の王が船に乗ってこの寺にいった記録が残っている。寺に入る前に坐って拝礼した岩と伝えられるものも残っている。王族は対岸のクドゥレナルか、クドゥレより上流の北浦(百済観光ホテルのある付近)から渡ってきたと考えられている。このように王にとって重要な寺であるが、同時に防御のために重要な寺であった。裏山には山城があるし、百済が滅びるときはここで激戦が行われ、多くの百済兵が死亡している。

寺そのものは朝鮮時代まで続いたが、百済滅亡で、歴史の舞台からは消え去った。1934年に「王興」の名の入った瓦が見つかり、王興寺跡であることがわかった。最近の発掘調査の結果、山地と平地の境付近に高麗時代から朝鮮時代にかけての石築、石階段などの遺構が残り、平地から百済時代の瓦積基壇建物跡2基があることがわかった(現在発掘調査は進行中)。また寺跡のそばからは11個の瓦焼窯と、関連工房施設が発見された。王興寺に供給したものである。

舎利荘厳具(左)と銘(右)(朝鮮日報記事より) 落花岩(左)と王興寺跡(右隅)

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