聖興山城
聖興山城を取り囲むように錦江が流れる(扶余はこの位置からは陰になる)

聖興山城(성흥산성:ソンフンサンソン)は扶余の南15キロの聖興山にある山城である。扶余の外で扶余と公州を守るために、錦江の下流に築かれた石城の一つ。なかでも戦略的に重要な城である。扶余、公州を流れる錦江を見渡せる。後に別都となる益山から扶余まで一望でき、さらに扶余で川が蛇行して公州方面に向かう様子まで見える。築造年代と、当時の名前が分かっている唯一の城でもある。

城の名前は、当時の地名をとって、加林城。記録によると熊津時代の501年(東城王(동성왕:トンソンワン)23年)に苩加(백가:ペッカ)を派遣して築かせた。すでに扶余遷都を意識して王城造りをしていたものと思われる。しかし、公州に基盤を持つ苩加は、この派遣に対して疑心暗鬼となり、城を築造した501年に東城王に刺客を送り、殺してしまった。さらに、次の王、武寧王(무녕완:ムニョンワン)に対してこの城を拠点に反乱したが、すぐに鎮圧され殺された。また、百済復興運動の拠点となった城でもある。

山の高さは260m、城壁は石積で約800m、城壁の高さは3-4mである。石積は復元されていて、下から城壁を見渡すことが出来る。城内には井戸址や、建物跡があり、百済から高麗にかけての瓦片、土器片が散在する。南門、西門などが残る。南門直前までは比較的穏やかな坂道であるが、門直前から急な上り坂となる。

城壁と見張り台(扶余方向) 南門を下から見る 南門より下を見る。

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